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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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映像との協働を通じた身体の新たな布置 ―― ARICA+越田乃梨子『終わるときがきた』レヴュー  Rearrangement of Body Through Collaboration with Images ―― Review of Theater Company ARICA + Noriko Koshida “Time She Stopped”
 2022年12月11日(日)、Bank ART Stationにて、Theater Company ARICA+越田乃梨子による新作『終わるときがきた』の公演最終日を観た。今回はこの公演についてレヴューしたい。
 公演のフライヤーは、次のように予告している。
 「『終わるときがきた』は、身体と声が切り離されることに加え、映像の介入によって、舞台に実在する身体から、その自分を他者として見つめる虚像の身体を、幽霊のように離脱させる。実在する身体と虚構の身体の共演。」
 また、本公演についてSNSで告知する中で、演出を担当する藤田康城は「映像との恊働」を掲げていた。
 私がこれまで観てきた限り、Theater Company ARICAの作品は常に主演女優である安藤朋子の身体性に軸足を置いて、テクスト/言語に抗う身体に焦点化することにより、言語表現/解釈の地平を突き破る強度を獲得してきた。また、作品中での映像の使用はこれまで先例があるが、たとえばウェブ上に掲げられた『ミメーシス』予告編では、パースペクティヴが折り畳まれ重ねられて、ライヴの上演を観なければ舞台の概要どころか、二人の演者の位置関係すら把握できないようになっていた。ウェブ配信による上演すら行われる現在、こうした姿勢は極めて例外的と言えるだろう。
 そんな彼らが、よくある出来合いの仕方で映像を取り扱うわけはあるまい。どのようなスリリングな挑戦が為されるだろうか。


0.当日、開演まで
 この日は公演最終日とあって当日券も出ないほどの満席ぶりで、最前列の椅子の前にさらにクッションが敷かれ桟敷席が設けられていた。舞台はそれと段差なく設けられ、手前のフットライトもないので、客席と舞台を区切るものは何もない。
 舞台の中央部分にベンチが一つ置かれ、すでに安藤が横たわっている。ぴくりとも動かない。舞台下手側に頭。身体はこちら向きだが顔は伏せ気味で腕に隠れ見えない。ビニールバッグを枕にしており、脇には高齢者がよく使うカート式のキャリング・バッグ。「ホームレスの女性」との設定にふさわしく、荷物はこれだけのようだ。カートのバッグ部分はこれも高齢者がよく使っている花柄のゴブラン織り風で、防寒を優先して重ね着された服もロングソックスも靴も同系統の色柄(アウターは茶色のコートだが)。それ自体は一定の鮮やかさ、美しさを持つ色彩でありながら、互いに反響しあって相殺し、むしろくすんだ「映え(ばえ)」のない印象を与える。それが制作者の意図するところだろう。都会の片隅における匿名的保護色。視界からこぼれ落ちてしまうもの。
 ベンチの左手には白い小石が幾つか散らばり、業務用のスープ缶程度の大きさの空き缶が幾つか転がっている。ベンチ右手やや手前にカメラが三脚でセットされ、その足元にも空き缶が幾つか。
 背後の壁面に沿って舞台両脇にPAスピーカー、ホリゾントにフットライト。それ以外はすべて上からの照明のようだ。天井近くに二台のプロジェクタが設置されているから、映像は背後の壁面に直接投射されるのだろう。その右脇に黒いモニター(後ほど、日本語・英語による字幕表示用と判明)。新高島駅のアナウンスがあまり聞こえてこない。日曜午後の時間帯だからだろうか。前回は結構聞こえてきたように思うのだが。
 それにしてもシンプルな舞台装置だ。ARICAの舞台はいつもそうだとも言えるが、それでも壁面やフットライトの列で舞台の範囲を画定していた。それが今回は境界のない、まったくの地続きとなっている。それゆえ空間の座標軸も明確でない。これらが周到に準備されたものであることに、後ほど気づかされることになる。


1.上演の内容(最初の繰り返し)
 消灯。背後の壁面の、ちょうどベンチの真後ろあたりがぼうっと明るくなり、風の音がしてくる。安藤に照明が当たり、ベンチとともに浮かび上がる。交通騒音が聞こえ始め、犬の遠吠えが加わる。
 左脚がまっすぐに上がり、続けて身体が起き上がり、ゆっくりと座り直す。なぜか右脚が突っ張ったように前に伸びている。寝起きの顔。眼はほとんど開いておらず、顔面が脱力していて、表情が形を成さずぼんやりと澱んでいる。救急車のサイレンが彼方を通り過ぎ、息音(ヴォイス)が重ねられる。カラスの鳴き声。都会のカラスの朝は早い。まだ早朝だろうか。
 目が覚めてきたのか、顔にだんだんと表情が浮かび始めるが、また眠たくなったようだ。右脚は相変わらず突っ張ったまま。
 「パッパパパッパー」と口が開き、声は出さず(空スキャット?)、紙袋からペットボトルを取り出し、水を飲み、口を拭い、また一口飲み、「あっ」と息を漏らす。上を向いて「あっ」ともう一息。そのまま上方を見回し、右脚を上下させて拍子を取りながら「パッパパパッパー」と口ずさむ。繰り返しの中に「ウォー」と喉を絞めた高い声が間の手のように挿み込まれる。プ〜ンと蚊の羽音がして頬を叩く。二回目で仕留めたようで開いた掌をまじまじと見る。不機嫌そう。ふっと息で蚊の死骸を吹き飛ばし、掌をスカートで拭う。
 前へ身体を傾け、右手をじっと見詰める。顔に両手を当ててのけぞり、うなり声をあげる。眼をこすり、「顔、首筋‥‥」と口ずさみながら順に触れていく。自らの身体の存在を触感により確認する儀式。「おっぱい」と唱えながら両胸を揉みしだき、次いで腹の肉をつまんで揺する。
 次いで胸のポケットから何か取り出す。二個の小石(ベンチの左手側に散らばっているのと同じ白い石)。先程の揺すりは、身体前面に付けられた四つの大きなポケットの内容物確認でもあったと知れる。「確認の儀式」の続き。両手に持って打ち合わせ嬌声をあげる。カチンという打音にエコーが付け加えられる。一つはポケットに戻し、残った一つをじっと見詰め、舌を出して舐める。石をポケットにしまい、また一つ取り出して舐める。個数を数えながら。以下繰り返し。5回目で味が違ったのか顔をしかめ、石をじっと見詰め、口に放り込んで何度か噛み締めた後、左後ろに放り捨てて、紙袋からハンカチを取り出し(その際に何か地面に落ちる)鼻を拭う。落ちたものを拾い上げると青い巾着袋で、中から取り出した鈴(小鐘)がチーンと鳴る。その先に鍵が付いている。鍵を中空に掲げ、眼に見えぬ鍵孔に差し込んで回す仕草。鍵は巾着袋に戻し、ハンカチに包んで紙袋にしまってしまう。
 右手側から犬の吠え声(近い)。そちらを振り向き、手を上げて指を折り数える仕草。「数えている。内でも外でもいつもいつまでも。風は吹かない‥‥」と録音された安藤の声が響く。右手側のモニターに字幕が表示される。
 またペットポトルを取り出し、じっと見詰め、振る。急に右手から空き缶がひとりでに転がり出し、ベンチの前を横切る。両脚を上げてそれをよけ、その反動で、いやそれをきっかけとして立ち上がる。左手へ向って歩き出す。交通騒音が大きくなる。眼に見えぬ雑踏/世界に呑み込まれていくようだ。ゆっくりと舞台の端まで行くと「とまれ」と録音された声が放たれる。その瞬間、交通騒音をはじめ一切のサウンドが消え去る。立ち止まった安藤は振り向き戻ってくる。まだらになった照明に照らされ、サウンドはなく、録音された声だけが流れ続ける。「みんなと同じように数えている」。つまらなそうに脚を蹴り出し、ベンチに腰を下ろす。「終わるときがきた」。録音された声が止み、照明が消え、風の音が戻ってくる。安藤は開演時と同じ姿勢でベンチに横たわっている。

