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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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中村としまる、石川高、カール・ストーン、康勝栄@七針 10th Oct.2010
 あまり広くはないビルの地下室。とはいえ、コンクリート打ち放しの冷たさはなく、漆喰等で仕上げられた壁に圧迫感はない。天井が低いのが少し気にかかるが、少なくとも話し声は自然に聞こえる(不自然なエコーはない)。客席と同じ平面に、左の壁際に笙をくるくると回しながら電熱器にかざす石川、そこから右にパンダをイラストしたマッキントッシュのカール・ストーン、ミキシング・ボードとテーブル・ギターを含む機材と配線がテーブルいっぱいに広がる中村、そしてアコースティック・ギターをアンプ(近接設置のマイクで拾った音を増幅)の脇に立てかけた康が反対側の壁際に位置する。PAはカールのすぐ左後ろとカールと中村の間の2か所(だから左右対称ではない)。笙は増幅なし。
 1時間半1セットの演奏であることが、冒頭、企画者である康から告げられる。時間指定と聞いて、一瞬、かつて某所で出くわした時間指定楽譜によるお粗末極まりない演奏の忌まわしい記憶(このせいで何年かライヴから足が遠のいた)がフラッシュバックするが、今回は楽譜もなければ、ストップウォッチもないから、たぶん大丈夫だろう。
 空調を止めて始めるのは弱音系のお約束だが、実際には結構ラウドな部分もあったし(笙のあんなに大きい音は初めて聴いた)、PAからは終始サー・ノイズが流れていたから、それほど神経質になる必要はなかったかもしれない。

 開始してまもなくカール・ストーンのPCから音が出ていないことが判明し中断。再開後はカールの断続的な電子音から始まり、ギターの爪弾きが添えられ、中村の放出するノイズに後押しされる。石川は笙を口に当てているが、音は聞こえない。カールと中村が互いの持続音のON/OFFを巧みに繰り返し、ぽつりぽつりと音のしずくを垂らすギターを、軌跡として浮かび上がらせると、いつの間にか笙が鳴っているのに気づく。知らぬ間に忍び込み、畳の縁から湧き出るように部屋をゆっくりと満たす音色/香り。この希薄な充満を背景として、他の演奏者の動きが活発化し、その断続の合間に笙が音もなく浮かび上がる。この繊細な浮遊は同時にどこへも行き着かない平衡状態でもある。アラビア風の詠唱が一瞬浮かび上がり、遠のいて繰り返される。このカールの挑発に誰も応えようとしない。演奏は早くも膠着状態に陥った。
 楽器編成を見ても、4人のうち持続音系が3人を占める。素早い転換は得意ではないだろうし、もともと彼らの目指すところでもないだろう。ある種のサウンドスケープを描きあげながら、次第に構成要素を入れ替え、音の眺めを移り変わらせていく‥というのが、すぐに思い浮かぶ常套手段だろうか。飲食店のフィールド・レコーディング素材等を駆使した、時にあざといほどパロディックなカールの音響構築、細い隙間から入り込んで空間を満たす笙独特の輪郭のない音、腺病質の希薄さから野太い重厚さ、あるいは持続音からパルスに至る中村の幅広いサウンド・スペクトル等の各演奏者の特質を活かして、それをどう超え出ていくかが期待されるところだ。

 結論を言えば、この日、そうした期待がかなえられることはなかった。まず、中村、石川、カールの3人のうち、2人の呼応/絡みは見られても、4人のうち3人が絡む場面はほとんどなかった。また、それぞれの絡みも持続せず、演奏は花占いのように、花びらを散らしながら進められた(もちろんそれは「徒に盛り上がらないようにしよう」という自己抑制の結果かもしれないが、だがそれにしても)。特にカールが提示した視覚的なサウンドスケープ(例えばカラスの群れの鳴き声や遠くから揺らめくように聞こえてくる祭りのにぎわい等)への対応がほとんど見られなかった(無論、すぐにあきらめてしまったカールにも責任はあるだろう。開園時の機器のトラブルで彼は少し神経質になっていたのかもしれない)。
 特にコンダクター役が期待された康が、その役目を全く果たさなかったことが大きいように思われる。彼の演奏は、ゆっくりした、あるいは中程度の速さの爪弾き、弦の引き搾り、ハウリングの3つに大別できるが、どれも効果的ではなかった。例えば爪弾きはデレク・ベイリー風のランダムネスを持ち込むかに見えて、そのアタックの彫りの浅さ、様々な度合いのミュートによる音色のぼんやりした無表情さ(鳴りっぱなしの音)等により、いつも同じ均質な(色や匂い、表情のない)時間/空間を連れてきてしまう。これは他の演奏者たちが、ひと連なりの持続音やサウンド・ブロックで、ほとんど一瞬のうちにある特定の空間を開いていく仕方と、大きく異なっている。中村がぶつぶつとつぶやくように照らし出す手元のちっぽけな広がり。突然に低い音が入り込み、厚みを増し押し広げられるサウンドスペース。あるいはパルスによって生み出すどきどきと脈打つ何か生暖かいもの。カールが魔法のように呼び出し、すぐにかき消してしまう景色。ざわめきの繰り返しが細胞分裂して増殖し、あるいは発芽して枝を伸ばす様。そして石川がかすかな息遣いによって示すちらつくような動き。香を焚きしめるような静寂の充満。他の音と重なり混じりあうことにより(たとえサー・ノイズとでも)、不思議なくらいに透き通った厚みを増し豊かになる響き。細い竹管の束が張り裂けんばかりに息を吹き込んでつくりだす滔々たる流れ。
 あるいは秋山徹次のアコースティック・ギターが中村としまるとつくりだす音世界が念頭にあったのだろうか。そこで秋山は決して音を連ねることなく一音一音を切り立って奏でることにより(あるいは危ういほどに甘い旋律へと傾くことにより)、中村の電子音を身にまとい、時に足元をすくわれながらも、それを蹴立てて、「地」の上の「図」として浮かび上がることを介して、同時に「地」となる中村の電子音を照らし出すことができるのだ。今回の康のように、ぱらぱらと(あるいはだらだらと)弾いてしまっては、ギターのサウンドはある閉域をつくりあげてしまい、他の演奏者の音との相互浸透に身をさらすことはできないだろう。今回のような解体/再構築的な文脈での演奏では、楽器としての固有の完成度や表現能力が高ければ高いほど、かえって越えるべき壁が高くなることは自明なのだから。
 そうしたなかで、中村の電子音がかつ消えかつ結びて、繊細な結ぼれをつくりあげては、それを解きほぐす流れに、康のギターが同じ音高の音を、まるで精霊流しのように送り出しなびかせた瞬間は、今日のハイライトのひとつだった。

2010年10月10日(日) 於:七針・八丁堀
中村としまる(ノー・インプット・ミキシング・ボード、テーブル・ギター)、石川高(笙)、カール・ストーン(コンピューター)、康勝栄(アコースティック・ギター)



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 02:01:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
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