■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

特別な一夜 - 『松籟夜話』第六夜に向けて  A Special Night -Toward The Sixth Night of Listening Event "Syorai Yawa (=Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind)"
 いよいよ明日(6月12日(日))に迫ったリスニング・イヴェント『松籟夜話』第六夜。今回はとりわけ特別な一夜となりそうだ。

 もちろん私にとって『松籟夜話』の一夜は、いつだって特別な時間だ。常に新たな発見がある。そこでプレイする音源は、少なくとも自分が選んだ作品については、どれもよく聴き知っているし、準備の段階で、またさらに何回となく聴き返している。テーマに沿って音盤の当たりをつけ、トラックを選び、構成や配列を検討し、長いトラックの場合はピックアップする箇所を抽出し、さらに流れを確かめる。
 この段階でも、決して確認だけには終わることなく、いつだって発見がある。ある視点や文脈を設定して、あるいは特定の音/響きの手触りや運動イメージを思い描いて、音盤から音盤へと自由連想的に、あるいは手探りで、時には行き当たりばったりに‥‥、歩みを進め、飛び移る機会などなかなかないから。
 固定された視点や文脈が音世界をフレーミングし、先に聴いた作品の耳に残る響きが、次の聴取に波紋を投げかける。その結果、音は新たな相貌で立ち現われてくる。「以前には、この作品の、一体何を聴いていたのだろう」と訝ることすらある。
他人に聴かせることを想定する、しかるべき部分を抜き出す等のアクションが新たな発見をもたらすこともある。たとえばFracisco Lopezによるコスタリカ熱帯雨林のフィールドレコーディング『La Selva』。長大な1曲から手触りや匂いの異なる各部分を抽出する作業を通じて、刻一刻と移り変わる連続体のように思われたサウンドが、驚くほど暴力的な切断/音場面転換に溢れていることに気付かされた。

 さらに途中で、『松籟夜話』の相方であるサウンドアーティスト津田貴司と、実際に二人で音を聴きながらあれこれ相談する機会を持っている。鋭敏かつ柔軟な、恐るべき耳の持ち主である彼に聴かせるのは、常に緊張の連続だ。そして、ここでやはり多くの発見がある。彼の反応やコメントももちろん発見の契機となるが、それだけでなく、「他者と共に聴くこと」すなわち「複数による聴取」が新たな気付きをもたらす。決して「顔色をうかがう」というようなことではない。二人の共有する空間に、いま鳴っている音がどう響いているかということなのだ。これはきっときわめて原理的なことなのだと思う。

 そして当日、参加者の皆さんと共に聴くことが、幾つもの思いもしなかった新たな発見、豊かな体験をもたらす。これはきっと「津田貴司という協力者/共犯者」から「主催者が応対すべきお客様」へと対象が変化したからではあるまい。やはり「二人」と「三人以上」とでは全くの別世界なのだ。
 選盤担当として自分の選んだトラックがねらい通り響いているかどうかチェックする眼差しがある。参加者に音が届いているか、そこにどのような反応が生成しているか探る視線がある。参加者のうち、特定の誰かに乗り移るようにして、そこで聴き取られている響きをトレースする触覚がある。だがそれだけではなくて、まさに複数の耳の間を、乱反射するように高速で遷移し、同時に幾つもの耳で聴いているような、多方向に引き裂かれてかれて散り散りとなり、当てもなく響きの波間に浮かび揺られるような、自分が「複数化」していく体験がそこにはある。
 歸山幸雄作成の特製スピーカーの持つ、まるでゴーグルを着けてプールに潜った時のような、表面のまぶしさを取り去ってどこまでも奥を見通すことのできる視線の浸透力、いまここの空間に録音に「真空パック」された音響だけを放つのではなく、聴き手の空間を直接揺すぶりたて変容し、タイムスリップ/テレポーテーションを起こさせて、音響の生成している現場へと聴き手の身体を運び去る力もまた、新たな発見をもたらすための大きな支えとなっていることは疑いを入れない。

 そうした本来の「特別さ」の中で、明日の『松籟夜話』第六夜が「とりわけ特別」であるのには、もちろん理由がある。ひとつには、私ではなく、津田貴司がテーマを発案し、主軸となる選盤を行っていること。だが、一見決定的に思われるこの理由は、実はたいしたことはない。どちらが選んだとしても、ある程度、選定の対象範囲は重なり合うし、たとえ重ならないとしても、よく知らないことは稀だ。本当の理由は、テーマである360°recordsレーベルや日本の「音響派」が、私が当時すれ違ったというか、意図的に遠ざけてきた対象ということにある。
 もちろん『+/-』をはじめ池田亮司の諸作は聴いていた。しかし、音素材の極端な限定や徹底的に削り込んだミニマルな構成という手法の枠組み、あるいはコンセプチュアルなエクストリミズムに寄りかかることのない彼の作品の強度は、むしろ多方向からの諸力の交錯/衝突を、この一瞬に深々と刻み付け彫琢し、そこから生成し立ち上がってくるものとして、アルベルト・ジャコメッティのデッサンやデレク・ベイリーのフリー・インプロヴィゼーションの近くにあるように、私には思われた。これに対し、池田を含む我が国の「音響派」について語られるのは、正弦波、物音、沈黙、極端な微小音量、グリッチ、アナログ・シンセサイザーによる古めかしい電子音‥‥といった素材選択の時点で完了し、それが「演奏」や「作品」たり得ることが自動的に保証されてしまうような、粗雑にして安易な言説ばかりであり、そこには「日本スゴイ」的な別種の自己完結的な愚かさすら感じられて、私はそれらに食傷し、辟易し、吐き気すら催していた(もちろん、彼らが象徴的に掲げる幾つかの作品は聴いたが、それは決して私の認識/評価を変えることはなく、むしろ裏付けを強めることとなった)。今から思えば悔やむしかないのだが、360°recordsレーベルの作品も、また、今回特に重点的に採りあげられるアーティストtamaruも、そうした枠組みの中に位置づけられており(少なくとも当時はそう思われた)、私は耳を傾けることなく、すれ違ってしまうこととなった。
 しかし、信頼すべき聴き手である津田の先導で、これまで避けてきた海域へとくぎ出すと、そこに豊饒な音世界が開けていることがすぐにわかった。いや、もっと正確に言えば、彼の勧めでtamaruによる映像作品を観る方が先だった。

 2015年1月10日(土)にFtarri水道橋店で開催された『New Year Silence』なるイヴェント(※)でtamaruは映像作品を上映した。それは実にさりげなく何気ない日常のひとコマを切り取りながら、デジタル→デジタルの転送回路をアナログへと切り開きつつ、そこへさらに「コロンブスの卵」的な驚くべき簡素な仕掛けにより物理的な揺らぎを導入し、別種の読み取り/変換上の揺らぎをそこここで顕在化させる、細部の豊かさに満ち満ちたものだった。全体がぼうっとして、ますます輪郭が曖昧になり、揺れているほとんど染みのような斑紋。画面全体の均質性の強さがもたらす、オールオーヴァーなつかみどころのなさ、視線の落ち着きどころのなさ。背後に潜むミクロにちらつくような、溶け広がってにじむような動き。ピントが合ったりずれたりする感覚と画面全体の静かな息づき/脈動。すべては運動の只中にあるというベルクソン的なヴィジョン、あるいは腐食のようなミクロで緩慢な変化。そうした疑念と不安が画面全体に薄く薄く溶け広がり、輪郭は震え滲みちらつき、ミクロな脈動が全景に波及するようでいて、再び見直すと何事もなかったように整列している。画面上の事物の、揺らぎをはらみつつも空間にはまり込んだような静謐な佇まいは、ジョルジォ・モランディ的な魅力をたたえている一方で、その揺らぎはとても視覚では受け止めきれず、手指の間からこぼれていく微細な豊かさを誇っている。それらを根底で支えているのは、tamaruのコンセプトやヴィジョンではなく、ましてや手法ではなく、透徹した凝視の視線の強度にほかならなかった。
※当日の様子については次のレヴューを参照していただきたい。
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html

 今回の『松籟夜話』第六夜では、そうしたtamaruの音響作品の聴取が基軸となる。彼の作品については本当に聴いて、触れていただくよりない。決して知識や音楽経験は必要ない。むしろコアな音楽ファンの方が、かえってかつての私のように「音響」という括りにとらわれてしまいやすいかもしれない。それゆえ私はツッコミ役として、ここで聴かれるtamaru音響が何と似て非なるものであり、何と一見異なりながら通底しているのかを、補助線として示していきたいと思う。

 というわけで、360°recordsやtamaruを知っている方はもちろんのこと、むしろ知らない、聴いていない方、そもそもマイナー音楽、辺境音楽自体、これまで聴いたことのない方にぜひご参加いただければと思う。「失われた20年間」を後悔して止まない私が言うのだから間違いない。
松籟6-1


 リスニング・イヴェント『松籟夜話』第六夜は、初期の360°records関連アーティストの音源を灯台として、「音響派」というカテゴリー化によってかえって覆い隠されてしまった聴取の可能性を照らし出します。なお、360°records関連アーティストについては第七夜でも取り上げる予定です。
 津田さんの先導で360°records周辺を探索。当時すれ違っていたことを痛感。でも、今だからこそ気づけたとの感も。決して振り返りにとどまることなく、新たな発見に溢れています。ご来場お待ちしています。
 「音響」とひとくくりにされてしまったがゆえに、決定的に「聴くこと」から遠ざけられてしまっていた響きに、耳の眼差しの焦点を合わせ、不定形のにじみやしみ、斑紋が浮かび上がるのをじっくりと待つ。繰り返し掬う「ふるい」の中にきらめく粒を見出す砂金採りの喜び。今回はいつにもまして「発見」の多い夜になりそうです。歸山スピーカーもきっと新鮮な驚きをもたらしてくれると思います。
なんて、難し気なことを呻いて、ハードルを上げてしまうのが悪い癖。360°records周辺や関連アーティストをあらかじめ知っている必要などありません。津田さんの言う通り、ただ聴くだけ。ただ見知らぬ響きに耳をそばだて、予期せぬ出会いに眼を輝かせていただければ‥‥。
松籟6-2
撮影:原田正夫
 しかし、この写真はすごいなー。頭の中で思い描いていたイメージを、そのまま写し取られたみたい。原田さんって念写もできるんですか?


◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
ー第六夜は、初期の360°records関連アーティストの音源を灯台として、「音響派」というカテゴリー化によってかえって覆い隠されてしまった聴取の可能性を照らし出します。なお、360°records関連アーティストについては第七夜でも取り上げる予定です。
福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2016年6月12日(日)18:00〜(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
http://gekkosaboh.com/

スポンサーサイト


ライヴ/イヴェント告知 | 00:20:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad