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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「聴くこと」がもたらす感覚の変容・変質 「タダマス22」レヴュー  "Deep Listening" Makes Transformation and Alteration to Senses Review for "TADA-MASU 22"
 この日(7月24日)の四谷音盤茶会の選盤はいつになく「濃い」ものとなった。益子の言うところの「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」が炸裂したプログラム。それらは聴き手が慣習的にイメージする「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしている。にもかかわらず、旧来の「ジャズ」から外見上どれだけ遠く隔たっているかの「距離」において、これらの演奏/作品を位置づけ評価するのは、まったくの見当違いだと私は考えている。ここでは前述の「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」といった視点/評価軸の可能性を掘り下げるため、これらに基づいた選盤の流れの中に引かれた(引かれているはずの)前後の対比の線を、私なりにくっきりと浮かび上がらせながら論じていくこととしたい。それは必然的に益子によるプログラム作成意図に触れることになるだろうが、決して彼の意図を正確に推し量ることを目指しているわけではない。いつものことながら、それは私の視角からとらえた音像にほかならず、言うならば「『松籟夜話』から見た『タダマス』」ということになるだろう。
なお、当日のプレイリストについては、次のURLをご参照いただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

タダマス22-1縮小
撮影:原田正夫



 この日の焦点となった後半「ダーク・サイド」の5枚に触れる前に、前半「ポップ・サイド」の5枚のうち、印象に残った作品について書いておきたい。

タダマス22D1 3枚目Bobby Avey『Inhuman Wilderness』からの2曲は、空中ブランコのように大きく揺れながら疎から密への振れ幅大きく叩きまくられるドラムと、クラシック風に取り澄ました、あるいは手触り冷たくミニマルに構築されたピアノが絡み合う様を、芯のあるベースが音数少なく支えるという構図。一方で精密なグリッドを構築しておいて、他方でそれを揺すぶり立てながら疾走するという「運動感覚」は、益子も以前にthe HIATUSで高く評価していた柏倉隆史がドラムを務めるtoeを、つまりはマス・ロック的な演奏のあり方を思わせる。「ドラムの音がとてもデッド」(益子)との指摘通り、眼前で炸裂する打撃は一瞬で背後へと飛び退り、余韻を残さず、空間を占有しない。それゆえに時空間にマッピングされた各点の間に自由に線が伸びることができる。トリオ編成でありながら、ピアノの右手が高音域でモールス信号的なリフを奏でたり、叩きつけるような刻みを入れながら、左手はぬるぬると低音を徘徊するなど、複数の流れを操ってみせるあたり、ジャズ演奏者ならではの「身体能力」の高さ、瞬間瞬間の制御能力(それこそが「即興」を支えている)の深さを感じさせる。


タダマス22D2 続いてかけられた4枚目Guillermo Klein『Los Guachos V』は、リズミックなレイヤーの敷き重ねによりながら、先へ先へと駆り立てられていく層、そこから滑り落ちたように次第に遅くなっていく層等が交錯し、ドップラー効果を思わせる、くらくらふわふわとした不思議な眩暈感をもたらしてくれる。まるで通過する踏切の警報のように、揺らめきながら遠ざかるシンバルの響きに、寝台列車に乗った子ども時代の記憶がふとよみがえる。繰り返されるピアノの打鍵が次第に遅くなっていくような幻惑感、テーブルからこぼれ落ちてバラバラと床に散らばるドラムの引き起こすデジャヴ感覚‥‥。「忘れ物をして後から提出する感じ」と多田が言う通り、ここで「遅さ/遅れ」は単に相対的な速度差ではなく、どこかノスタルジックというか、追想的な「喪失感」をたたえている。指先が触れたにもかかわらず、もう少しのところで取り逃がしてしまい、もう二度と手に入らない甘美さ。この匂い立つ手触りは、いわゆる「アルゼンチン音響派」のMono Fontanaや、そこからはみ出してしまうがFederico Durand等とも相通ずるように思う。他のより速い曲は、もっと縦の線が揃ってしまって、香りこそ共通するものの、初期マイケル・ナイマンみたいだったから、この曲の「遅さ」に注目した益子の慧眼を讃えたい。

 これに対し、後半「ダーク・サイド」の常連Henry Threadgillが、何と前半2枚目にかけられた。ピアノを左右に配して対称性を高め、Threadgill自身は作曲のみで演奏に参加しないアンサンブルは、冒頭のピアノ2台だけによるパートなど譜面剥き出し感が強く、その後、各楽器が出入りしながら、織り面の移り変わりを見せていく彼独特の展開はあるのだが、ちょうどロウソクの炎の揺らぎが映し出すめくるめく走馬灯の景色のように、あらかじめ用意された枠組みを離陸した音自体が息づき、自在に伸び縮みしながら、夢幻的に巡り巡るところまではとても行かなかった。前述2作品の「露払い」の位置に座したのもむべなるかなと。
 


