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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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災厄の街、不穏な眼差し 「タダマス33」レヴュー  Disaster City, Unrest Gaze Live Review for "TADA-MASU 33"
 私にしては早々と、4月27日(土)に開催された「タダマス33」のレポートをお届けする。これは、前々回「タダマス31」のレポートを「タダマス32」の告知記事と同時に書いて、このやり方は効率的かも‥‥と「タダマス32」のレポートを書かずに放置していたら、「タダマス33」の開催に間に合わなかったという苦い経験に基づくものである。遡ってレポートをご覧いただければわかるように、「タダマス31」自体が極めて特殊な回であって、それをどう取り扱うべきか悩み続けて書けなかった事情を、そのままルーティンとして採用しようと下ことに、そもそも無理があった(反省と懺悔)。
 それともうひとつ、今回の「タダマス」では作品と絡めてジャケットの写真が話題となり、私自身もそれに強く惹かれたことがある。今後も機会をとらえて、映像等にも着目していってほしいと思う。

 さて、いつものことながら、以下に記すのは私自身の興味関心に引き付けて再構成したリポートなので、当日の全貌を客観的に報告するものではないことを、あらかじめお断りしておく。当日のプレイリストについては、以下のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

タダマス33フライヤー縮小



 「GW効果なのか、今日はオーディオが『タダマス』始まって以来というくらい、調子がよくて‥‥」と益子が切り出す。なるほど冒頭のRuss Lossing(pf)のトリオによるPaul Motian曲集からして、ヴェールを二、三枚剥がしたかのように透明度・解像度が高い。ピアノの単音においては、鍵盤の深い沈み込みから、打たれた弦が震え、響きがたちのぼる様が眼前に浮かび、ダブルベースのピツィカートでは、弦の震えはおろか右手と左手の位置まで見えるかのようだ。今回のゲストの森重靖宗が「ベースがいいですね」と褒め、益子が「彼は日本人なんだけど、いまやNYのシーンでもマイスターとして知られています。日本では全然知られていないんだけど」と応じた通り、引き締まった静けさを帯びながら、ゴリッと深く音を刻んでいくMasa Kamaguchiが素晴らしい。一方、ピアノの描くラインの浅薄で詰まらないこと。これまた多田が「あらかじめわかっている最適解を並べているだけで、少しも発火しない」と言う通り。
 続いてもMats Eilertsen(b)、Thomas Stronen(dr)を含むピアノ・トリオ。ECM録音だけあって残響成分が多い。ピアノ弦もベース弦も見えない。一定の距離を離れ、細部を注視せず、トリオ全体を見込む録音。益子が録音場所である教会の中のステージの写真を示し、セパレーションを立てずに演奏していることを説明する。一音一音の打鍵を際立たせずなだらかに連ねていくピアノ、ゴングやグランカッサ(大太鼓)を多用するドラム、フラジオによるのだろうか胡弓を低音にシフトさせたような音色を紡ぐアルコ・ベースが一体となって、豊かな倍音を雲の如く湧き立たせる。
 再生音の良さに思わず見開いた耳も、音楽的内容の乏しさにいささか醒めてくる。結局、前半はさしたる収穫なし(ニューエイジ、ヒーリング・ミュージックまがいの音源もあった。なぜ選ばれたのだろう)。しかし、後半は打って変わって充実ぶりを見せる。


