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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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平らかにたなびく声の道-カール・ストーン『ダルダ(DARDA)』 Carl Stone&Makiko Sakurai@Loop Line 30th Jan.2011
 急速に舞い上がり、虹のように天高く弧を描く、速度に満ちた奔放な声の運動も、それはそれは素晴らしいのだが、私が「声の力」をまざまざと感じるのは、むしろ平らかに伸ばされた声である。深々とした呼吸がゆっくりと繰り出され、声がしずしずと歩んでいく。まっすぐに伸びていくその軌跡は、一見滑らかなようでいて、実は微細な力動の激しい衝突に震えている。溢れ出る息とそれを絞る喉の拮抗。口蓋から鼻腔へと上ずっていく声音とそれを下方へと引き絞る丹田の重み。歩みを進めるうち次第に細くなっていく息と身体の共鳴の危うい均衡。ざわめきへと崩れそうな声の輪郭を、その都度鋳直し、改めて心棒を入れ直す。
 甘やかに引き伸ばされた母音が移ろううちに、部屋の四隅から響きが香るようにたちのぼるタミア(Tamia)。荷を目一杯積んで喫水を深くした船が暗く重い水をゆるゆると押していく大工哲弘。古代中国の料理の名人が操る肉切り包丁のように薄く鋭い刃を空間に滑り込ませるサヴィナ・ヤナトゥ(Savina Yannatou)。彼/彼女らは皆そうした平らかな声の使い手たちだ。女性ながら天台声明を修めて飽き足らず、ネイティヴ・アメリカンの音楽やイエメン・ソングを学んだ桜井真樹子もまた、そうした平らかな声の使い手に連なるひとりと言えるだろう(私は彼女のことを『引声阿弥陀経(Sukhavativyuha)』(1993年)なる声明を演じたCDで聴き知っていただけなのだが)。そんな彼女といっしょに『ダルダ』というコンポジションを演奏するとの知らせをカール・ストーンから受けて、私は千駄ヶ谷に向った。

 1.カール・ストーンによるソロ演奏
 駅から続く道を神社の木立を見やりながら右へ折れ、地下へと階段を降りる。「ループライン」の空間は白塗りのギャラリー仕立て(ホワイト・キューブ?)の天井に配管が露出し、「七針」とも似ているが、ステージ(客席と段差はない)に向って右側のバー・カウンターが閉塞感/圧迫感を和らげている。客席後列壁際に置かれたソファもまた特徴と言えるだろう。時刻になり、カール・ストーンが本日のプログラムを説明する。まず彼のソロ。続いて桜井との短いデュオ。そして休憩をはさんでコンポジション『ダルダ』の演奏。
 ヘッドホンをかぶったパンダがペイントされたノートPCに彼が向うと、小人たちが騒ぎ立てるような不思議な色合いの電子音が溢れ出す。ゆらゆらした陽炎のような高音の揺らめきが、そうしたざわめきの中心で軽やかにたなびきつつ、すばやくかたちを変えていく。小人たちが遊び疲れた頃に、琵琶(あるいは津軽三味線か)の響き。謡いを希薄化し不定形なねじれを加えたような音響が、それに付き従う。「声」であって「声」でないまがいものの増殖。ハンス・ライヒェルの操るダクソフォンの響き(あれも声に似ている)にも近い。断片の集合的反復とアモルフな形態の変化(連続的)。さらに複層的なねじれが加わり、ピッチが揺れ動いて、響きの輪郭を波打たせる。太鼓に似た打撃音、胡弓を思わせる連続音がさらに加わって、重ねあわされた響きの総体はまどろむように飽和へと向う。高音域にボーイ・ソプラノにも似た音色が姿を現すが、新たに付加されたサウンド・ファイルなのか、音響の相互干渉の結果なのか必ずしも判然としない。やがて空間一杯に充満した響きは、霧が晴れるように壁に吸い込まれていった。


 2.ストーン&桜井デュオ
 PCのモニタを反り返るようにして眺めるストーン(きっとお腹がテーブルにつかえて屈み込めないのだろう)の傍らに、桜井がすらりと立つ。気持ち脚を開いて、爪先を外に向け、背筋を伸ばした姿は、ぴったりと身に着いた黒い衣服もあって、凛とした清々しさを漂わせている。
 おもむろに桜井が声を発する。半開きの口元から、低めにコントロールされた声音がゆるゆると伸びていく。声明の発声法。平らかに伸ばされた声のうちに、多方向からの力動のせめぎ合いを手触ることができる。桜井が同じピッチで声を放つ何度目かに、電子音がすっと寄り添ってみせる。声に「影のように付き従う」とでも言おうか。ワープロ・ソフトのフォント効果に「かげ付き文字」というのがあるが、まさにあの感じ。マイクロフォンから拾った声に電子的変調をかけているのだろう。声は半分「二重化」され、幾分か立体感をまして、「浮き彫り」にされたように感じられる。それとともに、輪郭がかすれて曖昧になり、響きに細かなざらつきが付け加わる。以降、繰り返しの中で、輪郭の多重化(による強調)はさらに強まり、ちょうどシャム双生児のように、身体を一部共有しながら、それぞれ別々に振舞う声が姿を現す。先立つもの、遅れるもの、時間軸上での押し引きが始まり、あるものは震えながらその場に立ち尽くしている。