タダマス22D3 後半幕開けの6枚目は、最近「タダマス」の常連となった感のある「フェンダー・ローズの魔術師」Jozef Dumoulinと女性ヴォイスのデュオLilly Joel『What Lies in the Sea』。深い残響にまみれた、エレクトリック・ピアノとはとても思えない濃い霧のような輪郭不明のたゆたいに切れ切れの女声や不穏な物音が溺れ浮かび沈んでいくという構図は、Mauve Sideshowのいかにもカルトな吐息や、Nurse with the Woundの総帥Steven Stapletonが偏執狂的につくりあげたCrystal Belle Scrodd(Diana Rogerson)の音響迷宮世界を思い出させる。しかし、Lilly Joelとそうしたあり得る参照項の決定的な差異は、前者が離陸してからの飛翔、瞬間瞬間の姿勢制御にすべてを賭けているのに対し、後者は精緻なポスト・プロダクションによる徹底的な編集/つくり込みの産物であることにほかならない。到達点としての「世界観」を共有しながら、そこに至る身体の関わり方は驚くほど異なっている。作曲者の脳内に成立したヴィジョンを演奏者という「媒介物」なしに外界で実現しようとする電子音楽と、それとは対極的に完全には制御し難い電子回路とリアルタイムで格闘するライヴ・エレクトロニクス。エレクトロニクス演奏の二つの「源流」へと想いを馳せてみること。


タダマス22D4 巨大なバス・サクソフォンやコントラバス・クラリネットを循環呼吸で吹き鳴らすColin Stetsonもまた、最近の「タダマス」の常連のひとりだが、その超絶技巧に関心しながらも、それほど面白いものだろうかと首を傾げていたことを、私も多田同様白状せねばなるまい。8枚目にかけられたColin Stetson『Sorrow - A Reimagining of Gorecki's 3rd Symphony』は、タイトル通りの交響曲を、管楽器トリオに弦楽器やエレクトリック・ギター、シンセサイザー等を加えた編成で演奏したもの。オリジナルのオーケストラでは暗闇をひたひたと満ちてくるような冒頭の低弦部分が、息の力をみなぎらせてその姿を浮かび上がらせ、湧き上がる倍音の荒々しさを通じて聴き手に響きの深淵を覗き込ませる。循環呼吸のために鼻から素早く息を吸うノイズの禍々しいばかりに差し迫った生々しさが、原曲の発想の源に置かれたであろうチャントの厳かさと身体のざわめきに満ちた静謐さ(コンサート・ホールの静かさとは異なる)をあぶり出さずにはおかない。いささか逆説的な物言いとなるが、たどるべき旋律線が先に示されていることが、演奏者と聴き手をより強く深く響きへと没入させるように感じられる。
 クラシック作品の演奏を聴く楽しみとは、作曲された旋律をたどることではなく、ホールを満たす響きに深々と身を沈めることにあるのだと前置きして、多田は、このStetsonたちの演奏について、「純粋体験」というか、耳の焦点を合わせれば合わせるほど、対象がひと塊の音ではなくなり、幾つにも分岐し、当てもなく広がって、自分が包み込まれていく‥‥と語っていたが、オーケストラよりもはるかに小編成の演奏ながら、そうした底知れない奥行きの深さが確かにここにはある。オリジナルの演奏はもっとテンポが速いという益子の指摘に、その時は深く頷いたものの、オリジナル編成の録音を幾つか確かめてみると、テンポ自体はそれほど違わない。しかし、テンポ感の遅さというか、足取りの重たさ、降り積もった雪を踏みしめ足が地面に食い込むような沈み込み感覚は、Stetson版の演奏に特有のものだ。
 本作品のひとつ前にかけられた7枚目Pascal Niggenkemper『Le 7eme Continent:Talking Trash』に、現代消費文明批判のコンセプトから軋みに満ちたノイジーなサウンドを構想し、ただそれを演じているだけ‥‥という浅薄さ(いや標題音楽とはそういうものだろうという反論はさて置くとして)をどうしても感じてしまうのに対し、このグレツキのよく知られた作品の再構築においては、演奏の瞬間瞬間を通じてサウンドがより深く追求されているのが素晴らしい。そのことが先の「沈み込み感覚」をももたらしているのだろう。空間の豊かな残響を活かし、耳触りのよさを追い求めた清水靖晃によるバッハのアダプテーション等とは、アプローチは一見似ていながらも、明らかに求める方向性の異なる作品と位置づけられよう。