タダマス33-1Tom Rainey Trio『Combobulated』
Intakt Records Intakt CD 316
Ingrid Laubrock(tenor & soprano saxophones)
Mary Halvorson(electric guitar)
Tom Rainey(drums)
 4作目にして初のライヴとのことだが、「トリオの第四のメンバー」とTom Raineyも認めるDavid Tornが編集を担当しているとのこと。私には彼がかなり手を入れているように感じられた。
 最初にかけられたtr.2では、ライヴ演奏特有のバンドが一体化して盛り上がる「ノリ」が、注意深く遠ざけられている(あえてそうしたトラックを選んでいるのかもしれないが)。ドラムの打音から飛び散る火花に響きが広がって、サックスのか細い息漏れのリフ、セルロイドっぽい柔らかく半透明の歪みをたたえたギターの遠い弦鳴りと、互いに互いを映し出しあう。一定の速度を三者の共通の軸線としてキープしながら、誰もそれに直接合わせようとせず、寄せたり離れたり遅れたり進んだりを繰り返しながら軸線の周囲を旋回し続け、これにより軸線を、ビル中央部分の配管スペースのような全き「空虚」として、冷え冷えと浮かび上がらせる。この場面など、たまたまそのような事態が生じていた部分、普通のロック・バンドのライヴ・アルバムなら編集段階で切り捨てられてしまう箇所をあえて拾い、切り出したものなのだろうか。それともTornが三者の演奏を別々の場面から切り出して貼り合わせ、再構築したものなのだろうか。
 続くtr.4においても、ギターの刻みが輻輳し、サックスの微視的な崩しや分岐と交錯していく。その不均衡感やギザギザした破片の危うい組み立て感覚は、かつてRock in Oppositionの一員として活躍したベルギーのグループAksak Maboulを思わせる。危うく傾きながらも二人が細やかに絡み合い支え合っている状態から、片方がぱっと消え、残されたもう片方が大きくバランスを崩しながら、それでも倒れずに疾走を続ける場面とか。


タダマス33-2Watussi『Stargazers』
Klein 09
Joachim Badenhorst(clarinet,bass clarinet,tenor saxophone,voice,field recordings)
Ingrid Schmoliner(piano)
Pascal Niggenkemper(double bass,bells)
 「タダマス」の常連Joachim Badenhorstによるトリオ。彼の自主レーベルからのリリースで、相変わらずパッケージが妙に凝っている。「普通に棚に収まらないので、管理が大変だ」と益子がこぼしていた。
 ピアノの何気ない一音がそのまま引き伸ばされ、e-bowによる持続音へと変移し、そこに様々な断片が振りかけられる。ひそひそ声を転写したリードの振動、かすれたヴォイス、電動ファンによるピアノ弦への軽やかな連打、オルガンに似た波動(木管の多重録音によるのだろうか)、バス・クラリネットのノンブレス・リフが運んでくるムビラを思わせるプリミティヴな音色のリズム‥‥。冒頭のピアノの音は、後から重ねられた音に埋もれ消えたかと思うと、ずっと鳴り続けている。その都度その都度、そこに響いているサウンドが互いに結び合って、あるかたち/パターンを束の間生み出すが、不安定で続かず、すぐに解けてしまう。12分強のトラックは、勝手気まま、思いつくままに構成されているようでいて、不穏な振動がシミのように広がって全体を覆い尽くすラストまで、辛抱強く脈絡を保ち続ける。これは見事な達成だ。
 Badenhorstは一方で職人的技芸によりアンサンブルを支え、他方、自身の作品では特異な想像力をはばたかせる。周囲の環境音に侵食されて消え入ってしまうような「心霊写真」的ソロや、いにしえのヒッピー・コミューンを思わせる夢見るようなゆるゆるのフォーク・ソング等が思い浮かぶが、いずれも職人的技芸を支えるプレイヤーシップ、ミュージシャンシップの頸木を脱したところで、言わばノン・ミュージシャン的に制作されている点に注目したい。いつもやり過ぎのパッケージの意匠にしても、アーティスト的というより、親しい友人へのサプライズといったプライヴェートな感覚、アマチュア性を強く感じる。本作も歴史上に類似物を探せば、1970年代ドイツ等で盛んに試みられた、ごくごく私的な、それゆえ静かで深い狂気を宿したテープワークあたりが浮かぶのではなかろうか。


タダマス33-3RJ Miller Trio『RJ Miller Trio』
Apohadion Records
Dave Noyes(trombone,bells,keyboards,synthesizer),
Pat Corrigan(timpani,vibraphone,amplified birdvage,toys,junk),
RJ Miller(drums,samples,keyboards,bells)
 本日のハイライト。前作も音が中空に像を結び、天井に反射したかげがおぼろに映るような、こわれやすく繊細な構築ぶりに惹かれたが、淡い感触ゆえに強い印象は残らなかった。対して本作は強烈な衝撃を聴き手の身体に刻み付ける。
 圧倒的な密度/強度と全体として映像のサウンドトラック風の展開は、「タダマス30」で紹介されたRafiq Bhatia『Breaking English』を思わせるところがある。「タダマス30」に対する拙レヴューから、同作品に関する部分を抜粋して以下に示しておこう。

