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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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声/息の白い靄の中で −−−− 2022/01/03鈴木+増渕+津田@Permian ライヴ・レヴュー In the Mist of Voices / Breaths −−−− Live Review of Ayami Suzuki, Takashi Masubuchi, Takashi Tsuda@ Permian, 3rd Jan.2022

 撮影:原田正夫

1.前半
 空調が止められ、客席の明かりが消されると、すっと沈黙が張り詰める。鈴木は眼を閉じ、唇を少しだけ開いている。増渕が一音だけ発する。硬質の澄み切った響きが空間に広がっていく。二人は動こうとしない。増渕の右指も弦に触れていながら次の音を放とうとしない。先の音が消え去った後、しばらくして二音目が放たれると、すぐに津田のかすれた弓弾きが後を追う。鈴木はぴくりとも動かない。二人の絞り込んだやりとりに客席の衣擦れが混じり、階上で椅子を引きずる音がかぶさって、それが止むと別の持続音が微かに鳴っていると気づく。鈴木の様子にまったく変わりはなく、耳の視線を巡らすうちに、持続音はわずかずつ音高をすり上げ、さわさわとした息の触覚を明らかにし始める。それは「声」なのだ。改めて鈴木を注視するが、閉じられた眼にも唇にも変化は見られない。声は口元から発せられるというより、彼女の身体からたちのぼっているかのようだ。持続音が途絶え、今度は低く短く、より「身」の入った声が放たれる。津田の弓弾きがすっと寄り添う。

 母音成分が増えて、より「声」らしくなると、語の響きをまねびつつも言葉として聞き取れないために、高橋悠治「畝火山」で沢井一恵が聴かせた巫女のつぶやきにも似た、どこか呪的な色合いを帯びる。声にかかる重力を感じ取りつつ、意志の力で浮遊を続ける身体。津田の弓弾きの線が能う限り細くなり、代わって息が響きを増していくが、その行方は空間に沁み込むようで、声の輪郭を際立たせようとはしない。
 増渕の音数が増えてアルペジオ的になり、津田もしばらく弓で弦を苛んでからゴム球に持ち替え、トレモロを重ねてドローンをかたちづくる。厚みを増した響きを踏まえ、声もまた抑えた平らかさを離れ、メロディのかけらを端々に響かせるようになる。かつて彼女が学び、ダブリン滞在時に披露したというケルト民謡を思わせる音の動きも姿を見せるが、声は節を回さず、息のさわりを手放そうとしない。再び低い溜息を思わせる息音が長くゆったりと引き伸ばされる。わずかに開かれたまま動かない口元から、エクトプラズムの白い靄が脱け出ていくように。

 次第に濃度を増していく「うた」への傾斜をとらえて、津田によるギターの弓弾きは古楽器プサルテリオンの光沢を帯びた響きからチェロのフラジオの系を散策し、増渕はギターにカポタストを取り付けて、さらに端正にアルペジオやトレモロを編み上げる。声もまたそうした気配をとらえて、よりメロディアスな起伏を帯びるが、たとえ一節のメロディが浮かぶ時でも、それを朗々と歌い上げはしない。フレーズの終わりで一瞬のうちに脱力し、身体の構えをふっと崩して、掻き消えるように素早く低域に移動する様。あるいはギターの弓弾きが登り詰めた一番高いところから、身を躍らせるより速く、ほとんど瞬間移動するようにグラウンド・レヴェルへと移行する動き。

 撮影:原田正夫


2.後半
 鈴木はマイクロフォンを手にしていた。もともと演奏スペース中央に置かれたテーブルの上には、BOSSのループ・ステーションをはじめ、各種エフェクターやミキサー類が整然と並べられていた(終演後に確認したところ、ヴォイスによるソロ・インプロヴィゼーション用のセッティングだとのこと)。
 だが演奏の口火を切ったのは増渕だった。研ぎ澄まされた一音を放ち、すぐさまハーモニクスで自らの後を追う。だが、鈴木がマイクロフォンやエレクトロニクスをどう使うかが気になるのだろうか、それ以上、音を出さない。津田もまた音を出そうとしない。不意に訪れた沈黙の中、微かに声が聴こえた気がする。増渕が間を空けながら音を放ち、津田がほとんど音にならない弓弾きを始めても、暗い木目に光の加減でふと浮かび上がる文様のように、声の気配が現れては消え失せる。先の生声よりももっとひそやかな、振り返っても誰もいない、思い過ごしとも感じられる響きの痕跡(ここで私はMark Hollisの作品に現れる幻聴のような木管の取り扱いを思い出していた)。マイクロフォンを通すことでわずかにエフェクトがかかっているのか、合唱に似た揺らめきが靄のように薄く広がり、さらに遠ざかりながら自らを反復する。ハーモニクスを連ね幽玄に遊ぶ増渕と、指板上の弓弾きで細く甲高い呼び子を思わせる軋みを聴かせた後、リヴァーブを効かせてひたひたと満ちてくる津田が、白い息靄のうちでひとつに溶け合う。

