比類なき集中が照らし出す跳躍の瞬間 ―― 大上流一デュオ・シリーズ(石川高、灰野敬二)@Permianライヴ・レヴュー Leaping Moments Illuminated by Incomparable Concentration ―― Live Review of Ryuichi Daijo Duo Series (Ko Ishikawa, Keiji Haino) @ Permian
2022-08-02 Tue
1.石川高+大上流一@Permian2022年3月19日、この日の東京の天候は夕方から雨。かなりの降りで風も強い。Permianは地下にあるから、入口のドアさえ閉めてしまえば外の雨や風の音は気にならないが、その分、隔離され閉ざされた感触は強まる。眼前の音への集中が否が応でも高まらざるを得ない。
左手側に笙の石川、右手側にアコースティック・ギターの大上。いずれも椅子に腰掛けている。演奏は身構える間もなく、すっと同時に始まった。強く息を吹き込まれた笙が音色を移り変わらせながら強弱の弧を描き、ギターは琵琶を思わせる鉈のように重い音色で、同一音高の連続や二・三個の音を繰り返しながら、音色をさらに研ぎ澄まし、一音を深く彫り刻んでいく。
ふーっと寄せては鮮やかに切り返していた笙が、息を抑えて起伏をなくし、あえて弱音による平坦さを選んで、音を水平に伸ばし続けると、ギターは同じく音高を限定してフレーズやリズムへの展開を抑制しつつ、手首をひねって弦をピッキングすることにより、音の立ち上がりに不定形に歪んだアクセントを付け加える。笙本来の「寄せては返す」息づきを殺し、鏡のように磨き上げられた白く輝く平面に、不思議な形の岩がぽつりぽつりと配されていく。
ふっと笙の音が止むとギターがアルペジオに転じ、その後も提示したフレーズやコードをすぐさま鋭く切断し、ダイナミックな跳躍を繰り返しながら「不在」を支える。石川は手元に置いた電熱器の上に笙を転がし、楽器内にたまった湿気を取っている。
再び笙が弱音から始め、ギターが左手指でミュートした弦を搔き鳴らすと、「ルルルルルル‥‥」とあるはずのないリードを震わせるような聴いたことのない音色が吹き鳴らされたかと思うと、すぐに止んでしまう。再びギターが切断と跳躍を繰り返し、「不在」を支える。今度は演奏のフィールドをフレーズやリズムのグラウンドからさらに深め、ピックでの弦の擦りやミュートした弦へのアクト等、よりミクロな「振動」の領野へと移している。大上が静かに、また繊細にダイナミックな跳躍を繰り返す間、石川は電熱器の上で転がす笙だけを見詰めている。先ほどは湿気がまだ取りきれていなかったのだろうか。今度の離脱はずいぶん長く続いている。
捧げ持たれた笙の空間に溶け入る微かな鳴りが、ルルルルルル‥‥という明確な響きへと羽撃き、さらにハーモニクスが加わる。タンギングを駆使しているのだろうか、短く切り取られた吹き鳴らしが断続的に破裂する。ケーンとパンパイプを合わせたような音色から電子音と聴き紛うサウンドへの移り変わり。ギターは音数を減らし、空間を広く保って、笙の音色変化を照らし出して、より静寂へと近づきながら緊張を高める。
さらに笙の音が高まり、ちっぽけな球体の中でひしめき合う息の「戦闘状態」を周囲に拡大投影する。幾つにも分岐した気の流れがぶつかり合い、渦を巻いて、林立する管を揺すぶってノイジーな悲鳴を上げさせながら、さらにモジュレーションをかけ音色をねじ切るように歪めていく。ギターが激しく搔き鳴らされ、射出された倍音が四方八方に飛び散って、充満する重たい音の雲を鋭く切り裂く。金属質のアクが分離し、雲がいささか薄らいだかと思うと、首を切られても甦るヒュドラの如く、またぞろ頭をもたげてくる。ギターは音数を保ったまま、弦をミュートし、音量をだんだんと絞っていく。ギターの音が遠ざかるのを確かめながら、立ちこめていた笙による充満も次第に解け、すーっと温度を下げるように最弱音に至る。
ここでサウンド間に繰り広げられている「交通」は、通常の即興演奏よりもはるかなミクロな次元で為されており、時にそれを超えて潜在性の次元へと進入していく。
振り下ろされるピックと弦の衝突がまず光として炸裂し、すでに鳴り響いている笙の未だ現象化していなかった様態を閃光の下に照らし出しながら、三方の壁や天井に激しく衝突して、砕け散る残響の中、高次倍音に至る幅広いスペクトルがさらに飴のように引き伸ばされ、明滅を繰り返しながら透き通っていく。ここで照らし出される「笙の未だ現象化していなかった様態」とは、通常、安定した持続=ドローンととらえられる笙の均質で定常的な音の層のうちに潜む響きの濃度の勾配、加速する部分と減速する部分が入り混じってつくりだす局所的な圧縮や伸張さらには褶曲や断層、吹き込まれた息が複数に枝分かれした乱流が絡まり合ってつくりだすパルスの網状組織等にほかならない。
通常の楽器演奏の範疇では具現化されず潜在的なままとどまっているもの、たとえ束の間顕在化したとしても、笙=持続/ギター=瞬間という対比が固定観念により覆い隠され見えないままになってしまうものに、目映い光が照射され、白日の下に引き出される。一見、透明に溶け合う倍音と残響の希薄な広がりには、早朝の蒼い光にも似たざわめきが満ち満ちている。
休憩後の2セット目でもやはり、笙の強奏時に本来の端正な響きがぐーっと傾き、モジュレーションをかけられたように押しつぶされ歪む様が聴かれた(後で尋ねたら、やはり本来の雅楽ではあり得ない吹き方のようだ)。また、ギターがアブストラクトな(「非イディオム的な」と言うべきか)フレーズにとどまらず、スライド・ギターを含むブルースの語法を用いる場面を聴くこともできた。
その2セット目の最後、二人とももう音を出すのは止めていて、笙を口元から離し、右手を弦から外して、演奏の終了を確認するために二人が視線を合わせた時、大上の頬は緊張から解き放たれて安堵に緩み、口角が少し上がって満足そうな笑みをたたえており、一方、石川はぷっと噴き出し笑い出して、大上も釣られて微笑んだ。共に会心の演奏だったのだろう。それは聴いていた私たちにもよくわかっていた。
ギターの倍音が凄かったと石川が語り出し、盛んに頷く聴衆をよそに、ギターの胴の板が厚めなのでよく響くのではないかと大上が応える。そう言えば、前回のPermianでの共演ライヴでは、確か座る位置が今回と逆でしたねと口を挿むと、そうなんだ、あっち(客席から向かって左側)の方が響きが素直で、こっちの方が音が反射してあっちこっち行く感じなんだよね、なんで今回は石川さんにあっちに座ってもらって‥‥と大上が説明する。「狙い」とか「目論み」とまでは行かなくとも、そうした「伏線」はやはりあったのだなと独りごちた。
その後、演奏の相性という話になり、二人とも「このデュオでは、ソロよりも遠くに行ける気がする」と話してくれた。そこで「相性」とは何だろうか。もちろん人間関係に尽きるものではあるまい。あえて説明の愚を犯すならば、「自分一人では見ることの出来ない自分が引き出され見えてくる」ような関係とでも言えばよいだろうか。ここに掲げたレヴュー文で言えば、「サウンド間に繰り広げられている「交通」は、通常の即興演奏よりもはるかなミクロな次元で為されており、時にそれを超えて潜在性の次元へと進入していく」ことが、今回のライヴにおけるその内実と考える次第である。
2.灰野敬二+大上流一@Permian
上記ライヴのちょうど一週間後の2022年3月26日、この日のPermianは予約で満席となり、通常のひな段への固定椅子以外に前方に補助椅子が並べられた。客席から向かって左側にガット・ギターを抱えた灰野、右側に大上用の椅子。
開演前に、わざわざ大阪から来たという聴き手が友人に「灰野さんのガット・ギターをライヴで聴きたいって、ずっと言ってたんだよ。誰もやってくれないなら、自分で企画するしかないかなと思ってたんだ。確かガット・ギターを手にするのは20年ぶりぐらいだって、灰野さん言ってたよ。人前で演奏するのはたぶん初めてじゃないかって」と話していた。とするとCD『光 闇 打ち溶け合いし この響き』の録音以来なのだろうか。『捧げる 灰野敬二の世界』に収められたディスコグラフィの執筆時に、その時点までに制作・発売された彼の全作品(録音)を聴いたが、個人的にはこの作品はその中の十指に入ると思う。演奏への期待に胸が高鳴る。
まず灰野がソロで始める。まだ、大上は所定の位置に着いていない。身を二つに折り、ギターを深く抱え込んで、身体を痙攣するように震わせながら、一音ずつ音を出していく。右手と左手はそのまま二人のダンサーであり、その間に同期の閃光が走る時、弦が震えて音が放たれる‥‥とでも言おうか。しかも彼は震える弦をそのままにしておかない。余韻を注視しながら、張られた弦の上に掌をかざし、ギターの向きを変え、あるいは揺すぶって立ち上る倍音/残響に手を加える(それは彼がガムラン・セットや創作打楽器ポリゴノーラの演奏時にやっていたことだ)。
客席の後ろで聴いていた大上がステージへ進み、椅子に腰を下ろして、ケースからスティール弦のアコースティック・ギターを取り出し、リズミックな刻みを奏で始める。両者の響きの違い(それは決して弦の材質の差異だけによるものではない)が一瞬で明らかになる。引き絞られ、引き伸ばされ、弦一本一本をばらけさせながら、ロクロの上の粘土のように自在の形を変えていく透明な音響。リズムを刻み、音を連ね、あるいはトレモロを用いて、倍音領域を含めてギターを総体として取り扱いながら、クロッキー帳のページを次々に破り捨て、新たなページにペンを走らせ続ける線の進展、あるいは次々に背後へと飛び退っていく車窓風景のめくるめく体験。
コール&レスポンスをはじめ、「合わせに行く」場面は双方とも見られない。二人はそれぞれに独自の起伏をかたちづくり、あるいは自在に線を伸ばす。いきなり爆発したかと思うと、一転してリリカルな調べを奏で、長い髪をゆるやかに搔き上げてから再度弾き始め、そこから急加速する灰野。弦をミュートしたまま素早く搔き鳴らして切れ目のない連続体をつくりだし、続いてピックで弦を水平に擦る奏法へと移行して音色スペクトルを拡大し、さらに溶けて流れ出すような高速のトレモロに移り変わる大上。にもかかわらず、いや当然のこととして、随所で「交差」や「横切り」が生じる。時に音がぶつかり、あるいは重なり合い、さらには反発や溶融を生じさせる。また、顔も向けず視線も合わせないにもかかわらず、寸分違わぬ同期が生み出されもする。加速し、急減速し、何の前触れもなく音がすっぱりと鋭く切断される様が、ピアニストの右手と左手のように、寸分の狂いもなく成し遂げられた。
「同期することへの反発」が自然と働いたのだろう。次の展開では互いに「外し」を仕掛けつつ、加速と減速が、離散と連続が、むしろぴったりと並走する。互いの左手首をロープで結わいて、右手のナイフを突きつけ合う決闘、あるいは粘膜を絡め合い体液を交換する性交のように、音の肌を触れ合っているからこそ、次の動きが生じる前に感じ取ることができる。そうした息苦しいまでの密着感をまざまざと露わにした演奏が続いた。
前半の演奏が終わり、しばし休憩してから後半の演奏を始める旨のアナウンスをして、大上が外へ出る(おそらくは煙草を吸いに行ったのだろう)。残された灰野は抱えたままだったギターにチューニングを施すとスタンドに立てかけ、立ち上がり様、ぽつりと「それにしても凄い集中力だよな‥‥」とつぶやいた。それは共演相手の大上に向けられた賞賛だったのか、それとも息もつけない緊張の連続だった前半を終え、これから後半へと向かう自分を労い鼓舞する言葉であったのか、さらには集中を切らさず固唾を飲んで演奏を見詰め続けた満員の聴衆を含む「場」への驚嘆と感謝だったのだろうか。
