■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

2010年7月23日のための連祷
7月23日、オランダのマルチ・リード奏者/作曲家のウィレム・ブロイカーが亡くなった。私は吉祥寺Sound Cafe dzumi店主の泉さんからのメールで翌日知った。
ディスク・レヴューで彼の手兵たるコレクティーフの作品を採りあげたことも何回かあったし、編集担当の柴さんの求めに応じて「アヴァン・ミュージック・ガイド」では紹介文も書かせていただいた。2001年に来日した際には、吉祥寺スターパインズ・カフェにコレクティーフのライヴを観に行って、いかにもなクロージング・テーマに合わせて舞台を降り、年老いたパブの主人よろしくテーブルを拭き、そのまま客席に踏み込んだブロイカーに眼鏡を磨かれた。その翌日、宿泊先のホテルのロビー行ったインタヴュー(「ジャズ批評」109号)を再掲することで、彼への哀悼の意を表したい。
なお、すでに一度「アヴァン・ミュージック・ガイド」で紹介文を書いているため、ここでは彼の登場がシーンにどのような転機をもたらしたかにスポットを当てた、ルポルタージュ風のイントロダクションを付けている。また、末尾に付されたディスク・ガイドも同時掲載されたものである。


路上の音/途上の音楽 ウィレム・ブロイカー インタヴュー

 ヨーロッパ・フリーのパイオニアにしてVIPともいうべきブロイカーが、手練揃いの手兵“コレクティーフ”を率いての初来日を遂げた。この絶好の機会に、本誌前号でもレヴューした、機知とヒューモアに溢れる彼らのステージングの背景を探るとしよう。

 1.ヨーロッパ・シーンの胎動
 六六年夏のアムステルダムには不穏な空気が漂っていた。三月の王女の結婚式-なんと王女ベアトリクスは皇太子にドイツから、よりによって元ヒトラー・ユーゲントのクラウス・フォン・アムスベルグを迎えたのだ-以来、若者たちは警官隊と深刻な衝突を繰り返していた。一連の学生改革の先陣を切ったというべきプロヴォ・ムーヴメントは、マリファナ解禁から都心部分の交通問題解消のために無料自転車を配布する「ホワイト・バイク・プラン」(他にもいくつもの福祉的「ホワイト・プラン」が提言・実施された)まで、機知とヒューモアに富んだ社会改革運動を進め、ビー・インや街頭ハプニングを生み出すなど、「平和的」をもって知られていたにもかかわらず。そして迎えた六月十三日、一人の組立工の青年のデモ中の死-デモは警察による厳重な治安維持体制の下に行われていた-が引き金となって、翌日ついに暴動が勃発(学生と労働者はここで手を結ぶ)、市内は内戦状態寸前へと至ることになる。
 当時まだ二十一歳だったウィレム・ブロイカーが、ローズドレヒト・コンクールに二十三人編成のオーケストラによる『一九六六年六月十四日のための連祷』を持ち込んだのは、それから幾らもたたないうちだった。彼らの演奏は国中を揺るがすスキャンダルを呼び、ブロイカーの顔写真が朝刊の第一面を飾った。
 「ウィレム・ブロイカーの登場は、オランダのシーンが変わり始める最初の兆候だった」 ミシャ・メンゲルベルグ
 彼の登場を待ちわびたかのように、シーンの歯車は一気に回り出す。彼はこの年、ダッチ・ジャズ・シーンの重鎮ボイ・エドガー(彼の名はその後オランダのジャズ大賞に冠せられる)のビッグバンド(『フィンチ・アイ』)、俊英シュリッペンバッハによる“グローブ・ユニティ・オーケストラ”(『グローブ・ユニティ』)、ギュンター・ハンペル・グループ(ESP『ミュージック・フロム・ヨーロッパ』)の各録音に参加し、加えて先の『連祷』の十七人編成ヴァージョンの録音を決行する。さらに、ハン・ベニンクとのデュオ(ICP第一作となる『ニュー・アコースティック・スイング・デュオ』)やペーター・ブレッツマン・オクテットへの参加(『マシンガン』)がこれに続くだろう。新たな音楽の脈動が燎原の火のようにヨーロッパを包み込もうとしていた。