 会場では肯定的に受け入れられていたRafiq Bhatia『Breaking English』だが、私にはかなりの問題作と感じられた。先に触れたように、その重厚な構築ぶりは見事と言うほかはない。重層的に重なり合う音塊が上空を制圧するように旋回し、音圧の波状攻撃を仕掛けてくる。ゴリッとした硬い角のあるベースをはじめ、たとえサウンドが飽和/充満に至る時であっても、個々の音は積み重なる音響の地層のうちに埋もれてしまうことなく、尖ったエッジを失わない。むしろ、ざらっとした粒子の荒れや粗さを活かした感触と言えるだろうか。ここで私は初期の中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」写真やスピルバーグ「プライヴェート・ライアン」の脱色されたコマ落とし映像の緊迫した不安を思い浮かべている。
 サウンドの造り込みの完成度と壮大なスケールの広がり、ドラマティックな展開力は、ハンス・ジマー、ジェームズ・ホーナーといった映画音楽作曲の手練れにも決して引けを取るまい。‥‥と、これだけベタ誉めしておいて、何を問題視しているのかと言えば、まさにその映画のサウンドトラック的な「完成度」にほかならない。ポスト・クラシカル人脈からの参加を仰ぎ、ポスト・プロダクションを尽して仕上げられたであろう作品は、「これしかない」という揺るぎない決定稿に至っている。詰め込まれた圧倒的な情報量に比して、極端に圧縮され切り詰められた短さもまた、そのことを証し立てている。当初の演奏段階ではふんだんに盛り込まれていたであろう即興的な展開、ああも行ける、こうも行けるという無限のヴァリエーション感覚は、あくまでも素材の1ピースへと貶められている。たとえ綿密なフライト・プランを描いたとしても、飛び立ってしまえば、後は常に眼に見えぬ気流や気団と繊細に対話し続けなければならない「飛行」の感覚が、持続の震えを、この演奏から感じ取ることはできない。と同時に、偶然や失敗を受け入れて、それをその瞬間以前には思いつきもしなかった新たな局面へのジャンピング・ボードとするしなやかな冒険心もまた。かつてそうした気概に溢れていたプログレッシヴ・ロックの残党が、CMやヴィデオのための音楽を作り始めた際と同じく、どこか饐えたような頽廃の匂いがしないだろうか。Rafiq Bhatia『Breaking English』は、いわばエッジを研ぎ澄まし、角を尖らせたアディエマスではないのか。
 ジャズが果敢に自らを更新することにより生き延び、「ジャズとは似ても似つかない新たな『ジャズ』」へと変貌を遂げていくとしたら、そこで途切れなく持続している「ジャズなるもの」、あるいは「ジャズの創造性」とは、ジャズ固有のフレージングやスタイルでも、サクソフォンのヴォイスでも、ブラックネスでもなく、こうしたリアルタイムの飛行感覚ではないか‥‥、私はそう考えている(だから「ジャズの新たな章」とは、いつまでたっても自己を更新できない旧来のジャズの、延命のためにだらだらと書き継がれ続ける「続編」でしかないとも)。とすれば、本作品はジャズの「未来」にとって危険な「寄り道」となるように思う。

