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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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気球が空に舞い上がり… 『タダマス23』レヴュー  Kikyuu Ga Sora Ni Mayagali... Review for "TADA-MASU 23"
 10月23日(日)に行われた益子博之と多田雅範のナヴィゲートする四谷音盤茶会(=タダマス)第23回をリポートしたい。例によって、あくまで私の興味関心に基づいて切り取られた視角に関する報告なので、会の全貌をお伝えすることはできないことをお断りしておく(特に今回は偏りが激しいのではないか)。なお、当日のプレイ・リストについては、次のURLを参照していただきたい。
 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

タダマス23-0縮小
撮影:原田正夫


タダマス23-0 タダマス23-00
 会が始まる前にRobert Glasperの新譜がかけられていて、益子が、これはジャズというより、ブラコンと言っていいと思うんだけれど、どうも80年代がブームということになっているらしく、途中Weather Reportみたいになったりするんですよね……とコメントする。なるほどシンセサイザーのうなり具合とか、まさにそんな感じ……と、ここで、David Bowieの「遺作」となった『★』について気になっていたあれこれが、ふと浮かび上がる。ロック・ファンのとらえ方は「ボウイが新世代ジャズのミュージシャンを起用」というところで話が終わってしまい、そのサウンドの内実に踏み込もうとしない。一方、これに対するジャズ側の応答は、ボウイと共に「Sue (Or In A Season Of Crime)」のオリジナル版をつくりあげたMaria Schneider Orchestraを、彼とDonny McCaslin及びMark Guilianaの出会いの機会ととらえ、『★』のレコーディングを彼とMcCaslinのレギュラー・クワルテット(に先の「Sue」の録音に呼ばれた元MSOメンバーのBen Monderを加えた5名)によるものと見なしている。そしてMcCaslinたちの「新世代」性がテクニックの卓越に加え、「ジャズの生演奏とエレクトロニック・ミュージックの融合」を目指した結果として説明されるのだが、そこで言う「エレクトロニック・ミュージック」が原義よりはJ.Dilla以降の「ズレをはらんだリズム・プログラミング」を指すものであってみれば、これはヒップホップに代表されるブラック・ミュージックの視点から、ジャズを再評価することにほかなるまい。それゆえ「新傾向」の旗手として、当初から先のGlasperが掲げられることになっているわけだ。だが本当にそうなのだろうか。

タダマス23-1縮小
撮影:原田正夫


タダマス23-1 タダマス23-2
 と、ここで長々と説明を差し挟んだのはほかでもない。今回の『タダマス23』の冒頭に続けてかけられたSteve Lehman & Selebeyone『Selebeyone』とCorey King『Lashes』が、図らずも私のこの疑問に触れていたからだ。
 前者は益子により、これまでもヒップホップを採りあげていたLehmanが最初からヒップホップ作品としてつくりあげたものと説明される。Glasperのグループで演奏していたDamion Reid(dr)によるスネアとキックの配合を主成分とするビート構築は、Mark Guiliana同様の「不整脈」系で、多田が言う通り「ジタバタ感があり、単にノリだけで進まないところがよい」。これに対し上物は、ひたすらウネウネと絡み合う2サックスにしろ、ストリングスの残像だけを取り出したようなキーボードにしろ、棒読み調の英語ラップとアジテーションの激しさを帯びた西アフリカの言語であるウォロフ語によるラップの対比を際立たせることに徹している。ビートとラップというヒップホップの核心を突きながら、ここにブラックネスの色濃さは感じられない。Lehmanはあくまでヒップホップの鋳型をどう転用するかに注力しているように思われる。
 これに対し後者は「新世代ジャズ」のサンプルとしても採りあげられるErimajのトロンボーン奏者のソロで、他のメンバーがバックアップしているもの。ここでKingはヴォーカルを務め、各種キーボードやプログラミングを担当しながら、トロンボーンは吹かない。Erimajとの差別化を図るためともとらえられるが、サウンド自体がそもそも80年代シンセ・ポップ風で、もともと教会でゴスペルを歌うことから音楽に親しんだという声は、黒人風の粘りをわずかに感じさせるものの、歌唱あるいは歌ものの造りとしては、益子の指摘通り明らかにRadioheadの影響下にある。本人もRadioheadやBrian Eno、Daniel Lanois等のファンであることを公言しているという。やはりブラックネスは希薄だ。


タダマス23-3 タダマス23-4
 後半の開幕にかけられたECMからの2作品Jakob Bro『Streams』とAndrew Cyrille Quartet『The Declaration of Musical Independence』が、さらにこの問題を敷衍していたように思う。
 Jon ChristensenにJoey Baronが替わった前者のトリオからは、Paul Motianに捧げた10分近い即興演奏のトラックがプレイされた。ディレイの使用によりひたすら自らを自らに折り重ね、心地よい揺らぎを生じさせながらも、徹頭徹尾サウンドスケープしか生み出さないJakob Broのアンビエントなギターに対し、Thomas MorganとJoey Baronは共に、ディレイの生み出すレイヤーの広がりとその敷き重ねによる演奏の生成を念頭に置きながら、実際にはディレイを用いることなく演奏に臨んだ。具体的には、音高を極端に絞り込み、触覚的なさわりを前面に押し立てつつ、さらに音が反復しながらだんだんと遠のいていくような「人力ディレイ」(益子)を奏でたベースと、余韻を切り詰めたサウンドにより間を際立たせ、時折鋭角的な突っ込みを見せたドラムによる、二人の「聴く力」(多田)を遺憾なく発揮したプレイである。ここでも「エレクトロニック・ミュージック」の鋳型が異なる景色をもたらしている。
 他方、後者では、Cecil Taylor(p)のユニットのドラム奏者を永年務め、ブラック・フリー・ジャズの「闘士」として、ドタバタと忙しなく叩き回り、音数多く「うるさい」演奏を繰り広げていたAndrew Cyrilleが、時折忙しなさを見せるものの、むしろ間を重視した繊細な演奏を聴かせ、これにAnthony Braxtonとの共演こそあるものの、元Musica Elettronica Vivaのメンバーで明らかに畑違いのRichard Teitelbaumのシンセサイザーが、ホワイトノイズを散布して空間の広がりを眺め回し、あるいはサックスの気息音を模して視界を横切り、ただならぬ気配を充満させる。形を変えていく雲のような浮遊感を漂わせながら、以前よりは輪郭を明確にしたBill Frisellのギターは、基本的にメロディ・フレーズを繰り返すだけだ。ここにもブラック・ミュージックの祖型を用いながら、それをパブリック・ドメインとして自在に中身を組み替えていく手つきが見られるように思う。「マンフレート・アイヒャーではなく、サン・チョンのプロデュースだからこそ可能になった作品」という多田の指摘は鋭いと思う。


タダマス23-5 タダマス23-6
 この回のハイライトは、前半にかけられたJeff Parker『The New Breed』とJim Black Trio『The Constant』ではなかったか。Tortoiseのギター奏者として知られる前者は、益子によるとAACMにも参加しており、近年、活動拠点をシカゴからLAに移したとのこと。スクエアなビートに、ビートルズ「ストロベリー・フィールズ」的な弦アンサンブルの劣化サンプリングが、そこから滑り落ちそうな不安定さで重ねられ、さらに軽快なサックス・ソロが乗り、そこからさらにサックスがサンプリングされてループし、ドラムが連打をずらしていくという、ミスマッチを微妙なところまで見極めた編集感覚が素晴らしい。「レトロ・フューチャー」という益子の評も当たっている。冒頭部分が少しだけ披露された次曲はかつてのTortoiseを思わせる、細密に作り込まれながら、どこか牧歌的なカンタベリー風味だったから、本質は変わっていないのだろう。
 後者はメンバーを固定しての3作目。バシバシと小気味よく叩き込むドラムが前面に出るのはいつも通りだが、まだ26歳というピアニストの、サウンドを切り詰めてドラムを引き立てつつ、自らをも立ち上げるバランス感覚に耳が惹き付けられた。高音と低音に極端に二極化したパーカッシヴな打鍵によるプリペアド・ピアノ的演奏をはじめ、フレーズ展開風のソロを取らず、リズミックに砕け散ったアブストラクトなパッセージを中心に、むしろサンプラーやターンテーブル奏者のようなサウンド/ノイズ・メーカーに徹した演奏は、冗長さを徹底して削ぎ落とし、三人が一丸となって急坂を転げ落ち、飛び石伝いに川を渡り、絶壁の縁をひたひたと歩む運動の一体感を強めていた。もちろん、その陰には『タダマス』御用達ベーシストThomas Morganの支えがあるのだが。


