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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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家のテレビで見たアンドラーシュ・シフ I saw Andras Schiff on TV at home
0 前口上
 3月4日、ライヴから帰宅して、遅い夕食を摂りながらTVのチャンネルを切り替えていると、アンドラーシュ・シフがピアノを弾いているのに眼が留まり、そのまま見続けてしまった。その時に考えたことについて少し書いてみたい。

 最初に弁明しておけば、シフのことをさして知っているわけではない(まあ、ベートーヴェンのことだって知らないのだが)。70年代の終わりにコチシュ、ラーンキと並んで「ハンガリー若手三羽烏」と喧伝されていたのは覚えている。洋泉社から出ている「キーワード事典」シリーズの一冊「クラシックの快楽」のスペシャル版「ピアノ遊戯」(1989年)でも3人揃って採りあげられていた。読み返してみると「シフは英デッカでアシュケナージの後継者となる」と予言されている(ここは「くすり」と笑うところなのだろうか)。その後は「ECM Catalog」で彼がECMでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を完成させたことを知り、つい最近になって、多田雅範から彼の来日のことを聞いて、音楽サイト「Jazz Tokyo」で来日公演のレヴューを読んだくらいのものだ。そして、今回の録画の視聴だって、古いテレビの高品質とは言い難い映像と音響によるものであり、さらに私が見たのは、ベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタ(30番、31番、32番)とアンコールのバッハで構成されたこの日のコンサート・プログラムのほんの一部、32番の第1楽章の途中から、アンコール曲の終了までに過ぎない。

 それなのに、なぜ彼のことを語りたいと思うのだろう。もちろん、彼の演奏に突き動かされたという事実が最初にある。それがなければ何も起こらなかっただろう。しかし、ただそれだけではない。そこで私は何に打たれたのだろう。ライヴ演奏の、コンサート会場での体験の、色あせた粗末な模造品に‥だろうか。このベートーヴェン・プログラムを多田雅範が聴きに行ったことも知っていたので、コンサート体験の「複製」とは別のかたちで、この視聴体験をとらえられないかと考えた‥‥ということがある。これが二番目の理由。そしてもうひとつ。後に詳しく述べることとなるが、シフの演奏に即興的な質や強度を感じたということがある。このことについて、その夜、私が見たライヴにおける即興演奏のあり方とも関連付けながら考えてみたら、「即興演奏の質」という、いわく言い難い問題を幾らかなりとも明らかにできるのではないか。この期待が三番目の理由である。


1 「自由」と「批評」

 演奏に引き込まれてすぐ、マンフレート・アイヒャーが彼の演奏をECMで録音したがる理由が、なんとなくわかった気がした。演奏の風通しが実にいい。縦の線を強調し音を煉瓦のごとく積みあげるのではなく、ひとつひとつの音が響きのための広がりをそれぞれ確保している。それゆえ音同士が膠着してしまうことがない。当たり前だろ。音と音を結びつけたり、組み立てるのはそれからさ。もしひとつひとつの音が自由でなければ、どうやって音楽が自由になれる? という声が聞こえてきそうだ。もちろん、これは作品の対位法的なつくりもあるのだろうけど。

 第1楽章では、粒をそろえて連ねていく音とぽーんと空高く投げ上げる音の対比が鮮やかだった。以前にテレビ番組で、ミッシェル・ベロフがそうした「音を投げ上げる」やり方を生徒に教えていたのを思い出した。その時の課題曲は確かドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」だった。それを見ながら、まだ大学に通っていた頃、ベロフの来日公演を聴きに行って、やはりドビュッシーだったろうか、音が高らかに投げ上げられるのを目撃したなあ‥‥と感慨に耽ったっけ。ドビュッシーだから‥‥とばかり思っていたが、音を堅固に積み上げるイメージの強いベートーヴェンでも効果的だとは。こうしたところは通常のクラシックの聴き方だと、「音色の多彩さ」と表現される部分なのだろうか。だが縦の線や横の流れがかっちりとあって、それに彩色が施されるというより、そうした構造が一瞬解けてしまうような、あっけらかんとスリリングな瞬間が、ここには確かにある。対して高揚する部分での、楽しげに水しぶきを上げるような音をはね散らかす弾き方。アトムであるひとつひとつの音の運動/軌跡よりも、集合的な運動状態に向けられたコントロール。

 これらサウンドのレヴェルの「自由」に加え、意識/精神活動の高さに驚いた。例えば第2楽章の入りの夢うつつな感覚の提示。半覚醒の朦朧とした表情。まるで夢遊病者の足取りのような指さばき。子どもの頃よく見た米国製アニメ(今ならカートゥーン・チャンネルで放送しているハンナ・バーベラやワーナー・ブラザーズ)には、夢を見ながら(あるいは寝ぼけたまま)キャラクターが何の支えもなしに空中を歩いていって、眼が覚めると墜落してしまう‥というシーンが繰り返し出てきたが、ちょうどあんな感じ。夢から覚めたら踏み外してしまう、空中に引かれた架空の線の上を、どこまでもどこまでも目覚めることなく歩んでいく音の道行き。通常のピアノ演奏がもっぱら感情の振幅しか使っていないのに比べ、ここではまさに意識/精神状態の振幅が生きられている。

