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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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Eddie Prevost&John Butcher@Egg Farm 18th Sept.2010
 AMMのエディー・プレヴォー(perc)とジョン・ブッチャー(reeds)のデュオが、国内ツアーを始めた。デュオとしてはライヴ初日に当たる深谷エッグファームでの演奏についてリポートする。

 道路をそれ、木立の中に入ったところに建てられたホールは、手頃な広さにゆったりと椅子とテーブルが配されており、併設のカフェの窓からは周囲の木立が覗く。木張りの壁は吸音にも配慮しており、最も高いところで9mはあろうかという空間のヴォリューム(フラットな天井はなく、真ん中が山型に高くなっている)の豊かさが、自然な響き感を確保している。我々を乗せた送迎の車が到着した時、ちょうど二人はリハーサルを終え、カフェで食事をしているところだった。招聘元であるJazz&Nowの寺内氏によれば、二人はこのホールのアコースティックをたいそう気に入り、とても熱のこもったリハーサルになったとのことだ。

 客席と同じ高さのステージ部分には、バスドラムが打面を上にしてスタンドに乗せられ、セットされているのが眼をひく。その右手にスネアと吊り下げられた大きな銅鑼。テーブルには各種のスティックや大小のシンバル等の音具が並べられている。通常のドラム・セットは組まれていない。PAも無しのフル・アコースティックのセッティング。

 プレヴォーが銅鑼の調子を試すように軽く二・三度叩き、安定したうねりを引き出し、振動する銅鑼に金属片を触れさせて、甲高い震えを中空に漂わせる。一方、ブッチャーは力みなく直立した姿勢からテナーに息を吹き込み、引き延ばされたロングトーンのうちに、幾つもの音の層の積み重なりを示してみせる。こうして演奏は、ひとつの音の中に敷き詰められた複数の響きの層を、互いに重ね合わせ、透かし見るようにして始められた。音は匂うように立ちのぼり、馨しく空間を満たす。演奏者の姿はすぐそこに見えるのだが、音はその像から発せられるというより、空間から湧き出し、聴く者を取り巻くように感じられる(正対するのではなく)。それゆえ視覚的な距離感覚に頼っていては混乱を来たすことだろう。プレヴォーが銅鑼に対して施す、彫金職人のようなとてもちっぽけなアクションが、そのまま耳元でささやく。重ねあわされた音がねっとりと密度を増していっても、決して飽和せず、漂うような「希薄さ」(音の層や粒子がくっきりと隙間をはらみ、軽やかに運動/散乱している感じ)を失うことはない。
 ブッチャーがノンブレス・マルチフォニックスに転じ、泡立つような性急さを持ち込んでも、あるいは飛び跳ねるようなフラッターや息のざらつき/ざわめきを注いでも、空間に漂う響きは薄暮の明るさを保ったまま、軽やかにさざめきながら、この新しい運動を受け止めていく。演奏は各々が繰り広げる新たなアクションに慌しく対応することなく、一定の状態を保持しながら、互いの音が浸透しあい、複数の層の生成が変化していく様を示し続けた。銅鑼の弓弾きが煙るように立ちのぼらせる倍音を、正弦波にも似た甲高い響きが横切り、シンバルの弓弾きによるつんとした芳香に伴われて、中低音を基底に美しく整えられたテナーの倍音列が、リング・モジュレーターを通したように眼の前でねじれていく。二人の音は時に聞き紛うほどに類似していながら、決して混濁することなく、空間を棲み分けている。

