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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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萩尾望都に花束を②-マット・ソーンさんからコメントをいただきました
 な・なんと、前々回ブログで採りあげた「文芸別冊 総特集 萩尾望都」執筆者のマット・ソーンさんからコメントをいただきました。ありがたいことです。まずは、以下に内容をご紹介します。



無頓着なソーンです。

私の萩尾先生とのインタビューを取り上げて下さってありがとうございます。

無頓着…ですか。(・・;)どちらかというと「確信犯」です。そのインタビューをしたとき、私は萩尾先生とは10年ほどお付き合いさせていただいていて、『11人いる!』や『A, A'』などの翻訳をさせていただいていました。アメリカの『The Comics Journal』から萩尾先生のロング・インタビューを頼まれた時、「やるからにはみんなが訊きたくても訊けないようなこと訊いちゃう」と決意しました。そしてインタビューを始める時に、「色々ぶっ飛んだ質問もさせていただきますが、もし『それはやめてほしい』というのがあればご遠慮なくおっしゃって下さい」と、一応断っておきました。ちなみに「それはやめてほしい」という内容は全くありませんでした。萩尾先生は寛大であります。それを知った上での先生への甘えでした(苦笑)。この日本語版を出すとき、日本のファンに「無頓着」と思われるだろうと予想していました。(編集の方に「本当にこれを載せちゃっていいんですね?」と再三確認しました。)それでも日本の方に先生のストレートで大変興味深い回答を読んでほしかったです。

あと、言い訳に聞こえるかもしれませんが、「さも自分が発見したかのように論文」を書いたつもりはなく、逆にその解釈は普通だろうと思って書いたので、日本のファンからの激しい反論にびっくりしました。でも、実際に、あの論文を発表して間もなく、そういった比較文学論的な「批評」を書くのは自分の性に合っていないと気づき、「文化人類学」の方に移って、フィールドワークに基づいた読者の調査を始めました。

などということより、最後の方のあなたのトーマの解説と言うか感想がすばらしい!…と、それだけ言いたくてコメントをしようと思いました。



 どうもありがとうございます。いやいやびっくりしました。さて、それではお答を。この場合、「無頓着」は肯定的な評価です。日本的な感情共同体を前提にしないことで、萩尾望都さんを自由にしたという意味で。当然それは意図的なことであり、「確信犯」的所業でしょう。と同時に、彼女の方にも、それに応えるだけの資質(と期待)が備わっていたということだと思います。
 彼女の描いた/書いたものを見ていて、「すべてのことに自分なりの答をきちんと出す人だなあ」と感じます。それはもちろん白か黒かの2分法で考えるということではなくて、「世間がそう言っているから、まわりがそう言っているから、そうなんだろう」という問題の片付け方をせずに、必ず自分で考えて自分なりの答を出すし、答が出ない問題は「未解決」あるいは「保留」として、きちんと分類されている‥というような意味です。平気で「他人の言葉」を自分のことのように語ることはしないというか。

 もうだいぶ前のことになりますが、「笑っていいとも」のテレホン・ショッキングのゲストに彼女が出演したことがあって、タモリの質問に、普通なら曖昧に笑って受け流すところを「私の払った税金が道路や橋になるのです」と平然と答え、周囲を唖然とさせたのをよく覚えています。私も当時は「やっぱり宇宙人的な人だ」と思ったものですが、それは彼女の中ですでに答えが出ていたことなのでしょうね。それと、その時にもうひとつ事件があって、次回出演者の交渉中にタモリが手元の紙にいつも落書きをしていて、おそらくオ○ンコか何か描いてるんでしょうが、普通、女性ゲストはあきれたり、恥ずかしがったり、見て見ぬふりをしたりするところを、彼女は何とタモリの頭を「ぺしっ」とはたきました。これも、共同体の空気に縛られない彼女の本来的な行動パターンがよく出ているところだと思います。

 本来、作家として、ひとつの世界を創造している以上、自分の考えを確立し、それに責任を持つのは当然であると、彼女の作品は常に主張しているように思います。それが世間の常識と違っているかどうかは問題でない。よく世間の「常識」に反してみせることで、「表現者」を気取る人たちがいますが、それは先ほどの「世間がそう言っているから、まわりがそう言っているから、そうなんだろう」を、そのまま裏返してみせただけのことであり、それこそ「紋切型」にほかなりません。
 彼女が親しくしていた表現者に、野田秀樹と高橋巌がいます。表現の形式、つくりだす世界の手触り、あるいはもっと簡単に言って「話し方」(頭の回転の速さを含む)のレヴェルで相当に異なる二人ですが、彼女は二人の中に、自分と同じような「自分なりの仕方で考え抜かれた創造世界」を見ていたのではないか‥という気がします。

 以前に彼女は、作品を生み出すためには意識の奥底へ深く深く潜行していかなければならないと語っていました。様々な素材を仕込んで一種の過飽和状態をつくりだし、言葉やイメージの断片が浮遊し、思いがけない結びつきが生まれ、またすぐにほどけていく、自らの意識の尖端に集中しながら、それをアリアドネの糸として、入り組んだ迷宮の中へ少しずつ下降していくのでしょう。彼女の作品に魅力を与えているのは、常にこの「深さ」の体験であるように思います。もちろんそれは、具体的な作品において、非常に多様な現れ方をするわけですが、それでも単なるストーリー構成/叙述の巧さとか、構図や描線の見事さとか、キャラクター造型の魅力等を超えて(これらのうちの一つでもあれば優秀な漫画家でしょう)、彼女ならではの「作家性」の強さを感じさせるところです。
 とすれば、彼女の作品の真の魅力を語るためには、彼女のように鮮やかにサイコ・ダイヴィングするのはとうてい無理としても、何とかして、ほんの僅かでも、この「深さ」に触れる必要があるのではないでしょうか。それゆえ、批評の営為が求められるのだと思います。その点で、もしマットさんが批評を断念されてしまわれたとしたら、大変もったいないことだと思いますが、ここで言う批評とは、批評文を執筆することだけでなく、様々な批評性、あの魅惑的な「深さ」に指先だけでも触れようとする努力を含みますので、サンディエゴで彼女の講演を主催し、レイ・ブラッドベリと彼女を引き会わせるマットさんの取り組みは、じゅうぶん批評的なものにあふれていると思います。

 そうした批評への回路とマットさんが最近研究していらっしゃる「受容コミュニティ」との交点として、たとえば「ファンクラブの効用」といったテーマが浮かぶのですが、これはまた次の機会に。貴重なコメント、本当にどうもありがとうございました。



マット・ソーンさんのホームページ(日本語)
英語ページには萩尾望都インタヴューも掲載されています。 
http://matt-thorn.com/index-j.html

写真はマットさんのブログから。
萩尾望都とレイ・ブラッドベリ

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アート | 00:00:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
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