 まだ上演の4分の1しか過ぎていないが、ここで内容の描写に一区切りつけることにしよう。先に進む前に確認しておかなければいけないことが二つある。


2.作品の構造
 一つ目は作品の成り立ちと構造についである。
 本作品は、上記「1」に示した部分を、4回ほぼ繰り返すことにより構成されている。それゆえ最初にその内容をかなり細部まで記述してみた(もとより記録映像を確認しているわけではなく、記憶と手元のメモによるものなので間違いはあるかもしれない)。この4回の繰り返しという構造は、本作品の成り立ちに関連している。
 本作品は、ARICAが2019年7月に京都大学で上演した『終わるときがきた―ロッカバイ再訪』(以下『再訪』と呼ぶ)を引き継いでいる。そして、『再訪』は題名の通り、サミュエル・ベケットの戯曲『ロッカバイ』を原作として参照している。この二つの関係性をまず見ておきたい。

 私は『再訪』の京都公演を見ていないが、Theater Company ARICAのウェブページに抜粋編集版の記録映像が掲載されており、それを見ると、舞台上の一人の女の身体と録音された声という原作の設定はそのまま踏襲されており、テクストもほぼ原作を翻訳したものが用いられている。そもそも「4回の繰り返し」という構造は原作に由来するものだ。
 ただし、変換されている点も多い。原作では女がロッキングチェアーに座ったままであるのに対し、『再訪』においては女(もちろん安藤が演じている)は机に突っ伏した状態から立ち上がり、室内を歩き回り、水を飲み、窓のカーテンを開ける等の動作を行う。ちなみに本作品公演で配布されたパンフレットでは、この点について「原作のロッキングチェアーに座っている女から、室内にこもる女へと設定を変え」たと説明されている。また、その後、2019年12月に「没後30年 サミュエル・ベケット映画祭」のクロージング・トークとして行われたラウンドテーブル「21世紀のサミュエル・ベケット」で藤田は、原作における「窓」の重要性を踏まえ、また公演場所となった京都大学稲盛ホールの特性である壁面いっぱいの大きな窓を活用するため、窓のカーテンを開けることにしたと発言している。
 原作についてはやはりウェブ上でベケットのスペシャリストであるビリー・ホワイトローBillie Whitelawによる初演時の記録映像を参照できるが、これを見ると「窓」はテクストには何度も登場し、女がロッキングチェアーに揺られている部屋にも必ずやあるであろう「窓」が、それと向かい合う他の「窓」と結びつけられていく。しかし、視覚的に「窓」が確認されるわけでは決してなく、女が座っているのが「窓辺」であるかどうかもわからない。これと向かい合う他の「窓辺」に誰かがいる保証もない。わずかな可能性が残されているばかりだ。
 もうひとつ大きな変更点として、また本公演につながる要素として、『再訪』における映像の導入がある。4回の繰り返しのうちの2回目から、女が突っ伏した机の手前側から撮られた映像が、背後の大きなスクリーンに映し出され、安藤の生身の身体と様々な関係性をつくりだしていく。これについては、本公演における映像の用いられ方を記述・分析する際に参照していくこととしよう。


3.ホームレス女性殺害事件との関係
 二つ目はメディアでも盛んに報道され、社会問題となった事件との関係についてである。
 「屋外のベンチで寝起きしているホームレス女性」という本作品の設定は、2020年11月に起こったホームレス女性の殺害事件との関係を思い起こさせずにはいない。バス停のベンチで寝ていた64歳の女性が、長年引きこもりを続けていた46歳の男に石を詰めたペットボトルで殴打され殺害された事件だ。まして2022年2月に吉祥寺で行われた電話演劇に、この事件に基づき平田俊子が執筆した詩作品『「幡ヶ谷原町」バス停』の朗読で安藤が参加したことを知っていればなおさらだろう。
 このことについて藤田は今回配布のパンフレット記事の冒頭で事件の概要を説明し、それに続けて「今作は、ひとりベンチにいる、家を失った人の話だ。あたかもこの事件を思い起こすような状況だが、倉石信乃がこのテクストを脱稿したのは、2020年4月で、事件より前のことである」と簡潔に、だがきっぱりと述べている。それゆえ本作品を「同事件に取材した作品」ととらえるのは全くの誤解にほかならない(実際、そのような浅薄な早とちりがSNS上に見られた)。また、作品受容上、同事件が脳裏に浮かぶのは仕方ないとしても、同事件に引き寄せて解釈するのでは、作品の可能性を汲み取り損ねることとなるだろう。

