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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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羽ばたく天使、息を切らす女主人 - ARICA『蝶の夢 ジャカルタ幻影』レヴュー  A Flapping Angel, An Out of Breath Mistress - Live Review for ARICA presents Butterfly Dream
 「いや静かですよ。実に美しいものです。」
 首くくり栲象による首吊りのパフォーマンスは恐ろしくないかと尋ねた私に、ARICAの演出を担当する藤田康城はごく穏やかに、だが即座にきっぱりと言い放った。「首吊り」をパフォーマンスとして他人に見せることに対し、何とはなしに根拠のない懸念 −− 自傷行為や嘔吐、排泄等が売りの(というより他に見せるものがない)内臓露出的/露悪的な「見世物」に立ち会わされることになるのではないか −− を抱いていた私は、自らの不分明を恥じ、本公演を観に、木場のギャラリー・スペースを訪れることに決めた。

 入口をくぐると、外の光が奥へと伸びるバー/カフェに対し、L字をかたちづくるギャラリー部分に舞台と客席が設えられている。舞台スペースの中央にロココ風のチェアが置かれ、その右手に小テーブル。テーブル上には植木鉢、茶筒、ティー・カップとトレイ。その手前に旅行カバン。客席のすぐ左脇に天井からロープが下がり、舞台にも二本のロープが下がり、その先に鳥籠のようなものが吊るされている。うっすらと点された照明におぼろげに浮かぶ白い壁とグレーの床に眼を凝らしていると、舞台右手の柱の陰に白い人影が潜んでいるのに気づく。ふくらみのある白の上下に水色のカーディガン。ひっそりと薄闇に溶け込み、身じろぎひとつせず壁に背を這わせている。

 空間には金属あるいは竹製のガムラン楽器(ゴングを含む)の音色が香のように振り撒かれている。音響を楽曲へと編み上げることなく、リズム・パターンのかけら、素早いグリッサンド、間を置いた点描、長くたなびく余韻等が、それぞれ断片のまま、インスタレーション風の仕方で空間に配置されている。

 ガムランの音が止み、ふと外の犬の吠え声が遠く浮かび上がる。しばらくして、同じガムランの音色が幾分ひっそりと戻ってくると照明が少し明るさを増し、舞台が幕を開ける。壁際に佇む女がゆっくりとこちらを向き、ゆるやかに動き出す。
 ここで女の身体のスローな動きに、ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』の微分化され引き伸ばされた身体の運動を思い浮かべてはいけない(たとえ女を演じる安藤朋子が太田省吾による伝説的舞台『水の駅』で、「2mを5分かけて歩く」演技を成し遂げていたとしても)。両肘のたおやかな動き、優雅な上体のひねり、滑らかな重心の移動が、空間にたゆたう金属質の余韻に浮遊する様は、むしろジャワ宮廷舞踏を思わせる。そこにあるのは解体/分解ではなく、身体各部の改めてゆるやかに結び合わされた呼応にほかならない。
 ふと彼女の身体を何かが貫き(フラッシュバックか)、驚愕の表情がよぎったかと思うと、口の端から歌(の記憶)が漏れ出している。

 ふと入り口の扉が開いて、帽子の男のシルエットが目映い逆光に浮かぶ。音はいつの間にかギターに変わっている。肉の臭いのしない、さらさらと乾いた再構築されたブルース。女は……と見れば、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、じっと男の方を見詰めている。
 ここでひとつ注記しておかなければいけないのは、客席スペースの左後ろの角に近い私の席は、男と女の姿を最も見込みやすい位置であるにもかかわらず、それでもなお二人の姿を同時にひとつの視界には捉えられなかったことである。観客は皆、首を振りながら両者を見比べ、あるいは新たに現れた男ばかりを眺めて、女の方をほとんど振り向かずにいた。だが、ここでの二人の動き、いやそもそも「見え=プレゼンス」自体が、この男が登場した時点から、確信犯的なキャラクター化を通じて漫画チックに照応しており、絶え間なく「喜劇」を生み出し続けているのを見逃してはならない。

