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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ECMの音の眺め② サイコ・ダイヴァー
 空間とECMの関係について考え始めたのは、ごく最近のこと、6月に開催した「ECMカフェ」の準備中のことだった。ECMの音世界に通暁した原田さん、多田さんに様々な音源を紹介してもらい、それを聴きながら、あちらこちらへと連想をさまよわせ、幅広く(時にあてもなく)議論を重ねる中で、ECM独自の空間哲学(と私の考えるもの)を見出していくこととなった。また、同じ音を複数で聴くことの大事さに改めて気付かされることにもなった。私の場合、ここでアクセントは「同じ経験をみんなでする」ことではなくて、「同じ場に居合わせ、同じ音を聴いたはずのみんなが、実は違う経験をしている」ことを発見することに置かれているのだが。一人では気が付かなかった視点に驚き、それに触発されて、新たな感覚/思考の道のりが始まり、見たことのない風景が開かれていく‥。26日(日)の「純喫茶ECM」も、そのようなものにしていきたい。

 さて、こうした「空間の探求」は、ミシェル・ドネダやジョン・ブッチャーの歩みをたどることに始まり、さらにそれを反対側から、つまりはECMの側から再度たどり直すことで、「ここには何かある!」というある種の確信を得ていくことになるのだが、その過程で思考を後押ししてくれた、私にとって重要なエピソードについて記しておきたい。
 前回、空間に重点を置いた音世界の把握に対して、違和を表明するのはまずは演奏者たちであると書いたが、これは所謂「ジャズ・ファン」も同様だろう。彼らもまた演奏者の個性の発露こそが「演奏」であると信じているからだ。これは、ジャズ的な世界把握の延長上でフリー・インプロヴィゼーションをとらえる場合も同様で、演奏者の表明や演奏者同士の対話を主文脈として、音を聴いていくことになる(註を参照)。
 それゆえ「耳の枠はずし」第3回で、ドネダやブッチャーの試みを追いながら、アトス山の礼拝に至る道のりは、「ジャズ・ファン」には過酷なものであるように思われた。もちろん、「ジャズ耳」にはわからないなどと言うつもりはない。ふだんと違う筋肉を使うことになるし、通常のジャズからフリー・ジャズへと「命綱」を張って移動しているとすると、その先まで伸ばすには「命綱」の長さが足りない(「えいやっ」とばかりに「命綱」なしで飛び移ることを余儀なくされる。貪欲な聴き手はこれを恐れないのだが)のではないかと考えたからだ。
 「耳の枠はずし」全回を通して聴いてくれた女性がいて、先のドネダからアトス山に至る音の流れを、とても興味深く聴いたと話してくれた。フリー・ミュージック周辺をさぞ聴き込んでいるのかと思って尋ねると、全然そんなことはなくて、この手の音楽はECMに興味を持って聴きはじめてからだから、せいぜい2~3年だと言う。これにはちょっと驚かされた。ECMに独自の空間哲学があるのは先に延べた通りだが、ふつうECMはそのようには聴かれていない(まあたいていの場合、「おしゃれな音楽」としてですね)。
 空間を志向するECMの音世界と彼女の感覚のある部分が、幸せな共鳴を果たしたということなのだろう。ECMという「迷宮」には、幾つもの入り口が開けている‥という所以である。しかし、そこから「迷宮」の奥深くへと分け入り、核心に達するには長く曲がりくねった見通しの効かない道のりが待ち構えている。そこを踏破するには、自らの感覚/意識の先端に集中し、それを導きの糸としながら、風景をかき乱さぬよう、少しずつ歩みを進めていくサイコ・ダイヴィングの技芸(アート)が必要となる。

 高橋悠治は「かんがえのはじまり」(「たたかう音楽」晶文社所収)に、次のように書きとめている。
 「かんがえるために、すでに頭の中にあって心をなやます、めまぐるしいことばの流れを追いはらう。自分の呼吸に注意をむけ、その周期をすこしずつゆるめる。自分が〈一個の呼吸器〉(デュシャン)になるまでこれをつづける。あるいは、指関節をかむ。タバコをふかす、口琴をならすなど、口もとにかたい物質が接触することに注意をはらう。(中略)どの場合も、対象物より自分の感覚器の先端に焦点をあわすことと、音がしないか、かすかな音を立てるものにかぎることがだいじだ。〈無心〉になったり、自己催眠で意識をねむりこませるためにこれらのことをやるわけではない。反対に、とりとめのない空転のなかに見うしなっていた意識が眼をさますのだ」

 自らの意識の底へと下降しながら感覚を緩やかに解き放ち、一点に集中するのではなく、空間全体の広がりをとらえること。響きの希薄な広がりをつくりだしている(生成している)動き/明滅を、頬に風を感じるようにとらえること(軌跡を追うのではなく)。その時、プールの底から水面を見上げたように、揺らめく光と音、圧力と温度、甘酸っぱい息苦しさと心臓の鼓動は一つになり、世界は触覚的なものとして現れてくるだろう。
 空間設計/デザインを仕事とし、写真も撮る(下に掲げた「純喫茶ECM」の扉写真は彼女の撮影!)彼女は、もともと空間感覚に優れているのだろう。だが、それだけではないはずだ。そこにはECMの「響き音に触発された、先に示した「深さ」の体験が、確実に息づいているように思われる。

【註】
興味深いのは、そこでサウンドが演奏者の肉声から遠ざかり、物音や正弦波を含む電子音等の「音響」へと漂流していっても、この図式が揺らがない(揺らぐことを認めない)ことだ。そこでは「演奏者たちはそれらのサウンドを肉声化/身体化しているのだ」との主張がなされ、あるいは「あえて」そのようなサウンドを自らの肉声として選び取った必然性が、演奏者の「意図」として最初に置かれることになる。これにより、サウンドのレヴェルでの切断は、「音響」を肉声として認めるか否かという「文学的」なレヴェルへ移項される。そして「こうした認識論的切断を経ていない者には、新たな演奏世界を聴き取ることはできない」との託宣が下される。これは「この服は愚か者には見えない」という、誰もが童話「裸の王様」でよく知っているのと同型のレトリックにほかならない。そして、それが通用するのは、走り出た一人の子どもが「王様は裸だ」と口走るまでなのだ。


『ECM Catalog』刊行記念「純喫茶ECM」
渋谷アップリンク・ファクトリー
日時:9/26(日)開場18:00/開演18:15
料金:¥1,500(1ドリンク付)


「純喫茶ECM」扉ページ

photo:Hiroko Saitoh
art direction:Masao Harada
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音楽情報 | 23:20:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
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