 前半の演奏が一部の隙もない完成度の高さを誇ったのに対し、短いブレークをはさみ、ブッチャーがソプラノにも誓えて挑んだ後半の演奏は、試行錯誤の連続となった。
 プレヴォーは前半ほとんど用いなかったバスドラの打面に大小のシンバルを並べ、これを叩いていく。乗せたまま叩けば軽やかで壊れやすい不安定な響きが、中央部を打面に押さえつけて叩けば、より深く安定した伸びやかな響きが得られる。前半のゆったりとしたたゆたいを欠いた、この移ろいやすい音色のアンサンブル(それは時に大時計の内部の機械仕掛けを思わせる)に対し、ブッチャーは噛みちぎったようなサウンドの破片の射出で応える。演奏は薄暮に身を浸す代わりに、淡い光のちらつきへと踏み出すこととなった。シンバルの連打は、互いの干渉により(そこにはバスドラの共鳴の揺らぎも含まれるだろう)、ある種の「濁り」を響きにもたらし、その結果として音は輪郭を明らかにし始める。エフェメラルに漂う希薄さから響きの「実体」が姿を現し、重力に捕われ、こぼれ落ちていく。
 プレヴォーはシンバルを片付け、バスドラの打面をばちの先端のゴム球でこすり始める。音は波打ちながら、いよいよ輪郭を明らかにする。ブッチャーのソプラノもまた、中音域の粒立ちと高音域の軋りを併走させながら、地表へと舞い降りる。以降、演奏は前半と打って変わって、「地に足を着けた」(ということは重力と身体の輪郭にとらわれた)サウンドの繰り出しあいの様相を呈することとなった。それはAMMの通常語法だったレイヤーの敷き重ねとも異なり、むしろ一時批判の的となった「ポスト・ウェーベルネスク」な性急さに近い。とは言え、サウンドの多彩さには眼を見張るものがある。プレヴォーがスネアを裏返し、響線を弓弾きすれば、そのざらざらとしたざわめきに、ブッチャーがやはりノイジーにざらついたノンブレスで応え、銅鑼の弓弾きを鋭い共鳴音が断ち切る。
 いずれの響きも前半の演奏のようには空間を満たすことができず、一時、辺りを照らし出して燃え尽きてしまう。このことがサウンドの交替、新たなサウンドの渉猟を加速する。シンバルでバスドラを、銅鑼をこすり、ついにはゴム球でホールの壁をこすり始めたプレヴォーは、最も鳴りのよいドア部分に取り付いて「演奏」に没頭する。再びテナーを手に取り、太い濃い音色の実体感で演奏を支えようと懸命だったブッチャーは、再度ソプラノに持ち替え、ベルを床に密着させて、同じくホールを吹き鳴らそうとする。

 結局、後半の演奏は最後まで安定した演奏平面(空間と言うべきか)を見出せずに終わった。しかし、互いに手持ちのカードを切りあいながら、演奏がどんなにパフォーマティヴな局面に傾いた時であっても、両者の視線が最後まで音が放たれ混じりあう場である空間に注がれ、サウンドの変容を見詰め続けたことは指摘しておかねばなるまい。そこでは「ポスト・ウェーベルネスク」からFMPあたりの典型的演奏によく見られる、フレーズを奏しきって進む、演奏者の身体の運動に根差した演奏のリズム/アクセントの付け方は最後まで見られなかった。
 前半の演奏の完成度の高さは見事なものだったが、彼らにとってそうしたまとまった演奏を行うことは、おそらくさほど難しいことではないだろう。むしろ後半の試行錯誤の連続を、そうした演奏(の安全な閉域)にとどまることを潔しとしない、果敢な冒険心の表れとして評価したい。そこにはサウンドの自在な変容(ほとんどエレクトロ・ァコースティックな)のうちに解消されたかに見えた、演奏者の身体の輪郭やサウンドに働く重力が再び姿を現していた。前半に空間を馨しく満たしていた優雅な希薄さと、それを支えるために水面下でもがき続ける水鳥の脚の運動(疲弊し重力の魔に捕われていく身体)。

2010年9月18日(土) ホール・エッグファーム(埼玉県深谷市)


エディー・プレヴォー 
Eddie Prevost(bass drum,snare drum,gong,small percussions)


ジョン・ブッチャー
John Butcher(tenor&soprano saxophone)


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:19:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
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