 再び本公演の内容の検討に戻るとしよう。


4.上演の内容(2回目の繰り返し)
 2回目の繰り返しが始まった途端、1回目ではぼうっと明るくなるだけだった壁面に赤い形が浮かび上がり、縦横に伸縮を始める。カメラは急なズーム・イン/ズーム・アウトを繰り返すせいでなかなか明確な像を結ばないが、やがてそれが舞台右手(カメラの位置)から安藤の姿をとらえた映像であることがわかる。女が目覚め、起き上がろうと高く上げた左脚の靴の裏が壁面に映し出される。
 女は起き上がり、右脚を伸ばして腰掛けたまま、ペットボトルの水を飲む。動作の流れも、風の音や交通騒音、さらには息音を含むヴォイスによるサウンドも、基本的に1回目と変わらない。飛んできた蚊を叩き潰すくだりも同じだ。しかし、視点/視角の異なるイメージが舞台空間上に並立されることで、ある種のズレ/偏差が立ち上がってくる。生身の身体と映像の画角関係は正面図/側面図(やや前方からの斜めの眺め)に近いが、映像の方がはるかに拡大されているため、一つの立体のイメージへと収束しない。生身の身体への照明が上からの柔らかいものであるのに対し、映像の方が明暗/色調ともコントラストが強く、輪郭や陰影が強調されていることも齟齬を増していよう。この時点ではリアルタイムの映像でいささかも遅延はなく、動作のタイミングは同期しているようなのだが、どこかギクシャクとしていて、ぴったりとは重ならない。
 自らの身体に触れて確認し、白い小石を取り出しては舐め、数え、最後の一つは噛み締める、奇妙な「日常の儀式」も同じなら、鍵を中空の見えない鍵孔に差し込む仕草も同じ。しかし、横から撮られた映像は、見えない鍵孔へと鍵を差し込む動作を、虚空に伸ばされた腕と共にとらえる。
 犬が吠え、指を折り、空き缶が転がって、女が立ち上がる。だが映像は立ち止まったままの生身の身体をよそに不思議な「回転」を始める。映像の中で女の背中が右手に移動すると、その向こう側に扇を開くように夜の住宅地の風景が生成していく。安藤が歩み出すと、映像の中の女も風景の中へ歩みを進め、その背中がだんだん希薄に透明になってくる。まるで仮想の世界の中に溶け込んでいくように。安藤が舞台の端で立ち止まると、映像の中の女も歩みを止める。それまで透明化していた背中が不透明に戻っている。その前に一軒の家の玄関がぼんやりと浮かび上がる。それがかつて彼女が暮らしていた家の記憶、帰るべき場所のイメージなのだろう。
 安藤が鍵を持った手を中空に差し出すと、映像の中の女が玄関のドアの鍵孔に鍵を差し込もうとする。「とまれ」と録音された声が響いた瞬間、一切のサウンドが止み、住宅地の風景が消え失せる。女の背中は映像の中に残ったまま。録音された声は語り続けている。安藤が振り向き、ベンチの方に戻ってくる。まだらの照明と強いコントラストが相俟って、こちらへ向かう映像の中の女の姿はどこかゴシック調に染め上げられている。
 声が消え、映像が消え、照明が消えて、安藤はまた同じ姿勢でベンチに横たわる。

「終わるときがきた」写真2縮小
 写真:宮本隆司


5.上演の内容(3回目の繰り返し)
 安藤の動作の流れもサウンドも同じ。だが今度は最初から映像が伴っている。ペットボトルの水を飲む辺りに来て、ようやく生身の身体の動きと映像の間に時差(映像の方の遅延)があることに気づく。飛んできた蚊を叩き潰し、身体を確認し、小石を取り出して‥‥と所定の動作を次々に進めていく安藤に、映像が僅かに遅れてついてくる。ここで噛み締めた小石が口元と手指の間で伸び、餡入りの本物の餅菓子にすり替わっているというサプライズが起こる。身体性が瞬間的に噴出するスプラスティックなコメディ。だがそれだけではあるまい。不思議な「儀式」と見えた白い小石を巡る一連の動作は、好物の餅菓子を食べることができたかつての日常の、つまりは「幸福な記憶」の反芻だったのではないか。もしそうだとすれば、2回目の繰り返しでは映像の中だけに封じ込められていた記憶が、この3回目の繰り返しでは生身の身体の属する「現実」へと滲み出し、混濁が生じ始めていることになる。
 ハンカチを取り出し、巾着袋を落とし、鍵を回して、犬が吠える。「数えている」と録音された声。ここまでは映像との時差を除けば2回目の繰り返しと同じ。だが、きっかけとなる空き缶が転がってこず、安藤の身体がベンチに腰掛けたままであるにもかかわらず、映像の中の女は立ち上がり、そこに再び生成した住宅地の風景の中に分け入っていく。遅れて安藤が歩み出す。誰もいなくなったベンチが音もなく回転を始める。
 だが不思議なことに、舞台の端で立ち止まった安藤が鍵を持った手を中空に差し出し、映像の中の女が玄関のドアの鍵孔に鍵を差し込もうとする時点では、両者の動きは同期している。「とまれ」と録音された声が響き渡り、一切のサウンドが止み、住宅地の風景が消え失せる。映像の中には女の背中が残っている。録音された声は続き、振り向いた安藤は足元の小石を蹴飛ばしているが、やがてベンチの方に戻ってくる。映像が遅れて付いてくる(いつの間に入れ替わったのだろうか)。録音された声が「ひとり」と発するところで、安藤の口が同じように動く。ここでは複数の時間の流れが絡み合っていて、進んだり、遅れたり、奇妙に同期したりしている。また最初の状態に戻る。

