閉じた音楽/開いた音楽 ―― 蛯子健太郎「ライブラリ」ライヴ・レヴュー Closed Music / Opened Music ―― Live Review of Kentaro Ebiko's "Library"
2022-08-31 Wed
蛯子健太郎によるユニット「ライブラリ」のことを、ずっと追いかけて聴いてきている。途中、ヴォーカルを担当していた三角みづ紀を含むクインテットが解散し、しばらく後にピアノとのデュオとして再出発を果たすという大きな変化はあったものの、基本的に蛯子のオリジナル作曲作品を演奏するユニットであり、フリー・インプロヴィゼーションのように「毎回どうなるか、何が起こるかわからない」というようなことはない。演奏が変化する範囲は自ずから限定されており、新曲が加えられていくとはいえ、レパートリーも当然限られている。にもかかわらず毎回聴き逃せないと思ってしまうのは、曲/編曲・アンサンブル/蛯子自身の演奏が一体となって描く変容の軌跡が、まさに彼の標榜する「物語」としか言いようのない進展、予想を超えた豊かさを次々と開いてくれるからだ。それは上達するとか、練られていくとか、洗練されていくというのとは違う。各曲が内包する「世界」がますます輪郭を露わにし、確固として立ち上がり歩み出していく‥‥とでも言おうか。
だから各曲に共通する色合いや手触りは確かにあるものの、それぞれが歩み出す方向は決して同じではない。だから一夜のプログラムはひとつの物語へとだんだん収斂しなくなり、個々の楽曲ごとに離散し、複数の物語/書物へと分かれていく。「ライブラリ(図書館)」とはよく名付けたものだと改めて思う。
だが、演奏によって綴られるこの「物語」を、言葉で伝えるのは難しい。本レヴューでは、その前に観た昨年6月19日のライヴを視野に入れつつ、直近2回のライヴ(2022年1月29日及び5月21日)を直接の対象として論じることにより、来る9月3日の次回「ライブラリ」のライヴに向けて、この「物語」を幾らかなりと浮かび上がらせることを目指したい。

写真:@umeopeth 蛯子健太郎のツイッターより転載
1.TDDN (Through the Deepest Depth of the Night)
5月21日の演奏は、村上春樹の小説「アフターダーク」に発想を得て作曲された曲「TDDN」で幕を開けた。蛯子が新品の5弦エレクトリック・ベースをピックで弾き始める。一切合切が断ち切られたような寄る辺なさ、断絶感はもともとの曲想だが、アップ・ピッキングによるピックの弦への当たり(この接触/衝突音は本来なら演奏ノイズに当たるものだろう。しかし、ここでは聴き手との距離が近いことを踏まえ、確信犯的に活用されている)がリズムを刻み、そこから重い芯のある音がブゥンと弧を描いて力強く立ち上る。ビンビンという弦の鳴りとブンブンした響きがずっと鳴り止まずに続いている。テンポがいつもよりゆっくりしているのではないか。演奏がある水準に達して新たな扉を開き、うまく「はまった」時にはいつもそう感じられるようだ。音が泳ぎ回る「水槽」のガラスの透明度が上がったような感じ。ベース音のかたちづくる空間を、その隙間を含めはっきりと見通すことができ、ピアノが余裕を持ってメロディを歌わせる。前回、「心余って言葉足らず」な印象を受けた高域でのベース・ソロも、せせこましい動き、不明瞭な発音がなく、落ち着いた語りが確実に聴き手の手元に届けられ、そこには甘みさえ感じられる。力強さは前回の演奏を確かに上回り、曲想がもたらす虚無的な暗さ(離人症的な感覚?)と拮抗し得ている。
2.The Other Side of the Story