 2.コレクティーフ
 その後のブロイカーの活躍は広く知られているところだ。ミシャ、ハンと共に立ち上げたICPを離れ、自主レーベル「ブハースト」を設立。また「即興演奏者のための会館」BIMハウス設立にも中心となって関わる。寓意と政治的諧謔に満ち満ちた音楽劇作品を生み出すかたわら、映画音楽や劇音楽の作曲を進め、七四年に自身のグループ“コレクティーフ”の結成にいたる(反ブルジョワ作曲家ルイス・アンドリーセンによる“オルケスト・デ・フォルハーディング”への参加も忘れられないところだ)。一部メンバーの交替を経ながらも(かつてはレオ・キュイパース(p)やウィレム・ファン・マネン(tb)がそこにいた)、すでに四半世紀以上の長きにわたり、“コレクティーフ”は充実した活動を続けている。ヨーロッパ中を、否世界中を駆け回りながら(彼らは中国すら2度訪れている)、劇場やホールはもちろんのこと、街頭で、広場で、はたまた電脳空間で、自在に隊列を組み替えながら、幾重にも波状攻撃を仕掛けてくるアンサンブルと、一撃必殺たたみかけるコミック(ピアノを弾き散らかしながらのストリップさえも!)が一体となった強力無比なパフォーマンスを彼らは繰り広げる。そのめくるめく歴戦の記録をCD付き写真集『25イヤーズ・オン・ザ・ロード』でたどることができる。発想の豊かさと遂行の徹底ぶりは全く信じられないほどだ。

 3.インタヴュー
 さて予備知識を仕入れたところで、いよいよお待ちかねのインタヴュー。宿泊先のホテルのロビーに現れたブロイカーは、インタヴューの時刻設定(東京公演翌日の午前中)もあって、疲れも手伝い最初いささか不機嫌だった。昨晩場末酒場の老主人を、あるいは鷹揚な家長を演じた彼の横顔はさらに苦み走った凄みを増して、まるで北海を荒らし回る海賊団の首領のように見えた。

 すべてはインプロヴィゼーションだ
 まずは昨晩のステージへの称賛とともに、あのステージングがどのように組み立てられていたのかを尋ねてみる。

 昨日のステージの進行があらかじめ決めてあったかって? 違うよ。コミカルな部分も含めてすべて即興さ。別にコントロールしてるわけじゃない。そもそもオレは前列に立って吹いてるんだから、自分の後ろで何が起こってるかなんてわからんよ。いろんなことがいくつも同時進行で起こっていくからそう見えるんだろう。実際には事前にシナリオがあるわけじゃない。例えば昨日、トロンボーンが犬の遠吠えをまねて吹いた場面があったろう。そのうちに四つん這いになって、ステージから出てっいっちまいやがった。もともとヤツはステージから客席の可愛い娘に目星をつけといて、何かと理由をつけてその娘のところに行きたがるんだ。今回それが犬だったのは、たまたまヤツが最近犬を飼い始めたからさ。そういえばトロンボーンで犬と話す練習をしてるとかって言ってたな。まあ、ともかくそうやってステージからいなくなっちまったきり、次の曲になっても戻って来なかったりするわけだ。そうすると、こっちはヤツ抜きで始めなきゃならない。これもインプロヴィゼーションさ。インプロヴァイザーってのは、常に表現し続けなくちゃいけない。新しい何かをそこに付け加えて、なるほどその手があったかって、オレを驚かせるぐらいじゃなくちゃいけないんだ。

 そういえば、コレクティーフの面子の中でも、もはや古参に属するアンディ(tp)-真ん丸アタマに丸メガネ、きれいにハゲあがった額に短く丸まっちい手足、笑うと目が線になっちまうチャーミングな笑顔と、ロル・コックスヒルを上回るカワイイ度百二十%の人間マスコット親父-が、顔を真っ赤にしながら、それでもパフォーマティヴな展開を見事に織り混ぜて、どんなもんだいとばかりに余裕しゃくしゃくのソロを取るのと対照的に、まだまだ新参者のアレックスやハーマインはひたむきにフレーズを繰り出しながら、自らの実力(成長ぶり)を刻みつけんばかりのソロを吹いていた(自分の存在を認めさせようというテンションがこちらにもビンビンと伝わってきた)。