「終わるときがきた」写真1縮小
 写真:宮本隆司


6.上演の内容(4回目の繰り返し)
 安藤の動作の流れもサウンドも同じ。映像は最初、2回目の繰り返しと同じく急なズーム・イン/ズーム・アウトを繰り返しているが、安藤が左脚を高く上げるところから生身の身体と同期する。
 「パッパパパッパー」と口が開いたところで、ペットボトルの水を飲む前にベンチが時計回りに45度回転する(舞台のやや左手に向くこととなる)。その結果、カメラは安藤をほぼ背後からとらえることとなる。映像の中には奥の方に女が立っていて、その手前に同じ女がいて彼女を後ろから見詰めている。客席からのパースペクティヴの中で安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並び(【図1】を参照)、「背後から見詰める女の列」が合わせ鏡を覗き込んだように無限に続いているかに思えてくる。実際には、図に示すように、各視線が舞台空間においてそのような位置関係にあるわけではないのだが、ベンチに座り、静かに彼方を見やる安藤の「彼岸の眼差し」に映っているのは映像の光景以外にはあるまいと感じられる。
 ベンチに腰掛けたままの安藤の生身の身体を残して、彼女の映像が立ち上がり、奥へとさらに歩みを進める「映像の中の女」を追いかけていく。映像の中の玄関のドアが内側からひとりでに開き、中から暖かい光がこぼれ出す。ドアの前に立っていた「映像の中の女」がそこに吸い込まれるように消え去る。映像が掻き消え、サウンドには低音のノイズのリズミックな繰り返しが入ってくる。交通騒音がまた高まる。
 ホリゾントのフットライトが一斉に点灯し、安藤がペットボトルをゆっくりと口元に近づけ、やや間を置いて、覚悟を決めたように一気に飲み干す。まるで毒杯をあおるように。暗転。終演。

「終わるときがきた」写真3縮小
 写真:宮本隆司

「終わるときがきた」図1A縮小「終わるときがきた」図1B縮小
【図1A】解説
上掲の写真から「映像の中の女」が立ち上がり移動して現れた家のイメージの前に佇む。
この場面を観客の視点から記した模式図。「映像の中の女」、安藤の映像、安藤の生身の身体の三者がジグザグに配置される。
【図1B】解説
【図1A】の場面において三者がジグザグに並ぶ様子を、奥行き方向を含め空間的に描き直した配置図。黒矢印は三者の視線の向きを示す。
ここで安藤の生身の身体の視線の方向は他の二者ズレているが、映像が安藤の内面であることから「安藤の映像」を背後から見つめる位置へと視点が転移し、その結果、三者は視線の向きを揃えて一直線に並ぶこととなる。


7.ハイリスクな挑戦
 以上、2回目以降の繰り返しについて、基本となる1回目の動き/配置に何が付け加えられているかを中心に振り返ってみた。ここで映像は単なる視覚効果として生身の身体と併置されるだけでなく、遅延や離反等、様々なズレを生み出し、視覚上の動き/配置に厚みと奥行きをもたらしている。また、そのことによって観客は、安藤の肉声、録音された声、サウンドといった聴覚の系にもズレや奇妙な同期が存在し、時間の流れが輻輳していることに気づかされる。
 「客席からのパースペクティヴの中で安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並び、「背後から見詰める女の列」が合わせ鏡を覗き込んだように無限に続いているかに思えてくる」場面を経て、「映像の中の女」が家の中に吸い込まれていくクライマックスに向け、繰り返しはあれやこれやを巻き込みつつ回転を続け、徐々に速くなっていくように感じられた。だが、その高揚/加速が決して単線的なものではないことを指摘しておかねばならない。本作品における身体と映像の「恊働」の役割はまさにそこにある。そして、それはARICAにとって、とてもハイリスクな挑戦だったと思う。正直、私は劇が始まってからしばらくの間、あるもやもやとした違和感にとらわれていた。しかし、最終的には、その違和感は整理/払拭されることになる。このことについて述べておきたい。

 私にとってARICAの演劇の魅力は、何よりも「テクストに抗う身体」にあった。
 およそ演劇は言葉と身体で成り立っている。大抵の場合、言葉はあらかじめテクストに記されており、演者は舞台上でそれを発話したり、動作や配置によって示したりする。それだけであるならば、ここで身体はテクストを絵解きするためのツールでしかない。もちろん、そこに身体的造形、表情のもたらす表出力、配置と運動がもたらす空間の励起とパースペクティヴの変容等があろう。しかし、それだけなら映画の方に分がある。
 映画も演劇もつまるところ、視覚と聴覚を中心とした観客の諸感覚へのプレゼンテーションだとして、視覚系と聴覚系をいったん分離して緻密に再構成できるのが前者の可能性だとすれば、後者の強みは、それ自体「感覚するもの」である生身の身体を基軸として、その強度で諸感覚を一気に刺し貫くことにあるだろう。
 簡潔にして緻密、離散的にして強靭である倉石信乃の詩的なテクストを、肉声、録音された声、様々なサウンド、映像、印刷物等に象眼/散種しながら、安藤朋子や共演者の身体の強度が、言語のもたらす単線性(意味の一義的な確定や物語の叙述等)にその場で抗う様が、私にとってのARICAの魅力であり、その作品を体験する楽しみだったと言ってよい。『ネエアンタ』及び『Ne ANTA』における山崎広太の研ぎ澄まされた動きとそれに応える安藤の身体の柔らかな広がり、『しあわせな日々』における安藤の声のダンス、『UTOU』における身体の運動のスプラスティックな噴出、『蝶の夢 ジャカルタ幻影』における首くくり栲象の身体の静けさと安藤の身体の喧噪、『孤島』における安藤のとてつもない力業、『KIOSK』における機械仕掛けの予期せぬ誤動作と戦う安藤の身体の奮闘、『ミメーシス』における川口隆夫と安藤の身体の緊密極まりない交感‥‥。
 そのような身体の強度が、ベンチから起き上がった安藤には感じられなかった。寝起きの顔、開かない目蓋、緩んだ表情‥‥。だがやがて、それこそが、ここで身体が懸命に希求しているものだと気づくことになる。
 どういうことか。ここでいったん本作品を離れ、再び『再訪』を検討することにしたい。


