fc2ブログ
 
■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

「TOHUBOHU」と「雑誌」的な場
1.音楽と言葉 
 「あまりにもね、場当たり的に創作する人が多いような気がしたんですよ、昨今。自分の頭の中にある作り上げたイメージがあるんじゃなくて、なんとなくパラメータをいじっていれば良くなってきた。で、そっちに自分をすりよせていくんだな。それはそれで楽しみがあるんだけれども、やっぱり自分の中で、ある作り上げたい音楽的なビジョンというのをまずイメージとして熟成させるってことが大事だと思ってて。」と岸野雄一は柳川真法(アメフォン)に講義を依頼した理由の説明を始める。二人による「TOHUBOHU」巻頭対談の冒頭部分のことだ。最初に決まったイメージを持たずに始め、プロセスの中で何かが生まれてくるのは素晴らしい快感だ。だが思うほどにはうまく行かない。何回か繰り返すうちに、すぐにパターンにはまる。何も考えずに「自由に」動かしているはずの指が、きゅうくつな枠組みを逃れられない。知らず知らずのうちにビギナーズ・ラックの記憶をたどっている。意識はゆるやかに漂うようでいて、堂々巡りの繰り返しのうちに囚われている。それは「投影」と「構成」による「ギヴ・アンド・テイク」が効果的なサイクルを形成することができず、つまりは「内面」の外へ出ることができず、まるで心室細動を起こしたように、ただぴくぴくと痙攣しているからだ。あらかじめ作り上げた明確なイメージや考え抜かれた言葉によって、この忌まわしき循環を断ち切る必要がある。

 「この冊子はNPO法人映画美学校で2009年10月に開講された音楽美学講座クリティック&ヒストリーコース高等科の受講生によって制作されました。(中略)1年にわたる講義では、音楽を言葉で考えること、音楽を言葉で輝かせること、異なる音楽同士を言葉でつなぐこと、音楽の聴き方を言葉で変えること、音楽のまわりにコミュニケーションを組織すること、などの実践が試みられました。」と「はじめに」の中で、彼/彼女たちは「TOHUBOHU」の成立について説明する。「音楽批評」の似姿をつくりあげるために、音楽をテーマに幾らでも文字を並べられることを目指すのではなく(某批評ミニコミ誌を読んだ際に、「どんなテーマでも10ページ書くスキルがあります」と口々に訴えられているような印象を覚えた)、目的を持ち、一定の効果を目指して言葉を用いること。

 「TOHUBOHU」の目次構成は次の通り。
岸野雄一×柳川真法(Amephone) 対談
中条護『(民族音楽に言及しない神話学者の)都市と星-スプートニクの愛人』
佐藤暢樹『日々の泡』
クリティック高等課座談会 『音楽に癒される?』
服部レコンキス太『ヒルデガルト・フォン・ビンゲン ある女性と音楽』
虹釜太郎特別寄稿 『ソノヴァック』
西山恵美『食べ合わせイラスト』
佐伯一彦『本当のことはとうとうわからなかった』(「アフロディズニー2」書評)
原雅明インタビュー
佐伯一彦『センチメンタルジャーニー歌詞分析』


2.「雑誌」的なもののありか

 実際に読み進めてみると、いささかとりとめのなさを感じる。ゆるやかにたゆたい浮き沈みする言葉の群れ。だが、それは決して岸野の言う「場当たり的」の結果ではなく、彼/彼女たちのねらいにほかなるまい。
 特集テーマを掲げず、柱となるべき実績ある書き手たちの対談やインタヴュー、寄稿に他の論考を寄り添わせず、一定の距離を保ち、隙間を空けて配置された言葉。急に興奮して何かに向かって走り出したり、熱狂的に信仰を吐露したりすることのない語り口。それは「癒し」をテーマとしながら、そこに浸りこむことなく、ことさらにゆるさを保ちながら、かと言って仲間内の雑談に堕すことなく、最後にいささか自虐的な仕掛けを設けた座談会をはじめ、本誌の至るところに見てとれる。
 「回答」に駆け寄るのではなく、むしろそれに至るプロセスを、小さな気づきや発見の連なりとして見せていくような。読み手の興味関心を、自分の興味関心だけに一方的に惹きつけるのではなく、代わりに順路図(「地図」の一望性は注意深く避けられている)を渡して、自由に散策してもらうような。
 彼/彼女たちは決して従来の「音楽雑誌」の似姿を求めてはいない。しかし、「雑誌」的な場、言葉が異なる音楽同士を、異なる耳の間を結び、音楽のまわりにコミュニケーション(それはすれ違いや、後からふと気づくというような微妙なものを含んでいる)をかたちづくるような空間を大事にしているのは間違いないだろう。


3.結び合わされる風景

 そうした彼/彼女たちの特質がよく出ていて、虹釜による特別寄稿『ソノヴァック』を除けば私自身最も興味深く読んだのが、『ヒルデガルト・フォン・ビンゲン ある女性と音楽』である。なので、この論考については少し詳しく見ていくとしよう。