 演劇としての音楽
 じゃあインプロヴィゼーションじゃない部分はどうなのか。ブロイカーは「書くこと」を自分のテーマにしていて、他の誰よりもスコアを書き込むって聞いてるけど。

 器楽部分のアレンジはオレがひとりでやってる。スコアを精密に書き込むってのはその通りだ。楽器名じゃなくて、個人の名前で書いてるってのもそうだ。なぜかって言えば、楽器のためじゃなく、演奏者のために書くからさ。演奏者ひとりひとりが果たす役割ってのは、ステージに上がって客を前にした演奏の中で初めて決まってくるものだ。だからもともとリハーサルは嫌いなんだ。曲をさらって、音を確かめるだけにしてる。オレの作曲やアレンジの仕方は、音を楽器に振り分ける代わりに、演奏者に役割やスペースを割り当てることじゃないかって。そうだな。でもそれは固定的なものじゃない。演劇と関係してるってのはその通りだ。オレは音楽を演劇としてとらえてる。たくさんのものを演劇からもらってる。でもそれはジャンルの問題じゃあない。オレにとって音楽劇ってのは、完全に抽象的な、舞台上で完結した表現じゃなく、ふだんの生活(デイリー・ライフ)とつながってるんだ。七〇年代によくやっていた音楽劇のシリーズは、そうやってできている。自分たちが置かれている状況を素材にして、政治ネタを寓話的に描いてみたりした。そうしたメッセージを、客は必ずしも真面目に受け止めてくれなかったけどな。

 新しい生活・文化・音楽
 「デイリー・ライフ」ってのが、きっと彼の音楽のキーワードだなと独りごちつ、プロヴォのことを絡めて聞いてみるとしよう。

 オレがプロのミュージシャンになった六〇年代の後半、プロヴォ・ムーヴメントってのがあった。一種の社会変革運動だな。街頭ハプニングを行ったりもした。オレの音楽と関係があるかって? いいか、それにはこういう背景があるんだ。オレたちの親の世代は大恐慌に続く三〇年代の貧しさを体験してる。それから今度は戦争だ。戦後は確かに豊かになった。カネもモノもある。けれど何も起こらない。親たちは結婚して子どもが産まれ大きくなって、暮らしもそこそこ豊かになって満足しちまった。けれどオレたちは我慢できなかった。この停滞した状況を切り開いて、新しい生活、新しい文化、新しい音楽を自分たちの手でつくりだそうとした。どこかよそからの借り物じゃあなく、ふだんの生活から、ひとりひとりが自分自身の物語を語り出すことによって、つくりだしていかなきゃいけないと考えたんだ。その点で、音楽活動をしていたオレたちとプロヴォの連中が同じ状況を戦っていたのは事実だ。もっとも連中はもっとポピュラーな音楽が好きだったから、音楽的に一致していた訳じゃないがな。

 街頭コンサート
 ブロイカーの街頭ハプニングと言えばこれだ。持ってきたICP003のジャケットを取り出して彼に見せる。

 バレル・オルガンの街頭コンサートのことかい。オレが生まれ育ったアムステルダムの街では、バレル・オルガンてのはどこにでもある見慣れたものなんだ。その見慣れたものが、突然聞いたこともないとんでもない音を、狂ったように出し始めるってのがポイントさ。しかも、ふつうは一台だけで演奏するところを、ずらりと三台も並べたもんだから、それだけでも「何だ」ってことになってくる。バレル・オルガンてのは大きなハンドルを回して音を出すんだが、このハンドルがまたえらく重たいんだ。だからオルガンを演奏してる職人はみんな力持ちの大男で、そいつらがずらりと揃ったのも壮観だったな。そこへあの音だ。爆弾でも仕掛けられてるんじゃないかと、びっくりして恐れおののく奴もいたな。大騒ぎになって警官までやってきた。LPの裏ジャケットにも写真が載ってるだろう。ほらこいつだ。この時は演奏用のロールからちゃんと作って、まあ大変な大仕事になったんだが、三台のオルガンが互いに議論しあうみたいな感じにしたんだ。広場の政治集会みたいにな。お高くとまって、コンサートホールのステージで待ってるんじゃなく、こっちから人のいっぱいいる広場へ出かけていって、しかも誰もが知ってるわかりやすいものを使ってやったわけさ。こうすればオレたちがやっていることが、みんなに届きやすくなるだろう。ブレヒト言うところの「異化効果」を狙ったのかって? それはある。彼の仕事からはいろんなことを学んだよ。