タダマス23-7 タダマス23-8
 もうひとつ、今回の収穫を挙げれば、声のゆるやかな温かみではないかと思う。Sara Serpa & Andre Matos『All The Dreams』では、音程の揺れる電子音やエコーの滲み、テープ逆回転の使用といった、いささかアナクロニックな「アナログ感覚」が、フレンチあるいはブラジリアン・ポップス的な声の処理(Stereolabが『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』で参照したような)と相俟って、そうした時の流れを生み出していた。
 対して、やはり最近『タダマス』登場機会のめっきり増えたJoachim Badenhorst率いるCarate Urio Orchestra『Ljubijana』からは、オブスキュアな日本語歌詞の曲を。深いエコーの中で交錯する口笛と囁きヴォイス、薄暗がりに沈んだ爪弾きギターとよく聴き取れないヴォーカル。「気球が空に舞い上がり、雲を突き抜けさらに高く、太陽とひとつになるまで」と力なく呟かれるイカロス的飛翔への憧れを含め、1970年代初頭の京都ヒッピー集団による自主制作盤と言われたら信じてしまいそうな仕上がり。愛すべき音楽。
タダマス23-2縮小
撮影:原田正夫


 この日は、エンクロージャの変更、ツイーターの故障と、このところ腰の定まらないところのあった喫茶茶会記のスピーカーが、以前とは異なるより明晰なポジションながら、据わりの良いサウンドを聴かせ、ようやく落ち着くべきところに落ち着いてきた感があった。ゲストとして『タダマス』2回目の登場となる井谷享志は、曲によっては用意された席が位置する側面から、おもむろに席をスピーカー正面側へと移し、熱心に響きへ耳を傾ける「聴き手」としての貪欲な集中を見せた。相変わらず発した言葉は多くなかったが、隣に座っていた多田が、聴取に集中している彼の気配に大いに触発された旨を語っていて、大いに頷かされた。複数で聴くことによる発見は、交わされる言葉よりも、むしろそこにある。今回かけられた音盤を聴いて、井谷が「実は僕歌いたいんですよね」と漏らしていたのも興味深かった。「声と打楽器というのは、何かモノクロな感じでいい」というのは、時にモノクロ写真がカラー写真以上の色彩感を持つように、最小限の要素から無限の可能性が広がるということだろう。「声と打楽器」と言われて最初に頭に浮かぶのは、チャールズ・ヘイワードや灰野敬二だが、彼の前にはそれとは違った可能性が開けているように思う。ぜひ聴いてみたいものだ。

タダマス23縮小

masuko/tada yotsuya tea party vol. 23: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 23
2016年10月23日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:井谷享志(パーカッション・ドラム奏者)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:57:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
いつもとは違う場所で − ライブラリ@横浜First  In a Different Place Than Usual − Live Review for Library@Yokohama First 20161001
 2枚のCDを何度となく聴き返し、幾度もライヴに出かけ、そのたびにレヴューを書いているというのに、蛯子健太郎率いる図書館系ジャズ・ユニット「ライブラリ」の魅力とは何か、未だにはっきりと名指せないでいる。
 今回は昨年10月の喫茶茶会記前回ライヴに引き続き、エレクトリック・ベースによる演奏で、蛯子自身が「何だか全部オルタナ・パンクみたい」と照れながら語るように、頁を繰る手ももどかしく一気に読み進めるように、曲名の紹介どころか、時にはベースの持続音を響かせたまま曲間の区切りすら欠いて、冒頭から7曲が続けて奏された。その一方で、各曲を始める前の蛯子の「カウント儀式」は健在で、眼を瞑り、おそらくは脳内で全編を高速スキャンしているのだろうか、初めて見たら首を傾げるほど時間をかけて、これしかない最適のテンポを指し示す。だから演奏は一気呵成に急坂を転がり落ちるかに見えて、そうした闇雲に先を急ぐ性急さとは一切無縁だ。然るべき速度が、然るべき地点で、然るべきタイミングで出会い、あるいはすれ違う。合流地点や時刻が先に決められているのではなく、然るべき速度こそが然るべき出会いをもたらす。蛯子の言う「物語のスピードで」とはそうしたことだろう。
 張り詰めた氷が緩みせせらぎが聞こえだす季節、種子が芽吹きゆるゆると茎葉を伸ばす速度、回転するルーレットに投げ込まれた球の軌跡、倒れていくドミノの連鎖、転がる毛糸玉がするすると解け、自らの軌跡を跡付けながら、核心を露わにしていく過程。
 それは微妙で危ういバランスの上に成り立っている。前回の彼らのライヴの記録動画を見て、そのことを痛いほど気づかされた。あれほど魅了されたアンサンブルがすっかり抜け殻となっている。もちろん夢を見ていたわけではない。おそらくはヴィデオの設置位置の制約もあって、録音がエレクトリック・ベースのソリッドで芯のある低音をとらえきれていないのだ。たったそれだけのことで、彼らの「物語」は崩れさってしまう。だが、手指の間からさらさらと虚しくこぼれ落ちる砂粒の感触から、すなわち彼らの魅力の不在の手応えから、その在処を感じ取ることもできる。
ライブラリ横浜1縮小
撮影:益子博之


 恒例の喫茶茶会記でのライヴに先立ち、いつも蛯子がジャム・セッションの受け皿を務めている(つまりはライブラリの物語を繰り広げてはいない)横浜ファーストでのライヴを聴いてみたいと思ったのは、場所が変われば(初めて訪れる店だ)、視点も移り変わって、彼らのまた違った側面を垣間見られるのではないかとの期待からだった。
 京浜急行日の出町駅から川を渡って右側にある店のドアを開けると、いきなりセミグランド・ピアノのボディが通せんぼをしている。天井があまり高くなく、奥へと細長く延びる穴蔵的空間。ピアノの脇をすり抜けて進み振り返ると、ドアとは反対側の角にドラム・セットが押し込まれている(演奏開始に当たり、井谷はドラム缶風呂に入るみたいにスネアを一跨ぎして、辛うじて隅に残された三角形の隙間に身体を滑り込ませていた)。ピアノの曲線に寄り添うように橋爪、中央に蛯子が立ち、手前のテーブルに横向きに三角が座る。

 この日、エレクトリック・ベースの演奏は、ディレイを効かした滲んだ響きのたゆたいと明確なリフにきっぱりと二極分化し、こうして方向性が絞り込まれることにより、アンサンブル全体に渡ってストレートな直接性が増し、飾り気のない音色が楽曲/演奏の基礎や骨組みを剥き出しにしていくように思われた。
 たとえばアップライトでないせいもあるのだろうが、飯尾のバッキングはいつもより明確に粒だって、曖昧な連なりではなく、個々の点の集積として聴こえた。これによりアンサンブルはいつもより透明度を高め、奥行きをさらに深めて、各演奏者の紡ぐ「物語」の行き交う様を、聴き手がさらに細やかに見通せるようになった。
 井谷の演奏もドラム・セットながら、いつものカホン中心の簡素なセット同様、いやそれ以上に余韻を切り詰め/引き延ばし(細やかに叩き分けられるシンバル)、音色のスペクトルを拡散しながら(スネアをスティックだけでなく、指先で、ブラシで、音具で叩きこする)、音を泳がせ、間を息づかせて、緩急を鋭敏かつ自在に操作していた。
 前回同様、ピアノに寄り添うように位置取った橋爪は、ライブラリ以外での演奏(橋爪亮督グループ等)を私が聴いたことのある唯一のメンバーなのだが、それらとライブラリでのプレイの違いにいつも驚かされる。ライブラリでの彼の演奏は、誤解を恐れずに言えば、彼の演奏能力の全スペクトルのうちのごく一部だけにフォーカスして、そこだけをあり得ないほど深く深く掘り下げる。例えて言うならば、サッカー選手の身体能力に注目して極端に難しい綱渡りに挑戦させるようなものだ。卓越したサックス・プレイヤーであるとともに優れたコンポーザーでもある橋爪は、創造性溢れる豊かなフレージングを鋭く自在に乗りこなすことができるが、ライブラリではそうした方向性は封印し、ロング・トーンの僅かな抑揚や点描的な音色の散らし描き、あるいはカタコトと階段を踏み外していくようなトイ・ミュージック的音響遊戯に没頭している。
 そして詩人である三角は、様々な方向から折り重なってくる音の層に対し、通常のヴォーカリストのようにメロディをなぞりながら響きを溶け合わせる代わりに、むしろ一つひとつの語やイメージを際立たせる。例えば冒頭に披露された「悪事と12人の死人」で、ゆったりとたゆたうエレクトリック・ベースの広がりに、細やかな文様を象眼していくソプラノ・サックス、ピアノ、ドラムスに対し、彼女はすっくと言葉を立ち上げる。「洗濯機がかんかんと回って 眠っている人はまだ眠っていて」……。かんかんと響き渡る声は、さらに三角の手によってサンプリングされ、薄くかげのように敷き重ねられて、幻惑的なズレ/交錯をもたらしつつ、その厚みから指先を傷つけそうな言葉の破片が、鋭く斜めに突き出している。