 『RJ Miller Trio』もまた濃密な音群を操作する。電子音による黒く厚い雲のたなびき、その只中から浮かんでは消える細部の不安定な移ろい、シーケンサーのベース・リズム、呼吸音のコラージュ、パチパチと爆ぜる針音、ドラム・ストローク、ディレイを深くかけられたエレクトリック・ピアノの強迫的自己反復‥‥。音群の多様な移り変わりにもかかわらず、全体を覆う黒々とした濃度/密度は切断を許さない。すべての作業はそこから逃れることのできない強力な重力圏の下で行われ、外へと放出される音響はすべて深い淵から届けられる呻き声のようだ。
 『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』の大きな違いは、確定した最適解あるいは一般解を差し出す後者に対し、前者はどこまでも手探りで揺らぎブレ続けることにある。どちらがより深く掘り進んでいるかと言えば前者だろう。にもかかわらず、後者と異なり、前者は一向に底にたどり着く気配を見せない。暗闇の中、盲いて掘り進む前方におぼろげに光景が浮かび、視界が開けたかと懸命に掘り進むと、いつの間にか景色は消え失せ、また別のところにふと浮かび上がり、そこに向けて必死で掘り進むと‥‥以下繰り返し。そう、ここで「景色」の在りようは「地」となる音響平面へのスーパーインポーズではなく、厚い雲の切れ目から、束の間、下界の様子が垣間見える‥‥といった感覚である。覆いが取られ、幕がめくられて、中身が明らかとなる。
「タダマス33」当日のやりとりの中で、ホストの多田から突然コメントを求められた際に「都市のフィールドレコーディングみたいに聴こえる」と思わず答えたのは、こうした異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくるにもかかわらず、全体像が一向に明らかにならない事態をとらえてのことだった。当日は説明が足りず、伝わらなかったかもしれないので、ここでは補足しておきたい。暗い混沌の中から闇が晴れ情景が浮かび上がる様はGilles Aubryによるカイロの市街のフィールドレコーディングを、異なる断片が次々に浮かぶ構成は同様にChristina Kubischによるカメルーンのサウンド・スナップショットを、耳の視界すべてが切り替わるのではなく、その一部が望遠鏡の視界で切り取られたように推移し、焦点が合わされた箇所の物音が拡大されて現れる様は、Lucio Capeceがボール紙製のチューブとマイクロフォンを気球に仕掛けたフィールドレコーディングを、それぞれ連想させたのだった。
 『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』のもうひとつの際立った違いは、実は映像の強度にある。この点については長くなるので補論として別に取り扱うこととしよう。
 後半5枚中、今回採りあげた3枚が特に強力だったため、残る2枚Human Feel『Gold』、Anna Webber『Clockwise』については触れなかったが、これらも水準以上の出来だった。
次回「タダマス34」(次は7月か)に期待したい。

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【補論】 『RJ Miller Trio』に付された岡田敏宏(Black Opal)の写真について
 『RJ Miller Trio』のジャケット写真を益子が「just arrived」としてFacebookに掲げた時には、それほど惹かれたわけではなかった。ごちゃごちゃした市街を見下ろす位置から、シルエットの腕が伸び、彼方を指差している。それがどこだかは全くわからなかったが、何となく戦乱に襲われた都市のドキュメンタル・フォトのような気がした。その構図から、Josef Koudelkaによる「プラハの春」をとらえた写真がふと浮かんだからかもしれない。

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 しかし、「タダマス33」当日に益子が掲げたLPジャケットの写真は、予想を超えてはるかに禍々しい気を放っていた。この写真は岡田敏宏という日本人写真家により撮影されたもので、ジャケット内に収められた同寸法のブックレットには、やはり禍々しい気を放つモノクロ写真が2〜3点、ジャケット大で掲載されていた。

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 『RJ Miller Trio』に収められた音響に対し、「全貌の定かでない都市の異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくる」との印象を抱いたのは、この写真の影響が大きい。どこかはわからない高みから、暗がりに潜んだまま、眼下に広がる災厄の街に望遠鏡を向け、終わりなく窃視を続ける‥‥。しかし、そこに浮かぶ感情は優越でも、愉悦でも、歓喜でも、興奮でもなく、ただひたすら不安であるような気がした。
 益子の説明によれば、日本でも一冊写真集が出ており、他に国外でも写真集が出版されているが、少なくとも国内ではあまり知られてはいないようだ。国内で出版された写真集を入手したが、そこに掲載されている写真には『RJ Miller Trio』に収められている作品ほどの凄みはない。写真集は少し前のもので、こちらの方がより新しい作品ではないか。Black Opalの名前でブログやflickrで写真を発表しているので、興味のある方は見てほしい‥‥と。その場で回覧された写真集を見ると、確かにいささか既視感が漂う。「ネットでは森山大道のエピゴーネンと貶める意見もあった」とのことだが、「アレ・ブレ・ボケ」的な手法によるストリート・スナップが多いのは確かだった。しかし、そこに森山の多くの作品に伴う「打ち捨てられたものへの親愛の情」はなく、むしろ初期の中平卓馬や『太陽の鉛筆』など東松照明の沖縄を題材とした写真を思わせる突き放した視線があった。そしてそこにはやはり湧き上がる不安が怨念のように貼り付いていた。