 近づくにつれ、男の姿が明らかになる。明るい茶からオレンジ色の上下、麦わら帽子に茶色のリボン。木製の踏み台を引きずっている。そのハリー・ディーン・スタントン(ヴィム・ヴェンダース『パリ・テキサス』に主演として召喚された西部劇の脇役俳優)を思わせる痩せた体躯と乾いた髭面に、パロディックな西部劇の情景がふっと浮かび上がる。女は両足を旅行カバンに乗せたしどけない姿で、男の方をにらみつける。植民地の女主人風のふうわりとふくらんだ古風な白いドレス。まるで以前に支払いを踏み倒して逃げた客を見つけた、クラウディア・カルディナーレ演じる酒場のおかみのようだ。
 男は舞うようなステップをふらふらと踏みながら、さらに近づいて、帽子を壁の釘に掛ける。女はだるそうに顎に手を当て、缶からつまんだ細長い焼き菓子をかじる。男は踏み台に上がり、吊り下げられたロープを試すように叩く。いったん下りて、踏み台を手前に引いて再度上るが、今度はロープに手が届かない。男は針金を取り出して、それでロープを引き寄せようと苦闘する。見下したように冷ややかに見詰める女。
 男はようやくたぐり寄せたロープに輪をつなぎ、首(実際には顎だが)にかけ、そのままぶら下がり、はっと思う間もなく、揺れた先の向かいの柱に蝉のように止まる。音は小鳥のさえずりの隙間に響くソプラノ・サックスに変わっている。
 男の身体が柱を離れ、しばらく揺れている。揺れが収まってくると、伸ばした爪先が床を擦る。そのまま爪先を軸としてオルゴール仕掛けのバレリーナのように、くるくると回転する。女は食べかけの菓子を置き、缶の蓋を閉め、ゆったりと背もたれに身体を預ける。男はロープをつかみ、身体を持ち上げ、再び台に乗り、ロープから輪を外す。

 ゆるやかなギターのうねりに伴われて、男が舞台上の左側のロープに歩み寄り、これに輪を掛けて引くと、何と右側にぶら下がったロープにつながっていて、椅子が宙に持ち上がり、座っていた女が勢い良くひっくり返り、二本の脚が奇麗にV字をかたちづくり、足裏が見事に天井を向く。男は何事もなかったようにロープの端に付いていた鳥籠を外し、輪を付け直す。音楽が止み、管楽器の息音に差し替えられる。首に輪を掛け、身体を動かすと、宙に浮いた椅子が上下する。
 無声映画的なコメディは、バスター・キートンの無表情な疾走にも似て、ここから一気にスラップスティックな加速を見せる。
 女は立ち上がると、宙に浮かんだ椅子に旅行カバンを吊り下げ、さらにテーブルを持ち上げて吊り下げ、さらに自分の体重を掛けてロープを引く。男の身体が宙に浮く。音が止み、女のはあはあと荒い息が浮かび上がり、これをピアノとヴァイオリンが優雅に伴奏する。息を切らしてロープを引く女をよそに、男は軽やかに宙を舞い、回転し、シャツをはだけ、天使の翼に見立てて羽ばたく(剥き出しにされた彼の痩身は、むしろ磔刑に処されたキリストを思わせるのだが)。
 音楽が止まり、男は自ら身体を引き上げると、首にかかっていた輪をロープから外す。宙に浮いていた椅子やテーブルが女の身体もろとも、どすんと落下する。男はそのまま、何やら歌を口ずさみながら立ち去っていく。女はすっと立ち上がると、椅子やテーブル、旅行カバン等をてきぱきと片付け、元あった位置に戻し始める。冒頭のガムランが再び鳴り響き、明かりが落とされ、女はまた柱の陰に身を潜める。先ほどまでのスラップスティックな身体の消尽が、いやそもそも流れ者らしき男の訪問自体が、一瞬の夢(フラッシュバック)であり、まったく時間など経過していないかのように。終演。
蝶の夢2縮小 蝶の夢3縮小


 首くくり栲象は、現在も自宅の庭の椿の木で、毎月のように首吊りの公演をしており、首吊り行為自体は日課にしているというから、たまたま今回、この『蝶の夢』への出演を観たからと言って、その全体像を把握することは無論できまい。しかし、これだけは確かだと思う。「首吊り」に対する思い込みだけを根拠に、その行為を死の観念にだけ結びつけ、そこに固く縮こまり凝っていく肉体や、演劇や舞踏特有のジャーゴンと言うべき「ただごろんとそこにある(無為な)身体」を見出して安心を得ようとするのは、冒頭に書き記した私自身の不分明と同様、明らかに間違っていると。ここでは眼の前で繰り広げられる愉悦に満ちた舞踏、軽やかに散逸する遊戯的な身体の在りようをこそ、眼を逸らすことなく、観なければならない。
 ここで首吊りが身体から奪うのは、決して生(の一部)などではなく、グラウンドとの接点であり、大地を踏みしめる下肢であり、重力の束縛であり、「体幹に垂直に支えられる頭部」という秩序だった体系にほかなるまい。