 演奏された全曲を1曲ずつレヴューした前回ライヴと異なり、今回は楽曲の性格よりも、ライブラリというアンサンブルというか、演奏者間の関係の特異性が前景化したように感じられた。それは前回、ライブラリ楽曲のエレクトリック・ベース版演奏に初めて接したからということもあるが、むしろ今回、通常は「普通のジャズ」が流れているであろう空間に(そしていつもは蛯子がジャム・セッションの場を包容力豊かに支えている場所に)、それとは明らかに異質なライブラリの音が放たれたということが大きいように思う。私はライブラリの演奏に初めて接する「場付き」の聴衆のとまどいを肌で感じ、困惑の匂いを嗅いだように思った(もちろんそれは私の勝手な印象に過ぎないが)。
 だが私はそうしたとまどいや困惑が、やがて魅惑的な「謎」へと変容していくに違いないことを知っている。タネも仕掛けもないはずなのに、どうしてこんな結果が生じるのか、通常のプレイヤーシップやミュージシャンシップの範疇では解き得ない不思議さに、魅了されずにはいられないことを。なぜなら私自身がそうだったから。
 秘密はやはり蛯子が呪文のように繰り返す「物語のスピードで」にあるのだろう。「ジャズ」が暗黙の指標としてきたトップ・アスリートの競い合いのような速さでも、年輪を感じさせるじっくりと味わい深い遅さでもなく、きびきびとした快活さでも、紫煙をゆったりとくゆらすリラクゼーションでもなく。「音がこぼれる草の話」で次第に遅くなり沼に沈んでいくようなテナーのソロも、「237」でファンキーに盛り上がりそうな曲想にもかかわらず一向に熱くならないアンサンブルも、「仲間割れの歌」でのドラムの伸縮自在に揺れまくる刻みも、「滑車」のアンサンブルが解けて荷崩れを起こしそうなゆっくりしたテンポも、「4:00 P.M.@Victor's」の暮れなずむ停滞感も、「Trains」の曲題通り列車走行音の心地よい繰り返しも、すべてはそこに内包された物語が自らを開陳するにふさわしい速度なのだ。
 そして聴けば聴くほど謎はますます深まり、その魅力を増していく。

 次回は11月30日、喫茶茶会記でのライヴだ。

ライブラリ横浜2縮小
撮影:益子博之


2016年10月1日(土)
横浜First
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(drums)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)

今回のセット・リストは次の通り。
1 悪事と12人の死人
2 Angel
3 音がこぼれる草の話
4 あ、いま、めまい
5 237
6 仲間割れの歌
7 Monofocus
8 滑車
9 4:00 P.M.@Victor's
10 ひこうき【新曲】
11 Vitriol
12 Spherical
13 Trains
14 空がゆがむ時【新曲】

ライブラリの喫茶茶会記での前回ライヴ(2015年10月19日)については、次のレヴューをご覧いただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-377.html

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:32:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
羽ばたく天使、息を切らす女主人 - ARICA『蝶の夢 ジャカルタ幻影』レヴュー  A Flapping Angel, An Out of Breath Mistress - Live Review for ARICA presents Butterfly Dream
 「いや静かですよ。実に美しいものです。」
 首くくり栲象による首吊りのパフォーマンスは恐ろしくないかと尋ねた私に、ARICAの演出を担当する藤田康城はごく穏やかに、だが即座にきっぱりと言い放った。「首吊り」をパフォーマンスとして他人に見せることに対し、何とはなしに根拠のない懸念 −− 自傷行為や嘔吐、排泄等が売りの(というより他に見せるものがない)内臓露出的/露悪的な「見世物」に立ち会わされることになるのではないか −− を抱いていた私は、自らの不分明を恥じ、本公演を観に、木場のギャラリー・スペースを訪れることに決めた。

 入口をくぐると、外の光が奥へと伸びるバー/カフェに対し、L字をかたちづくるギャラリー部分に舞台と客席が設えられている。舞台スペースの中央にロココ風のチェアが置かれ、その右手に小テーブル。テーブル上には植木鉢、茶筒、ティー・カップとトレイ。その手前に旅行カバン。客席のすぐ左脇に天井からロープが下がり、舞台にも二本のロープが下がり、その先に鳥籠のようなものが吊るされている。うっすらと点された照明におぼろげに浮かぶ白い壁とグレーの床に眼を凝らしていると、舞台右手の柱の陰に白い人影が潜んでいるのに気づく。ふくらみのある白の上下に水色のカーディガン。ひっそりと薄闇に溶け込み、身じろぎひとつせず壁に背を這わせている。

 空間には金属あるいは竹製のガムラン楽器(ゴングを含む)の音色が香のように振り撒かれている。音響を楽曲へと編み上げることなく、リズム・パターンのかけら、素早いグリッサンド、間を置いた点描、長くたなびく余韻等が、それぞれ断片のまま、インスタレーション風の仕方で空間に配置されている。

 ガムランの音が止み、ふと外の犬の吠え声が遠く浮かび上がる。しばらくして、同じガムランの音色が幾分ひっそりと戻ってくると照明が少し明るさを増し、舞台が幕を開ける。壁際に佇む女がゆっくりとこちらを向き、ゆるやかに動き出す。
 ここで女の身体のスローな動きに、ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』の微分化され引き伸ばされた身体の運動を思い浮かべてはいけない(たとえ女を演じる安藤朋子が太田省吾による伝説的舞台『水の駅』で、「2mを5分かけて歩く」演技を成し遂げていたとしても)。両肘のたおやかな動き、優雅な上体のひねり、滑らかな重心の移動が、空間にたゆたう金属質の余韻に浮遊する様は、むしろジャワ宮廷舞踏を思わせる。そこにあるのは解体/分解ではなく、身体各部の改めてゆるやかに結び合わされた呼応にほかならない。
 ふと彼女の身体を何かが貫き(フラッシュバックか)、驚愕の表情がよぎったかと思うと、口の端から歌(の記憶)が漏れ出している。

 ふと入り口の扉が開いて、帽子の男のシルエットが目映い逆光に浮かぶ。音はいつの間にかギターに変わっている。肉の臭いのしない、さらさらと乾いた再構築されたブルース。女は……と見れば、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、じっと男の方を見詰めている。
 ここでひとつ注記しておかなければいけないのは、客席スペースの左後ろの角に近い私の席は、男と女の姿を最も見込みやすい位置であるにもかかわらず、それでもなお二人の姿を同時にひとつの視界には捉えられなかったことである。観客は皆、首を振りながら両者を見比べ、あるいは新たに現れた男ばかりを眺めて、女の方をほとんど振り向かずにいた。だが、ここでの二人の動き、いやそもそも「見え=プレゼンス」自体が、この男が登場した時点から、確信犯的なキャラクター化を通じて漫画チックに照応しており、絶え間なく「喜劇」を生み出し続けているのを見逃してはならない。

 近づくにつれ、男の姿が明らかになる。明るい茶からオレンジ色の上下、麦わら帽子に茶色のリボン。木製の踏み台を引きずっている。そのハリー・ディーン・スタントン(ヴィム・ヴェンダース『パリ・テキサス』に主演として召喚された西部劇の脇役俳優)を思わせる痩せた体躯と乾いた髭面に、パロディックな西部劇の情景がふっと浮かび上がる。女は両足を旅行カバンに乗せたしどけない姿で、男の方をにらみつける。植民地の女主人風のふうわりとふくらんだ古風な白いドレス。まるで以前に支払いを踏み倒して逃げた客を見つけた、クラウディア・カルディナーレ演じる酒場のおかみのようだ。
 男は舞うようなステップをふらふらと踏みながら、さらに近づいて、帽子を壁の釘に掛ける。女はだるそうに顎に手を当て、缶からつまんだ細長い焼き菓子をかじる。男は踏み台に上がり、吊り下げられたロープを試すように叩く。いったん下りて、踏み台を手前に引いて再度上るが、今度はロープに手が届かない。男は針金を取り出して、それでロープを引き寄せようと苦闘する。見下したように冷ややかに見詰める女。
 男はようやくたぐり寄せたロープに輪をつなぎ、首(実際には顎だが)にかけ、そのままぶら下がり、はっと思う間もなく、揺れた先の向かいの柱に蝉のように止まる。音は小鳥のさえずりの隙間に響くソプラノ・サックスに変わっている。
 男の身体が柱を離れ、しばらく揺れている。揺れが収まってくると、伸ばした爪先が床を擦る。そのまま爪先を軸としてオルゴール仕掛けのバレリーナのように、くるくると回転する。女は食べかけの菓子を置き、缶の蓋を閉め、ゆったりと背もたれに身体を預ける。男はロープをつかみ、身体を持ち上げ、再び台に乗り、ロープから輪を外す。

 ゆるやかなギターのうねりに伴われて、男が舞台上の左側のロープに歩み寄り、これに輪を掛けて引くと、何と右側にぶら下がったロープにつながっていて、椅子が宙に持ち上がり、座っていた女が勢い良くひっくり返り、二本の脚が奇麗にV字をかたちづくり、足裏が見事に天井を向く。男は何事もなかったようにロープの端に付いていた鳥籠を外し、輪を付け直す。音楽が止み、管楽器の息音に差し替えられる。首に輪を掛け、身体を動かすと、宙に浮いた椅子が上下する。
 無声映画的なコメディは、バスター・キートンの無表情な疾走にも似て、ここから一気にスラップスティックな加速を見せる。
 女は立ち上がると、宙に浮かんだ椅子に旅行カバンを吊り下げ、さらにテーブルを持ち上げて吊り下げ、さらに自分の体重を掛けてロープを引く。男の身体が宙に浮く。音が止み、女のはあはあと荒い息が浮かび上がり、これをピアノとヴァイオリンが優雅に伴奏する。息を切らしてロープを引く女をよそに、男は軽やかに宙を舞い、回転し、シャツをはだけ、天使の翼に見立てて羽ばたく(剥き出しにされた彼の痩身は、むしろ磔刑に処されたキリストを思わせるのだが)。
 音楽が止まり、男は自ら身体を引き上げると、首にかかっていた輪をロープから外す。宙に浮いていた椅子やテーブルが女の身体もろとも、どすんと落下する。男はそのまま、何やら歌を口ずさみながら立ち去っていく。女はすっと立ち上がると、椅子やテーブル、旅行カバン等をてきぱきと片付け、元あった位置に戻し始める。冒頭のガムランが再び鳴り響き、明かりが落とされ、女はまた柱の陰に身を潜める。先ほどまでのスラップスティックな身体の消尽が、いやそもそも流れ者らしき男の訪問自体が、一瞬の夢(フラッシュバック)であり、まったく時間など経過していないかのように。終演。
蝶の夢2縮小 蝶の夢3縮小


 首くくり栲象は、現在も自宅の庭の椿の木で、毎月のように首吊りの公演をしており、首吊り行為自体は日課にしているというから、たまたま今回、この『蝶の夢』への出演を観たからと言って、その全体像を把握することは無論できまい。しかし、これだけは確かだと思う。「首吊り」に対する思い込みだけを根拠に、その行為を死の観念にだけ結びつけ、そこに固く縮こまり凝っていく肉体や、演劇や舞踏特有のジャーゴンと言うべき「ただごろんとそこにある(無為な)身体」を見出して安心を得ようとするのは、冒頭に書き記した私自身の不分明と同様、明らかに間違っていると。ここでは眼の前で繰り広げられる愉悦に満ちた舞踏、軽やかに散逸する遊戯的な身体の在りようをこそ、眼を逸らすことなく、観なければならない。
 ここで首吊りが身体から奪うのは、決して生(の一部)などではなく、グラウンドとの接点であり、大地を踏みしめる下肢であり、重力の束縛であり、「体幹に垂直に支えられる頭部」という秩序だった体系にほかなるまい。

 光溢れる「外部」から薄暗い「内部」への男の参入も、徒らにシンボリックにとらえる必要はないだろう。逆光の中からの鮮やかな登場は、確かに「彼方からの光臨」との印象を与えるが、私の観た回の上演では、ある「事件」が、すでにそうした象徴的文脈を脱臼させ、事態の格下げを果たしていた。というのも、ひっそりと静まった舞台に向かい、開幕を待ちわびる観客に、入口の扉を開けてはっとするような外の光を届けたのは、まずは遅れて来た観客であり、続いては「前に置いてある自転車はこちらのですか?!」と怒鳴り込んだ近所のオバサンだったからだ。意図せざるスラップスティック。

 もうひとつ指摘しておかなければならないのは、ARICAの上演において、切り詰められ絞り込まれたテクスト、身体/事物、イヴェントの配置にもかかわらず、いや、だからこそ、スラップスティックな身体の運動/消尽が、作劇の核心部分として、特権的な位置づけを得ているということだ。
 サミュエル・ベケット『ヘイ・ジョウ』を翻案した『ネエアンタ』(*1)では、山崎広太の「動かないダンス」が眼には見えない強風に翻弄され、身体各部の本来の連動/協応を欠いた、「15ゲーム」を思わせるカタカタした高速のブロックの移動が、身体動作が本来持つべき目的や意味を吹き飛ばし、きっぱりと脱ぎ捨てるに至る。
 『UTOU』(*2)では、ピンボール・マシーンのように高速でぶつかり合い、床を滑りくるくると回転する身体が、巡り続ける因果応報を衝突する金属球の粒子運動に転化させる。
 舞台装置のガラクタの山についには首まで埋め込まれ、身動きひとつできないベケット『しあわせな日々』(*3)の女もまた、溢れ出る言葉を、多種多様な声音や抑揚、アクセントやリズムの目まぐるしい変化を、すなわち「声の身体」を、能う限り消尽して止まない。
 *1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html
 *2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-305.html
 *3 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html

 この『蝶の夢』でもまた、流れ漂う男とそれを見守り見送る女という古典的な枠組みを設定しながら、それをパロディックに使い倒し、身体/事物の活人画的配置を、身体動作を、オブジェの運動を、滑車が壊れるほど加速し、空っぽになるまですり減らす。まさにバスター・キートン的(というのは私にとって喜劇への最高の賛辞なのだが)スラップスティック。きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう。



アリカ『蝶の夢 ジャカルタ幻影』
2016年10月1日(土)18:00【追加公演】、10月2日(日)14:00 / 18:00
※私は10月2日(日)14:00の回を観させていただきました。
EARTH+cafe+bar
演出:藤田康城
出演:首くくり栲象(たくぞう)、安藤朋子
蝶の夢1縮小


【補足】
 後で舞台を見ると、外された鳥籠(安定させるためか一方には白いアルパカのぬいぐるみが、もう一方にはおもり袋が詰め込まれていた)といっしょに、何か部品の破片らしきものが落ちていた。旅行カバンを持ち上げようとした女性が「すごく重い」と言っていたから、中におもりを仕込んでいるのだろう。痩身とは言え、男の身体とバランスさせるのだから、かなりな重量となる。装置の荷重も大変なものだろう。安藤朋子に聞いたところによれば、滑車を使ったロープの仕掛けが何度も試せるものではなく、毎回ぶっつけ本番状態だと言う。
蝶の夢disk また、藤田康城によれば、冒頭の再構成されたガムランは、博物館の楽器を素材に構築されたAsturas Bumsteinas『Gamelan Descending A Staircase』(Cronica)で、私の執筆したディスク・レヴューで知ったと言う(えーっ、忘れていた)。本公演に続くインドネシア・ジャカルタでの上演に向けて選ばれたようだが、そんな理由が後付けに感じられるほどはまっていた。ギターはJohn Fahey、ソプラノ・サックスはEvan Parker、息音はMichel Donedaの演奏とのこと。いずれも藤田ならではの選曲と言えるだろう。
 このARICA『蝶の夢』のインドネシア・ジャカルタ公演は、Salihara International Performingarts Festivalの招聘を受け、10月15日・16日に行われる。

【後記】
 本レヴューの最後に私は「きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう」と記している。1カット2秒として15カット。それぞれにキャプションが付されるとして、20〜30文字×15セット。本来ならこのレヴューは、そのように簡潔で素早く切り替わるポップな速度に溢れたものであるべきだと思う。私の筆力不足でそれが成し得なかったことが返す返すも残念だ。

※フライヤー及び舞台写真はTheater Company ARICAホームページ及び公式Twitterから転載しました。





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:36:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第七夜来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Seventh Night
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 三連休の中日、不安定な天候と悪条件の中、多くの皆様にご来場をいただき、ありがとうございました。皆様の集中と熱気に包まれ、こちらもヒートアップして一気に駆け抜けた感があります。振り返ってみても充実した一夜だったとの手応えがしっかりと残っています。ここでは当日のプレイリストを、ジャケット写真、試聴リンク、多少のコメント付きで掲載させていただきます。なお試聴リンクはあくまで参考で、当日おかけした部分とはことなる場合もありますので、ご注意ください。コメントもまた当日の説明を再録したものではありません。

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 今回はCD、LPに加えDVD(PCで再生)まで音源に用いたため、再生の際のつなぎ替えが結構大変で、いろいろと不手際もあったことをお詫びいたします。
 ただ、再生環境については、『松籟夜話』の欠かせない一部となっている歸山幸輔設計の反射板スピーカーが、その底知れない潜在力をますます発揮して、凄いことになってきているのをご報告しないわけにはいきません。
 ちょっと舞台裏を明かすと、当日開演前のリハーサル時に、いつものように打合せ時に気になった部分を中心に、津田と予定音源を聴き返していたのですが、立ち会っていた歸山が「最近ようやく気が付いたんですけど、こうすると音が結構変わるんですよね」と言いながら、スピーカーの前面を床からすっと持ち上げ、少し仰角を付けた途端、音ががらりと質感を変えました。その時、私はスピーカーの正面ではなく、横に座っていたにもかかわらず、音の迫真性というか、説得力がぐんと増したのに驚かされたのです。見ると津田も月光茶房店主の原田も、そこにいた全員の顔色が変わっています。あわてて床とスピーカー前面フレームの間にスペーサーを挿んで固定し、正面に回ってみると、やはり生々しさや手触りの厚みが全然違っています。今までのは何だったんだ‥という感じ。スピーカーの角度について、ツイーターの高さや向きを耳の高さ等に合わせて調整する仕方はよく知られていますが、今回の音の変化はそうしたサービス・エリアの変化というより、スピーカーの正面側に対して、逆向きに付けられたスピーカー・ユニットの背面から音響が放出される際に、床との角度がかたちづくる「ホーンの開口部」に当たる角度の変化によるものではないかとのこと。また、スピーカー背後の壁に対する角度も当然変化するので、それによる響きへの影響もあるかもしれません。今回の再生音はオーディオに詳しい中村匠一さんも「これまでで鳴りっぷりが一番良かった」と誉めてくださいました。
 ますますその魅力に磨きのかかった『松籟夜話』(笑)、今後ともどうぞご注目くださいますよう、お願い申し上げます。
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2016/09/18『松籟夜話』第七夜プレイリスト

開演前BGM

V.A.『The Branch』(directed by AMEPHONE)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=BEIsINOFZiI
AMEPHONEの「監督」による作品集。コンピレーションの多彩さ。






開幕

ノスタルジアDVDAndrei Tarkovsky『Nostalghia』DVD【2:30F.O.】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LvumaiJPRwk
それが何であるかを告げずに、開幕のタイトル・クレジットの部分を映像無しで。風に運ばれるロシア民謡が、ふと湧き上がるヴェルディ『レクイエム』に沈み、犬の吠え声と車の音が響く。本作で死に至る病とされる「ノスタルジア」が今回の重要な伏線のひとつであることの予告。

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総論/導入部

AMEPHONE『Esquisse 1/3 attc』tr.1〜tr.3【6:18 / 3:48 / 3:35】
試聴:
ミュージシャン、録音エンジニア、フィールドレコーディング・アーティストと多彩な顔を持ち、演奏者を選び、イメージを伝え、音を組み合わせて、映画監督のように作品をつくりあげるAMEPOHONEの紹介。
台湾(?)の細路地の音景色(物売りの声が空間の奥行きを明らかにする)に、SP盤風の質感の女声による歌曲がかかり、風景との関係性を宙吊りにしたまま消える。突如としてレゲエ・バンド(AMEPHONE自身が演奏に参加)のライヴが挿入され、遠めの録音の薄暗さが、それが先ほどの細路地と地続きであり、一連の記憶の一コマであるかのような錯覚をもたらす。曲が終わると、耳は再びどこかの路地をさまよいだす(博打に興じる男たちの振る骰子の音)。
ここに見られるように複層化した彼の作品世界を3つの視点で切り分け(以下の第1~3部)、それぞれの線を伸ばしてみることにより、聴くことを深める試み。


第1部 「捏造」民俗音楽

amephone retroAMEPHONE『Retrospective』tr.1【6:50】
試聴:https://amephone.bandcamp.com/
 パリの公園のベンチ(?)での老人と旅行者の何気ないやりとり(日記映画風)が、タブラのリズムに煽られ、バリ島の喧噪、ひび割れたオルガン、サンバの沸騰をくぐり抜けるめくるめく音響絵巻。フラッシュバックする光景、恐るべき情報の洪水(でも懐かしく耳になじむ)。足元を常に切り崩し、耳を揺さぶり引きずり回す。深い混迷と眩暈のうちに現実(の記憶)と虚構の境目が溶解していく甘美さ。

AMEPHONE『Esquisse 3/3』tr.2【4:00】tr.4【4:50】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/aya002.html
 弦楽器の古風な爪弾き~クラシカルに香り立つピアノ~東南アジア歌謡曲のひなびたメロディが突然日本語に切り替わることにより、遠かったセピア色の風景が突然に自らのありえない記憶と響きあい、続くトラックのSP盤風の声の手触りと戦後まもない頃のエキゾ風南国アレンジが、さらに不確かな郷愁を掻き立てながら、知らぬ間にジャワ・ガムランに移り変わっている。詐欺の見事な手口を見せられたような感慨。

Soundworm『Instincts and Manners of Soundworm』tr.13【2:20】tr.1【4:40】
試聴:http://losapson.shop-pro.jp/?pid=11203809
 当初、『Circuit Brasireilos』冒頭曲のファウンド・テープ的音触ゆえにキーワードとして提示した「民俗音楽の捏造」だが、CANによるEthnological Forgery Series(民族学的偽物シリーズ)の冷徹な分析/再構築(彼らは「ロック」すら、そのようにして捏造した)と比較すると、AMEPHONE やSoundwormが捏造しようとしているのが「音楽」ではなく、それが演奏される「場(=生活空間)」やそこに漂う生活の「匂い」であることが浮かんでくる(よりストレートにサウンドへと向かうSoundwormと、精妙にセノグラフィを構築し、気配を醸し出していくAMEPHONEという違いはあるにしても)。AMEPHONE自身、「その場所に行ってみたいと思うような音楽をつくりたい。でもその場所って本当はないんだけどね」との趣旨の発言をしている。

kink gongKink Gong『Dong in China』tr.8【5:00F.O.】
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=9811
 前述の転換により、「捏造された音楽」ではなく、「現地録音に映り込んだ生活の匂いを聴く」ことに。ふらりと村を訪れ、住民と仲良くなり、生活空間にマイクロフォンを挿し込む(ステージを仕立てるのではなく)Laurent Jeanneau(=Kink Gong)の録音。中国少数民族による「蝉歌」と呼ばれる伝統合唱の向こうから、生活のざわめきや仕切られた空間の成り立ちが聴こえてくる。

V.A.『VIETNAM music of the montagnards』【4:30】
試聴:http://www.allmusic.com/album/vietnam-music-of-montagnards-mw0000030959
 ゆるやかに間を置いて打ち鳴らされるゴングの柔らかな響きの間から、演奏とは関係ない日常の生活音がざわざと溢れ出す。「民族音楽」の現地録音だが、この流れで聴くと、まるで生活音を引き立てるために手前に演奏を配したように感じられる。



第2部 映画的空間構成

AMEPHONE『Esquisse 3/3』tr.6【4:15】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/aya002.html
 捏造戦後歌謡による浮遊する異国情緒(よく聴くと歌詞もディープ)、主演俳優が歌う劇中歌風のへたうまデュエットが、背景への不明瞭なセリフのカット・インから車の走行音を合図にラウンジ風味のラテン・バンド演奏へ。視点/空間の唐突な切り替え/接合がもたらす映画的なカット割りの感覚。石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎が活躍したかつての日活無国籍アクション映画における、キャバレーでの喧嘩シーンからスポーツカーでの逃走劇へ‥という流れを彷彿とさせる。

nouvelle vagueJean-Luc Godard『Nouvelle Vague』CD1 tr.1【4:00F.O.】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=8oQfSqXCrnE
 冒頭部分を。音楽だけではなく、セリフや物音まですべてを収録した文字通りのサウンドトラック。音像の移動や遠近の響きの変化に、映像(視覚)を排しても、なお細やかなカットの切り替わりがまざまざと触知できる。モンタージュ(コラージュ)というより奥行きや広がりの異なる空間の共存がここにある。これを聴いた後で映画作品を見直すと、映像のカット割りが音響のそれと全く違うことに愕然とする。

大友大友良英『藍風箏』tr.7【4:48】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dgRA_FKUC4Y
 大友初の映画音楽作品から、映像内の音響を用いたトラックを。奥まったスクリーンを基準平面として、傍らでテーマが奏され、サステインの効いたエレクトリック・ギターが手前にうっすらと涙の幕をかける。ゴダールに比べ平坦な構成。


Steve Lacy『Lapis』tr.3「The Criptosphere」【3:09】
試聴:https://www.amazon.com/The-Cryptosphere/dp/B004G2OPGS
 Lacy最大の問題作から。「いかにもジャズ」な気怠い演奏(買ってきたレコードをかけている)が中央に配され、そのわずかな余白に書き込まれる切り詰められた演奏。多重フレーミングの重なりが奥行きをもたらす空間構成は、録音担当Daniel Vallancienの貢献が大きい(Lacy自身の証言あり)。
※ジャケット写真ははCD再発盤『Scratching Seventies』を掲載。

Bernard Vitet『Mehr Licht!』 A2「L'ange du bizarre」【9:00】
試聴:http://www.drame.org/2/Musique.php?D=91&LA=EN
 開かれた窓の外の音景色に演奏がかぶる。巨大なバラフォンと小さなウィンドチャイムによるオモチャな音色とベビー・ベッドの上で回るメリーを思わせる自動演奏風のフレーズという戦略的選択(確信犯!)が、演奏のリアルな存在感をどこまでも希薄化し、巧みに編集された音風景を無防備な耳に流し込む。録音担当はVallancienの後継者というべきDaniel Deshays。

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休憩BGM
 
モーラムLuk Thung『Classic & Obscure 78s from the Thai Countryside』
試聴:http://www.dust-digital.com/luk-thung/
 AMEPOHONEの愛するタイの歌謡曲モーラムから。東北地方民謡出自のイナタいメロディやケーンの響きが、キャバレーの箱バン風のアレンジやレゲエ感覚の後ノリのヴォーカルと合体。同時代の昭和歌謡曲と同じく無国籍な雑食的実験性溢れる人懐っこさ。



第3部 空間による音の変容への眼差し

tsuki no waTsuki No Wa『真昼顔』tr.6【7:50】
試聴:
 以前にも別トラックを採りあげたAMEPOHONE録音/プロデュース作品から、今回はFuminosukeのヴォーカルなしの表題曲を。空間に滲み溶けていく響きへの眼差しが、体育館にこもる熱気と重ね合される。電子音(前出のSoundworm こと庄司広光による)が回路的なエフェクトとしてではなく、空間に放出され、ある帯域をマスクあるいは強調し、空気を揺り動かすことを通じて演奏と混じり合い変容させる。

Pierre Barouh『Ca Va Ca Vient』tr.1【2:36】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=gi9eAk41Rs0
 AMEPOHONEの先駆者と言うべきDaniel Vallancien録音作品を続けて4つ。まずは「世界最初のインディーズ・レーベル」Saravahを主宰するPierre Barouhの代表作から。街頭のざわめきと混じり合い空中に舞い上がって、ゆるやかにたなびきながら希薄に溶けていくブラスバンド(前掲のBernard Vitetも参加)の響きと、胸をそらした押しつけがましさの一切ない声が睦みまどろむ白昼夢。

Bridget Fontaine, Areski, Art Ensemble of Chicago『Comme a la Radio』tr.1【9:08】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=3WfVir1_Edc
 前掲作品に続きSaravah必聴名盤から。声量のないささやきヴォーカルの手触りをリアルにとらえつつ、管楽器の響きを極端に切り詰め、単一フレーズを繰り返すリズムに北アフリカの乾いた風を吹き抜けさせて、確保した隙間に異国の香るメロディをモザイク状にちりばめるDaniel Vallancien巧みな音響構築。この誰しもが聴いているはずの曲の「ジャズ」に対する徹底した異化ぶりを、ここまで鮮やかに示し得たのは、歸山幸輔設計のスピーカーの貢献が大きい。ちなみに本トラックのトランペットはLeo Smithによる(Saravah盤ジャケットに表記あり)。

Art Ensemble of Chicago『A Jackson in Your House』tr.1【5:50】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=5drrLal9fr8
 おどけたファンファーレ、静寂に浮かぶヴィブラフォンの震え、ガラクタ/オモチャな小打楽器類、下卑た笑いに満ちた乱痴気コーラス、突如始まるディキシーランド‥短い場面を連ね、多様な音色と幅広いダイナミクスを駆使した、フリー・ジャズの徹底的な異化/再構成(黒い哄笑に満ちた)を支えたのは、彼らによる音響への覚醒した視線を具体的にテープに定着し得たDaniel Vallancienにほかならない。

Anthony Braxton『B-X NO-47A』tr.1【中頃4:00】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=KPliRMCaV84
 前掲作と同じく初期BYG盤から。肉感的なブロウを排し、むしろ感情を取り除いた精密かつ多彩な微弱音を駆使したサウンドによるパペット・ダンス。その「非人間的」在りよう(前出のBernard Vitet『Mehr Licht!』にも通ずる)は定型フリー・ジャズの範疇では到底とらえられない。やはりDaniel Vallancienの耳なしには成し得なかったであろう達成。

Takashi Ueno, Hiraku Suzuki『Son et Lumiere』tr.3【4:40F.O.】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/MK40.html
 鈴木ヒラクのパフォーマンスと植野隆司の生ギターの共演。遠い録音が、ギターの響きが距離/空間に侵食変容される様をリアルにとらえており、空間のざわめきには、多方向から交錯する残響や背景ノイズのほか、パフォーマンスで空中のたなびかされる紙の音も微かに混じっている。以前に『松籟夜話』第五夜で採りあげた、さや、梅田哲也、高橋幾郎との『モエレ』以上に、デレク・ベイリーと田中珉による『Music and Dance』を彷彿とさせる空気感。

Laurent Sassi,Michel Doneda,Marc Pichelin,Le Quan Ninh『Montagne Noire』tr.2【10:05】
試聴:
 『松籟夜話』第一夜Michel Doneda特集でも採りあげた『Montagne Noire』から、それとは別のトラックを。打撃の直後に水に浸され音高を急にベンドさせるシンバル、かき混ぜられる河原の小石、川面を切り裂く水しぶき、泡立ちほとばしり靄のように立ち込める息‥‥間近に見詰め、不意に遠ざかり、自由奔放に立ち回る演奏者を追いかけまわし、一瞬静まり返った渓谷に響く小鳥の声に耳を澄ますマイクロフォン。まさに録音による演奏。

Michel Doneda, Jonas Kocher『Le Belveedre du Rayon Vert』tr.5【10:14】
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/flexion/flex-007.html
 廃業した伝統あるホテルの様々な場所での演奏から中庭の場面を。響きを通じて空間を手探され、演奏によって空間が照らし出される。ここで二人は互いに言葉を交わす代わりに、明らかに各々が空間を探査し応答しており、二つの軌跡が交差する様がレコーダーに記録されている。まるで地縛霊を振り払う「キヨメ」のような不気味さ。

ノスタルジアDVDAndrei Tarkovsky『Nostalghia』DVD【ラスト5:00】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LvumaiJPRwk
今度は作品名を明らかにした後に、荒い息を吐きながら苦行を果たし終えた詩人が呻き声と共に倒れ、やがて廃墟の中に故郷の家が浮かび上がり、恩寵のように雪が降り出す有名なラスト・ショットまで映像無しに。
音だけで(フィルムの映像ではなく)視覚の運動/変容が立ち上がってくると同時に、ヴェルディ『レクイエム』、ロシア民謡、鳴き回る犬と、スクリーンの映像は全く異なるオープニング・シーンを、音響が反復していることにも改めて気づかされる。
ノスタルジアとはnostos(帰郷)とalgos(痛み)の合成による造語であり、空間的・時間的に離れた「場所」に還りたい、身を埋めたいという切実な想い、死に至る病を指す(決して甘い郷愁ではない)。その場所とは実在の故郷なのだろうか。むしろ、いまここではない、どこか離れた場所への身を切るような想いではないか。その想いを託され、一瞬ではあるが叶える音楽の力があるのではないか。
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帰路へのサルヴェージ

Tony Kosinec『Bad Girl Songs』tr.11「The Sun Wants Me to Love You」【4:17】
試聴:https://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&cd=MHCP000000594
 『松籟夜話』ではいつも、音の深みから現実世界へと浮上する「サルヴェージの時間」を設けている。今回は知る人ぞ知るエヴァーグリーン的名盤から。ここでは本来センターに定位すべき声が、視界の片隅から遠い響きとともに聴こえてくる。まるで隣の部屋で歌っているような親密な肌触り。「いまここではないどこか離れた場所」とは、遠い異郷でも仮想世界でもなく、意外と近くにあるかもしれないという救いを込めて。


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興奮冷めやらず珍しく賑わうアフター・アワーズの交流



『松籟夜話』第七夜
日時:2016年9月18日(日)
場所:ビブリオテカ・ムタツミンダ(「月光茶房」隣接スペース)

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
第七夜は、360°records関連アーティスト、主にAMEPHONEの音源を灯台として、映画的な音像構成や民俗学的な現地録音、さらには空間に浸透していく響きの行方を見つめる眼差しへと至る、聴取の可能性を照らし出します。
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当日写真撮影:原田正夫、多田雅範、津田貴司





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:12:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
「聴くこと」がもたらす感覚の変容・変質 「タダマス22」レヴュー  "Deep Listening" Makes Transformation and Alteration to Senses Review for "TADA-MASU 22"
 この日(7月24日)の四谷音盤茶会の選盤はいつになく「濃い」ものとなった。益子の言うところの「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」が炸裂したプログラム。それらは聴き手が慣習的にイメージする「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしている。にもかかわらず、旧来の「ジャズ」から外見上どれだけ遠く隔たっているかの「距離」において、これらの演奏/作品を位置づけ評価するのは、まったくの見当違いだと私は考えている。ここでは前述の「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」といった視点/評価軸の可能性を掘り下げるため、これらに基づいた選盤の流れの中に引かれた(引かれているはずの)前後の対比の線を、私なりにくっきりと浮かび上がらせながら論じていくこととしたい。それは必然的に益子によるプログラム作成意図に触れることになるだろうが、決して彼の意図を正確に推し量ることを目指しているわけではない。いつものことながら、それは私の視角からとらえた音像にほかならず、言うならば「『松籟夜話』から見た『タダマス』」ということになるだろう。
なお、当日のプレイリストについては、次のURLをご参照いただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

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撮影:原田正夫



 この日の焦点となった後半「ダーク・サイド」の5枚に触れる前に、前半「ポップ・サイド」の5枚のうち、印象に残った作品について書いておきたい。

タダマス22D1 3枚目Bobby Avey『Inhuman Wilderness』からの2曲は、空中ブランコのように大きく揺れながら疎から密への振れ幅大きく叩きまくられるドラムと、クラシック風に取り澄ました、あるいは手触り冷たくミニマルに構築されたピアノが絡み合う様を、芯のあるベースが音数少なく支えるという構図。一方で精密なグリッドを構築しておいて、他方でそれを揺すぶり立てながら疾走するという「運動感覚」は、益子も以前にthe HIATUSで高く評価していた柏倉隆史がドラムを務めるtoeを、つまりはマス・ロック的な演奏のあり方を思わせる。「ドラムの音がとてもデッド」(益子)との指摘通り、眼前で炸裂する打撃は一瞬で背後へと飛び退り、余韻を残さず、空間を占有しない。それゆえに時空間にマッピングされた各点の間に自由に線が伸びることができる。トリオ編成でありながら、ピアノの右手が高音域でモールス信号的なリフを奏でたり、叩きつけるような刻みを入れながら、左手はぬるぬると低音を徘徊するなど、複数の流れを操ってみせるあたり、ジャズ演奏者ならではの「身体能力」の高さ、瞬間瞬間の制御能力(それこそが「即興」を支えている)の深さを感じさせる。


タダマス22D2 続いてかけられた4枚目Guillermo Klein『Los Guachos V』は、リズミックなレイヤーの敷き重ねによりながら、先へ先へと駆り立てられていく層、そこから滑り落ちたように次第に遅くなっていく層等が交錯し、ドップラー効果を思わせる、くらくらふわふわとした不思議な眩暈感をもたらしてくれる。まるで通過する踏切の警報のように、揺らめきながら遠ざかるシンバルの響きに、寝台列車に乗った子ども時代の記憶がふとよみがえる。繰り返されるピアノの打鍵が次第に遅くなっていくような幻惑感、テーブルからこぼれ落ちてバラバラと床に散らばるドラムの引き起こすデジャヴ感覚‥‥。「忘れ物をして後から提出する感じ」と多田が言う通り、ここで「遅さ/遅れ」は単に相対的な速度差ではなく、どこかノスタルジックというか、追想的な「喪失感」をたたえている。指先が触れたにもかかわらず、もう少しのところで取り逃がしてしまい、もう二度と手に入らない甘美さ。この匂い立つ手触りは、いわゆる「アルゼンチン音響派」のMono Fontanaや、そこからはみ出してしまうがFederico Durand等とも相通ずるように思う。他のより速い曲は、もっと縦の線が揃ってしまって、香りこそ共通するものの、初期マイケル・ナイマンみたいだったから、この曲の「遅さ」に注目した益子の慧眼を讃えたい。

 これに対し、後半「ダーク・サイド」の常連Henry Threadgillが、何と前半2枚目にかけられた。ピアノを左右に配して対称性を高め、Threadgill自身は作曲のみで演奏に参加しないアンサンブルは、冒頭のピアノ2台だけによるパートなど譜面剥き出し感が強く、その後、各楽器が出入りしながら、織り面の移り変わりを見せていく彼独特の展開はあるのだが、ちょうどロウソクの炎の揺らぎが映し出すめくるめく走馬灯の景色のように、あらかじめ用意された枠組みを離陸した音自体が息づき、自在に伸び縮みしながら、夢幻的に巡り巡るところまではとても行かなかった。前述2作品の「露払い」の位置に座したのもむべなるかなと。
 


タダマス22D3 後半幕開けの6枚目は、最近「タダマス」の常連となった感のある「フェンダー・ローズの魔術師」Jozef Dumoulinと女性ヴォイスのデュオLilly Joel『What Lies in the Sea』。深い残響にまみれた、エレクトリック・ピアノとはとても思えない濃い霧のような輪郭不明のたゆたいに切れ切れの女声や不穏な物音が溺れ浮かび沈んでいくという構図は、Mauve Sideshowのいかにもカルトな吐息や、Nurse with the Woundの総帥Steven Stapletonが偏執狂的につくりあげたCrystal Belle Scrodd(Diana Rogerson)の音響迷宮世界を思い出させる。しかし、Lilly Joelとそうしたあり得る参照項の決定的な差異は、前者が離陸してからの飛翔、瞬間瞬間の姿勢制御にすべてを賭けているのに対し、後者は精緻なポスト・プロダクションによる徹底的な編集/つくり込みの産物であることにほかならない。到達点としての「世界観」を共有しながら、そこに至る身体の関わり方は驚くほど異なっている。作曲者の脳内に成立したヴィジョンを演奏者という「媒介物」なしに外界で実現しようとする電子音楽と、それとは対極的に完全には制御し難い電子回路とリアルタイムで格闘するライヴ・エレクトロニクス。エレクトロニクス演奏の二つの「源流」へと想いを馳せてみること。


タダマス22D4 巨大なバス・サクソフォンやコントラバス・クラリネットを循環呼吸で吹き鳴らすColin Stetsonもまた、最近の「タダマス」の常連のひとりだが、その超絶技巧に関心しながらも、それほど面白いものだろうかと首を傾げていたことを、私も多田同様白状せねばなるまい。8枚目にかけられたColin Stetson『Sorrow - A Reimagining of Gorecki's 3rd Symphony』は、タイトル通りの交響曲を、管楽器トリオに弦楽器やエレクトリック・ギター、シンセサイザー等を加えた編成で演奏したもの。オリジナルのオーケストラでは暗闇をひたひたと満ちてくるような冒頭の低弦部分が、息の力をみなぎらせてその姿を浮かび上がらせ、湧き上がる倍音の荒々しさを通じて聴き手に響きの深淵を覗き込ませる。循環呼吸のために鼻から素早く息を吸うノイズの禍々しいばかりに差し迫った生々しさが、原曲の発想の源に置かれたであろうチャントの厳かさと身体のざわめきに満ちた静謐さ(コンサート・ホールの静かさとは異なる)をあぶり出さずにはおかない。いささか逆説的な物言いとなるが、たどるべき旋律線が先に示されていることが、演奏者と聴き手をより強く深く響きへと没入させるように感じられる。
 クラシック作品の演奏を聴く楽しみとは、作曲された旋律をたどることではなく、ホールを満たす響きに深々と身を沈めることにあるのだと前置きして、多田は、このStetsonたちの演奏について、「純粋体験」というか、耳の焦点を合わせれば合わせるほど、対象がひと塊の音ではなくなり、幾つにも分岐し、当てもなく広がって、自分が包み込まれていく‥‥と語っていたが、オーケストラよりもはるかに小編成の演奏ながら、そうした底知れない奥行きの深さが確かにここにはある。オリジナルの演奏はもっとテンポが速いという益子の指摘に、その時は深く頷いたものの、オリジナル編成の録音を幾つか確かめてみると、テンポ自体はそれほど違わない。しかし、テンポ感の遅さというか、足取りの重たさ、降り積もった雪を踏みしめ足が地面に食い込むような沈み込み感覚は、Stetson版の演奏に特有のものだ。
 本作品のひとつ前にかけられた7枚目Pascal Niggenkemper『Le 7eme Continent:Talking Trash』に、現代消費文明批判のコンセプトから軋みに満ちたノイジーなサウンドを構想し、ただそれを演じているだけ‥‥という浅薄さ(いや標題音楽とはそういうものだろうという反論はさて置くとして)をどうしても感じてしまうのに対し、このグレツキのよく知られた作品の再構築においては、演奏の瞬間瞬間を通じてサウンドがより深く追求されているのが素晴らしい。そのことが先の「沈み込み感覚」をももたらしているのだろう。空間の豊かな残響を活かし、耳触りのよさを追い求めた清水靖晃によるバッハのアダプテーション等とは、アプローチは一見似ていながらも、明らかに求める方向性の異なる作品と位置づけられよう。


タダマス22D5 9枚目にかけられたのが、益子が「今年最大の問題作ではないか」とまで言うTyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』。2枚組CDの全体を通してみるとSoreyが演奏していない場面が多いとのこと。15分以上に及ぶトラックが丸々プレイされたが、間を置いて打ち鳴らされ、薄闇から浮かび上がる金属打楽器の少しもまぶしさのない響きと、冷ややかに落ち着き払った距離の眼差しが、わずかの隙もなくぴんと張り詰めた細い綱を渡っていく様に、聴き手は耳の視線を一瞬たりとも逸らすことができない。やがて剥き出しに擦り切れた弦のか細い響きが水平にたなびき、北欧トラッド風の輝きを増しながら、空間に傷を付け、うっすらと響きを滲ませていくが、それでもいささかも水面を揺らすことなく、水底に留まる暗く冷たい水のしめやかな奥深さを乱すことがない。
 Soreyによる打楽器のパートはおそらく即興的に演じられ、弦やピアノのパートは記譜されているのではないかとのことだが、これはただ「譜面の音響化」によって成し遂げ得る演奏ではなかろう。ここですべては様々な度合いの「振動」のブレンドとしてある。光の届かない水底に沈み、側線で水の動きを感知する魚のように、全身を耳にして音響空間の深みを探る耳の眼差しの強度/浸透力と、ひとつところに留まるために自らを取り巻く水の微細な揺れ動きに合わせ、絶え間なく鰭の動きをコントロールし続ける「即興」的鋭敏さ/繊細さなしには果たし得まい。終盤にヴァイオリンが見せる超絶技巧やコントラバスの弓弾きによる深々としたドローンも、そうしたひとつながりの「ブレンド」の一部にほかならない。


タダマス22-2縮小 タダマス22-3縮小
撮影:原田正夫


 「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」によってひとつに束ねられた流れを、こうして前後の対比に沿って切り分けながら見ていくと、それらの作品が旧来の「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしているにもかかわらず、そこでは一貫して演奏を通じてのサウンドの追求/錬磨、その音楽があらかじめ記譜等により準備されているか否かにかかわらず、演奏へと離陸してからの瞬間瞬間の反応にすべてを賭けているあり方が浮かんでくるように思う。もちろんそれは「素早く柔軟な身のこなし」という点では、従来からのジャズ的なミュージシャンシップの延長上にあるのだが、これまでと大きく異なっているのは、「聴くこと」の覚醒/拡大/深化という点ではないかと感じている。そのことが音色の微細な差異や空間/響き/沈黙への感覚を研ぎ澄まし(興味深いことに、この時に感覚的差異は必ずと言っていいほど触覚的なものとして立ち現れる。もしかすると、これは話が逆で、感知すべき差異がミクロ化することにより、感覚の階梯上、自動的に触覚が浮上するということなのかもしれない)、聴くために必要な時間=遅延をいまここに繰り込んで(「聴くこと」とは「待つこと」にほかならない)、感覚を変容させる。

 自らの脳内ヴィジョンを投影したり、共演者の意図を推し量ったり、強迫的に身体動作を加速したりする代わりに、すでに空間の一部として存在しているざわめきや響きを含め、いまここにある音に耳を傾けること。自ら放った音も、共演者の出した音も、ふと鳴り響いた物音も、「手元を離れたもの」として意図や原因からいったん切り離し、意味の乗り物、すなわち記号ではなく、様々な度合いの振動として、持続の総体として、改めて見詰め直すこと。確かグレゴリー・ベイトソンが言っていたのだと思うが、人間が作成した人工物に比べ、生物をはじめ自然がかたちづくったものは、必ずより複雑である。何らかの意図や記号へと還元するのを止めた時、音はこれまで捨象されていた本来の豊かさを露わにする。
 たとえばフィールドレコーディング作品に対する聴取を、風景の表象とか制作者の意図だとかに還元してしまったら、およそ貧しくつまらないものとなってしまうだろう。同様にフリー・インプロヴィゼーションを「自分はあらかじめ準備なとしていない。これはいまここでつくりだしている音である」という自己弁明の証左として聴くことが、いかにつまらないことであるか(実際のところ、「いま私が行っているのは即興演奏にほかならない」ということだけを証し立てるために演奏している者は数多いが、このトートロジーにいったい何の意味があると言うのだろう)。
 フィールドレコーディング作品を聴くように、フリー・インプロヴィゼーションを聴くならば、そこに思いがけない豊かさを発見することができるだろう。前回、ライヴ・レヴューの対象とした大上流一と森重靖宗のデュオなど、まさにそうだった。今回の「タダマス22」で紹介されたTyshawn Soreyたちの演奏も、それを記譜したコンポジションのリアライゼーションとしてではなく、たとえばAlain Kremskiの隣に並べて「こうした意匠はすでにある」と片付けてしまうのではなく、持続としての音に耳を浸し、『松籟夜話』でキーワードとして掲げている「即興・音響・環境」の三者の相互変容としてとらえるのであれば、「聴くこと」を深め楽しむ、またとない契機となり得ることだろう。


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 22
2016年7月24日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:千葉広樹 ベース・ヴァイオリン・エレクトロニクス奏者/作曲家

タダマス22-2


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:01:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
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