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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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震えへの凝視 ― tamaruのエレクトリック・ベース演奏  Gazing at Quiver ― tamaru's Electric Bass Playing
 前々回に「星形の庭(津田貴司+佐藤香織)」の演奏を振り返ってレヴューしたのに続き、今回はtamaruの演奏について書いてみたい。今回のレヴューはもともと7月29日(土)に東北沢OTOOTOで行われるLes Trois Poires(津田貴司+tamaru+松本一哉)のライヴに向けて書かれる予定だったことをお断りしておく。

 まず告白しておこう。前々回のレヴューの中で触れたように、特に『松籟夜話』第六夜で360°Records特集の第一回としてtamaruを採りあげて以降、彼の演奏はLes Trois Poiresや大上流一とのデュオで何度となく聴いてきた。むしろ、意識して追いかけてきたと言っていい。そしていずれの演奏にも深く揺すぶられ、打ちのめされた。今までに体験したことのない事態が眼の前で起こっており、それが途方もなく輝かしい素晴らしいものであることは、ずきずきと身体に響く衝撃と感銘から明らかだった。にもかかわらず、それを言葉に出来ないもどかしさに苛立った。もちろん、各演奏者のアクションを書き留めたり、サウンドを形容したりすることで、演奏の推移を描写することはできる。しかし、それは単なる「事実」や「印象」の羅列に過ぎず、そこで起こっている事態の核心、すなわち「真実」に迫り得るものではなかった。分析/記述のための視点を設定できず、それゆえ掘り下げが浅く、演奏の強度を受け止め、核心を射抜く言葉を紡げないでいた。
 何か少し掴めたような気がしたのは、水道橋Ftarriでtamaruのソロを聴いた時だった(「星形の庭」の対バンでの出演)。彼のライヴ演奏を聴く以前に、彼の映像作品の上映に接した際に感じた匂いがふと甦ったような気がした。東北沢OTOOTOで聴いた大上流一のソロ演奏との間にも、素早く照応の線が走った。
 さらに吉祥寺Liltで聴いた「星形の庭」の演奏を苦労して「言語化」したことにより、tamaruの演奏の言葉にできていない、思考し得ていない部分の輪郭がほの見えた気がした。そうした感覚を梃子にして、tamaruの音世界をぐいっとたぐり寄せてみたいと思う。


 tamaruはエレクトリック・ベースを抱えると、すっと音を出す。たとえその前に長い沈黙が置かれていたとしても、間合いを計るような素振りは一切見せない。指先だけが僅かに動き、音が鳴り響く。その音はおよそ撥弦楽器の音らしくない。長く張り渡された弦が弾かれて振動する際の、弦の撓む(伸び縮みする)感覚がないのだ。
 たとえば指腹を弦に垂直に打ち付けて奏でられる音は、まるで細く硬い金属棒を叩いたように聴こえる。大型の柱時計の中に仕込まれた「棒鈴(ぼうりん)」が鳴り響かせる時報、あるいはHarry Bertoiaのつくりだした音響彫刻。素早く垂直に立ち上がる、撓みのない、固い芯を持つ音は、立ち上がりの瞬間に放たれるチェンバロに似た金属質の輝きの華やかな散乱が、響きと化して長く尾を引くとともに次第に澄み渡り、しかし決して周囲の空気に滲み沁み渡ることなく、鋭く研ぎ澄まされたサーベルの切っ先のように聴き手の身体を貫いて、振動を直接伝える。

 通常、音を空間に滲み沁み渡らせることによって得られる響きの豊かさ(それゆえそれは常に濁りと共にある)は、彼の演奏にあって、すでに振動している弦に指先で微かに触れることで生じる「さわり」に取って代わられている。ビィーンと鋭い響きが頭をもたげる。角の尖った粒子の粗さ。琵琶やシタールのそれにもちろん似てはいるが、打ちっぱなしのコンクリートに落ちる水銀灯の光を連想させる、即物的でモノクロームな冷ややかさが際立っている。それぞれ低音域と高音域のヴォリュームをコントロールする左右足元のペダルが、前者から後者へと踏み替えられ、響きを照らし出す照明が切り替わって、細部の肌理を、明暗の鋭い対比を、より鮮明に浮かび上がらせる。あるいはその逆により、面相筆のくっきりとした筆致が次第に解け、曖昧にまどろんで、やがて闇に沈む。