後半は大上が先に音を出し始める。奇妙にねじくれたフレーズから美しい倍音がふんだんに立ちのぼる。すでに椅子に着いている灰野は「考える人」のポーズでしばらくそれに耳を傾けていたかと思うと、会場で配られた「Food For Thought」(※)のプリントを取り出して、それを左手で弦に押し付けミュートしながら、いきなり弾きまくる。さらには、ギターを膝の上に水平に置き、弦の下にプリントを差し込み(プリペアド)、また抱えて弾き始める。激しいカッティングを繰り返すうち、紙はすぐにギターから滑り落ちるが、彼は気にも留めない(プリペアドは走り出すきっかけに過ぎなかった)。
※Permianのウェブページに掲げられた、即興(演奏)について考えるための引用集。出典は音楽関係に留まらず、哲学、文学、美術等、多方面に及んでいる。ぜひご覧いただきたい。
https://www.permian.tokyo/food-for-thought/
ここからいよいよ二人の対比が明らかになっていく。
灰野は切断と急加速を繰り返すかと思えば、加速に抗うように定速のカッティングを執拗に続け、極端に点描的になり、搔き鳴らし/フレーズ/カッティングの頻繁な交替を経てごくごく小音量での演奏に至り、フラメンコ風の右手指をぱっと伸ばす華麗なストロークの嵐を吹き荒れさせた後、弦を緩めて調弦を外し始める。猫のように柔軟で鮮やかな身のこなしによる切り返し、反転、フェイントの連続。武術家甲野善紀の言う「井桁崩し」ではないが、自らの拠って立つ足元を一瞬にして崩壊させ、素早く重心を移し、一瞬で加速して、別の地点から異なるヴェクトルで現れる。そしてもうひとつ、演奏の天衣無縫な囚われの無さ。「フリー・インプロヴィゼーション」ということを、暗黙のルールやマナーの集合体(=型や文化)、あるいはその場での演奏を価値づける根拠ととらえてしまうと、特殊奏法(エクステンデッド・テクニック)、非イディオム、ノイズ、無調、非定型リズム等の「フリー・インプロっぽい」形から入った、そしてその「枠組み」を一歩も離れることのない演奏となりやすい。コード感のある演奏、同一音やフレーズの繰り返し等を自らに禁じてしまうのだ。先に石川と大上の共演について見たように、特殊奏法とは通常の演奏における「禁じ手」であるわけだが、そうした「禁じ手」の枠内に限定して演奏するのであれば、可能性の平面は決して拡張されないし、侵犯の強度も低下するよりあるまい。灰野はそうした「自粛」とは無縁の演奏者だ。
対して大上は「最短距離」で歩みを進める。彼は以前に「動く時はダイナミクスを高めることだけを考える」と話してくれた。静から動へ(あるいはその逆)、加速/減速、音量の極端な変化、音高や音色の変容、疎から密へ(あるいはその逆)‥‥。どのパラメーターをいつ、どのくらい変化させるか。それは瞬間に到来する圧縮された光景への対応にほかならない。自分や相手の考えや動きを事前に読む/見通すのではなく、それらを含む聴覚的環境の変化に瞬時に対応し、打ち返し、宙に身を踊らせる。彼の演奏を「線の進展」と例えたが、それは「線的な継起」として思い浮かべがちなフレーズの器楽的変奏とはまったく異なる。そこには常にミクロだが決定的な切断/跳躍が含まれている。ジグザグに折れ曲がりながら、どこまでも伸びていく線は、至るところで不連続を来しているのだ。
もし、いまの記述が灰野の演奏はギミックに満ちており、大上は即興演奏の「決まりごと」を墨守する制度主義者だとの印象を僅かでも与えるとするならば、それは私の説明が至らないせいである。もちろん、そんなことはない。
彼らの演奏の詳細を書き尽くすことは到底できないが、ひとつ書いておきたいのは、先に記した二人の原理的な差異にもかかわらず、至るところで交差し、並走し、肌を触れ合って互いを鋭敏に感じ取り触発し合っている場面が見られたことだ。幾つか事例を抜き出してみよう。