 本稿の特徴として、記録映画のナレーションを思わせる、文体の一貫して落ち着いた声音を挙げることができるだろう。ヒルデガルトの歩みを、その時代背景を、彼女の音楽の特質を、そこから連想される主に現代の作曲家とその作曲作品を語りながら、その声音は少しも調子を変えることがない。「地」と「図」の違いを際立たせることもなく、つねに適切な距離を保ちながら、一定の速度で歩み続け、どこにも行き着くことがない。服部はヒルデガルトの音楽を彼女の人生にも、時代背景にも、あるいはその幻視者としての能力や宗教性にも還元しようとしないし、また、その帰結/完成を現代の作品に求めて、彼女を始祖として崇めたてることもしない。自ら設立した修道院の生活、権力者との駆け引き、メシアンやスクリャービン、宗教音楽と音楽劇、グバイドゥーリナやシュニトケ、ペルト、教会音楽と世俗音楽の交錯、チェルノヴィン、多重構造による空間、サティやフェルドマン‥‥優美なカードのようにゆるやかに繰り出されるそれぞれの風景は、決して論旨を積み重ねることなく、物語的な連想の線に頼ることなく、色合いや匂い、味わいや肌触りの類似を手がかりに並べられ、互いの響きあい/映しあいを通じてホログラムのように淡く彼女の姿を浮かび上がらせる。

 「彼女の音楽で印象的なのは、ドローンとリリースの長い楽器群および声がレイヤーされた、独特の音響効果である」というように、音楽史的な用語ではなく、録音や編集を当然の前提とした現代の用語を用いて、耳元に届く音を対象化したのも適切な方法だったろう。それゆえにこそ、次のような微妙な色合いをとらえた「共感覚」的な描写分析が、神秘化・内面化に落ち込むことなく、説得力を持ちうるのである。「合唱されるパターンが教会特有の深い残響で色付けされる。複数の声で歌われる旋律は、個々の声質の差で微細に揺らめく。(中略)フレーズごとの休符では残響が淡く変化し、高揚する箇所ではフレーズごとの休符がつめられ、旋律は万華鏡のように変化していく。ドローンの微細な動きと旋律の変化が干渉して混ざりあい、色彩的な変化に深みを増している。」
 いま「共感覚」と書いたが、それはヒルデガルトの中に起こっていることであって、服部が「共感覚」の持ち主であることを必ずしも意味しない(もちろん別にそうであっても一向に構わないのだが)。音を思考の対象とする場合、中立・客観的な描写がまずあって、次に分析が発動するといった手順にはならない。常に分析を含んだ(先取りした)描写にしかなりえないのだ。その時に聴覚の描写に視覚をはじめ、他の感覚の次元を持ち込むことは非常に有用である。本稿における服部の描写分析は、耳の〈視線〉や皮膚の〈味覚〉を十二分に駆使したものとなっている。そうした描写分析の感覚的強度が、ここでの一見坦々とした叙述を支え、「複数の耳を結ぶ」力の源となっていることを評価したい。
 フェルドマンの音世界に対して、彼は一方に、静謐な弱音がゆったりと広がり(マクロな空間)、永遠に続くかのような緩やかな時間の流れを聴きとり、もう一方で顕微鏡的に拡大された(ミクロな空間)音の刻々と変化する運動の細かく複雑な運動がもたらす速い時間の流れをとらえるが、この対比はそれだけで取り出されることなく、ヒルデガルトの音の世界に、あるいは他の言及された作曲家たちの作曲作品の時空間に響いていくことによって、遥かに豊かなイメージ/感覚の広がりを生んでいる。

 あえて注文をつけるとすれば、最後の部分でこれまでの豊かな響きあいを、「多面性」、「過渡期ならではの葛藤」という概念に落とし込んで結論付けてしまうのは、いささかもったいない気がする。もちろん、いつか曲/演奏は終わりを迎えるのであり、いつまでも響きの交錯と時間/空間の混交のうちに浸っているわけにはいかないのだが。


4.終わりに

 もともと「卒業文集」的な性格を持っているわけで、当然拙さは残る。しかし、そうした減点法では評価できない特質が、この「TOHUBOHU」には確かに手触れるように思う。ぜひ多くの方に読んでいただきたい。以下の店舗で入手可能とのこと。なお、TOHUBOHUとはラテン語由来の英語で、混沌と空虚、無と無秩序等を表すとのこと。旧約聖書にも言及があるらしい。やはり最初から「雑誌」的な場が目指されていたのだろうか。ぜひ、その初志を継続してもらいたい。
 なお、本誌収録の虹釜太郎『ソノヴァック』(素晴らしい)については、後日、稿を改めて採りあげることとしたい。


「TOHUBOHU」取り扱い店舗一覧
中野 タコシェ(http://ht.ly/1aqCMl)
下高井戸 トラスムンド
吉祥寺 バサラブックス(http://basarabook.blog.shinobi.jp/)
西新宿 ロスアプソン(http://www.losapson.net/)
    LOS APSON? Online Shop(http://losapson.shop-pro.jp/?pid=25565081)
新宿 模索舎(http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/)



「TOHUBOHU」
A5版150p 700円

スポンサーサイト





書評/書籍情報 | 02:41:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する