8.『再訪』の教訓 「生身の身体のプレゼンスを弱める」こと
 『再訪』のクライマックスはやはりラストシーンにほかなるまい。机に突っ伏したままの生身の身体を残して、安藤の映像がスクリーンの中で初めて窓辺に近寄り、カーテンに手をかけると、これまで生身の身体がしていたように少し開くだけではなく、思いっきり開く。光が射し込み溢れるまぶしさの中で映像が宙に浮かび昇天していくように見える。するとスクリーンがするすると巻き上がり、実際のホールのカーテンが両端まで開け放たれ、横幅いっぱいに設けられた巨大な窓を全開にして、それまで安藤とともに暗い室内に閉じこもっていた観客を外からの陽光に曝す。
 公演会場が大きいため、映像が投影されるスクリーンも今回よりもはるかに大きく、映画館を思わせる。映画が映し出されているスクリーンの前に生身の身体があったとしても、観客はそれに対して注意を払わないだろう。たとえその身体が作品の登場人物であり、スポットライトで照らし出されていたとしても、認識するとは言え、眼や耳はスクリーンの方に惹き付けられるだろう。映像+音響の強度としては生身の身体は映画にとてもかなわない。
 しかし、『再訪』において、安藤の生身の身体のプレゼンスは拡大投影された映像と拮抗し、それに優っているように感じられた。彼女はカーテンを開けに行く際、動線上、スクリーンの前を横切り、彼女の身体に映像の端が投影されるのだが、にもかかわらず、彼女の身体は舞台上から消え去ったように見えない。ラストシーンにおける衝撃的なカーテンの全開に至ってはじめて、映像は生身の身体と並び立ち得たと言えるだろう。

 逆に考えれば、ここで映像は生身の身体と併置されてはいても、同一の地平に立ててはいないことになる。「身体と映像の恊働」を掲げ、映像の投影サイズも『再訪』ほどには大きく出来ない本公演にあって、生身の身体と映像が同等に作動できる共通平面をいかに構築するかが課題として問われたはずだ。

 そこで編み出された解決が「生身の身体のプレゼンスを弱める」ことだったのではないか。それは様々な方策で実施されている。まずは「寝起きで目が覚めきらず弛緩したままの身体」のはっきりしない輪郭、ぶよぶよと緩んだ皮膚や肉、開ききらない目蓋に半ば覆い隠された眼差しの提示がある【補注1】。この内側から充実していない、低強度の身体がベースにあるからこそ、その後の「パッパパパッパー」と空スキャットや小石を打ち付け合う高揚も、投影されたイメージのように身体の表面を滑っていくばかりで、その強度を高めることをしない【補注2】 。衣装に施された「保護色」も、これに一役買っていよう。

■【補注1】
 もともとこの部分は「開かない目蓋に覆い隠された眼差しの提示がある」としていたが、「眼を閉じている」との誤解を与えるのではないかとのご指摘をいただき、これを踏まえ加筆修正した。もともと「1」で「眼はほとんど開いておらず、顔面が脱力していて、表情が形を成さずぼんやりと澱んでいる。」と記しているところではあるが、ここではまだその後の安藤の行動を目撃していないため、端的に「寝起きの顔」としており、それが「眼を閉じている」との印象を与えることにつながっているかもしれない。
 というのは、この後に小石を巡るスプラスティックな身体運動が示されるわけだが、そこでも「目覚めていない身体」は基調として続いているからである。すなわち、ここで「目覚めていない身体」とは、決して「寝起きで眠たく、まだ目が覚めていない(いずれ目覚める)身体」ではなく、「目覚めているはずなのに目覚めきれない半覚醒の状態に留め置かれ続けている身体」であり、むしろ「心ここにあらず」の「脱魂の身体」とでも呼ぶべきものだ。その後、安藤からは「目を開けて前を見つめているのだけれど、像を結ばない意識というものがある」との貴重な示唆をいただいている。「まさに」と言うべきだろう。批評においては「作者や演者の見解がそのまま正解ではない」という大前提があるが、「像を結ばない」というイメージは正鵠を射ている。それは当然「眠気でうつらうつらしていて、視覚像がぼけている」状態ではなく、網膜にはきちんと像が結んでいても意識がそれをとらえていない、対象化や志向性を欠いた「離人症」的な状態だろう。
 その後の彼女の行動で、それが「帰るべき場所の喪失」による空虚ゆえのものであることが明らかになっていく。アンドレイ・タルコフスキーが描いた「死に至る病」としてのノスタルジアのことが思い浮かぶ。そう言えば『ノスタルジア』のラストシーンでは、主人公ゴルチャコフの子ども時代の思い出の場所である故郷ロシアの別荘が出現し、カメラが引いていくとその周囲にゴシック聖堂の廃墟(トスカーナに実在するサン・ガルガーノ修道院)が浮かびあがる。愛犬を傍らに侍らせて別荘の前の草原に横座りするゴルチャコフの視線はこちらに向けられているが、観客はそれが彼の思い描いた幻であることを知っており、彼もまた我々と同じ視線の向きで共に風景を眺めていると感じている。この関係は本作『終わるときがきた』と共通している。さらにゴルチャコフがトスカーナに赴いたのは、18世紀にロシアを離れイタリアを放浪した音楽家サスノフスキーの足跡を調査するためだった。サスノフスキーの背中を追うゴルチャコフ、そして故郷への帰還を果たした自身の幻を見詰めるゴルチャコフ、それを共に眼差す観客。ここにも連なる視線の鎖列が存在する。
ノスタルジア2縮小

■【補注2】
 スプラスティックな身体運動が「投影されたイメージのように身体の表面を滑っていくばかりで、その強度を高めることをしない」のは、単に身体が弛緩しているからではない。身体の隅々まで注意を張り巡らし、運動に「活き活きとした身体」を与えず、機械仕掛けのように動かしているのである。【補注1】の「離人症の身体」と対比させれば、「夢遊病の身体」とでも言えるかもしれない。なお、この注意の張り巡らしは、次章「9」で論じている「身体の分散配置」の一つの現れにほかならない。

 続いて「機械仕掛け/操り人形の身体」の提示がある。左脚を高く上げて起き上がり、右脚を突っ張ったままベンチに腰掛け、ハンカチを取り出すと巾着袋が落ち、空き缶が転がってきたのをきっかけに立ち上がる。ここでは主体的な意志の発露がことごとく連鎖して作動する機械仕掛けに委ねられ、身体の内側からの充実の契機を妨げている。身体確認や小石を巡る儀式の、ドミノ倒しのようにほとんどオートマティックに連鎖していく動作もまた同様である。それらが何度も繰り返されることにより、身体のプレゼンスの強度は確実に削られていく。
 上からのみの自然で柔らかな照明とコントラストの高い映像の対比も、生身の身体のプレゼンスを相対的に弱めていた。サウンドがほとんど変化せず、特に身体を鼓舞するリズミックな音が最後を除いて聴かれなかったことも、生身の身体と映像を等しく浸すという意味合いで意図的ではなかったかと推測する。