 アンコールのバッハもまた縦の線よりは横の流れを重視して、しかも各声部をそれぞれ独自の「速度」(テンポではない)でいきいきと(「全速力で」ではなく、子どもたちが思い思いに走り回るような)息づかせていた。
 こうした演奏を、作品のそもそもの性格(時代背景を踏まえつつ、作曲者の意図へとさかのぼる一方で、近現代の演奏史への目配りも忘れない)と演奏者の個性/解釈、さらにはそれを可能ならしめる演奏スキル等で語るのが、クラシック音楽評の「テンプレート」ということになるのだろうか。もちろん、一夜のコンサート・プログラムが作曲作品を並べて構成される以上、もうそこから(「何を弾くか」から)コンサートは始まっているのだろうし、解釈、表現、企画、プロジェクト‥の線は、当然欠かせない観点だと思う。しかし、それだけで演奏/音楽をとらえようとすれば、それはワインの鑑定にも似た「検証」作業にとどまってしまうのではないだろうか。まあ、それこそが、私たちが教科としての「音楽」の時間に教えられてきた「鑑賞」というものなのかもしれないけれど。


2 即興的瞬間

 プロ野球放送の解説ツールに「野村スコープ」というのがある。実際の試合画面にストライク・ゾーンを投影して、野村カントクが一球ごとに配球を解説するものだが、彼が解説するようなバッテリー/打者間の駆け引きが、野球の欠かせない一部として存在するのは当然として(得点や勝敗にしか関心がないような人は、これで少し勉強してもらった方が‥)、それで野球というゲーム/スポーツが完結してしまうなら、「野球盤ゲーム」と同じではないか。

 野球はサッカーに比べればはるかに「制度的」なスポーツだが(アメリカン・フットボールほどではないにしても)、実際の試合では、それこそ考えられないようなことが起こる。そこにあるのはプレーする(あるいは指示する)人間の意図とその誤差だけではない。ボールやバットの運動、グラウンド状態のミクロな勾配、風向きや大気の状態、その他多くの変動要因・影響要素があり、そして何より、それらを関連付ける、意図だけでは制御しきれない(誤差や失敗、疲労や故障による能力低下、さらにはメンタルな要素以外に、より本質的な問題として、身体は事物や状況に瞬時に、意図を超えて反応してしまう)身体の運動がある。世界はかくも未規定性に開かれている。にもかかわらず、それをプレーヤー間の駆け引き(裏を読む、裏の裏を読む、‥‥)に集約してしまうことは、結局、その未規定な広がりを「表と裏」の二元性のうちに封じ込めてしまうことにほかならない。

 蓮實重彦はスポーツ観戦の醍醐味として「圧倒的な流動性の顕在化」を挙げるが、まさにその通りだ。潜在的なものにとどまっていた線/運動が一挙に顕在化した時の、世界がひっくり返るような驚きこそが、スポーツの快楽にほかならない。そして、音楽もまた。

 アンドラーシュ・シフの演奏は、至るところ、そうした「圧倒的な流動性の顕在化」の予感/予兆に満ち満ちていた。そして、そうした各瞬間こそが、「即興」に向けて開かれているのだ。彼の演奏を「彼による作品解釈の具現化に向けた身体の精密なコントロールの結果」ととらえるよりも、そのような「即興的瞬間」に開かれたものとして受け止めた方が、演奏の強度を充分に受け止めることができるのではないか。いや、こうした言い方は後知恵だ。むしろ、彼の演奏に、優れた即興演奏と同質の輝きや馨しさを、まず(思わず)感じてしまった(不意討ちされた)‥と告白しなければ嘘になるだろう。

 すなわち「即興演奏の質」とは、こうした瞬間瞬間に訪れる(それは「深淵が口を開けている」ということでもある)未規定性に向けて開かれているということであって、「譜面を見ない」とか、「事前に決め事をしていない」ということではない。もちろん、即興演奏の定義だけを言うのなら、それでも事足りるかもしれない。しかし、仮にそうだとして、即興で演奏することが、それだけである質や水準を確保してくれるわけでは、いささかもない。ライヴやコンサートの告知を見ると、即興で演奏しさえすれば、それがすなわち「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」等となるという誤解が蔓延しているようだが、そんなことはありえない。デレク・ベイリーが言うように、人類が最初に演奏した「音楽」は即興演奏によるものだったはずだ。彼らは果たして「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」に勤しんでいたのだろうか。そんなはずはない。
 フレーズを排し、エレクトロニクスに頼り切って、いかにも「音響」ぽいサウンドの見かけをなぞることや、サンプリングされたループの重ね合わせをはじめ、その場に敷き詰められ響きをかき乱すことのないように、「空気を読んで」、当たり障りのない極薄のレイヤーをおずおずと重ねることの繰り返しが、即興演奏ならではの質や強度を獲得することは永遠にないだろう。なぜなら、そもそもそこには即興的瞬間が存在しないのだから。


3 「奇妙な機械」を走り抜ける何本もの力線

 TVクルーの操るカメラは、シフの読み取りがたい表情を真正面からとらえ、無駄のない(と同時に気まぐれな遊び心に満ちた)指先の動きを間近に覗き込む。前にも述べたように、彼は眉間にしわを寄せ恍惚とする、あるいは深く物思いに沈む‥‥といった表情をつくらない。それにより特定の感情へと「演奏する身体」をチューニングしよう(囲い込もう)としない(あのポリーニですらそうしていたのに)。音楽/指先の駆動力は、感情の(起伏/振幅の)源泉からではなく、身体/精神のもっと奥深いところから汲み上げられる。
 感情の起伏/振幅に束ねられることのない「演奏する身体」の運動は、奇妙な機械のように見える。それは音楽の生産にのみ従事/奉仕しているように見えない。ことさらに誇張された表情やアクセントのない動きは、多様な解釈を受け入れるだろう。テレビの音を消してしまえば、響きからも解き放たれて、いつまでもいつまでもカタカタと動き続けるのではないか。そんな不遜な(倒錯した?)夢想すら頭をかすめる。

 ゆっくりと回転する吊るされた黒いビニール袋が、下にセットされたタイヤに触れ、転がりだしたタイヤは机をひっくり返し、斜面に置かれた脚立を滑らせ、それがまた机を押し倒し‥と、ドミノ倒しの要領で、アクションが次々と(延々と)連鎖していく。1987年にドクメンタ8で喝采を浴びた 、ペーター・フィッシュリとダーヴィト・ヴァイスという二人組のスイス人による約30分の短編映画「事の次第(独語タイトル:Der Lauf der Dinge 英語タイトル:The Way Things Go)」。いや「ドミノ倒し」との形容は正確ではなかった。「ドミノ倒し」とは接触の連鎖にほかならないが、「事の次第」のブロセスは、ビンが倒れて中身の液体が他の容器に注がれるなど、運動の変奏以外にも、燃焼や溶解など、ありとあらゆる変化をリレーしていくのだから。
 「ドミノ倒し」は一時テレビの特番企画に採りあげられたこともあって、国旗が揚がったり、花火に火がついたりと、途中に様々なギミックをはさむようになった。けれど、その本質は接触の連鎖であり、並べられたドミノは倒れれば、その役目を終えてしまう。これに対し「事の次第」では、テーブルやバケツや台車等がプロセスの構成要素として用いられ、「作動」を終えた後も、テーブルやバケツであり続ける。実際、直接「接触」を伝播するのは装置のてっぺんに置かれた小さなビンであり、それが倒れることでバランスが崩れ、積み上げられた家具が崩れ落ちる場面など、その崩壊の大騒ぎとは裏腹に、家具は単なる支えでしかない。そこには常に過剰がはらまれている。

 幼い頃テレビで見た喜劇(「三バカ大将」とか)には、よく奇妙な「機械」(というより大掛かりな「仕掛け」と言うべきだろうか)が登場した。犬に追いかけられた猫が、逃げることにより結ばれた糸を切り、それを起点とする「事の次第」的な連鎖が、鶏に卵を産ませ、ガスコンロに点火し、その上に乗せたフライパンへと割られた卵の中身が落下し、確か最終的には、その家の主人を起こして、朝食用の目玉焼きを調理するくらいの成果しか産み出さないのだが、それはプロセスのひとつの流れ、ひとつの帰結でしかない。犬に追われ、あるいはネズミを追いかけて、次のアクションへの「導火線」となった猫は、そこで終わつてしまうわけではなく、そのまま逃走を続ける。この逃げ出した猫は別の「機械」を作動させるかもしれないし、「最終的生産品」と思われた目玉焼きだって、新たな運動/変化の引き金を引くかもしれない。ここには「最終的生産品」はなく、ただ変容しつつ運動を続けるマテリアルが、結合された「諸機械」の作動だけがある。

 アンドラーシュ・シフの「演奏する身体」は、いまテレビ画面の中でホールに備え付けられたピアノと接続し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを紡ぎだしている。だが、きっと次の瞬間には、まったく別の何物かと結びついて、全く違う状態をつくりだすのだろう(ベートーヴェンのピアノ・ソナタでも目玉焼きでもない何かを)。その運動は、やはり即興的な質と強度に満ち溢れていると言わねばなるまい。

NHK 芸術劇場
録画:2月20日 紀尾井ホール



Andras Schiff / Ludwig van Beethoven Piano Sonatas Volume Ⅷ
ECM 1949

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:35:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
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