 弦に触れる時点ではヴォリューム・ペダルを踏み込まず、音量を絞って立ち上がりを消し、弦の振動が安定した定常状態へと移行してから、それをクローズアップし、線香の煙のように繊細にくゆらせるという奏法も聴かれる。輪郭も芯もない広がり。灯りをつけずに暗闇の中で入る露天風呂のように、ぬるい湯の柔らかく細やかなたゆたいは確かに感じられるのだが、どこまでが外でどこからが内部なのか、皮膚表面が画定するはずの境界が曖昧に溶解し、もはや定かではない。聴き手の身体を浸潤する響き。超低域の音程のよくわからない音圧が黒々と波立って膝下を揺すり、そこから頭をもたげたパルスが、ボディ・ブローのように下腹に鈍く響いてくる。
 ペダルによるアタックの消去を行わずとも、そっと弦に触れるだけで魔法のように柔らかな震えを引き起こし、さらにはそれを絶えず供給し続けることによって、音の輪郭を感じさせない丸く深い響きが放たれる。最初は奥まって聴こえていた「ぽーん」という音が、次第に大きくなり、厚みを増して「ブゥーンン」といううなりを生じたかと思うと、ついには飽和して耳元でビリビリと響き渡り、やがて静まりつつ底なしに沈んでいく。
 あるいは弦に直接触れることなく、ベースのボディを親指の腹で擦ることにより、張り渡された弦の全体を揺らし、重くくぐもった色のない響きの質感だけをつくりだす。

 こうした演奏において、聴取上の外見は電子音によるドローン・ミュージックに似ているが、その本質はまったく異なっている。むしろtamaruのつくりだす映像作品に近い。どういうことか。
 彼の映像作品については、以前にレヴューしている(※)。その特徴は、何気ない日常の光景をとらえた一見変化のない画面の中で、細部のちらつくような揺らぎが常に生成し、揺るぎなく安定しているはずの視覚のうちに潜む、さらさらとした粒子やぼんやりと浮かぶ色彩の斑紋へと瓦解していくミクロで緩慢な「運動」― それを「震え」と呼ぼう ― を、大いなる不安とともに提示することにある。彼のベース演奏にも、マテリアルな音響を取り扱いながら、それを素材として何かを構築していくというより、聴取の体験自体を掘り崩していくものである。
 ※光と影は共に闇から生まれた ―『New Year Silence』ライヴ・レヴュー
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html

 もちろん映像作品とベース演奏の間には基本的な相違がある。前者の場合、あらかじめ撮影したローファイな映像をモニタで再生し、それを改めてハイファイで再撮影することにより、システム間に生じる「誤認識」が作品制作のカギとなっていた。これに対し、後者にはそうしたシステマティックな仕掛けはない。これは映像作品が必然的に含まざるを得ない記録/再生プロセスが、ライヴ・パフォーマンスである後者には含まれていないためである。
 しかし、にもかかわらず、両者の間には重要な類似がある。「震え」への凝視がそれだ。奏法の違いにより、音が立ち上がる際の音色を特徴づける「暴れ」(ミュジーク・コンクレートの創始者ピエール・シェフェールは、音色の特徴が周波数のフーリエ解析では再現し得ない理由をここに見ていた)を際立たせるか、打ち消すかの選択が、tamaruのベース演奏で大事な役割を果たしていたことを思い出そう。また、指先による鋭く硬質な「さわり」の付加や、それと対極的な輪郭を持たず、聴き手の身体を浸潤する低音の広がりが、いずれも「震え」に対する直接的な身体感覚を呼び覚ますことを改めて確認したい。通常、触覚的な音とは、「ガサガサ」とか「カリカリ」とか、音の生み出される物体同士の接触面の摩擦を、あるいは音表面の手触りを、触感になぞらえて表現してしまう(表現せざるを得なくなる)音響を指す。しかし、tamaruのベース演奏の場合、そうした「触覚」は音響の表象を超えて、音という力の聴き手の身体への作用そのものとしてある。すなわち震えや揺れとして。そこに彼の演奏の基底面を見たい。


撮影:原田正夫


 そこから改めて見直すと、これまでとは別の景色が浮かんでくる。tamaruのベース演奏において、フレージングは常に断片的であり、変奏による発展の契機を持たない。音程が定かではない音も頻繁に用いられる。高音域と低音域に分割されたヴォリューム・ペダルを操作することで、同じ一つの鳴り響きの中から、バランスの異なる倍音配合が引き出されてくる。すなわち彼の演奏にあっては、音高の時間的配列による旋律構成と、これに基づく構築自体が重要ではないのだ。このことは調律が不要であることを意味しない。実際、彼は毎回きちんと調律を行う。基音のずれは倍音列に影響を及ぼすのだから、これは当然のことだ。
 その結果、彼の演奏は、一音一音の振動を、「震え」を、凝視し続けることの繰り返しとなる。前述のレヴューで採りあげた彼の映像作品が、同質の視点設定から、雪の舞う住宅街の道路、窓の並ぶ建物、見上げる空に張り渡された電線、公園の池で泳ぐ鯉の群れといった対象をとらえた視角の直列接続であったことを思い出そう。すなわち彼のベース演奏とは、弦の、あるいはボディ各部の異なる「震え」が、入れ替わり立ち替わり、耳による凝視の下に立ち現れることなのだ。そう言うと極めて特異な演奏と思われるかもしれないが(実際、極めて独創的なものであることは事実だ)、そうではない。そのことは、たとえばLe Quan Ninhによる水平に置かれたバスドラムの演奏、様々な音具による楽器各部の多様多彩な振動のカーニヴァルをその隣に置いてみれば明らかになるだろう。特異なのはむしろ、かつては一部用いていた音具を捨て去り、ディレイすら外して、ただただ剥き出しの「震え」だけを見詰め続ける、tamaruのストイックな集中の方である。