ポール・オースター「鍵のかかった部屋」に基づくこの曲に関しては1月29日に大きな進展があった。ピアノによるテーマにゆったりとたゆたうような低音の広がりで応じていたエレクトリック・ベース(この時はまだ通常の4弦)が、途中から高域での音数の多いギター的なソロに転ずる。蛯子の荒い息が聞こえてくるほどの熱演。ピアノとのダブル・ソロを経て、ベースの音数が減っていく場面に胸が詰まる。高まり張り詰めていたものがふと緩んで、ひとりぽつんと取り残された空白に何かがこみ上げてきて、湧き上がる記憶がぐるぐると巡り始める。
この曲や前掲の「TDDN」のベース・ソロを聴いた聴衆のひとりから、「こういう演奏なら5弦や6弦の多弦ベースの方が弾きやすいのではないか」と声をかけられたのが、5弦エレクトリック・ベース購入のきっかけになったと蛯子は話してくれた。実はこのやりとりは私も聞いていて、その時に蛯子は「いや、まだ4弦エレクトリック・ベースもじゅうぶん弾きこなせていないので‥‥」と応えていたのだが、やはりその後、どうしても気になって楽器店に行ったのだと言う。
5月21日もこの曲は披露され、やはりこなれた演奏となった。
3.「自身の声」としてのエレクトリック・ベースの獲得(1月29日)
昨年6月のライヴの時点ですでに、「今はベースのマグネットを使っていない」、「やはりスティーヴ・スワロウSteve Swallowが好きだから、その辺の音が頭にある」等々と、蛯子は新たなベース・サウンドについて断片的ながら語っていた。
コントラバスからエレクトリック・ベースに転向し、ソリッドではなく空洞のボティ、ピック弾き(基本としてアップ・ピッキング)、ピエゾ・ピックアップで、柔らかくナチュラルな音色を追求したスティーヴ・スワロウは確かに蛯子と多くの共通点を持つ。彼がカーラ・ブレイのピアノとのデュオで見せる、彼女が歩む足元にすっすっと音を差し出していく(まるで馬車から降りるレディの足元の水たまりに、さっとハンカチを敷くように)、心配り溢れた精妙なバッキングも、やはり蛯子の演奏と気脈を通ずるものと言えよう。
その一方でスワロウの場合、カーラ・ブレイの見せ場をふんだんに作ってから彼もソロを取るのだが、その比率は決してピアノと対等ではなく、従来からのピアノ/ベースの位階関係に基づく控えめなものに留まる。高音域に上がっていって紡がれる彼のソロは「ギター的」と称される滑らかなもので、ピックアップの特性とボディの鳴りの両方を活かした、スウィートな輪郭の柔らかさと繊細な響きをたたえており、輪郭を強調したり、スラップで歪ませた打楽器的なブリブリッとした鳴りとは対極的である。「エレクトリック」に対する「アコースティック」。しかし、その一方で、アコースティック・ベース特有のブーミングに、彼はほとんど関心がないように見える。自信の楽器を「エレクトリック・ベース・ギター」と称する所以だろう。
このライヴ後も、さらに蛯子はFacebookに新たなベース・サウンドの獲得に関する記事を投稿し、それが演奏の発展に結びついたとして「ひこうき」のリハーサル音源を例示していた(動画ファイルはYoutubeに投稿)。ことベースのサウンドに関しては、Youtube音源を低域の再生能力が弱いPCで聴いて判断するのは危ういのだが、それでも「一皮剥けた」的な印象を得たことが、1月29日のライヴへの期待へとつながった。
と言うのは、この昨66月に体験した「ライブラリ」のライヴに対し、珍しくあまりよい印象を持てなかったためだ。それ以前に行われた、今はもうない綜合藝術茶房喫茶茶会記でのライヴ(2020年3月15日)については、ブログに掲載したライヴ・レヴュー(※)で「二人だからできること」を掴み取ったと評したのだが、その後、どの方向に進むべきか迷っている、足踏みしているとの印象を受けたのだった。もちろんこれは、客席テーブル前面に立てられた感染防止のためのアクリル板でピアノの響きがマスクされていたり、ベース・アンプがやわなワイヤー・ラックの上に乗せられていて、そのためかサウンドが不鮮明に感じられたりしたことが影響しているのかもしれないのだが。
※二人だけができること - 蛯子健太郎ライブラリ ライヴ・レヴュー Only Two Can Play - Live Review for Kentaro Ebiko's Library
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-473.html
1月29日のライヴではエフェクターの数が減り、以前は曲ごとに行われていたエフェクターの切り替えも観られなくなって、全曲を通し「同じひとつの声」で演奏された。その分、ピッキングの仕方等の奏法の違いにより音色がコントロールされた。たとえばこの日の冒頭に奏された村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」に基づく「羊男のテーマ」では、弦が鳴るほど強靭なピッキングによるくっきりとした速いベース・リフがピアノのリズミックに張り詰めた打鍵と拮抗し、低音に弾みをつけて曲をドライヴしていく。ピアノとベースは溶け合うことなく「水と油」のようにきっぱりと二層に分離してしまうのだが、そのことによりデュオのアンサンブルとしては、かえってがっしりと強く結合されていた。アンプが床置きとなったことも明瞭さ、とりわけ音の隙間の確保に寄与していただろう。
「自身の声」の確立は、演奏に更なる自信と説得力をもたらすとともに、高域での速いソロやコード奏法に対する以前よりも遥かに果敢な挑戦を引き出した。先に見たように、そのことが続く5月21日のライヴで、さらに新たな扉を開くことにつながっていく。
この日のライヴ後に新たなベース・サウンドとスティーヴ・スワロウの関係について蛯子に尋ねたが、それは所詮、自分ではない他の演奏者のことだから、あまり意識はしていないとの答が返ってきた。前回の話でスワロウが引き合いに出されたのは、まだ蛯子が試行錯誤の中に迷っていたからで、もう彼なりにその迷いを乗り越えたということだろう。
その証拠として、今回のライヴでは、ピアノとベースのより対等な関係が目指されていることが改めて明確になった。ピアノ演奏に重ねてベースがソロ的なフレーズを紡ぐ「ダブル・ソロ」の場面が前回より遥かに増え、ソロ的な演奏以外の場面、たとえばベースがリフを弾き続ける場合でも、ベースの音量レヴェルが上がり、背後で伴奏するのではなく、横に並んで、あるいは正対して演奏していると感じられた。
4.米国オルタナティヴ・ロック〜空が歪む時、Desperate for Ritual
そうした新たなベース・サウンドの獲得に関して、もうひとつ、米国オルタナティヴ・ロックとの関係性がポイントとなっているように思われる。昨年6月時のライヴでもすでに蛯子はピクシーズPixiesの名前を挙げていたが、1月29日のライヴではさらに具体的に、「精神的なスペースが無くなってしまいそうな時の救い」という説明とともに、ピクシーズのベース奏者だったキム・ディールKim Dealの名が、ピクシーズ脱退後の彼女のソロ曲「Walking with A Killer」と共に挙げられていた。
米国オルタナティヴ・ロックが好きだと言う話は、実はアンサンブル編成のライブラリでコントラバスからエレクトリック・ベースに持ち替えた時から蛯子はよくしていた。他にはスマッシング・パンプキンズSmashing Pumpkins等の名前も挙がっていたように覚えている。正直言って、その時はこのことについてあまり深く考えなかった。これにはピクシーズもスマッシング・パンプキンズも私がよく聴いていなかったせいもある。『Bad Moon Rising』以前からソニック・ユースSonic Youthをずっと聴いていて、その流れでライヴ・スカルLive SkullやギャラクシーGalaxy 500等に親しんでいたし、ピクシーズがデビューした英国4ADも以前からよく聴いていて「えっ、4ADから米国のバンド?」と違和感があったし、彼らの第一作をプロデュースしたスティーヴ・アルビニSteve Albiniとどうも音の相性が悪かったし‥‥まあ、所詮、言い訳に過ぎないが(笑)。
