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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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糸紡ぎ車から繰り出される糸とモザイク・タイル − 「タダマス21」レヴュー  A Thread from a Spinning Wheel and Mosaic Tiles − Live Review for "TADA-MASU 21"
 ついに21回目を迎え、6年目に突入した「タダマス」は、今回もここでしか聴けないであろう秀逸な選盤の下、充実した音源を届けてくれた。それは単に幅広い渉猟とかマイナー・レーベルへの着目ということではなく、常に独自の視点/切り口を提示し続けていることにほかならない。当初はフロントとバッキングの逆転あるいは並列化、フレーズからテクスチャー/音響へ、響きや空間の重視‥‥といったキーとなる演奏の変化、以前/以後を分ける「断層」への着目がクローズアップされ、その基準に適合した作品がチョイスされるといった「証拠探し」的な面が目立った時期もあったが、今では彼らの耳のとらえた作品/演奏の強度をベースとして、その強度をもたらす「核心」を、先の視点を柔軟にパラフレーズしながら掘り下げる方向へと変化してきている。私はそれを「成熟」ととらえたい。
 「成熟」などと言うと、マンネリ化へと向かう安定志向との誤解を招きかねないが、もちろんそうではない。益子博之による「ツッコミ」は、旧態依然とした日本のジャズ・ジャーナリズムあるいはジャズ受容への批判のみならず、近年のJazz the New Chapter的な視線への批評もはらみつつ、対象もNYダウンタウン・シーンにとどまらない広がりを見せながら、より柔軟かつ繊細なものとなってきているし、一方、多田雅範による「ボケ」もまた、事前の仕込みを軽やかに投げ捨てて、当日の現場での聴取にどこまでも寄り添う潔さにより、演奏者のプロフィールだの共演歴だのといったデータのしがらみを鮮やかにうっちゃり、その場に居合わせた全員を一瞬の内に「武装解除」してしまう過激さをますます磨き上げている。20回以上の歴史を積み上げながら、こうした広がりや過激さによって、「ここではこういうことになっています」的な「お約束」を自ら破り捨てる奔放さが、毎回招かれるゲストに「本当に思いつきで感じたままを話していいんだ」という自由を与えているのだろう。特に最近の回では、何ら構えたところなく、闊達に発言するゲストの姿が当たり前になってきたように思う。

 私のレポートが「主催者側の意図」とはおよそ異なる視点から、当日披露された音源を、そこから浮かび上がる風景を論評してこられたのも、そうした「タダマス」本来の懐の広さに支えられてのことである。改めて感謝したい。

 さて、前置きが長くなった。当日の聴取体験を振り返るとしよう。例によって、私なりの視点からの受け止め方であることをあらかじめお断りしておきたい。当日のプレイリストについては、次のページをご参照いただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
タダマス21


タダマス21-01 この日、前半のハイライトとなったのは、Linus+Okland/Van Heertum『Felt Like Old Folk』(Smeraldina-Rima)からの17分以上に及ぶ長大な演奏だった。ユーフォニウムの希薄なたなびき、ギターの間を置いたストローク、中空をゆっくりと渡っていく冷ややかな弦の響き、それをしっとりと裏打ちする管の鳴り。音はみなその場にひっそりと立ち止まり、そのかそけき光で辺りをおばろげに照らし出し、空間の広大さを明らかにしながら、響きの震え/滲みを重ね合わせ、あるいは混じり合わせる。ユーフォニウムの息音のざわめき、ミュートして叩かれたギター弦の振動、輪郭を曖昧にした虚ろな管の鳴り、北欧フィドル特有のきらびやかな艶を抑えすっと薄闇に溶け広がる弦。そうした個々の音色の魅惑もさることながら、この演奏の真髄は、こうした今にも空間に霧散してしまいそうなほどに脆弱で儚い音たちが、にもかかわらず細く透明な糸を糸紡ぎ車から手繰り伸ばし続けて、どこまでもどこまでも聴き手の耳を奥へ奥へと誘って止まないことなのだ。クロマトグラフィで濾紙に吸い上げられた資料が、限りなく希薄になりながら、やはりどこまでもどこまでも滲みの裳裾を広げていくように。タルコフスキー『ノスタルジア』で描かれた、吹きすさぶ風の中、対岸へとちっぽけな蝋燭の炎を運ぶ苦行を思わせる、あえかな息と震えによる魂のリレー。
 終わってみれば17分はあっという間だった‥‥と言うと嘘になるが(確かな持続の感覚が掌に残っているので)、演奏の総体が浮かび上がらせる風景イメージ、たとえば早朝の霧に煙る牧歌的風景とは裏腹に、強靭な持続を支えているのは前述のほとんど見えない細い糸にほかならない。
https://smeraldina-rima.bandcamp.com/album/felt-like-old-folk