 このようにして、「生身の身体のプレゼンスを弱める」ことにより、生身の身体と映像が同じ作業平面に立つことが可能となる。映像部分が単なる効果、たとえば演者の内面の提示に留まっていては、安藤の映像の前に住宅地や玄関が現れるのも、所詮それだけのことであり、生身の身体と映像の動作の同期も力を持ち得まい。小石が餅菓子に化ける「記憶と現実の混濁」も単なるサプライズに留まり、他と接続する契機を失うことになる。安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並ぶハイライトも、単にシネジェニックな達成としか受け取られまい。


9.身体の分散配置
 それでは本作品における身体の強度は、「映像との恊働」を成し遂げるための妥協として弱められ、低位に留まっているのだろうか。そうではないと考える。そこにはこれまでの身体のあり方からの変容があるのだと。弱められたのはあくまで身体の輪郭/外見と結びついたプレゼンスであって、その内部で身体の力能は多方向に分散配置されており、身体の見かけの運動とは結びつかない多くの任務/作業をこなしている。
 それらを思いつくままに挙げるならば、今回のデフォルトである「寝起きで目が覚めきらず弛緩したままの身体」への度重なるリセットであり、機械仕掛けへの連動であり、映像のみならず録音された音声やサウンドへの応答/同期であり、さらにはカメラの視界/映像のフレームに自らの側面や背中を収め続けることであり、映像の切り替え操作を可能とするために繰り返し動作のタイムテーブルを毎回秒単位で管理することであるだろう。
 これに対応するのは極めて難しかっただろうと考える。「7」で近作を振り返ったように、ARICAの舞台における安藤の身体への要求水準はいつも、他では望むべくもない凄まじいものなのだが、特に本作ではその場でのズレや揺らぎ、あるいは不測の事態への対応というよりも、あらかじめ敷かれたレールに沿って厳密に運行しなければならない点で、これまでにない挑戦であったかと思う。ただ、ここで強調したいのは、制約があるから自由がないとか、即興は必要ない(成しえない)わけではないことだ。むしろ話は逆で、自由を切り開かなければ、また即興を研ぎ澄まさなければ、厳密さは獲得できないし、それをさらに進め深めることもできない。求められる自由や即興の質が違っており、ただ何も考えないから自由、準備してないから即興‥‥などという「旅の恥は掻き捨て」的な無責任は端から通用しないということだ。【補注3】

■【補注3】
 管理・制約の必要→自由・即興の喪失 という誤解を防ぐため、一段落、説明を付け加えた。

 この「分散配置」に、ドゥルーズ=ガタリが用いている「アジャンスマンagencement」あるいはその英訳である「アレンジメントarrangement」の語を充てれば、参照している文脈や事態の見通しが少々良くなるかもしれない。それは一つの身体の運動や感覚の「布置」を変容させていくことなのだ。

 身体の強度がこれまでとは布置を変え、ストレートにとらえにくくなったものの、総体としては決して低下してはいないと考える理由はもう一つある。それは本作品が、原作であるベケット『ロッカバイ』からの切断を経た『再訪』の線を、さらに先まで伸ばしているからである。4回の繰り返しという原作の構造は『再訪』に続き、本作でも保持されている。ここで『ロッカバイ』の繰り返しが、ロッキングチェアーの動きが停止すると座っている女が「More」と自ら声を上げ、これにより新たな繰り返しが開始されることに改めて注意しよう。
 原作のテクストには「この声はだんだんソフトになる」と記されている。照明等もまた。最後、女はもはや「More」の声を上げられず事切れたように見える。死に向けた衰弱のサイクル(しかも区切りとなるのはロッキングチェアーの動きである。この受動的残酷さ!)がここにある。
 これに対し、『再訪』も本作品も女は決して衰弱していくわけではない。その代わりに、共に最後の場面で、反乱軍に王宮を包囲された王妃が毒杯をあおるが如く、しばしためらった後に覚悟を決め、手にした水を一気に飲み干す。『再訪』では生身の身体はそのまま机に突っ伏して動かず、安藤の映像がカーテンを開け光に包まれていく。そこにはやはり昇天や開放/解放のイメージが浮かび上がる。本作品ではその手前で暗転して終了する。言わば結末は明らかにされない。女が日常の繰り返しを生き抜く可能性やいつか家に帰り着く希望が、抹消されずに僅かに残されている。『ロッカバイ』の気高い孤絶から『再訪』以上にさらに踏み出している。このことはロッキングチェアー → 閉ざされた室内 → 屋外のベンチ という線の進展と手を携えている。

 一方、翻って演者の視点に立ってみれば、このように身体のプレゼンスを弱めることは、「ハイリスク」という以上に覚悟を要する危険な賭けではなかったか。結果として獲得されたのは、映像と協働する手法や技術というより、映像と共に生きる身体のあり方/使い方だったように思う。(それこそが先に述べた身体の運動や感覚の新たな「布置」にほかならない。安藤には、『しあわせな日々』でガラクタの山に腰まで、あるいは首まで埋まり、身体の運動を封じられた結果、自らの声の(ダンス)能力を見出した実績がある。そして思い返すなら、転形劇場による沈黙劇『水の駅』の初演(1981年)において、作・演出の太田省吾から「もっと遅く!」と言われ続け、ついには「2メートルを5分かけて歩く」というそれまであり得なかった速度に至り、演ずる身体の布置を鮮やかに組み替えてみせたのが彼女ではなかったか。今回の賭けは必ず未来に繋がることを信じている。


ARICA + 越田乃梨子『終わるときがきた』
2022年12月7日〜11日  ※福島は11日に観劇
BankART Station
演出:藤田康城
テクスト:倉石信乃
映像・コンセプト 越田乃梨子
出演:安藤朋子
音楽:福岡ユタカ 
装置:高橋永二郎

照明:岩品武顕 (with Friends)
音響:田中裕一(サウンドウエッジ)
舞台監督:佐藤幸美(ステージワークURAK)
衣装:安東陽子 
衣装製作:渡部直也
宣伝美術:須山悠里
字幕翻訳:常田景子
字幕制作:藤田紅於
制作協力:前田圭蔵
制作:福岡聡(カタリスト)