 光溢れる「外部」から薄暗い「内部」への男の参入も、徒らにシンボリックにとらえる必要はないだろう。逆光の中からの鮮やかな登場は、確かに「彼方からの光臨」との印象を与えるが、私の観た回の上演では、ある「事件」が、すでにそうした象徴的文脈を脱臼させ、事態の格下げを果たしていた。というのも、ひっそりと静まった舞台に向かい、開幕を待ちわびる観客に、入口の扉を開けてはっとするような外の光を届けたのは、まずは遅れて来た観客であり、続いては「前に置いてある自転車はこちらのですか?!」と怒鳴り込んだ近所のオバサンだったからだ。意図せざるスラップスティック。

 もうひとつ指摘しておかなければならないのは、ARICAの上演において、切り詰められ絞り込まれたテクスト、身体/事物、イヴェントの配置にもかかわらず、いや、だからこそ、スラップスティックな身体の運動/消尽が、作劇の核心部分として、特権的な位置づけを得ているということだ。
 サミュエル・ベケット『ヘイ・ジョウ』を翻案した『ネエアンタ』(*1)では、山崎広太の「動かないダンス」が眼には見えない強風に翻弄され、身体各部の本来の連動/協応を欠いた、「15ゲーム」を思わせるカタカタした高速のブロックの移動が、身体動作が本来持つべき目的や意味を吹き飛ばし、きっぱりと脱ぎ捨てるに至る。
 『UTOU』(*2)では、ピンボール・マシーンのように高速でぶつかり合い、床を滑りくるくると回転する身体が、巡り続ける因果応報を衝突する金属球の粒子運動に転化させる。
 舞台装置のガラクタの山についには首まで埋め込まれ、身動きひとつできないベケット『しあわせな日々』(*3)の女もまた、溢れ出る言葉を、多種多様な声音や抑揚、アクセントやリズムの目まぐるしい変化を、すなわち「声の身体」を、能う限り消尽して止まない。
 *1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html
 *2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-305.html
 *3 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html

 この『蝶の夢』でもまた、流れ漂う男とそれを見守り見送る女という古典的な枠組みを設定しながら、それをパロディックに使い倒し、身体/事物の活人画的配置を、身体動作を、オブジェの運動を、滑車が壊れるほど加速し、空っぽになるまですり減らす。まさにバスター・キートン的(というのは私にとって喜劇への最高の賛辞なのだが)スラップスティック。きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう。



アリカ『蝶の夢 ジャカルタ幻影』
2016年10月1日(土)18:00【追加公演】、10月2日(日)14:00 / 18:00
※私は10月2日(日)14:00の回を観させていただきました。
EARTH+cafe+bar
演出:藤田康城
出演:首くくり栲象(たくぞう)、安藤朋子
蝶の夢1縮小


【補足】
 後で舞台を見ると、外された鳥籠(安定させるためか一方には白いアルパカのぬいぐるみが、もう一方にはおもり袋が詰め込まれていた)といっしょに、何か部品の破片らしきものが落ちていた。旅行カバンを持ち上げようとした女性が「すごく重い」と言っていたから、中におもりを仕込んでいるのだろう。痩身とは言え、男の身体とバランスさせるのだから、かなりな重量となる。装置の荷重も大変なものだろう。安藤朋子に聞いたところによれば、滑車を使ったロープの仕掛けが何度も試せるものではなく、毎回ぶっつけ本番状態だと言う。
蝶の夢disk また、藤田康城によれば、冒頭の再構成されたガムランは、博物館の楽器を素材に構築されたAsturas Bumsteinas『Gamelan Descending A Staircase』(Cronica)で、私の執筆したディスク・レヴューで知ったと言う(えーっ、忘れていた)。本公演に続くインドネシア・ジャカルタでの上演に向けて選ばれたようだが、そんな理由が後付けに感じられるほどはまっていた。ギターはJohn Fahey、ソプラノ・サックスはEvan Parker、息音はMichel Donedaの演奏とのこと。いずれも藤田ならではの選曲と言えるだろう。
 このARICA『蝶の夢』のインドネシア・ジャカルタ公演は、Salihara International Performingarts Festivalの招聘を受け、10月15日・16日に行われる。

【後記】
 本レヴューの最後に私は「きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう」と記している。1カット2秒として15カット。それぞれにキャプションが付されるとして、20〜30文字×15セット。本来ならこのレヴューは、そのように簡潔で素早く切り替わるポップな速度に溢れたものであるべきだと思う。私の筆力不足でそれが成し得なかったことが返す返すも残念だ。

※フライヤー及び舞台写真はTheater Company ARICAホームページ及び公式Twitterから転載しました。



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:36:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
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