タダマス22D5 9枚目にかけられたのが、益子が「今年最大の問題作ではないか」とまで言うTyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』。2枚組CDの全体を通してみるとSoreyが演奏していない場面が多いとのこと。15分以上に及ぶトラックが丸々プレイされたが、間を置いて打ち鳴らされ、薄闇から浮かび上がる金属打楽器の少しもまぶしさのない響きと、冷ややかに落ち着き払った距離の眼差しが、わずかの隙もなくぴんと張り詰めた細い綱を渡っていく様に、聴き手は耳の視線を一瞬たりとも逸らすことができない。やがて剥き出しに擦り切れた弦のか細い響きが水平にたなびき、北欧トラッド風の輝きを増しながら、空間に傷を付け、うっすらと響きを滲ませていくが、それでもいささかも水面を揺らすことなく、水底に留まる暗く冷たい水のしめやかな奥深さを乱すことがない。
 Soreyによる打楽器のパートはおそらく即興的に演じられ、弦やピアノのパートは記譜されているのではないかとのことだが、これはただ「譜面の音響化」によって成し遂げ得る演奏ではなかろう。ここですべては様々な度合いの「振動」のブレンドとしてある。光の届かない水底に沈み、側線で水の動きを感知する魚のように、全身を耳にして音響空間の深みを探る耳の眼差しの強度/浸透力と、ひとつところに留まるために自らを取り巻く水の微細な揺れ動きに合わせ、絶え間なく鰭の動きをコントロールし続ける「即興」的鋭敏さ/繊細さなしには果たし得まい。終盤にヴァイオリンが見せる超絶技巧やコントラバスの弓弾きによる深々としたドローンも、そうしたひとつながりの「ブレンド」の一部にほかならない。


タダマス22-2縮小 タダマス22-3縮小
撮影:原田正夫


 「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」によってひとつに束ねられた流れを、こうして前後の対比に沿って切り分けながら見ていくと、それらの作品が旧来の「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしているにもかかわらず、そこでは一貫して演奏を通じてのサウンドの追求/錬磨、その音楽があらかじめ記譜等により準備されているか否かにかかわらず、演奏へと離陸してからの瞬間瞬間の反応にすべてを賭けているあり方が浮かんでくるように思う。もちろんそれは「素早く柔軟な身のこなし」という点では、従来からのジャズ的なミュージシャンシップの延長上にあるのだが、これまでと大きく異なっているのは、「聴くこと」の覚醒/拡大/深化という点ではないかと感じている。そのことが音色の微細な差異や空間/響き/沈黙への感覚を研ぎ澄まし(興味深いことに、この時に感覚的差異は必ずと言っていいほど触覚的なものとして立ち現れる。もしかすると、これは話が逆で、感知すべき差異がミクロ化することにより、感覚の階梯上、自動的に触覚が浮上するということなのかもしれない)、聴くために必要な時間=遅延をいまここに繰り込んで(「聴くこと」とは「待つこと」にほかならない)、感覚を変容させる。

 自らの脳内ヴィジョンを投影したり、共演者の意図を推し量ったり、強迫的に身体動作を加速したりする代わりに、すでに空間の一部として存在しているざわめきや響きを含め、いまここにある音に耳を傾けること。自ら放った音も、共演者の出した音も、ふと鳴り響いた物音も、「手元を離れたもの」として意図や原因からいったん切り離し、意味の乗り物、すなわち記号ではなく、様々な度合いの振動として、持続の総体として、改めて見詰め直すこと。確かグレゴリー・ベイトソンが言っていたのだと思うが、人間が作成した人工物に比べ、生物をはじめ自然がかたちづくったものは、必ずより複雑である。何らかの意図や記号へと還元するのを止めた時、音はこれまで捨象されていた本来の豊かさを露わにする。
 たとえばフィールドレコーディング作品に対する聴取を、風景の表象とか制作者の意図だとかに還元してしまったら、およそ貧しくつまらないものとなってしまうだろう。同様にフリー・インプロヴィゼーションを「自分はあらかじめ準備なとしていない。これはいまここでつくりだしている音である」という自己弁明の証左として聴くことが、いかにつまらないことであるか(実際のところ、「いま私が行っているのは即興演奏にほかならない」ということだけを証し立てるために演奏している者は数多いが、このトートロジーにいったい何の意味があると言うのだろう)。
 フィールドレコーディング作品を聴くように、フリー・インプロヴィゼーションを聴くならば、そこに思いがけない豊かさを発見することができるだろう。前回、ライヴ・レヴューの対象とした大上流一と森重靖宗のデュオなど、まさにそうだった。今回の「タダマス22」で紹介されたTyshawn Soreyたちの演奏も、それを記譜したコンポジションのリアライゼーションとしてではなく、たとえばAlain Kremskiの隣に並べて「こうした意匠はすでにある」と片付けてしまうのではなく、持続としての音に耳を浸し、『松籟夜話』でキーワードとして掲げている「即興・音響・環境」の三者の相互変容としてとらえるのであれば、「聴くこと」を深め楽しむ、またとない契機となり得ることだろう。


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 22
2016年7月24日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:千葉広樹 ベース・ヴァイオリン・エレクトロニクス奏者/作曲家

タダマス22-2
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:01:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
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