ピクシーズからキム・ディールのソロに至る線を改めて確認すると、ベース・ラインが意外なほどにメロディアスで、打楽器的にエッジを強調した音でも、野放図に低域を響かせまくった音でもなく、ナチュラルな響きであることに驚かされる。もちろん、決してジャジーではないし、ソロも取らないけれど、一方で文脈的にはニルヴァーナNirvana等に繋がっていながら、もう一方ではスティーヴ・スワロウから決して遠くない。もちろん、シンプルなリフレインに収斂していく点では「ロック」的なのだが。思い詰めたメランコリックな暗さと寄り添うような肌触りの暖かさ、遠くを眺める眼差しの茫洋さをたたえており、速度が増しても煽り感を生まないなど、蛯子のエレクトリック・ベース演奏との共通点が多くあるように感じられる。
1月29日のライヴで「ピクシーズの影響がある」と蛯子が紹介した「空が歪む時」ではベースの低音のリフの滲みがすくなくくっきりと立って聞こえ、ピアノの複雑な動きと対照的に単純な、だが力強い線を描いた。ダウン・ストロークのピックでこするようにして弦を鳴らし、珍しくアンサンブルを煽り立てる。同日、やはりキム・ディールを引き合いに出して紹介された「Desperate for Ritual」では、やはりベースの音のヌケがよい。二弦弾きもはっきりと響く。その分、ピアノは身軽に簡素になって、両者の間に張り渡されている回路が浮かび上がる。
スワロウとピクシーズ(キム・ディール)の「間」、ジャズの港にもロックの岸辺にも寄り付かない地点で、蛯子は自らの声を探していたのだろう。そしてついに発見した。
5. エレクトリック・ベースが書き進める物語
蛯子がエレクトリック・ベースにおいて自身の声を発見した地点から振り返ると、これまで読み進めてきた「物語」の様相がかなり変わってくるように思われる。
人選を含め理想的な編成であったアンサンブルが(発展的にではなく)突然に活動停止を余儀なくされ、そこで選び取られた(もしかすると「他に選ぶ余地のなかった」)デュオという編成/方法論が、その後の新たなアレンジメントの視点の開拓、新たなベース・サウンドの獲得、デュオにおけるアレンジメントの更なる発展‥‥といった変化へと、ほとんど「運命的」と言ってよいほどに、必然的かつ発展的に結びついていった‥‥と、これまで私は考えていた。
しかし、これは話が逆で、重要な切断は「アンサンブルの活動停止/デュオとしての再出発」ではなく、「アコースティック・ベースからエレクトリック・ベースへの転換」の方ではなかったか。
これは以前に益子博之から教えてもらったのだが、私の観ていない「ライブラリ」の初期のライヴにおいては、コントラバスを他人に弾かせて、蛯子自身はエレクトロニクスを操り、正弦波でアンサンブルに変調を加えていたという。「ライブラリ」のCDにおいても、第一作『ドリーム/ストーリー』(2010年)では、空間に楽器音が吸い込まれたり、また吐き出されたりするような変調が施され、三角みづ紀がヴォーカルで新たに参加した第二作『ライト』(2013年)では、輪郭のおぼろな正弦波のみによる楽曲演奏や、同じく正弦波と声のみの演奏を聴くことができる。
私が「ライブラリ」のライヴ演奏に接し始めたのはさらにその後で、少なくともライヴ演奏の場では、蛯子はもうコントラバスに専念していて、エレクトロニクスを演奏してはいなかった。おそらくはその代わりに、これから演奏する曲のテンポの指示にちょっと訝しく思うほどの時間をかけ(まるで、あらかじめ曲全体を脳内で何倍速かでプレイして、そのテンポが正しいか確認しているかのようだった)、演奏者には疾走/飛翔するソロではなく、モザイク状に噛み合って互いに綱引きしあうアンサンブルを求めた。その後にアコースティック・ベースからエレクトリック・ベースへの、あの「劇的」な転換が生じることになる。
正直、かなり唐突に感じたことを覚えている。当時のライブラリの繊細に張り詰めたアンサンブルをむしろ壊すもののように思われた。それゆえ、完成されたがゆえに「余白」、すなわち創造の余地を失ってしまったサウンドをもう一度作り直すために、あえていったん壊しているのではないかと受け止めていた。その後、何回かのライヴの後、それこそ唐突にアンサンブルの解散が告げられることになる。がつんと殴られるような衝撃を覚えた。
「ライブラリ」の第一作『ドリーム/ストーリー』のリーフレットに、蛯子は次のように記している。
「自分の内側を除いてみたらいろんなメディアの寄せ集めでした。ならばそれをそのままかたちにしてしまおうと思い、題材を文学に限定して音楽をつくっています」
この文章はCDのタスキ(帯)に掲げられた「ページをめくる音が派生して音楽がうまれる。図書館系ジャズユニット」という惹句と響き合い、「ライブラリ」と名付けられた由来を語っていよう。私もこれまではユニット名の由来を示しつつ、作曲のコンセプトをゆるやかに示すものだとばかり思っていた。だが事態はこの時、もっと思い詰めた深刻さをはらんでいたのではなかったか。
というのは、改めて考えてみると、自分自身の内面=意識が寄せ集め(ブリコラージュ)であると見なすことは、すなわち「自身のひとつの声」を否定し、自己の内面の統一性やオリジナルな発想を認めないことになるからだ。自らの声=思いではなく、自らの中にある他者の声=思いに耳を傾け、それを音にして響かせること。このことは曲ごとに発想の源となったヘンリー・D・ソロー、村上春樹、ポール・オースターの作品名を掲げる理由であるだけでなく、演奏に電子変調や音響操作を施し、言わばアンサンブルを一度バラバラに解体してから再度貼り合わせなければならなかった理由をも指し示しているだろう。自らの声=思いは封印し、あるいは注意深く取り除くこと。
続く『ライト』では、他者(詩人である三角みづ紀)によってあらかじめ書かれた言葉が、生のまま声を伴って導入される。歌詞がなく三角の声の入らない曲については、前作と変わらず発想の源である作品名が記されている。ただし二通りの例外がある。
一つ目の例外はカニグズバーグE.L.Konigsburgの作品にインスパイアされた「エンジェル」で、冒頭に正弦波のみで演奏された後、再度、三角の作詞によりヴォーカル入りのアンサンブルで演奏されている。
二つ目の例外は、「叫び、沼地、滑車‥‥」と蛯子が断片的な言葉を連ねて作詞し、三角が歌っている「滑車」と、作曲の発想の源として具体的な作品名の代わりに「私の夢の中で聞こえてきた歌」と記され、作詞は三角が務め歌っている「モノフォーカス」である。実は、本作のうち、この二曲に限って蛯子はエレクトリック・ベースを演奏している。
曲の発想の源として他者の言葉が掲げられていない二曲だけが、エレクトリック・ベースによる演奏というのは何とも意味ありげではある。ここに後の「転換」が兆していたのだろうか。おそらくそうではあるまい。ここでのエレクトリック・ベースの音色は、アコースティックの延長上にありながら電子的な変調が施されたと言うべきもので、やはりそれは特定の曲(場面)で必要となった特定のサウンドを調達するための「手段」に過ぎないように思われる。全曲をエレクトリック・ベースで演奏することの萌芽とは言えまい。
ただ、この「前史」を現時点から振り返る時、いったん封印した「自らの声」に、一周(あるいはもっと)回った後に再度巡り会う‥‥という「物語」を読み取ることができる。
以前のアンサンブル編成の「ライブラリ」にあっては、「物語」は曲/詩にあらかじめ内包されており、かつその場で「読み聞かせる」ように改めて演奏により紡がれるものだった。しかし、デュオ編成の「ライブラリ」では、各曲に内包/配分された「物語」以上に、蛯子自身が生きる「物語」自体(狭い意味での「私小説」的な、個人の身の上の反映ということでは決してない)が、全体を貫くトータルな軸線として浮上してきていることは、ずっと感じていた。先に記したように、その「物語」の大きな屈曲点が、これまで考えていたアンサンブル版「ライブラリ」の突然の活動停止ではなく、実はそれ以前にあった「アコースティックからエレクトリックへの転換」にあるのではないかと、1月29日のライヴを聴いて強く感じた。続く5月21日のライヴを体験して、その思いはさらに強まり「確信」へと変わった。「自らの声」の封印を経ての再発見という自己展開/自己実現の「物語」。それこそがエレクトリック・ベースが書き進めている「物語」なのだと。

写真:@umeopeth 蛯子健太郎のツイッターより転載
6.レイニー清原
昨年6月19日のライヴで初めて披露され、その後は欠かさず演奏されているこの曲は、蛯子がライヴ一週間前の6月12日に見た「しとしとと降り続く雨の中、プロ野球選手の清原和博が野球のユニフォーム姿で、ひとり黙々とバスケットボールのシュート練習をしている」という夢に基づいており、ベース・ラインはその夢の中でずっと鳴り続けていたものだという。
6月19日の演奏では、曲の形はすっかり出来上がっていたものの、引き摺るようなベース・ラインがもやつき、あてもなく移ろうピアノのコード・ワークと相俟って、状況説明通りの何とも不条理な感じを与えていた。
対して1月29日及び5月21日の演奏では、かなり低い音域にもかかわらずベース音の輪郭がくっきりと立ち、疲弊した身体を引き摺る重たいリズムがピアノによる微熱を帯びた夢幻的な響きとの対比を明らかにして、まるで濡れた毛布を掛けられような垂れ込める重暗さ、真綿で締め付けるが如き閉塞感がまざまざと皮膚に感じられた。夢に出てきた情景が、「1Q84」や「騎士団長殺し」の一場面であると説明されても納得してしまうイメージの訴求力の強さ、自信に満ちた説得力の強さが、そこには宿っていた。
7.Death of Fantasy
5月21日には「レイニー清原」に続けて、3月9日に書いたという新曲「Death of Fantasy」が演奏された。
「ウクライナ紛争の勃発がきっかけで自分の考えの狭さに気づかされた。それはすなわち、『まったく想像していなかったことが起こってしまった』という想像力の死であり、『自分は悪くない』という幻想の死である」と蛯子は語った。
ピアノの和音の微妙な移ろいに続いて、悲しげではあるが同時にどこか明るさを秘めたテーマが姿を現す。テーマが想いを巡らすように繰り返されるうち、ピアノのコードが壮麗に積み上がり、ベースが5弦の幅広い音域を活かしながら、歌の一節を思わせるメロディアスなソロを奏でるに至る。
自らの内面に噴き上がった思いを、そのままに声/音として吐き出し、曲/演奏をつくりあげていったことがまざまざと手触りとして感じられた。あり得ない突発事態に反応して、矢も盾も止まらず身体が動いてしまったのだろう。だが、そうした内面の直接的な吐露、自らの思いをそのまま音にしてしまうことを、かつてはあれほどストイックに、自分に禁じていたのではなかったか。それを思うと「自身の声」の獲得=再発見は、5弦エレクトリック・ベースとの邂逅といった機材の問題などではないことがわかる。その一方で、彼は6月18日にFacebookに次のように書き込んでいる。「ホームカミング感」と。
「2月からぬかるみを歩き続ける様にしてえっちらおっちら5弦ベースに馴染んできました。持ち替えてさっと弾ける訳もなく時に頭の中真っ白になりますが、えっちらおっちらちゃんと進んでます。今更って感じなのに凄いホームカミング感が自分でも不思議で感動すら覚えます。人生の謎でしょう。」【6月18日の書き込み】
8.閉じた音楽/開いた音楽
5月21日のライヴの後の蛯子によるFacebookへの書き込みを振り返りながら、これまでの議論を集約してみよう。
何とも不思議なことだが、蛯子は6月4日のFacebookへの書き込みで、「『音楽』って言う言葉自体が嫌い、恐らく大っ嫌い」と告白している。
「今は深夜でもなくシラフですが、いきなり脈絡無く自分ゴト言うと音楽は好きを超えて存在するのに「音楽」って言う言葉自体が嫌い、恐らく大っ嫌いなのですが他に言葉が無いので始めから無自覚で、以来慢性の炎症を起こし続けていると単語を見ていてふと気付きました。それで「音楽」より自分と相性の良い単語を探したり作りだしたりするのでは無く「炎症」はなんだろう?炎症が辛いのも当然として、生理的な傷口のイメージや感覚は無自覚だった自身が鏡に映った物、それもドアの隙間からほんの少し覗いて慌てて閉めた僅かな像。」【6月4日の書き込み】
混線し矛盾した感情ととらえられそうなところだが、たぶん解きほぐすカギは最後の一文に潜んでいる。「無自覚だった自分が鏡に映ったもの」、それも「ドアの隙間からほんの少し覗いて慌てて閉めた僅かな像」。音楽している自分を外側から垣間見てしまった瞬間のいたたまれなさ。ここで「音楽」=「音」を「楽」しむことは、自らの内面だけに閉ざされた密かな、自分ひとりのためだけの愉悦であるだろう。そのことへのほとんど生理的な嫌悪/忌避。
一方、7月24日には次のように書き込んでいる。
「すっごく面白いのが一つの練習しててもそれなりに積み重なるんだけど、それと関係ない様な別の練習すると脳内で勝手に繋がって予期せぬ成果が生まれる。科学的には根拠ゼロだけどこの数年こういう『思いがけない成果』をずっと経験してます。で、今日もいきなり繋がったから嬉しくて書いてしまった。人間って不思議です。実は今日は朝から憂鬱で基本憂鬱のままですが、それでも思わぬサプライズでした。人間って不思議なんだから見えてる事だけで全て分かるわけじゃない。分かってねえなお前、と脳味噌に言われてる気分です。」【7月24日の書き込み】
音楽していることが、たとえ自分ひとりだけで練習を繰り返す場合であっても、自分の中だけに閉ざされず、自分の認識や理解をひょいと超え出て、あらぬものと「勝手に」繋がってしまうことへの驚きと喜び。
このことは8月17日に書き込んだ次の認識と、まっすぐにつながっていよう。
「なーるほど。『繋ぐ』ことは『同化する』ことでは無いんだね。『矛盾』を含まない『繋ぐ』は有り得ないのでしょう。『繋ぐ』はシンドイけど価値があると思います。それに対して『同化する』は暴力的な行為とも取れます。矛盾があって初めて繋がると言う選択があるのは厳しいけど、つるむの逆かも。」【8月17日の書き込み】
「矛盾」するものを「繋ぐ」とは、先に見たように閉域を超え出ることにほかならない。反対に「同化」は暴力的な差異の抹消により閉じること、均すことであり、「つるむ」も「矛盾」をはらまず、また閉域を超え出ることなく、低きに流れるように際を抹消する点で「同化」の系に属する。彼はこの「同化」へと閉じていく系列を一貫して批判し、自分に戒めている。
「自分に対して言いたい、このあと何が起こるか分かるような気になって居る時、自分は百パーセント過去にのみ生きている。これは思いの外恐ろしい事だ。」【6月26日の書き込み】
