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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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気球が空に舞い上がり… 『タダマス23』レヴュー  Kikyuu Ga Sora Ni Mayagali... Review for "TADA-MASU 23"
 10月23日(日)に行われた益子博之と多田雅範のナヴィゲートする四谷音盤茶会(=タダマス)第23回をリポートしたい。例によって、あくまで私の興味関心に基づいて切り取られた視角に関する報告なので、会の全貌をお伝えすることはできないことをお断りしておく(特に今回は偏りが激しいのではないか)。なお、当日のプレイ・リストについては、次のURLを参照していただきたい。
 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

タダマス23-0縮小
撮影:原田正夫


タダマス23-0 タダマス23-00
 会が始まる前にRobert Glasperの新譜がかけられていて、益子が、これはジャズというより、ブラコンと言っていいと思うんだけれど、どうも80年代がブームということになっているらしく、途中Weather Reportみたいになったりするんですよね……とコメントする。なるほどシンセサイザーのうなり具合とか、まさにそんな感じ……と、ここで、David Bowieの「遺作」となった『★』について気になっていたあれこれが、ふと浮かび上がる。ロック・ファンのとらえ方は「ボウイが新世代ジャズのミュージシャンを起用」というところで話が終わってしまい、そのサウンドの内実に踏み込もうとしない。一方、これに対するジャズ側の応答は、ボウイと共に「Sue (Or In A Season Of Crime)」のオリジナル版をつくりあげたMaria Schneider Orchestraを、彼とDonny McCaslin及びMark Guilianaの出会いの機会ととらえ、『★』のレコーディングを彼とMcCaslinのレギュラー・クワルテット(に先の「Sue」の録音に呼ばれた元MSOメンバーのBen Monderを加えた5名)によるものと見なしている。そしてMcCaslinたちの「新世代」性がテクニックの卓越に加え、「ジャズの生演奏とエレクトロニック・ミュージックの融合」を目指した結果として説明されるのだが、そこで言う「エレクトロニック・ミュージック」が原義よりはJ.Dilla以降の「ズレをはらんだリズム・プログラミング」を指すものであってみれば、これはヒップホップに代表されるブラック・ミュージックの視点から、ジャズを再評価することにほかなるまい。それゆえ「新傾向」の旗手として、当初から先のGlasperが掲げられることになっているわけだ。だが本当にそうなのだろうか。

タダマス23-1縮小
撮影:原田正夫


タダマス23-1 タダマス23-2
 と、ここで長々と説明を差し挟んだのはほかでもない。今回の『タダマス23』の冒頭に続けてかけられたSteve Lehman & Selebeyone『Selebeyone』とCorey King『Lashes』が、図らずも私のこの疑問に触れていたからだ。
 前者は益子により、これまでもヒップホップを採りあげていたLehmanが最初からヒップホップ作品としてつくりあげたものと説明される。Glasperのグループで演奏していたDamion Reid(dr)によるスネアとキックの配合を主成分とするビート構築は、Mark Guiliana同様の「不整脈」系で、多田が言う通り「ジタバタ感があり、単にノリだけで進まないところがよい」。これに対し上物は、ひたすらウネウネと絡み合う2サックスにしろ、ストリングスの残像だけを取り出したようなキーボードにしろ、棒読み調の英語ラップとアジテーションの激しさを帯びた西アフリカの言語であるウォロフ語によるラップの対比を際立たせることに徹している。ビートとラップというヒップホップの核心を突きながら、ここにブラックネスの色濃さは感じられない。Lehmanはあくまでヒップホップの鋳型をどう転用するかに注力しているように思われる。
 これに対し後者は「新世代ジャズ」のサンプルとしても採りあげられるErimajのトロンボーン奏者のソロで、他のメンバーがバックアップしているもの。ここでKingはヴォーカルを務め、各種キーボードやプログラミングを担当しながら、トロンボーンは吹かない。Erimajとの差別化を図るためともとらえられるが、サウンド自体がそもそも80年代シンセ・ポップ風で、もともと教会でゴスペルを歌うことから音楽に親しんだという声は、黒人風の粘りをわずかに感じさせるものの、歌唱あるいは歌ものの造りとしては、益子の指摘通り明らかにRadioheadの影響下にある。本人もRadioheadやBrian Eno、Daniel Lanois等のファンであることを公言しているという。やはりブラックネスは希薄だ。


タダマス23-3 タダマス23-4
 後半の開幕にかけられたECMからの2作品Jakob Bro『Streams』とAndrew Cyrille Quartet『The Declaration of Musical Independence』が、さらにこの問題を敷衍していたように思う。
 Jon ChristensenにJoey Baronが替わった前者のトリオからは、Paul Motianに捧げた10分近い即興演奏のトラックがプレイされた。ディレイの使用によりひたすら自らを自らに折り重ね、心地よい揺らぎを生じさせながらも、徹頭徹尾サウンドスケープしか生み出さないJakob Broのアンビエントなギターに対し、Thomas MorganとJoey Baronは共に、ディレイの生み出すレイヤーの広がりとその敷き重ねによる演奏の生成を念頭に置きながら、実際にはディレイを用いることなく演奏に臨んだ。具体的には、音高を極端に絞り込み、触覚的なさわりを前面に押し立てつつ、さらに音が反復しながらだんだんと遠のいていくような「人力ディレイ」(益子)を奏でたベースと、余韻を切り詰めたサウンドにより間を際立たせ、時折鋭角的な突っ込みを見せたドラムによる、二人の「聴く力」(多田)を遺憾なく発揮したプレイである。ここでも「エレクトロニック・ミュージック」の鋳型が異なる景色をもたらしている。
 他方、後者では、Cecil Taylor(p)のユニットのドラム奏者を永年務め、ブラック・フリー・ジャズの「闘士」として、ドタバタと忙しなく叩き回り、音数多く「うるさい」演奏を繰り広げていたAndrew Cyrilleが、時折忙しなさを見せるものの、むしろ間を重視した繊細な演奏を聴かせ、これにAnthony Braxtonとの共演こそあるものの、元Musica Elettronica Vivaのメンバーで明らかに畑違いのRichard Teitelbaumのシンセサイザーが、ホワイトノイズを散布して空間の広がりを眺め回し、あるいはサックスの気息音を模して視界を横切り、ただならぬ気配を充満させる。形を変えていく雲のような浮遊感を漂わせながら、以前よりは輪郭を明確にしたBill Frisellのギターは、基本的にメロディ・フレーズを繰り返すだけだ。ここにもブラック・ミュージックの祖型を用いながら、それをパブリック・ドメインとして自在に中身を組み替えていく手つきが見られるように思う。「マンフレート・アイヒャーではなく、サン・チョンのプロデュースだからこそ可能になった作品」という多田の指摘は鋭いと思う。


タダマス23-5 タダマス23-6
 この回のハイライトは、前半にかけられたJeff Parker『The New Breed』とJim Black Trio『The Constant』ではなかったか。Tortoiseのギター奏者として知られる前者は、益子によるとAACMにも参加しており、近年、活動拠点をシカゴからLAに移したとのこと。スクエアなビートに、ビートルズ「ストロベリー・フィールズ」的な弦アンサンブルの劣化サンプリングが、そこから滑り落ちそうな不安定さで重ねられ、さらに軽快なサックス・ソロが乗り、そこからさらにサックスがサンプリングされてループし、ドラムが連打をずらしていくという、ミスマッチを微妙なところまで見極めた編集感覚が素晴らしい。「レトロ・フューチャー」という益子の評も当たっている。冒頭部分が少しだけ披露された次曲はかつてのTortoiseを思わせる、細密に作り込まれながら、どこか牧歌的なカンタベリー風味だったから、本質は変わっていないのだろう。
 後者はメンバーを固定しての3作目。バシバシと小気味よく叩き込むドラムが前面に出るのはいつも通りだが、まだ26歳というピアニストの、サウンドを切り詰めてドラムを引き立てつつ、自らをも立ち上げるバランス感覚に耳が惹き付けられた。高音と低音に極端に二極化したパーカッシヴな打鍵によるプリペアド・ピアノ的演奏をはじめ、フレーズ展開風のソロを取らず、リズミックに砕け散ったアブストラクトなパッセージを中心に、むしろサンプラーやターンテーブル奏者のようなサウンド/ノイズ・メーカーに徹した演奏は、冗長さを徹底して削ぎ落とし、三人が一丸となって急坂を転げ落ち、飛び石伝いに川を渡り、絶壁の縁をひたひたと歩む運動の一体感を強めていた。もちろん、その陰には『タダマス』御用達ベーシストThomas Morganの支えがあるのだが。


タダマス23-7 タダマス23-8
 もうひとつ、今回の収穫を挙げれば、声のゆるやかな温かみではないかと思う。Sara Serpa & Andre Matos『All The Dreams』では、音程の揺れる電子音やエコーの滲み、テープ逆回転の使用といった、いささかアナクロニックな「アナログ感覚」が、フレンチあるいはブラジリアン・ポップス的な声の処理(Stereolabが『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』で参照したような)と相俟って、そうした時の流れを生み出していた。
 対して、やはり最近『タダマス』登場機会のめっきり増えたJoachim Badenhorst率いるCarate Urio Orchestra『Ljubijana』からは、オブスキュアな日本語歌詞の曲を。深いエコーの中で交錯する口笛と囁きヴォイス、薄暗がりに沈んだ爪弾きギターとよく聴き取れないヴォーカル。「気球が空に舞い上がり、雲を突き抜けさらに高く、太陽とひとつになるまで」と力なく呟かれるイカロス的飛翔への憧れを含め、1970年代初頭の京都ヒッピー集団による自主制作盤と言われたら信じてしまいそうな仕上がり。愛すべき音楽。
タダマス23-2縮小
撮影:原田正夫


 この日は、エンクロージャの変更、ツイーターの故障と、このところ腰の定まらないところのあった喫茶茶会記のスピーカーが、以前とは異なるより明晰なポジションながら、据わりの良いサウンドを聴かせ、ようやく落ち着くべきところに落ち着いてきた感があった。ゲストとして『タダマス』2回目の登場となる井谷享志は、曲によっては用意された席が位置する側面から、おもむろに席をスピーカー正面側へと移し、熱心に響きへ耳を傾ける「聴き手」としての貪欲な集中を見せた。相変わらず発した言葉は多くなかったが、隣に座っていた多田が、聴取に集中している彼の気配に大いに触発された旨を語っていて、大いに頷かされた。複数で聴くことによる発見は、交わされる言葉よりも、むしろそこにある。今回かけられた音盤を聴いて、井谷が「実は僕歌いたいんですよね」と漏らしていたのも興味深かった。「声と打楽器というのは、何かモノクロな感じでいい」というのは、時にモノクロ写真がカラー写真以上の色彩感を持つように、最小限の要素から無限の可能性が広がるということだろう。「声と打楽器」と言われて最初に頭に浮かぶのは、チャールズ・ヘイワードや灰野敬二だが、彼の前にはそれとは違った可能性が開けているように思う。ぜひ聴いてみたいものだ。

タダマス23縮小

masuko/tada yotsuya tea party vol. 23: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 23
2016年10月23日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:井谷享志(パーカッション・ドラム奏者)

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:57:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
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