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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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聴取における「触覚」の次元について  sense of touch on listening
 前稿でレヴューした橋爪たちの演奏は、コンポジションを採りあげたこともあって、作曲/曲想に対して「透明」であることを目指していた。個々の音の手触りや質感/温度感よりも、それらが紡ぎ出す旋律や、それらが絡み合いながら織り成す作品世界の成立の方が重要であり、聴き手に音や響きよりも「作品」を届ける演奏と言えるだろう。そこには過剰さやマテリアルの露出はない。実際、マテリアルな手触りが多少なりとも感じられたのは、コントラバスのアルコの軋みとテナー・サックスのざらつき成分くらいであり、特にギターは物質的な手触りを、極端なまでに響きから排除していた。彼はヴォリューム・ペダルを用いていたが、物質的な手触りが生じるほどサステインを効かせることはなかった(ビル・フリゼールがサステインの長い尾を揺らめかせて、当初「コンニャク・ギター」と呼ばれたのと比較してみること)。

 聴取において「触覚」が働く要因のひとつとして、こうした物質感の露呈があるだろう。たとえばページ上の文字が、文章の意味の運び手であることをやめて、黒々とした線の集積として独自の手触りや重さ、質感等を持ちはじめる様を想像してみること。しかし、通常の楽曲演奏では、それはノイズとして排除され、メディウムのあるべき「透明性」が保たれる。たとえばアコースティック・ギターの演奏における指板上の軋みや楽器各部の部分的な共鳴/共振がそうだ。だが、フリー・インプロヴィゼーションにおいては、デレク・ベイリーの演奏に顕著なように、むしろ音が帰属すべき文脈を切断することにより、個々の音を路頭に迷わせ、その手触りや質感、かたちや色、匂いや温度の違いにスポットを当てる。これにより個々の音は透明なメディウムであることをやめ、それぞれに異なる雑多なマテリアルの集積、つまりは「音響」として析出してくる。その時、「文脈」という頼るべき枠組みを失った聴覚は、自分だけでは「音響」を受け止めることができず、それがより下位の感覚である「触覚」の方へあふれ出していくのではないだろうか。

 もちろん、より端的に「触覚」を震わせる音がある。物の表面をこする音がそうだ。水滴の落ちる音から渓流のせせらぎ、波しぶきが砕け散る轟音に至るまでの水音のヴァリエーションも、この部類に属すると言えよう。そうした響きが、物の表面をこする/撫でる/触れるという動作をただちに連想させ、「触覚」を作動させるのだろう。しかし、その一方で、そうした音の生じる原因となる運動、たとえば物の表面を「演奏者」がこする動作や、水が滴り流れ落ちる様の視覚イメージが与えられたとたん、聴取に伴い「触覚」が揺さぶられる際の、何とも言い表し難い「ざわめき」が、すっと消えてしまうように感じられるのは、私だけだろうか。音の生じる原因が示されることで、因果関係の文脈が形成され、物音のマテリアルな過剰さは去勢され、音は「透明」なメディウムに立ち返る。

 何も「共通感覚」の基底に「触覚」を位置づけるという、アリストテレス~スコラ哲学の蒸し返しをしたいわけではない。しかし、にもかかわらず、視覚や聴覚においてとらえきれない過剰さが、「触覚」へとあふれ出していることは疑い得ないように思われる。というより、それはたぶん手指において極度に発達したような狭義の触覚ではなく、むしろ「内臓感覚」とでも呼ぶべきものに近いのだろう。視覚や聴覚が知覚へと送り込めない過剰さ、ロウなマテリアル感覚が、身体において「触覚的なもの」と受け止められているのではないだろうか。「文脈」という「時間的なもの」の切断が「空間化」ととらえられるのも、これに似ている(ただし、ここで言う「空間化」は次節で触れるように、視覚的なパースペクティヴへの配置とはまったく異なることに注意)。

 ジル・オーブリー(Gilles Aubry)が彼の言う「間接的聴取」の哲学/方法論に基づいて作成した作品を聴くと、あえて室内で録音された交通騒音や雑踏のざわめきといった都市の環境音が、視覚的なパースペクティヴを結び得ず、輪郭を曖昧にし、互いに融合分離しながらもうもうと立ち込める様に圧倒される。2010年ベスト30のレヴューでも述べたが、視覚的対象と強く結びついた音から視覚的パースペクティヴ(とは強固な「文脈」にほかならない)を剥奪することが、こんなにも聴き手を無防備に音と向かい合わせることになるとは思わなかった。これらの音を耳にする時には、もうすでに身体はそれらの音に刺し貫かれ、浸され、ずぶずぶと澱みの底に沈められていってしまう。ふだん音を聴いている時に、当の聴き手はまったく意識することなく、いかに身体が聴くことに対する構えを敷いているか、改めて気づかされる。

 このように考えていくと、一聴した際の質感はまったく異なるのだが、文脈の剥奪によって音のマテリアルな強度をそのまま聴き手にぶつける点で、ジル・オーブリーとデレク・ベイリーを並べてみることが可能なのではないかと思う。昨年のレクチャー「耳の枠はずし」ではデレク・ベイリーから「音響」以降の即興演奏に至る線と、ミッシェル・ドネダたちが追い求める野性のカコフォニーの線を結び合わせ、その延長線上に(むしろ「原点に」というべきか)アトス山の典礼の録音に聴くことのできる音のヘテロトピアを位置づけてみせた。対して「アンビエント・リサーチ」第3回にゲスト参加した際には、フランシスコ・ロペス(Francisco Lopez)や「ソラリス」に言及することにより、これをアンビエント・ミュージックやフィールドレコーディングの側からとらえ返してみせた。
 ジル・オーブリーやジェフ・ジャーマン(Jeph Jerman)の作品を手がかりに、実際の聴取を通じて、先のふたつの思考をさらに発展させられないだろうか。これは「耳の枠はずし」第2期のテーマとなるかもしれない。いずれにしても、今後の宿題とさせていただくとしよう。



Jeph Jermanの近作。
物音のマテリアルな粒立ちが肌に触れてくる。

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音楽情報 | 16:21:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
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