勿論自分も含む日本人の正解信仰に抗して必要なのは各々の心の中に生まれたイメージに対する現実としての時間と空間とエネルギーを費やす必要の認識と行動だと思う、ので今やってます。【6月27日の書き込み】
「人は自分の狂気を瞬時に外部の人物事象に投影し対象化してしまいます。それ自体は実は自然な事です。ですが、個人的にその過程を自分で引き受けず、撒き散らすだけだと極端には、自分は正気で悪いのは「○○」の2極化、の正に同化する快感に対して余りにも無防備です。暴力の連鎖が生まれ易くなると思います。先日、実は昨年他界した妻のお父さんの事についてだったのですが「慰霊は生きてる人の心の中で行われる。そしておそらく心は死者と繋がっている」と書きました。これは人付き合いの様な長い時間と気持ちがかかるんだな、という自分の気付きです。」【7月11日の書き込み】
「あるアメリカの小説家の「人は物語なしでは生きていけない」という文章を20年前に読んで本当にそうだな、と思ったものですが、今の世界で同じ事をこんな風に「人がどんな物語でも良さそうなものに片っ端から瞬時に同化していく」形で体験をするなんて夢にも思いませんでした。神様あんたは恐ろしい。」【同上】
ここで「同化」すること、閉じることは、自らの身体を使って時間をかけて実際にやってみることなしに、頭で理解した「正解」に即座に飛びついてしまうこと、未来や結果をわかったつもりになってしまうこと、自らの内面に生じた過剰(狂気とはその謂にほかなるまい)を他者に投影し、すぐさま自らと切り離して片付けてしまおうとすること、生きていくのにかけがえのないはずの物語に対し「どんな物語でも片っ端から瞬時に同化」していくことへとパラフレーズされている。これらの一部は言わば「時局に応じて」書かれたものだが、これまで見てきたように、この軸線は一貫して「ライブラリ」の活動の核心を担っており、いささかも揺らぐことがない。
そして、つい先日8月26日の書き込みは、この章の冒頭に掲げた6月4日の書き込みから二か月近くを経ていながら、まっすぐにつながっている。
「『閉じた音楽』は自分にとっては恐らく音楽ですらありません。独り言。
因みに理解し易い、し難い、と言う意味では無いです。独り言。
恐らく聴く人側も、勿論発する側も、いつでもその音楽を自由に『閉じ』たり『開い』たり出来るのでしょう。独り言。」【8月26日の書き込み】
「閉じた音楽」、すなわち音楽することが自らの内面に閉ざされ、完結してしまうことへの拒絶。対して「開いた音楽」とは、音楽することを通じて「矛盾」に相対し、予想もしなかった事柄と「繋がって」いく事態にほかなるまい(こう書き付けていて、前回の田内万里夫個展レヴューとの不思議な符合に驚かされるが、そうしたモノに惹き付けられるのが私の「性(さが)」なのかもしれない)。このことには音楽を発する側(ミュージシャン)だけでなく、聴き手にもまた関わってくる。それが「独り言」であるがゆえにメッセージはそれだけ痛切である。
もう間近(9月3日 文末に告知情報を掲載)に迫った次回の「ライブラリ」のライヴでは、さらにこの先の物語が展開されよう。もちろん、その行方をいま知ることも、わかったつもりになることもできない。ただ、そこに参加して、続きを読み進めるだけだ。
2021年6月19日
2022年1月29日
2022年5月21日
ライブラリ:蛯子健太郎(electric-bass)、杉山美樹(piano)
いずれも会場は渋谷 KO-KO
次回「ライブラリ」ライヴ告知
2022年9月3日 19時〜
渋谷 KO-KO 03-3463-8226 jazz.ko-ko@jcom.home.ne.jp
ライブラリ:蛯子健太郎(electric-bass)、杉山美樹(piano)
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