これは先に一部記したが、前半半ばの目まぐるしい加速/減速/切断を鍔迫り合い状態で並走したまま乗り切った場面とその後の今度は互いに「外し」にかかりながら同様にピタリと貼り付いたように並走した場面。
後半でプリペアドから抜け出した灰野が極端な切断と加速を繰り返し、大上の左足(通常はギターのボディを支えているので動かない)の踵が小刻みに、しかし激しく震え鳴り出して、それが合図であるかのように彼もまた堰を切った如く加速と跳躍にまみれていった場面。それに続いて大上が立ち上がり、灰野がいるのとは逆の方向、壁の方を向いて弾き出し、以降、二人の演奏が疎と密、速と遅、大音量と小音量というように対照的に、先の密着並走をもたらした求心力とは逆の「遠心力」によって進んでいった場面。

3.補足
ライヴ当日にその場で書き留めた簡単なメモ(暗闇での走り書きなので、ときどき自分の書いた字なのに判読できなかったりする)に基づき、体験の記憶というか私の中の「残響」へと測鉛を降ろしつつ書き進めているのだが、それにしても大変なものを聴かせてもらったなと改めて思う。二夜ともとびきりに素晴らしい演奏だった。大上にとっては二週続けてのライヴだったわけで、その充実ぶりには凄まじいものがある。石川との共演で弾みをつけて、灰野との共演に臨めたということもあるだろう。実はもうひとつ伏線があって、石川との共演との約一週間前、3月10日に、大上がエレクトリック・ギターを携えて森重靖宗(el-b)、外山明(dr)とトリオを組んだライヴを同じPermianで行っている。チェロからエレクトリック・ベースに楽器を持ち替えた森重が各種エフェクターを駆使した演奏をするであろうことを見越してか、大上はふだんよりもはるかに多いエフェクターを用意してライヴに臨んだ。最初はいつものヴォリューム・ペダルとアンプだけかと思ったのだが、間歇的にしか音が出ない等のトラブルがあり、彼は背後のギター・ケース中に仕込んだエフェクター類の接続を演奏中にチェックしなければならない羽目に陥った。結局はギター本体のピックアップのトラブルだったようで、彼は失敗を潔く吹っ切り、増幅をあきらめアンプラグドで改めて演奏に参加し直した。石川とも灰野とも、元からアコースティックで共演することは決まっていたのだろうが、この「失敗」が彼に覚悟を決めさせ、どんと背中を押したように思えてならない。マイナスを臨機応変にプラスに転じることも、また、インプロヴィゼーションならではのことである。
書いたものを読み返すと、石川・大上のデュオでは全く性質の異なる楽器の響きの照応と相互浸透に焦点が当たっているのに対し、灰野・大上のデュオではガット弦とスティール弦という差異よりも、灰野と大上という演奏者の輪郭が際立つこととなっている。もともと演奏者の意図した通りにならないのが即興演奏の本質であり醍醐味なのだから、演奏者の意図に結果としてのサウンドを還元することはもちろん、演奏者の輪郭をことさらに際立たせることのない記述を心がける(というか自然とそうなってくる)のだが、この場合は両者のアクションに強烈な印象を刻まれたことにより、このような記述になったのだと思う。とりわけ灰野の放つ「気」の存在感はやはり物凄い。なお、これはまったくの余談となるが、彼は客席で演奏を聴いている時もやはりすごい「気」を放つので、うっかり近い席に座ってしまうと、演奏中ずっとそれが気になって仕方がない(笑)。
2022年3月19日(土) 不動前Permian
石川高(sho)、大上流一(acoustic guitar)
2022年3月26日(土) 不動前Permian
灰野敬二(classic guitar)、大上流一(acoustic guitar)
ライヴ当日の写真がないのが何とも残念である(泣)。
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