【注記】2019/05/03
 上記本文中にの「『ネットでは森山大道のエピゴーネンと貶める意見もあった』とのことだが」との箇所(発話者を示していないが、これは「タダマス」ホストの多田雅範の当日の発言である)について、「タダマス」ホストの益子博之より、「「森山大道のエピゴーネン」というのは例によって多田さんの思い込みで、実際には「中平卓馬の〜」と言われていたようです。」との指摘を受けた。しかし、本文をご覧いただければわかるように、私は森山、中平に加え、沖縄を撮る東松照明との類似に触れた上で、RJ Miller Trioで使われた写真を、中平たちとは明らかに違った資質を現したものとして評価している。それゆえ、当日の多田の発言内容の誤りにもかかわらず、本文の論旨は全く変わることがない。‥‥ということで、この注記を加えるに止め、本文自体の修正は行わないこととしたい。

 益子から岡田のflickrのリンクが送られてきたので、早速見てみる。強烈。モノクロの画面は、湿ったまま保存したことにより黴や滲みや汚れで黒ずんだようにも、あるいは感光し退色したり、漂白されたようにも見え、至るところで明暗が逆転している。「アレ・ブレ・ボケ」のうちには、特に森山大道の作品など、ノー・ファインダーでのフレーミングのズレや手ブレを「運動感覚」として提示するものがあるが、岡田の作品にそうした「瞬間の視覚」や撮影者の身体の動きを連想させるところはまったくない。むしろ瞬間の一瞥にしろ、長時間の凝視にしろ、そうした身体時間の経過をいっさい感じさせない映像となっている。何やらSF調の物言いとなるが、脳内情報をスキャンし、意識下の映像をサルヴェージしたら、このようなものになるのではないか。いつどこで入り込み、いつからそこにあるのか、出所も来歴も不明の、宛てどころのない贈与/負債としての「不幸の手紙」。それこそ映画『リング』に出てくる「呪いのヴィデオ」の映像である。
 至るところ影が映り込み、輪郭は溶け出し、明暗は逆転し、水平は傾き、遠近は歪んでいる。これらの特徴は確かに所謂「アレ・ブレ・ボケ」作品にも見られる。しかし、一番の相違点は、「アレ・ブレ・ボケ」作品が、これらの写真本来の特質をあえて手放すことにより手に入れた、強烈な造形感覚による瞬間把持が、岡田の作品には見られないことだ(たとえば初期の中平の写真も大きな不安をたたえているが、この造形感覚ゆえに、個人的不安ではなく、より普遍化され、「滅亡への予兆」といった幻視者/預言者的な強度を帯びることになる)。代わりにあるのは、先に見た経年による風化/摩耗であり、それがもたらす疫病のように恐ろしい不安である。
 ロラン・バルトが『明るい部屋』で幸せな追憶に浸るように、個人的な記憶と互いに支え合うべき写真=映像記録は、だが岡田の作品にあっては、時間経過の中で変容を止めることが出来ず、色褪せ崩壊していく。一方、健常者にも日常幾らでも起こり得る錯視や幻視がもたらす不可解な映像、通常なら無視され、スキップされ、認知にも記憶にも残らず「なかったこと」にされてしまう映像が、核廃棄物や胎内に採り込まれた有機水銀のように、処理/排出できぬまま蓄積され続ける。そして夢や記憶退行によるサルヴェージ、あるいは突然のフラッシュバックにより、脳裏に眼前によみがえる。
 そのように突然脳内に現れるのではなく、写真集のページをめくり、ウェブページをスクロールしながら出会うのであっても、充分に不安神経症を引き起こせるだけの負のエナジー、怨念や呪いを、岡田の写真は帯びているように思われる。作品をとらえた視線がフリーズし、眼を離し顔をそむけたいのに、接続を解除できず引き込まれてしまう感覚。デカルコマニーによって作成されたロールシャッハ・テストの、それ自体では意味をなさない不定形の文様が、統合失調症発症のきっかけとなり得る侵襲性を有しているように。

タダマス33-5縮小


 岡田敏宏の作品については、以下のURLを参照していただきたい。

■flickr:black opal_2005
 https://www.flickr.com/photos/48049017@N03/

■ブログ:black opal 記憶の断片
 https://blog.goo.ne.jp/blackopal_2005

■岡田敏宏写真集『記憶の断片』
 http://qumuran.com/記憶の断片/
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:05:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
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