『終わるときがきた―ロッカバイ再訪』公演記録映像【抜粋編集版】
https://www.aricatheatercompany.com/works/262/

サミュエル・ベケット『ロッカバイ』初演記録映像(1981年)
https://www.youtube.com/watch?v=66iZF6SnnDU

「没後30年 サミュエル・ベケット映画祭」
ラウンドテーブル「21世紀のサミュエル・ベケット」採録
https://realkyoto.jp/article/beckett_roundtable/



補論:「ひとり」と「みんな」
 本作品を対象とした「テクストに抗う身体」の視点からの考察ではあるが、本作品及び原作『ロッカバイ』のテクスト細部からの議論となり、本論の文脈に収まりにくい点があるため、以下に「補論」として論ずることにする。

 本作のテクスト全文はパンフレットの見開きページいっぱいに印刷されている。4つのパートに分かれており、いずれも短文で、詩ともとらえられる。すべてのパートが「とまれ / なんでもない」で始まり、第1パートと第3バートが「終わるときがきた」で締めくくられるなど、繰り返しを基本としている。しかし、忠実な繰り返しではなく、内容が発展していく。ここでは「ひとり」と「みんな」を軸に読み解いていく。なお、本論で述べたように、このテクストは上演の中に散種されており、そのままの順序ですべてが示されるわけでない。

 第1パートで「わたし」が登場する。「わたしはわたしに閉じこもっている」に続けて「外にいてもひとり」とあるから、ここで「ひとり」とは、まずは孤独の謂いである。一方、「みんなと同じようにそこにいる」とあるので、「みんな」とは「わたし」以外の大勢であると考えられる。
 第2パートには「みんなの椅子にすわる / みんなの広場でじっと」とあり、これは寝起きしているベンチを指すと考えられる。ここで「みんな」とは「公共」の意であって、「わたし」を含むことになるだろう。
 第3パートでは「ひとりが通りにやってくる / ほかはこなくてもひとりだけはくる / やっとその日がきた / ついにきた なつかしい」と「ひとり」が示される。後半は「わたし」の感慨と考えられるから、ここで「ひとり」とは「わたし」以外の特定の誰かだろうか。
 第4パートでは、まず「そのひと」が現れる。「通りからはずれて / 家のなかへ いいえ / 家の入口のところ なつかしい / そのひとの居場所だった / そのひとは入口で立ちどまった」と。唐突な登場ではあるが、とりあえず「そのひと」≒「わたし」であり、ただし、現在の生身の「わたし」ではなく、たとえば記憶に残る過去の「わたし」であると考えられよう。だが、しかし、先ほどの文は「いつも立ちつくしていた / わたしと同じひどい身なり」と続く。「そのひと」は居場所があった頃の「わたし」ではなく、すでに居場所を失ったホームレスとしての「わたし」に違いあるまい。「わたし」が「わたし」を「そのひと」として見ている関係。これは上演における安藤と安藤の映像の関係と重ね合わせることができる。
 さらに第4パートでは「みんな」に変容が生じる。これまでとほぼ同様(なぜか「すわる」が漢字になっているが)の「みんなの椅子に座っている」に続けて、「みんなと同じきたない服」とある。ここで突然「みんな」がホームレスである「わたし」と同じになる。さらにしばらく置いて後の部分に「最後のふるえもとまって / わたしがわたしじゃないみんなになる / わたしがわたしじゃない全員になるときがきた」とある。このくだりはテクストの最後の部分、「最後はみんなのなかへ / 引きこもる / みんなのなかへ解放して / わたしはわたしをひきとめるのをやめて」と確実に響き合っている。

 この第4パートにおける最終的な「みんな」の変容は、共同体のような「ある集合体」への帰還ではない。そこに受け止め、包んでくれる何かが確として存在しているわけではない。ここで「みんな」とは、かつて自分もその一部であった「全員」のいわば「残像」であるに過ぎない。最後にもたらされるのは「わたし」=個の融解というべき事態である。孤独な魂をやさしく迎え入れ、やすらぎをもたらしてくれる死のイメージ。それが空っぽの「わたし」の唯一残された望みであり、それだけに悲痛な叫びである。

 私の観た限りでは、この第4パートにおける最終的な「みんな」の変容、そして個の融解への希求は録音された声によって語られながら、舞台上での安藤の生身の身体、安藤の映像、「映像の中の女」のいずれにも、その直接的な反映は感じ取れなかった。また、本論で述べたように、『ロッカバイ』や『再訪』と異なり、本作の結末では死は暗示されない。テクストにおける「みんな」の変容は、オフの声として流れるだけでスルーされたのだろうか。そうではあるまい。例の安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並び、そこで「映像の中の女」が玄関に吸い込まれて消えてしまう(「わたし」の融解)場面を、そのリアライゼーション(現働化)としてとらえられるのではないか。
 客席のパースペクティヴから観た三者の配置については、先に【図1】で示したところである。三者は同じ方向を向いて一列に並んでいるわけではないが、映像に映し出されているのが生身の安藤の思い描く光景であることから、彼女の身体はこの列に加わることになる。さらにその安藤の生身の身体を眼差している観客もまた、その眼差しの強度により同じ列に加わることになるだろう(【図2】を参照)。劇を観る私と「わたし」がそこで一挙にスパークし、束の間開かれた「わたし」→「みんな」の回路に劇を見ている観客もまた巻き込まれ、「みんな」の一員へと変貌を遂げる。
 テクストの結末は、上演においては内側に折り返され(これにより上演の結末に先立つことになる)、かつテクストの絵解き(イラストレーション)としての意味作用や感情表出を通じてではなく、身体と映像の協働により、力線の描き出すダイアグラムとも言うべき光学的な配置として実現される。この本作のクライマックスを、テクストに対する身体の抵抗の突出点としてとらえたい(ここで映像は身体と密接な共犯関係を結んでいる)。この「折り返し」により、ペットボトルの水を飲み干すラストシーンを死の暗示へと結びつけず、「本論で述べたように『再訪』から一歩、『ロッカバイ』からは三歩手前で歩みを断ち切ることによって、宙吊り」のまま留め置くことが可能となった。生への一縷の希望を残すこの切断にもまた、身体によるテクストへの抵抗を看て取りたい。
「終わるときがきた」図2縮小
【図2】解説
【図1A】の場面を眼差す観客は、視線の対象である「安藤の生身の身体」に同化することから、【図1B】と同様に視点が転移し、三者の列に加わり、三者をさらに背後から見詰めることとなる。

