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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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不思議な蝋石の珠 ―― 『松籟夜話』第八夜へのお誘い  A Marvelous Pyrophyllite Ball ―― Invitation for the Eighth Night of "Syorai Yawa" a.k.a "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind"
 今週末の日曜、2月5日の夜は、また特別の一夜になるに違いない。そんな風に落ち着いて思いを巡らすことができるのは、どれくらいぶりだろう。
 民族(民俗)音楽の現地録音としてのフィールドレコーディングに狙いを定め、3回シリーズの初回として今回のテーマを確定した昨年11月には、いろいろとあてもなく空想を巡らす余裕があった。とりあえず沖縄久高島イザイホーから始めて、これまで真正面から採りあげてこなかった「声」をやろう。美声とか巧みな歌唱、力強い叫び、個性的な声音等を追い求めるのではなく、もっと「根」に向かってに掘り下げていこう。ジャンルとしてのルーツ・ミュージックではなく、無名性/原初性の方へ。舞台上で皆の視線を一身に浴びるひとりの卓越した芸能者ではなく。複数による多声の集合体に耳を浸そうと。

 テーマを見据えていた時から、奄美や宮古、八重山、さらには台湾や中国から東南アジアにかけての少数民族の歌は、なんとなく視界には入っていた。第七夜でAMEPHONEを採りあげた時にも、トン族の蝉歌をかけていたわけだし。そこに豊かな鉱脈が広がっていることは明らかだった。

 素材は溢れるほど揃っている。あとはどう選択/配列するかだ。イザイホーの現地録音を聴いて、何となくではあるが、津田も私も「揃わない/同期しない」ことが重要なのではないかという直感を抱いていた。作業を効率化するためのワーク・ソング等、同じリズムを循環させ、動作のタイミングを合わせるための歌は、今回はちょっと違うかな。だからフライヤーの惹句は「聖なる場所に集う声」とした。声の集合性が、そのまま複数性/多声性を生きる様をとらえるには、日常の中の「仕事」ではない、別の側面に着目する必要があるのではないか。あえて「聖なる場所」とした背景には、そんな着想があった。別に宗教的な祭儀だけに局面を限定する考えはなかった。人が集まって、声の身体を触れ合わせれば、そこに日常とは別の時間/空間が開けるはずだ。そんな確信もあった。

 手持ちの音源を掘り返していった。沖縄/琉球の音楽に聴き親しんでいない私は、津田に教えてもらって、El Sur Recordsまで出かけて、南嶋シリーズを買い込んだりした。耳の旅路は、琉球弧から台湾を経て、さらに南へと進み、島尾敏雄言うところの「ヤポネシア」をくっきりと浮かび上がらせた。
  


 その一方で、それでいいのかという思いも当然あった。これでは地域文化研究ではないか。すでに指し示されている連関を検証するだけにとどまらず、想像力を奔放に(かついささか無責任に)飛躍させてみたかった。あらかじめ描かれた囲いの線を破って、その外へとすばやく走り出る線を引きたかった。まったくの当てずっぽうではあるけれど、何本か補助線の案は浮かんでいた。しかし、それが外部へと至る「逃走線」足り得るか確かめるためには、「あらかじめ描かれた囲いの線」を知る必要があった。

 ざっと一瞥したところでも、柳田國男、折口信夫、伊波普猷、金田一京助、谷川健一、島尾敏雄、岡本太郎、吉本隆明‥‥、南島、沖縄、琉球、先島、琉球弧、台湾(特に「蕃族」)、アイヌ、海上の道、ヤポネシア、イザイホー、ノロ、ユタ、聞得大君、カンカカリヤ、カンダーリ、御嶽(うたき)‥‥、鳥居龍蔵、東松照明、中平卓馬、比嘉康雄、クリス・マルケル、仲里効‥‥。そこにはめくるめく世界が開けていた。文化人類学こそ少々かじってみたことがあるものの、民俗学/民族学にはこれまでほとんど手を着けてこなかった。津田に薦められて読んだ金子遊『辺境のフォークロア』(河出書房新社)でニコライ・ネフスキーの存在を知った。柳田や折口自身によるテクスト(特に後者)は取っ付きにくく、柳田批判や折口研究を経由したが、二人の「偉大さ」というよりは、鋭い感受性とそれに反応して不可避的に起動されてしまう想像力の激しさ(ほとんど「激震」と言ってよい)に、改めて気づかされることとなった。これではカルチャー・スタディーズや表象論はもとより、谷川や吉本も到底かなわないだろう(あくまでも私見)。他方、いろいろと悪評高い岡本太郎の沖縄文化論は、核心を鋭く突いていると感じた。
   


 その間、着々と作業を進めていた津田は、琉球弧から耳の旅路を東西南北へと伸ばし(何と台湾少数民族8部族すべてをカヴァー)、そこから「もうひとつのポリフォニー」のあり方を浮かび上がらせていた。私が引こうとしていた補助線も、音楽史や建築史、宗教学等に首を突っ込んで仮説を補強した結果、気がついてみれば同じ可能性を目指すものとなっていた。
そうした可能性のありかをわかりやすく示すために、『松籟夜話』第八夜では、第三夜の「熱帯雨林」特集以来久しぶりに、映像とテクストも用いることにした。「百聞は一見に如かず」で聴取の持つ可能性が視覚イメージに抑圧されたり、確立された権威に頼るだけになったりする恐れもあるのだが、心配ばかりしていても始まらない。主催者の当初の意図を超えた「発見」に期待しよう。これまでの七夜でも、それは必ず起こってきたのだから。
   


 最後に今回の準備作業中に出会った、興味深いエピソードを紹介したい。私は渡辺哲夫『祝祭性と狂気』(岩波書店)で知ったのだが、柳田國男「故郷七十年」に少年時代(13歳から2年間)を過ごした布川での不思議な思い出が綴られている。その家にあった祠の中に何が入っているのか気になって、こっそり開けてみたら、丸くきれいな蝋石の珠が出てきたという。そしてその時、柳田は昼の空に輝く何十もの星を見たのだと。柳田自身、それを異常心理だったと見做している。突然、ヒヨドリがピーッと鳴いたので我に返ったが、もしあの時、鳴き声が聞こえなかったら、そのまま戻らなかったのではないかと。
 これについて精神科医である渡辺哲夫も「瞬間の狂気」としている。渡辺は同書で、宮古のカンカカリヤ、カンダーリについて採りあげ(有名な谷川健一「神に追われて」よりも面白いと思う)、こうした「瞬間の狂気」がこの地では文化としての根を持っていると記している。そうした文化的な根から切断された不幸な例として、アメリカに移住したベラ・バルトークの不幸な晩年に触れながら。
さらに続けて、小林秀雄がある講演で、柳田のこのエピソードを紹介し、ムクドリが鳴かなかったら発狂したかもしれない彼の感受性を、彼の弟子たちは受け継がなかったが、それなしには民俗学など出来はすまいと語ったことを書いている。もちろん小林一流の与太には違いないのだが、それでも狂気を催すかどうかはともかくとして、祠から出てきた「丸くきれいな蝋石の珠」に激しく揺さぶられる感受性が、彼の民俗学を支えていたのは確かなように思う。
   


 『松籟夜話』第八夜においでくださる方たちは、そこで披露される音盤や映像やテクストに向かい合い、その扉を開いて、どのような「蝋石の珠」を見出してくれるだろうか。そんな出会いに向けて、拙い間違いだらけの思考ではあるけれど、懸命に発信していきたいと思う。

 どうぞおいでください。

松籟夜話第八夜縮小
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ライヴ/イヴェント告知 | 00:54:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
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