 3.『ダルダ』
 休憩をはさんで後半の開始。今度は桜井は最初から椅子に腰掛けている。眼を瞑り声を吐き出す。先のデュオの時よりも押し殺された声は、ややくぐもって呪詛のように響く。先ほどよりも幾分低く、膝ほどの高さでゆるゆると広がりながら、声の層のうちで様々な力がせめぎ合うよりも、むしろ力は内にかかり、声の使い手の身体を求める。ホーミーに似た仕方で共鳴をかきたて、次第に二重化していく声に、PCが響きのかげをつける。揺らめく響きの中に別の声(桜井の声の分身)が姿を現し、桜井自身の声に先行する。声の分身は合わせ鏡に写したようにその数を増しながら、それぞれがくっきりと輪郭を保ち、先のように曖昧さの中でおぼろに多重化していくことはない。音は各々の力をせめぎ合わせることなく、幾何学的な配置により空間を満たしていく。幾千もの風鈴にも似た涼やかな響きが互いに反響/共鳴し、熱を持たない光を増していく。桜井が声のピッチをわずかに変えて、この輝く声の海から頭ひとつ浮かび上がり、それをさらに上方から薄くたなびく電子音が見つめている。ひとしきり泳いだ彼女が海から上がると、電子音はそのまま充満へと向かい、しばし遷移するサウンドのプラトーをかたちづくる。再び桜井が最初と同じピッチで声を放ち、飽和した声の海にそれを貫く心棒を通す。約35分の演奏だった。

 後でカール・ストーンに聞いたところでは、もともと桜井の声のサウンド・ファイルを組み立ててつくった作品だったのだが、せっかくだから本人を招いて生の声と共演してみたかったとのこと。サウンド・ファイルだけだったら、おそらくもっと均質でジクゾー・パズルのように平面的な演奏となったことだろう。生の声の持つ不揃いな「きめ」や「むら」が結果として立体的な輝きや魅力的な粒立ちをもたらしたと言えよう。なお、桜井の話では、「立つのと座るのとどちらがよいか」とカール・ストーンに確認したら、「『ダルダ』では座ってくれ」と指示されたとのこと(だからデュオは立ってやってみたのだと言う)。生の声をフィーチャーするあまりに、電子音やサウンド・ファイルが背景に退いてしまっては、この作品は成り立たない。生の声が「声の海」に沈み、溶けてしまうかと思えば、やがて泳ぎだすという両面性(一部でもあり独立してもいる)が必要なのだ。その点で『ダルダ』で彼女を座らせたのは正解と言えよう。もし立っていたら「彼女の声が電子音を身にまとう」ように見えてしまったのではないか。しかし、合唱とも違うかたちで、自らの声のサウンド・ファイル(を加工したもの)、つまりは自分の似姿に埋もれていくのは不安ではないのだろうか。桜井にその疑問をぶつけると、そんなことはないと笑った。自分の声の手触りはしっかりとあり、自分の声の存在がわからなくなることはない。この『ダルダ』は本当によく出来た作品で、少しも不安ではなく、むしろすごく気持ちいい‥のだそうだ。それはやはり彼女が「平らかな声の使い手」だからではないかと思った。
 なお、インドの女神を思わせる『ダルダ』の名前の由来をカール・ストーンに尋ねたところ、「う~ん。いつも通り食べ物屋の名前(※)。何だったか。もしかしたらインド料理屋かもしれなくて、だからインド神話と関係してるかもしれないけど、もしそうだとしたら、それはたまたま」とのことだった。

※カール・ストーンの作品名はレストラン等の飲食店から採っていることが多い。東京のホープ軒(ラーメン屋)、ソウルの叉来屋(ウレオク。プルコギがメインだが冷麺がおいしい)など。ちなみに調べたら「ダルダ」はカリフォルニアの中華料理屋みたいだ。シーフード入りの刀削麺がおいしいらしい。




Carl Stone / Woo Lae Oak

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:47:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
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