 深読み/裏読み、さらには紆余曲折の果ての曲解/誤解が過ぎるのではないかとの反論もあろう。なぜ「わたし」を「みんなのなかへ解放して」との願いをストレートに受け止めないのかと。それは先に述べたように、かつて自分もその一部であった「全員」の「残像」への個の融解に過ぎないからである。さらに電子ネットワークによる情報のシャワーが、生身の接触を欠いた個人の身体を侵食していく事態に「映像」が大きな力を持っていると感じているからである。
フランコ・ベラルディ(ビフォ)は『大量殺人の“ダークヒーロー”―なぜ若者は銃乱射や自爆テロに走るのか?』(作品社)、『フィーチャビリティー』(法政大学出版局)等において、人々の間を結びつける共感がシステムによって断ち切られた社会状況を告発している。があるだろう。それは一人ひとりの身体の問題にほかならない。以下、『フィーチャビリティー』からいくつか抜粋引用したい。

「個人的身体は、ネットワーク化された生産の新たな次元で、神経刺激のたえざる強化にさらされるとともに、他者の身体から遠ざけられる。そして誰もが同じような神経への電子的刺激のなかで生きることになる。過剰に刺激された身体は孤立化するとともに過剰に接続することになる。接続すればするほど孤立化するということだ。」(p.65)
{過剰刺激の状態においては、認識的有機体は刺激の感情的中身を処理することができない。性的不能も同じ因果関係である。刺激の頻度と拡散、性的刺激に身をさらす速度といったものが、ある点まで高まると、感情的メッセージを意識的に解読し、必要な優しさをもってそのメッセージを処理することはむずかしくなる。われわれの時間は、短く、狭く、収縮している。ゆえに刺激は欲望に転化しにくく、接触は喜びに転化しにくいのである。」(p.67)
 「近くの身体からくる感情は、われわれの注意を持続的に引きつける遠くからくる強烈な刺激によって薄められてしまうのだ」(p.70)
 「感性は硬直し、共感は低下し、刺激スピードが意識を自動化に移行させる。倫理の唯物論的基盤は、他者の身体を自らの身体の感覚的延長と見なすことに基づいている。この倫理の唯物論的基盤の可能性は、共感的解釈が自動的な統語論的パターン認識によって置き換えられると、消えてなくなる。社会的関係のなかに共感が流れているときは、他者への尊敬は倫理的義務ではなく、自動的喜びである。こういう条件の下で、はじめて他者の喜びが自らの喜びを可能にする。」(p.73)
 「倫理的行動は価値に影響されるものではない。そうではなくて、それは喜びや苦しみ、孤独や欲望に影響されるものであり、倫理的麻痺は他者の喜びや他者の苦しみを感じ取ることができない無能状態をもたらす。」(p.75)

 SNSで「いいね」を押したり、シェアやリツイートしたり、短文コメントを発したりするのは、決して身体的共感ではなく、電子的刺激に対するオートマティックな(だがストレスに満ちた)反応にほかなるまい。接続すればするほど孤立化し、孤立化すればするほど接続に飢えるという悪循環。
 生身の身体を基本とする演劇が映像テクノロジーを活用する場合、不用意に歩み寄れば自らを電子情報の集合体へとたやすく変容させることになってしまいかねない。いやむしろ消費促進の観点から見れば、明らかにその方が得策だろう。そうではなく、そうした大量高速の情報流、絶え間なく続く神経刺激への耽溺に抵抗するための方策として、改めて映像を見直すことができるのではないか。今回の『終わるときがきた』を観ながら、また観た後でそのように考えた次第である。

 本論で指摘した通り「受動的残酷さ」に満ちた『ロッカバイ』だが、にもかかわらず記録映像の中で女が死へと向かうプロセスには、哀れさ/哀れみなど入り込む余地は微塵もない。ここで「ひとり」はロッキングチェアーに身を埋めながらも限りなく気高い。その理由の一端を、録音された声が同じ女の声であるにもかかわらず女を一貫して「she / her」と呼んでいることに求めたい(もちろんホワイトローの顔の近寄り難い厳つさは大きいけれども)。「終わるときがきた」に対応する原作テクストは「time she stopped」である。ここには録音された声による語りをそのまま女の内面の吐露としてしまわない、覚醒した距離の意識があるだろう。女のいかにも貴族の未亡人然とした格式を漂わせる衣装も、凛とした尊厳を保ち続けるのに役立っている。ここで「ひとり」は「みんな」を求めない。彼女が思い描くのは、どこかの窓辺に立っているかもしれない別の「ひとり」である。ここで「ひとり」の底が抜けて、だだ漏れ的に「みんな」と通底することはない。「ひとり」と「みんな」を結ぶ回路は、気高さを保持した「ひとり」同士が辛うじて結びついていった果てにしか開けることはないだろう。
 ちなみに『ロッカバイ』古典的定訳というべき高橋康也役では「time she stopped」が「もうそろそろやめていいころよ」と訳されている。「終わるときがきた」はこれに比べ、一人の女の内面から普遍の方へとより遠ざかっているように感じられる。なお、本作パンフレットに掲げられた作品名の英訳は『ロッカバイ』とのつながりを明らかにするためだろうが「time she stopped」とされている一方、上演時字幕では「time to stop」と代名詞なしで英訳されていたことを付け加えておこう。ここにも「みんな」の反響を聴き取らぬわけにはいかないように思う。

 観劇後に演出の藤田康城から、映像のフレームを外して安藤だけの身体が立つ、最後のシーン5というのも構想してみたいとの話を聞いた。映像との協働作業を経て、身体の強度のこれまでとは異なる布置を体得した身体に、改めて何ができるか/させるかが問われることとなろう。協働によるインタラクション(相互作用)とは、センサーがピコピコ言うようなちゃちな電子機械仕掛けではなく、本来はこうした実践のことにほかなるまい。


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:29:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
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