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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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速度と動き ―― 「タダマス24」レヴュー  Speed and Movement ― Live Review for "TADA-MASU24"
 新譜ディスク・レヴューの一番の難しさは、その配列にある。各作品の核心をとらえること自体は、そう難しいことではない。だから優れた作品を選び出し、そうではない作品を外すことは、その延長線上で充分に可能だ。けれど、単に優れた作品を並べて、その美点を書き連ねても、表現が飽和して互いに打ち消し合い、輝きを減じるだけでしかない。そうではなく、一見類似した印象を対比や差異で切り分け、相反する手触りの間を類比の糸で結びつける。前掲作の響きの余韻が続く演奏の特質を照らし出し、さらに綴られたレヴューが先立つテクストに反対側から光を当てる。このようにして連ねられた峰々がひとつの風景をかたちづくり、起伏に満ちた物語を紡ぎ出す。最後に付け加えられた掌編に、それまでの展開を根底から転覆させる大どんでん返しが仕込まれていたりする。それは一幕の劇であるとともに、同時代を映し出す鏡ともなっているだろう。

 四谷音盤茶会の選盤と構成を担当する益子博之が10枚の音盤でつくりあげる流れには、こうしたコンポジションの冴えがある。ある音に打たれ貫かれたということは、単にその1曲、1枚に惹かれたのではなく、その前後の流れに巻き込まれたということにほかならない。
彼の相方、多田雅範の唐突で無遠慮なツッコミは、そうした語りの流れを揺さぶり、あらかじめ描かれていた設計図を引き裂き、時には回帰すべき着地点を見失って、聴衆を途方に暮れさせる。しかし、彼が彼にしかできない独特の仕方で流れに熱く息を吹き込み事態を複線化し、異論を差し挟んで仮説を宙吊りにするかと思えば、予定調和の結論を勢い余って突き抜け、崖から転がり落ちることによって、その場で聴く体験としての「音」は確実に「触発する力」を強めている。
それは決してあらかじめ仕組まれた伏線としてのミスリードではない。事前のシナリオを投げ捨てて振り向いた瞬間、彼は思わずばったり必然の帰結と出会ってしまうのだ。避けようのない運命的な邂逅として。まったくのアクシデントのように。

 今回、私は、多田が自分でもよくわからない(であろう)説明の中で口走った「速度と動き」というつぶやきに、思考をギュッと鷲掴みにされた。益子もやはりこの一言に惹きつけられたらしく、その後の説明の中で、何度となく繰り返し触れていた。今回はこの一連の流れを採りあげて論じることとしたい。もちろんこれは私の視角からの切り取りであり、この回に披露された音盤を巡る議論やそこに秘められた聴取の可能性が、これから展開する論点に尽きるものでは決してないことは、改めてお断りしておきたい。
 なお、当日のプレイリストと、先立つ3回を含めた40枚の音盤の中からさらに選り抜かれた2016年のベスト10については、すでに益子がウェブ上にアップしているので、これを参照していただきたい(※)。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
タダマス241縮小
撮影:原田正夫



 チューバの低くくぐもった唸り声のいつ果てるとも知れない持続。トランペットの掠れた息。高域と低域の間にぴんと張り渡された空間に、箏の爪弾きと鉄琴の単音が振り撒かれ、傷跡を残した上を、ノイジーなエレクトロニクスの砂嵐がさらにやすり掛けしていく。楽器の音色の色彩感はことごとく取り払われ、すべては鈍く冷たい輝きを放つ電子音の構築と化して、耳の視界を薄暗くモノクロームに染め上げる。そこで前景化してくるのは、個々の音の断片であるよりも、むしろその背後に広がる空間の静まり返った広がりの方である。冷え切った希薄さ、いや空っぽな虚無/真空の中を、音は交錯も衝突も重なり合うこともせず、左右から現れ、すれ違い、ただ通り過ぎて、消えていく。満たされることのない空間は、距離だけが支配している。音/響きを触れ合わせ、積み重ねるアンサンブルの生理とは隔絶した音世界。この鈍く輝くモノクロームな音の手触りを、生楽器による電子音の模倣ととらえ、演奏全体を電子音楽的なコンポジションに見立てる者もいるかもしれない。だが、それは違う。ここには脳内の夢想を、演奏者という媒介無しに、余すことなく直接テープ上に定着できることがもたらした、電子音楽特有の自己完結的な閉塞性がない。一見、完璧に描きあげられた画布は、いつもどこかが撓み揺らいでいる。視界一杯に広がる美しく淀みない回転運動の中に、そこだけ別の画面をはめ込んだような逆向きの動きが潜んでいる。