 街頭の騒音/路上の音楽
 そんなオルガンの響きは彼の音楽的無意識をかたちづくる基盤なのだろうか。

 確かにオレの作曲には速いリフが含まれている場合があるけど、それがメカニカル・オルガンから来てるっていうのかい。そいつはどうかな。むしろ、オルガンの音は街の生活の欠かせない一部なのさ。街は騒音に満ちている。そうした街の音、ストリート・ノイズからオレの音楽は常に影響を受けてきた。本を読んだりするよりもな。路面電車がゴトゴトと走る音やチンチン鳴る鐘の音、消防車や救急車のサイレン、マンドリンやアコーディオンの楽隊、教会の鐘、物売りの呼び声、人々のざわめき‥‥。予測しない時に予測しない音が聞こえてくる。ベートーベンに耳を傾けるよりも、自分の身の回りの物音に耳をすますのさ。オレの音楽は都市のノイズと切り離せないんだよ。コレクティーフは基本的にブラスバンドだけど、ブラスバンドってもの自体が街頭のものだ。二人の管楽器奏者がいれば、ヴァイオリン奏者十五人に勝てる。よりダイレクトなんだな。これはメッセージをダイレクトに届けるってことにも関係してくる。社会性ってことだ。

 いま熱い注目を浴びるロマ系(“タラフ・ドゥ・ハイドゥークス”とか)をはじめ、東欧からアジアに至る路上ブラスバンド群の隣で暴れまわる“コレクティーフ”を思い浮かべてみること。

 未来に向けて
 プロのジャズ・ミュージシャンのための連盟組織(BIM)を結成し、さらに政府に働きかけ、基金も創設して、長期間の取り組みの末、BIM会館設立にこぎつけた彼にとって、音楽とは演劇同様に完結した芸術ジャンルではなく、常に社会へとアクトし続け、日常生活をリクリエートする「公共の音楽」だったのではなかろうか。

 音楽はもちろん聴いて楽しむためのものだし、こちらも多くの人たちに聴いてもらいたい。そのためにみんなが聞き慣れた既存のスタイルを多く使っている。でもそれは模倣しているんじゃない。スタイルを借りてきて組み合わせながら、そこに問題提起やメッセージを組み込んでいるんだ。つまりここで音楽は二重の機能を持っていて、みんなはジャズやマーチを聴いているつもりで、実はオレ自身の音楽を聴いていることになる。そうやることで、ひとりひとりの考え方に働きかけたいんだ。聴いたその場で終わってしまうんじゃなく、聴いた次の日になって「そうか。こういうことか」とわかるような。家へ帰り日常の生活に戻ってからそうやって反芻することが、未来をつくる原動力になっていくんだ。 これからの計画かい。最近、二十五分のオーボエとオーケストラのための協奏曲を書いたな。これはコンサート・ホールのための音楽だ。ちょっと変わっていてバクパイプを使ってるんだが。“コレクティーフ”のためにも、『飢え』や『渇き』と三部作になる作品を考えている。でも、これらは私の音楽の一部に過ぎない。TV番組のために書いてる音楽なんて、みんな私の作曲だって気づかないさ。暖めているコンセプトはたくさんあるが、実現するかどうかは結局のところ状況次第だ。ひとつひとつ順番に実現していくよりも、その場その場でで起こってくることに本能的に反応した方がいい。だいたい自分の作品はつくってしまったら、もう聴かないことにしているんだ。これから来るべき新しい何かに向けて、ちゃんと耳を開いておきたいからね。


 そう言ってブロイカーは悪戯っぽく笑った。強固な信念に裏付けられ、政治的かけひきにも長けた雄弁さと同時に、青年活動家の熱い想いをも感じた一時間だった。

協力 アイウィル、坂本信(通訳)