 これらの演奏は、実はある基本的な仕掛けと、そのことを出発点として、無駄をそぎ落とし、研ぎ澄まされた一連の演奏マナーによって成り立っている。何より、彼のエレクトリック・ベースは途轍もない高増幅度に設定されているのだ。それは決して爆音再生のためではなく、まさに「震え」を凝視するためにほかならない。通常あまり用いられない極細の弦を張り、高感度のピックアップが弦の振動を鋭敏に拾い上げる。それゆえフレットを押さえることによりその都度指定された弦長(これが基音を規定する)だけでなく、弦が三次元的にどう振動するかが重要となる。指板に対する水平・垂直のみならず、弦の張られた方向に駆け抜けていく波や渦も含めて。だから彼はまるで顕微鏡下で細胞操作を行う実験技師のように弦を取り扱う。水平に揺らし、斜めに引っかけ、垂直に打ち付け、弦に沿って指を滑らし、あるいは振動している弦に指先を、指の腹を、爪の表面を僅かに触れさせる。そうした作業/動作に向けて、身体の可能性が等しく開かれているためには、楽器と身体の関係は固定されていてはいけない(情動失禁に至るまで、演奏者の感情の起伏を「透明」に音響に反映するためには、むしろ逆で、楽器は身体に深く埋め込まれなければならない)。だから彼は肩からストラップを掛けることなく、裸のエレクトリック・ベースを抱えて、いつも演奏に臨む。特に即興演奏の場合、楽器と身体との関係を固定することは、特に即興演奏の場合、特定の傾向を固定してしまうと彼は語っている。演奏の最中に楽器を取り落としてしまう危険さえ、演奏の欠くべからざる一部なのだと。

 こうした演奏マナーの在り方は、大音量を目指し続けた撥弦楽器の歩みとはいささか異なっているむしろ息を吹きかけただけで鳴ってしまうほど細く鋭敏な弦を張り巡らし、鍵盤を揺らすことでヴィブラートすら可能だったグラヴィコードを思わせる(そうした過剰な鋭敏さは、チェンバロからピアノフォルテへの「進化」の過程で捨て去られてしまった)。Derek BaileyやJohn Buther、Michel Doneda、Le Quan Ninhをはじめ、優れた即興演奏者たちが見詰め続けた、鋭敏な「受信機」としての楽器の側面。それは演奏者の自己表出のためのパワード・スーツに徹し、大音量や安定した音色を求め続けた楽器の歴史にとっては、切除され続けた危険な「病巣」でしかない。演奏者の意図の外部にはみ出した音を「聴いて(聴き、かつ生じさせる回路を開いて)」しまうからだ。しかし、そうした外部を欠いて、意図の中だけに封じ込められた音楽は貧しいものとならざるを得ない。それ以外を切り捨て、聴こうとしない聴取もまた。tamaruをはじめ、大上流一、津田貴司、高岡大祐、徳永将豪、Satomimagaeなど、最近注目している演奏者たちが、すべてこうした傾向を共有しているのは、決して理由のないことではないだろう。


 ‥‥と、ようやく言葉の形に吐き出し得て、7月29日(土)、思いのほか強い雨に降られた夜に、いつもの水道橋Ftarriとは異なる、東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで聴いたLes Trois Poiresの演奏について書き始められるかもしれない。冒頭に記したように、Les Trois Poiresや大上流一とのデュオでtamaruの演奏を聴いていた時は、その音世界に深く魅せられながらも、言葉にはとても移せない、写し取れない正体の掴めなさに当惑していた。彼のソロを聴いて、その弦の震えを彼と共に凝視することによって、何かが垣間見えたような気がした。その時のヴィジョンをとりあえず綴ったものが本稿ということになる。もちろん、分解した各パーツがわかれば、それらを組み合わせた全体像がわかるなどというものではない。音楽とはそんなものでは決してない。しかし、それでも、書きつけた言葉が新たに照らし出すものはあるはずだ。宿便のようにとぐろを巻いた思考がやっと排泄された後の隙間に、新たに芽生える直感もあるかもしれない。ここから、弦の震えを通じて照らし出される、大上流一の演奏の在り様についても、いつか改めて書いてみたいと思う。


2017年6月25日(日)
水道橋Ftarri
星形の庭(津田貴司+佐藤香織)、tamaru



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:19:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
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