タダマス21-02 こうしたしずしずと摺り足で歩みを進めるような、平らかで緩やか、かつ強靭な持続の感覚は、後半で続けて披露されたChes Smith『The Bell』(ECM)及びFlin van Hemmen『Drums of Days』(Neither/Nor Records)にも顕著だった。Ches Smithが放つ金属質の打撃とCraig Tabornによるピアノの打鍵、いずれも鋭く彫り刻まれ切り詰められた硬質な響きが張り巡らす冷えきった空間に、ゆるやかに這い回るMat Maneriのヴィオラがゆっくりと沁み込んでいく前者の感覚は、奥へ奥へと紡いだ糸を手繰り出していくと言うよりは、まるで蛍が舞うように、左右に分かれた光源がすっすっと先へと道程を導き、ベルやティンパニの残響の知らせる底知れぬ深い闇の奥へと聴き手の耳を誘い続ける。ゲストの坪井はここでの空間的な感覚の冴えに激しく共感し、手放しで絶賛していた。特にCraig Tabornに対し、「日本にもこういう演奏者がいたら」と漏らしていた。
タダマス21-03 対して後者では、Flin van Hemmenが本来の持ち場であるドラムを離れて専らピアノに向かい、ピアニスト的発想とは異なる視角からコード弾きや短く崩したアルペジオを提示し、和音というよりぼんやりとした音色の「色班」を空間に滲ませれば、Todd Neufeldのアコースティック・ギターもまた、独特のエッチング的な鋭さで、やはりフレーズではなく、コードや素早く圧縮されたアルペジオを提供し、そこに築かれる音響平面に対し、Eivind Opsvikのベースがくぐもったアルコや素早く震えるトレモロ、あるいはThomas Morganばりに音数少なく、選び抜かれたツボに正確極まりなく深々と打ち込まれる一撃によって、これをあくまでも静謐に支えている。続けてかけられた2曲目で、僅か1分半の長さながら、招かれたTony Malabyがまったく息の重さを感じさせることのない、ちょっと聴いたことがないほど繊細極まりない演奏をしているのは、やはりFlin van Hemmenによる演奏/音響空間設計の賜物と言うべきだろう。参考にと冒頭部分が披露された4曲目では、ブラスバンドの練習風景とも遊園地の眺めともつかぬ、輪郭も細部も遠近法的な構図も曖昧かつ不分明ながら、耳触りが何とも魅惑的なフィールドレコーディングによる音像が姿を現すなど、どう考えても只者ではない。私にとっては本作こそが、この日のハイライトだった。
 多田もまたFlin van Hemmen『Drums of Days』に対し、確かに録音はあまりよくないけれども、数学の問題で予想だにしないところに解が潜んでいたり、あるいは実際に行ってみたら地図から想像していた景色とは全然違ったというような「思いがけなさ」がここにはあると指摘し、私たちに音楽を聴き続けさせるのはいつだって魅惑的な「謎」なのだと熱く語った。一方、ゲストの坪井はFlin van Hemmenがドラマーやピアニストである以前に、ミュージシャン、表現者として演奏に向かっていると同業者ならではの指摘をし、さらにインプロヴィゼーションにおける一音一音の責任の重さについて語った。
タダマス21-1_convert_20160430165740
撮影:原田正夫

 ひとつ興味深かったのは、多田がさらに「多重録音と身体性のリアル」という論点を展開しようとしたことだった。そこで彼の念頭にあったのは、前半でかかったAlan Lomax等による歴史的な現地録音にロマンティックな演奏を後から重ねて顰蹙を買っていた(坪井は「直接会ったら一発殴ってやる」とまで言っていた。その気持ちはわからぬではない)Jaimeo Brown Transcendence『Work Songs』(Motema Music)だったろうか。結局、益子に「いや、これ(Flin van Hemmen『Drums of Days』)多重録音使ってるでしょ」と言われ、腰砕けのまま沙汰止みとなってしまったが、確かに益子の言う通り「CDは録音された作品なのだから、それがリアルタイムの録音なのか、多重録音なのかは関係ない」ということを認めた上で、このことに少しこだわりたい。と言うのも、この点が今回の「タダマス21」の問題軸ではないかと考えるからだ。

 「それが録音である以上、リアルタイムで時空間を共有して行われた演奏であるのか、多重録音により再構成された演奏であるかは問題ではない」というのはその通りだとして、実際に多重録音を用いたかどうかにはかかわらず、多田が「身体性のリアル」という語で名指そうとしたであろう連続性や流れの感覚、時間/空間を共有することによる同じものに浸されている感じ、さらには伝播、伝染、共振、共鳴、同期‥‥といったものに軸足を置いているか、あるいはモザイク的な再構成に基盤を見出しているかという違いは厳然としてあるように思う。
 たとえばこの日かけられた音源では、最近登場回数の多いJoachim Badenhorst率いるCarate Urio Orchestra『Lover』(Klein)において、柔らかな春の陽射しのようなアンサンブルの波間にゆったりと浮かぶロバート・ワイアットを思わせるリリカルな男声という絵柄を、最後になって湧き上がる不明瞭な喧噪が水没させ、覆い隠していくという展開は、明らかに再構築的なものと言えよう。しかも、この喧噪はフィールドレコーディングによる街頭の騒音とか、エレクトリック・ギターのフィードバックというような、テープやエフェクト一発といった単純なものではなく、それ自体管楽器のアンサンブル(多重録音によるものかもしれない)を丁寧にトリートメントしてつくりだされている。これについて益子は大編成のアンサンブルなので、リアルタイムでいっしょに演奏し、あとでミキシングの際に加工したのではないかと言っていたが、仮にそうだとしても、器楽アンサンブルをあえて分割し、一部に異なる加工を施して「別のパーツ」をつくりだすというのは、まさに再構築的な作業と言えるだろう。
 Dan Weisが自身が影響を受けたドラマーのフレージングを「人力サンプリング」(つまりは引用を再演により再現)し、その回りに大編成アンサンブルをちりばめた『Sixteen : Drummers Suite』(Pi Recordings)もまた、そうしたモザイク感覚に溢れた演奏だ。ドラムのフレーズは他の楽器に転写され、変型され、増殖し、空間を隙間だらけに埋め尽くす(過飽和に至らないコンダクトの冴えは見事だ)。ここでもMatt Mitchellがおやと思うほどクラシック・ミュージック的なソロを取ったり、エルメート・パスコアールを思わせる切り貼り感満載のアンサンブルがあったりと、再構築感覚が隅々まで行き渡っている。

 こうした再構築感覚は、だがしかし、多田が言うところの「身体性のリアル」との緊張関係を常に必要としているのではないだろうか。別にそれを模するというコンプレックスではなく、それを凌駕する、あるいは反発するという意気込みという意味合いで。
 と言うのは、やはりこの日かけられた音源であるNik Bortch's Mobile『Continuum』(ECM)が、バスドラのグランカッサ的な深い轟きや金属鍵盤楽器のきらめきに惹かれながらも、やはりどこか詰まらないのは、演奏がミニマルなモジュール構成から少しもはみ出してくることなく、その内部に安住してしまっているからだし、Ayumi Tanaka Trio『Memento』(AMP Music&Records)による雅楽にインスパイアされた演奏にピンと来ないのも、それが引用や模倣の切り貼りに留まっているからだ。そしてこうした問題系は、この日冒頭にかけられたEsperanza Spolding『Emily's D+Evolution』(Concord Records)で、ジョニ・ミッチェルに憧れたであろう彼女の声が、にもかかわらず人工的な化粧を施され、むしろブラック・ミュージック的なグラマラスさを遠ざけた、風通しの良い簡素なアンサンブル故に、かえって悪目立ちする(会場のスピーカーとの相性もあるだろうが)という場面において、のっけから予告されていたようにも思うのだ。
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撮影:原田正夫

masuko/tada yotsuya tea party vol. 21: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 21
2016年4月24日(日)
綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:坪井 洋(ドラム・パーカッション奏者/作曲家)



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:09:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
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