ディスク紹介
①Willem Breuker&Leo Cuypers/...Superstars (rec.1978)
前期“コレクティーフ”を支えた女房役との自由闊達なデュオ集。各種サックス及びクラリネットからリコーダーに至る多楽器を自在に持ち替えながらのブロイカーの演奏は、まるで操るパペットを取り替えるように、その都度異なった肖像を鮮やかに描きあげていく。音を絞り込みながら、演奏の振幅にぴたりと合わせるキュイパース(p)もまた見事。

②Willem Breuker/Twenty Minutes In The Life Of Bill Moons-De Achterlijke Klockenmaker (rec.1974)
 70年代前半の音楽劇時代の代表作。LPのB面を占める『オメデタ時計屋』なら、奇妙ないでたちで現れたサックス奏者が、突如奇声を発しながら舞台上に並べられた目覚まし時計を叩き壊し、天井からぶら下がったロープに飛びついて、大時計の振り子よろしく揺れてみせる。諧謔と風刺に満ちた激烈極まりない表現が観客を熱狂の渦へと叩き込む。

③Willem Breuker Kollektief/Live At The Donaueschingen (rec.1975)
 音楽劇からの抜粋を携えての巡業ライヴのひとコマ。息もつかせぬ猥雑さと哀愁、激情のめくるめく奔流。劇場よりはサーカスあるいはキャバレーか。楽器が飛び散り、メンバーも倒れたまま起き上がれぬ様(ジャケット写真参照)がステージの凄まじさを物語る。当初『ヨーロピアン・シーン』と題されていた“コレクティーフ”初期の代表作。

④Willem Breuker Kollektief/The Parrot (rec.1980-83,85,95)
 「コレクティーフは70年代のグループ」との先入観念を吹き飛ばす80年代ベスト集成。この時期のLPの再発は困難のようだから、まずは本作で。タンゴ、マーチ、ダンス・ミュージカル、ムード・ヴォーカル、植民地音楽‥‥と曲想の多彩さとアンサンブルの達者さに舌を巻かざるを得ない。ワイルやモリコーネ、プロコフィエフ(!)の編曲も秀逸。

⑤Willem Breuker Kollektief/Heibel (rec.1990-91)
 80年代後半はモンドリアン・ストリングスとの共同作業により、ワイルやガーシュイン、サティ等の編曲に取り組むことの多かった彼の久々の自作自演は、リズムを強調した表題の組曲と即興ヴォイスから大時代的歌唱までこなすフリーチェ・ベイマ及び後にメンバーとなる超絶技巧のローレ・リン・トリッテン(vn)を迎えたミニ・オペラから成る充実作。

⑥Willem Breuker Kollektief/Pakkepapen (rec.1997)
 アンサンブルは軍楽隊の突進力・突破力とディキシー・バンドの揺らぐような柔軟性を併せ持つばかりか、ダンス・カンパニーにも似た集団展開の巧みさ(何群かに分割しての同時多面展開等)すら見せる。巧みに引用を織り込み、台詞をすら差し挟みながら、めくるめく場面転換を連ねて、映画音楽的なポピュラリティを高々と掲げた必聴モノの傑作。

⑦Willem Breuker Kollektief/Hunger (rec.1999)
 大戦末期から終戦直後の窮乏期をイメージしていると言いながら、むしろ曲想は二十~三十年代へとさかのぼりつつ、たれこめた暗さはもちろんのこと、当時市民が求めてやまなかった救いや幸福をも幻のように映し出していく。特に寂しさを紛らわそうと、ほんの束の間、能天気に振る舞う流行歌を模した『時は空っぽのワインボトル』は聴きもの。

⑧Willem Breuker Kollektief/Thirst (rec.1999-2000)
 アンサンブルによる定型パッセージの反復回帰が、回り舞台のように場面転換を促す表題作(組曲)は、もともと“インスタビレ”のために書かれたという。霧に煙るほどに湿度の高い猥雑さをにじませた『ロンリー・ウーマン』をはじめ、多くのヴォーカル曲を含むのも特徴。前作『飢え』に続く「抑圧三部作」第二作にして現在のところ(2001年当時)最新作。



ほぼ中央で腕組みしているのがウィレム・ブロイカー。

スポンサーサイト


音楽情報 | 22:26:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad