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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ECMの音の眺め④/萩尾望都に花束を③ ファンクラブの効用
 さて、渋谷アップリンク「純喫茶ECM」を明日に控え、こうした「共に音を聴く」イヴェント(演奏会を含む)の効用について考えてみたい。ついでに、以前に書きかけた萩尾望都カミング・アウトの続編も。

 CD売り上げが落ち込む中、電車の中で耳にイヤホンをしている人の比率は増えている。mp3プレーヤーの普及の結果である以前に、音楽を個別に聴くことが一般化しているのだろう。そこで、ライヴの効用が説かれる。単に「みんなで」聴くことの楽しさだけでなく、隣の誰かの反応が自分の「聴くこと」を触発するなんて意見もある。本当にそうなのだろうか。
 この国には家族でコンサートに行く習慣なんてなかった。日曜は家族揃って教会に出かけるような敬虔なクリスチャンの多い国、例えば身近なところで韓国との違いはそこにある。だから、音楽は昔から個別に聴かれていた。なかなかレコードが買えないから、友人宅のステレオで聴かせてもらったりすることはあるにしても、かつては一家団欒の中心にあったテレビだって、いまは個別に見ているのだ(これは食事時に家族が顔を揃えなくなった「孤食化」の結果でもあるだろう)。ましてや音楽においておや。
 にもかかわらず、音楽は共同体験の基盤となる、流行歌は時代の鏡となり、時のアイドルは記憶の物語に欠かせないアイテムだ。ビートルズのリマスターCD発売時には、日本国民全員が何らかの形で「ビートルズ世代」になったようだった。実際には、ビートルズの現役時代、すべての若者がビートルズに耳を傾けていたわけではなかった。むしろ、少数派だったかもしれない。にもかかわらず、「ビートルズを聴いていなかった彼ら」も、「我らの青春を彩ったビートルズ」について語ってやまない。
 自分が同じところに属している(仲間外れでない)ことを確認するために、ライヴの共同体験を求めるのだとしたら、そんなものはいらない。むしろ、同じ時に同じ空間に居合わせながら、一人一人が異なるものを見て、異なるものを聴いて、違う経験をしていることに意味があるのだ。
 小林秀雄はスクリーンに映る一本の樹木を見ながら、いま同じ映画館で同じシーンを見ている大勢の中で、自分と同じことを考えている人間は一人もいないと考えたという。それはその通りだが、別に「私だけが違う」ことを確認したいわけではない。実際に、一人一人が異なるものを見聞きし、違う感じを受けていることに触発されたいのだ。「自分の人生」という枠組みを超えたクロスオーヴァーを夢見るために。

 3月から行ったレクチャー「耳の枠はずし」にしても、今回の「純喫茶ECM」にしても、コメント付きで音を聴くことにより、聴き手は様々な違和を感じるだろう。「なるほど気が付かなかった」という反応もあれば、「いいや、それは違うな」という反駁もある。そこに起こる音楽の体験が深ければ、それは聴き手の人生をそれだけ揺り動かす。その力動の源は音楽それ自体の衝撃だけでなく、その音を自分とは違った視点で聴いている他者との出会いにもあるのだ。自分が興味を惹かれない音楽/言葉に食い入るように耳を傾けている聴き手もいるだろう。反対に自分が魂を奪われそうな瞬間に、つまらなそうな顔をしている者もいるだろう。もちろん、イヴェントだから参加を決めた時点で一定のフィルターはかかっている。それでも聴き手の反応は千差万別だろう。共同体験幻想をもたらす会場一体となった盛り上がりよりも、それぞれの違いが明らかになり、それゆえに互いに触発しあえるような場のあり方を目指せればと思う。

 ファンクラブ(FC)の場は、本来ならそうした相互触発にとても適した場だ。同じ作品を読んだり(見たり聴いたり)、ライヴを経験した者たちが言葉を交わしあう空間として。だが実際には、信仰吐露の場、対象への絶対の忠誠を誓う場として抑圧的に機能しやすい傾向がある。異分子を排除して純粋性を目指す、閉ざされた聖なる空間に向かって。そうした抑圧志向は以前よりも強まっている気がする。
 実は以前、萩尾望都のFCに入っていたことがある。彼女はマニア嫌いだから、いわゆる「公認FC」はない。かつて彼女のFCは多数あり、活動も極めて活発だったと聞いている。コミックマーケットが開催にこぎつけるにあたって、あるいは初期の開催/運営にあたっては、そうしたFCの力が大きかったとも。
 私が入会したのは「えいりあん・てぃ~」という「訪問者」の発表を契機として創設された新興のFCだった。とはいえ、かつて活発だったFCの多くは、当時(80年代初頭)すでに活動を停止しており、当時、コミックマーケット等に参加している萩尾望都FCとしては唯一の存在となっていた。
 後から思えばいい時期だったのだろう。70年代半ばに「ポーの一族」の単行本のヒット(連載時は不人気だった)で確固たる地位を確立した彼女は、その後、「百億の昼と千億の夜」、「ゴールデンライラック」、「スター・レッド」、「恐るべき子どもたち」と、かつての繊細で透明な世界とは異なる、実体感のある骨太な絵柄/作品世界へと足を踏み入れており、結果としてかつてのファンが相当離れていた。「プチフラワー」が創刊され、代表作「トーマの心臓」の登場人物オスカーのサブ・ストーリーを描いた「訪問者」は、かつてのファンたちに「夢よ、もう一度」と期待させたかもしれないが、その後も彼女は「メッシュ」や「銀の三角」へと、かつての世界に安住することなく、孤独に歩みを進めていく。もともとFC創設の理由が「『訪問者』対する周囲の不評・無理解に対抗するため」なのだった。
 にもかかわらず、FCは「狂信者の集団」には程遠かった。むしろ、「今のモーさま(萩尾望都の愛称)の作品を本当に理解できているかどうか不安」という気持ちが、FC参加を促したという感じだろうか。彼女の作品世界の広がりに合わせて、ファンが知っているよう求められる知識・教養の領域も著しく広がっており、なかなか一人ではカヴァーが難しいことが、「他のファンがどのように読んでいるか知りたい」という率直な気持ちにつながったのかもしれない。
 悪い癖を出して、入会早々に萩尾望都論を送りつけたりしたのだが、放置されることなく会誌に掲載され(ワープロ普及以前だから、長文を会長が手書きで清書)、他の会員からの反応も寄せられた。その度にいろいろなことを触発された。こうした経験が、現在の私の「書くこと」につながっていることは疑いない。
 「みんな本当に違うことを感じて/考えているんだなあ」と改めて気付かされたのは、会長の交代が2度あって、とある事情から3代目会長として会誌の編集を担当することになってからだ。原稿集めの意味合いもあって、特集テーマに対応したアンケートを配布し、その結果集計と自由記入欄のコメントを素材として記事を編集するのだが、この自由記入欄の書き込み(書ききれなくて裏面にもびっしり書いてあったり)や同封の手紙に述べられた意見は、さらに興味深いものが多かった。私信的なものからも一部を抜粋編集して、1篇のエッセーに仕立てたりした。もともと作家/作品との出会いの経緯が異なり、人生経験も異なる(年齢層も幅広かった)以上、作品への感想が違ってくるのは当然と言えば当然だが、私にはそれらが響きあって、ひとつの織物を織り上げるように思われた。先の手順でエッセーを仕立て、それへの「反歌」を書いたり、そこに口を開けている世界への理解を促すべく補足資料をまとめたりと、一番触発されていたのは私だったかもしれない。当時、私の感じていた「豊かさ」を、会誌や会報を通じて、どの程度会員にフィードバックできていたかは甚だ疑問だが。刊行ペースもすっかり落ちてしまっていたし。
 当時の会誌に次のようなことを書いている。今からもう20年も前の話だ。

 日常が作品(創造)へと飛翔する運動と、その反対に作品が私たちの日々の営みを照らし出し元気付ける作用と、この両者をふたつながらとらえるには読み手の「読みの厚み」とでもいうべきものが必要になってくるように思います。様々な「読み」を、想いを、自らの身体の中で響き合わせるしかた。
 もっともらしいことを言えば、ファンクラブというのは、「そうした想いの響き合う空間」を創りだすための知恵ではないでしょうか。会員のみなさんから送られてくるお手紙や原稿を読むたびに、なにかゆるやかな波の交錯のうちに揺られているような気持ちになります(これは編集者の特権ですね)。
 暖かい陽の光を細やかに反射して、ゆるゆるときらめく春の海。一見のたりのたりと、動かずにただたゆたっているように見えながら、その実、そこでは様々な方向から寄せては返す波が、互いに互いを響かせ合いながらも素早く(白い牙を剥く冬の荒波よりも素早く!)彼方へと駆け抜けているのです。
 一番最初の「Alien Tea 0」(思えばもう3年以上前のことです)で同じようなことを書いた気がしますが、そのときにはふと書き留めた夢想であったものが、いまや現実となってきた感があります(最近のお手紙の充実ぶりにますますその感を強くしているところです)。
 この小さな、けれど居心地のいい部屋がより豊かになるように、またこの幸せな時間がもっと長く続くように‥と願わずにはいられません。

 こうしたファンクラブ的な空間は、現在の通信テクノロジーを用いれば、ずっと簡単に実現可能なはすだ。たとえば「ミクシィ」のようなSNSサービスによって。だが、実際にはそうはなっていない。東浩紀は「思想地図vol.3」のアーキテクチャ特集で、招待制SNSである「ミクシィ」の閉鎖性を嘆きながら、基本的にオープンである「マイ・スペース」等のSNSに対して、日本国内では「ミクシィ」が一人勝ちしていることに、日本文化の特性を見ている。一方、「ネット社会の未来像」での宮台真司らとの鼎談では、セキュリティ・テクノロジーを異文化/異なるコミュニティとの接触/混交/共存のために用いるべきだと主張している。後者の考え方を適用すれば、「ミクシィ」内部における閉鎖的な棲み分けは解消し得るのではないだろうか。
 もっと自分のアクションに引き付けて言えば、明日の「純喫茶ECM」に関する感想や意見が、ブログやツイッターに数多く書き込まれ、さらにそれへの反応が広がっていけばいいのだが。と言って、別に挑発的なことを発言するつもりもないのだけど。


『ECM Catalog』刊行記念「純喫茶ECM」
渋谷アップリンク・ファクトリー
日時:9/26(日)開場18:00/開演18:15
料金:¥1,500(1ドリンク付)
http://www.uplink.co.jp/factory/log/003691.php


「えいりあん・てぃ~24」 特集「ポーの一族」
1994年発行
23号に続く「ポー」特集でした。

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音楽情報 | 00:22:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
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