 津田が細い六角レンチで弦を擦り鈍色をした金属質のドローンへ向かうと、増渕もカポタストを取り付けペンタトニックを探り、鈴木もエフェクトによりふるふると揺らぐ声とマイクロフォンを通さないささやきを対比させる。細い針金で弦にプリペアドを施し、さらに歪ませていく津田(壊れたハープを奏でるようなストローク)に対し、アコースティック・ギターの音色は和様の音階と相俟って雅とも言える「やわらかさ」をつくりだす。声はどこかナースリー・ライムを思わせるフレーズで後者へと傾く。吐息のかすれ、鼻にかかった甘美さ……、金属の打撃音が突然響き渡り、甘やかなたゆたいを切り裂く。津田が床に六角レンチを落としたのだ。もし「手を滑らせる才能」というものがあるとすれば、彼こそはその持ち主にほかなるまい。それほどに絶妙なタイミングだった。まどろみを誘う重く暖かな毛布をはねのけ、金属的な喧噪の中で、声は「強さ」の方へ歩み出す。

 声が一時の高揚からゆったりとした深さへと転じると、物悲しく移ろうような情感が表情に色濃く浮かび上がる。高音域に漂い長い尾をくゆらして旋回する、すすり泣くようなhaunted voice。死を告げるアイルランドの妖精バンシーが思い浮かぶのは、彼の地で学んだという先入観の故だろうか。一方、低音域での声の紡ぎ方は南島のそれを思わせ、地理的にかけ離れた連想は決して矛盾を際立たせることなく、声のゆるやかな手触りの中にそれぞれの居場所を見出す。増渕は眩しさを抑えた端正な爪弾きで、津田はハーディ・ガーディに似た倍音豊かな音色の弓弾きで、すでにほぼ定型の繰り返しの中に身を置き、コーダの準備を整えている。

 撮影:原田正夫


2022年1月3日(月) 14時〜
不動前Permian
鈴木彩文(voice,electronics)、増渕顕史(acoustic guitar)、津田貴司(bowed electric guitar)


【付記1】
 今回の編成は、私にとって増渕と津田のデュオに初めて聴く鈴木が加わったトリオであり、一方、増渕と鈴木はすでにデュオで演奏したことがあるというから、そこに新たに津田が呼ばれて出来あがったトリオでもある。関係性のあり方が限定される(それが強みでもある)デュオに対し、トリオにおいては、各自のポジションの取り方によって、関係性が次々と柔軟に変化することに改めて気づかされたライヴだった。
 鈴木に関する記述が他の二人に比べ厚いのは、もちろん初めて聴くがゆえに、その動向に視線が集中したとこともあるけれども、彼女の「耳のよさ」に驚かされたことが大きい。私のような聴くだけの人間が、ミュージシャンに対して「耳がいい」などと言うのはいささか失礼な話だが、もちろんそれは単に音感が優れているなどということではない。ひとつには音高以外の音要素、とりわけそこに含まれるノイズ成分に対する触覚的な鋭敏さがある。この眼差しが自身の声における息の手触りの繊細なコントロールを可能にしていよう。ここで思い出されるのは、「星形の庭」の佐藤香織(林香織)を初めて聴いた時のことだ(当時の「星形の庭」は、まだ津田とのデュオ編成だった)。アコーディオン演奏において、リードを鳴らさずに空気を抜く無声音や蛇腹を伸縮させる際のパチパチという微細なノイズを取り扱う手つきに、やはり飛び切りの「耳のよさ」を感じた。
 もうひとつには、「聴くこと」への集中の深さが挙げられよう。フリー・インプロヴィゼーションにおいては、「聴くこと」を最初から棚上げし、ただひたすら手足をジタバタ動かして、即興演奏を身体の闇雲な運動、反射的な身ぶりの連鎖に解消してしまおうとする傾向がまま見られる。とりわけヴォイス演奏には多いように思われる。もちろん、私たちにとって声や息は、楽器演奏よりもはるかに根源的かつ原初的な音の発し方である以上、そこに強い身ぶり性が伴うのは当然かつ不可避ではあるが、だからといって即興演奏を身ぶりに解消できはしない。その点、彼女の「聴くこと」への集中の深さは素晴らしかった。それは自身を取り巻く環境で(と同時に自らの内部で)何が起こっているかを鋭敏に感じ取ることであり、またそれに的確に対応することにほかならない。すなわち、一方では皮膚を薄く多孔質にして内外を通わせ、ほんのわずかな空気の動きも敏感にとらえる「箔」と化すことであり、他方では自らの身体の逃れられない鈍重さ(重さ、大きさ、動かなさ)と向き合うことである。今回、優れた即興演奏者かつ聴き手である二人とトリオで演奏して、適切なポジションを取り続けられたことは、彼女の能力の高さ、可能性の大きさを明らかにしていよう。絶え間なく表情を変え続ける音の流れに棹さすために、サウンド・ループによる構築を用いず、エフェクターの使用もごく一部のみに絞り込み、ミクロな局面を注視する眼差しに応えたのも効果的だった。
 もちろん、もう一歩踏み込んでほしい瞬間がないわけではなかったが、それは確実に「伸びしろ」があることの証左にほかなるまい。次回の演奏に期待したい。

【付記2】
 鈴木ばかりに話が集中してしまったが、増渕、津田の二人は、ともに昨年、私撰年間ベスト入りが確実な素晴らしい出来のCDをリリースしている。末尾ながら、とりあえずタイトルだけでも記しておきたい。なお、両作品に共通して参加しているtamaru(現在は溜終一致 tamaru shoe-witch名で活動)にも注目のこと。
  tamaru + masubuchi // cracked touches (self-released)
  TAMARU + TAKASHI TSUDA + KAZUYA MATSUMOTO // Amorphous(PNdB-atelier TTM001)
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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:34:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
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