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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー  Piano As a Dissecting-table, Ability of Hesitation in Saying ― Review for "TADA-MASU26"
 自身がプロデュースするライヴ・シリーズ『tactile sounds』について、「今度のピアノ、初めて聴いたんだけど、すごく良いですよ」と益子博之が興奮気味に語っていたのを覚えている。そのピアノ奏者が今回の『タダマス26』のゲストであるリン・ヘイテツだった。ゲストにちなんで‥というわけではないだろうが、プログラムはピアニストを大きくフィーチャーしたものとなった。そうした中から、特に印象に残った部分を書き記しておきたい。
 いつものことながら、レヴューは一夜の内容の全貌を伝えるものではないし、企画者の意図を代弁するものでもない。あくまでも私の関心に沿って切り取られた視角であることを、あらかじめお断りしておく。
 なお、当日のプレイリストについては、次のURLを参照されたい。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955542


タダマス26-13.Aaron Parks 『Find the Way』(ECM)
 Billy Hartのドラムはパルスに限定することなく、時にはほとんど因習的とすら言えるジャズ・イディオム的なリズム・フィギアを叩き出しながら、Aaron Parksのピアノの音の運びに対し、常にズレた地点に設置していく。細やかに編み上げられたサウンド・レイヤーを滑らかにずらしていく‥‥といった最近のデスクトップ的な精緻な編集感覚とは異なる、もっとラフでざっくりとした感触がもたらす、どこか人を食ったようなヒューモア。益子の「老人力」との形容には思わず膝を打つところがある。

タダマス26-24.Soren Kjaergaard, Ben Street, Andrew Cyrille 『Femklang』(ILK Music)
 Billy Hart同様、NYダウンタウン・シーンで最近「再ブレーク」中のAndrew Cyrilleについて、「この盤の演奏が彼に対する高評価のカギではないか」と語りながら、Soren Kjaergaardのピアノ・トリオをかける(Aaron Parksのトリオとベース奏者が同じという周到さ)。音と音との間がだんだん広がり、たちこめる闇が次第に深さを増していく。遠くで幻の如く虚ろに響くカウベル(か、あるいは‥)が、手前のピアノやシンバルをほのかに照らし出す。

タダマス26-35.Roscoe Mitchell 『Bells for the South Side』(ECM)
 続くRoscoe Mitchell作品も大人数のパースネル表記にもかかわらず、披露された12分以上に及ぶ冒頭曲は、コーダ部分でまるで篠笛のように鋭く一文字に引かれたピッコロ(Roscoe Mitchell自身による)を除けば、Craig TabornとTyshawn Sorey(!)による2台のピアノの凍てついた交響とそこに影のようにひっそりと付き従うWilliam Winantのチューブラー・ベルズ等の金属打楽器しかない。間を置いて沈黙を切り裂き空間にそそり立つピアノの打撃音、さらにはピアノ弦を直接掻き鳴らし、あるいは筐体を叩いて生み出される高密度の音響は、明らかに音高や音価の組織化ではなく、空間を満たす強度/濃度の勾配によって導かれている。シカゴ現代美術館の硬く張り詰めた床や壁、はるかに仰ぎ見る天井、空間の圧倒的なヴォリュームと遠くまで渡っていく響き。深海を思わせる暗闇は、霧にも、むせ返る香りにも似た分厚い静寂にねっとりと充填され、もはや新たな音を解き放つことなどできようはずもない。ただ、たゆたい続ける響きの濃度を、浮かび上がる音粒子の軌跡を、捻じ曲げ、撓ませるだけだ。途中から微かな鈴の音が止むことなく鳴り続ける。それまで暗闇に沈んでいた静寂の襞に、しゃらしゃらと銀粉を振り撒いて、不可視の起伏を浮かびあからせ、最後、ピッコロが一文字に線を引くための舞台を整える。
 おそらくあらかじめ記された「楽譜」があるのだろうが、それは単なる指示書に過ぎない。どのように作戦を遂行し、成果を挙げるかは、一瞬ごとの状況判断、すなわち「即興」に委ねられる。ここでTabornやSoreyたちが開いてみせる世界の豊かさに比べ、あらかじめ用意された「書かれたもの」の構造は、それほど精緻でも複雑でもあるまい。逆に言えば、作曲は自己完結しておらず、演奏の豊かさを決して保証してはくれない。それが「ゲンダイオンガク」としての完成度の低さであると言うのなら、それはそうなのだろう。だが、それがいったいどうしたと言うのか。「たとえ楽譜を見て演奏しているとしても、(所謂「現代音楽」の演奏とは)時間の過ごし方、役割の果たし方が違う」という多田雅範の指摘は、まったくその通りだと思う。
※以下で録音時のライヴ演奏からの抜粋映像を見ることができる。
 https://www.youtube.com/watch?v=dMQ4WOGoMdQ

タダマス26-46.Craig Taborn, Ikue Mori 『Highsmith』(Tzadik)
 Craig TabornとIkue Moriのデュオと聞かされると、「ジャンル違い」というよりも、むしろ、隙間なくみっちりと石垣を積み上げる前者の「建築性」と、ソーダの泡が弾け、クリームが散乱し、色とりどりのチョコレート・スプレーが噴出する後者の女子会的「非建築性」の極端な対比が思い浮かぶ。間を置いて打ち鳴らされるピアノに対し、興奮して「沸いた」頭の中のように、空間のあちこちから噴き出し吹き荒れる電子音のつぶやき/ざわめきが、次第に静まって、空間がたゆたいながらも見通しを取り戻す様には、「音楽」を経由しない(「音楽」へと迂回しない)音の感覚/生理のより直接的な交感を見る思いがした。コメントを求められて「二人の音がまったく混じり合っていない」ことを指摘しつつ、さらに「音が混じり合うこと自体をよいとする価値観は、日本のシーンの方がアメリカよりもはるかに強い」としたリンの指摘が心に残った。

タダマス26-59.Plug and Pray 『Evergreens』(dStream)
 Erik Hove Chamber Ensembleのスペクトル楽派の影響(応用?)だという滲み感の強い管アンサンブル、不協和というよりは色彩の不透明な濁り感をブリッジとして、Benoit DelbecqとJozef Dumoulinのデュオ「Plug and Pray」へとエレクトロ・アコースティックな「空間のたゆたい感」が引き継がれる。スリラー映画で風もないのに揺れるカーテンにも似た、実体を欠いたナイトメア的なストリングス・キーボードの閃き。突如として制御不能に陥り、どもり続け、あるいはテーブの早回しを思わせるガラクタに壊れたリズム・フィギア(多田はアメリカン・クラッカーの痙攣発作的なビートに喩えていた)を噴出させるeドラミング(電子リズムボックス)は、「響き感」の操作により、リズムの刻みだけでなく、存在自体を極端に不安定化されている。ピロビロと輪郭を溶かし、ペラペラと厚みを欠いたまま、無限/夢幻に巡り続けるフェンダー・ローズ。息苦しいほどに濃密な飽和感/デジャヴ感。プールの底に足が届かず、宙を蹴る頼りなさ/救いの無さ。
 対してキーボードもドラムもエレクトリックにささくれざらついた質感へと思いっきり針を振りながら、切れ味の良いタイトなリズムが、Kate Gentileの作品を「Plug and Pray」とはまったく異なる感触に仕立てている。地に足を着け、足早に前へ進む時間。

タダマス26-0縮小
撮影:原田正夫


 Ryosuke Hashizume Groupの演奏の2拍目が引き伸ばされて宙に浮く3拍子を「3+5+3の11拍子」と鮮やかに分析し、あるいは先に触れたように、国内シーンの「音が混じり合うこと」への称賛ぶりに対して醒めた眼差しを向け、さらには変奏により新たなフレーズを紡ぎ出すよりも、同じフレーズを繰り返す方がカッコイイとされる最近の風潮を、「フレーズを繰り出しているうちに、既視感のあるジャズ・フレーズが出てくると、そこでテンションが下がってしまう」というわかりやすい理由説明付きで的確に指摘してみせる(なるほどThe Necksがもてはやされるわけだ)など、今回のゲストであるリン・ヘイテツは、五線譜に視覚化される音高・音価中心の体系を、そのまま具現化した楽器「ピアノ」の演奏者にふさわしい資質を、如何なく発揮してみせた。

 だが私が注目したいのは、彼が今回の『タダマス26』で何度か見せた「口ごもれる資質」である。これは決して皮肉ではない。いきなり(未聴の録音も多数含まれているであろう)新譜からの抜粋音源を聴かされてコメントを求められ、まるで知らないこと、あるいは未知のものにたじろぎ、打ちのめされることが恥でもあるかのように、「ああ、彼の演奏はNYで聴きましたよ」、「メンバーとして参加している○○のことなら、友達なのでよく知っていますよ」と、話をすぐさま既知の体験や人脈関係に着地させようとする者たちがこれまで多くいた中で、彼は違っていた。そもそもインプロヴァイズド・ミュージックなのだから毎回異なるはずの演奏を、あたかも聴く前からわかっていたかのように語ることは、そこに潜む未曽有の事態に耳を不意討ちされることを最初から回避するための身振りではないのか。その点、リンは率直過ぎるほど正直に口ごもっていた。

 それはもちろん、事態が不明であったり、頭が真っ白になって途方に暮れたりしたためではあるまい。むしろ演奏の底知れぬ豊かさを確かに受け止め、そこに潜む「未曽有の事態」にしたたかに打たれながら、その一瞬に彼が受信して/注入されてしまった膨大な情報量を限られた語数でどう伝えればよいのか、懸命に高速演算しているように思われた。色とりどりのランプをけたたましく点滅させながら、なかなか回答をテープに吐き出してくれない巨大コンピューターのイメージ。

 そこに私は彼の「批評」の力を見ている。作曲性と即興演奏性が、空虚な空間に放たれる孤独な音の軌跡と「音響粘土」をこねあげる造形力が、ざわめきと沈黙が、ズレと同期が、音高・音価体系と音色の質感や音自体の強度が、「ピアノ」という異質なものの出会いをかたちづくる「解剖台」の上でせめぎ合い、相互に浸透する様を見詰めた今回の企画 ― それはピアノを俎上に載せるというより、ピアノを俎板=解剖台としたと言うべきものだった ― に、彼は実にふさわしいゲストだった。彼の「口ごもり」を受け止め続けた益子と多田を含め拍手を送りたい。

masuko x tada yotsuya tea party vol. 26: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 26
2017年7月23日(日)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:リン ヘイテツ(ピアノ奏者/作曲家)

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:28:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
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