タダマス24-1 この日、後半の幕開けとなった、タダマスの常連と言うべきIngrid Laubrockによる『Serpentines』(Intakt Records)の3曲目、12分以上にも及ぶトラックを「長いので途中まで聴いていただいて‥」とあらかじめ断りながら、結局はほとんど全編をかけてしまった益子が、夫君Tom Rainey(dr)をはじめ、いつものメンバーで脇を固めることの多い彼女が、やはりタダマス常連でもはや説明不要だろうTyshawn Sorey(dr)やCraig Taborn(p)、さらにはHenry Threadgillのアンサンブルの屋台骨を支えるDan Peck(tuba)、箏奏者Miya Masaokaとこれまでと異なるメンバーと共同作業を行っていることに注意を促す。ふだんは音を出し過ぎるPeter Evans(tp)やSam Pluta(electronics)が、ここでは珍しく抑制の効いた演奏をしており、Laubrock本人もほとんどサックスを吹かず、鉄琴を叩いているだけであるとも。
 多田が「ここにTyshawn Soreyがいる必然性」を指摘し、論述の口火を切る。後で発表された「タダマスの選ぶ2016年ベスト10」の堂々第1位を飾ったTyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』(Pi Recordings)にも似たゲンダイオンガク的な構築性が、なるほど、ここには感じ取れる。さらに多田は、ここには一定の速度があり、すべての奏者はそのひとつの速度をキープするために演奏しているのだ‥と続ける。それは決して各演奏者に共有された、アンサンブルのテンポ感覚といった凡庸なものではない。クラシックでは当たり前の緩急法であるテンポ・アゴーギクでもない。だが確かにここには、あるイマジナリーなラインが引かれ、その上を刻々と移動している感覚がある。同期を禁じられ、直接の接触はもちろん、目配せさえ許されず、各演奏者は暗闇の中を孤独に飛翔しつつ、それでもある軸線に沿って互いに重なり合う螺旋を描いている。まるで中空に残された「匂いの道」をたどる蝶の群れのように。

タダマス24-2 ここで示された「速度」というキーワードは、次なる聴取へと引き継がれ、さらには前後合計4作品を、ある光点から照らし出すことになる。続くEve Risser White Desert Orchestra『Les Deux Versants Se Regardent』(Clean Feed Records)は、楽器というよりは音色のコンポジションだった。「楽器」というひとまとまりの広がりは分解され、抽出された幾つかのかけらだけが、プラネタリウムみたいに注意深く配置され、星座の姿を浮かび上がらせる。ドーンという深い鳴りが空気を揺すり、様々な音色のかけらが軋みまたたく。ここで湧き出る「速度」は先ほどよりだいぶゆっくりであるように感じられる。そして響きのかけらが細かくなるのと比例して、イマジナリーなラインも蜘蛛の糸のように極端に細くなっている。なかなか見つからない導きの糸を探して、手元しか照らし得ないペンライトのちっぽけな光が、ちらちらと不安定にまたたきながらさまよう。

 物理的な速度ではなく、速度感、あるいは動きの感覚が重要なのではないか‥と益子が問題提起する。この2作品は共にいわゆる音響的即興と言いながら、実のところずいぶん異なっている。前者はイメージで言えば、竹林の中をずんずんと歩んでいる感じであり、細い枝や葉が動きによってがさがさと音を立てているように聴こえる。これに対し後者は、能のすり足みたいで、静かでゆるやかだがすごい力が込められている‥‥と。

 ここで多田から益子へとリレーされた「速度と動き」とは、自身率いるユニット「ライブラリ」の演奏について蛯子健太郎の語る「物語のスピード」と共通するのではないだろうか。 
私は以前このことについて、次のように書いていた(*)。「然るべき速度が、然るべき地点で、然るべきタイミングで出会い、あるいはすれ違う。合流地点や時刻が先に決められているのではなく、然るべき速度こそが然るべき出会いをもたらす。蛯子の言う「物語のスピードで」とはそうしたことだろう。張り詰めた氷が緩みせせらぎが聞こえだす季節、種子が芽吹きゆるゆると茎葉を伸ばす速度、回転するルーレットに投げ込まれた球の軌跡、倒れていくドミノの連鎖、転がる毛糸玉がするすると解け、自らの軌跡を跡付けながら、核心を露わにしていく過程。」
*http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-411.html

タダマス24-3 次のRaphael Malfliet『Noumenon』(Ruweh Records)をかける前に、益子が次にかける盤はちょっと心配があって‥‥と前説を始める。自宅で聴いた時に、最初は全然ピンと来なくて、試しに別のアンプに切り替えてみたら、すごく良くなった。3人の演奏者が個々ばらばらに、それぞれ独立して浮かぶのではなくて、溶け合ったサウンドが移り変わるように聴こえるとよいのだが‥‥と。喫茶茶会記の再生装置から聴こえてきた音は、音場型というよりは、やはり音像型というべきものだったので、益子の言う良さは伝わりにくかったのかもしれない。それでも印象を率直に記すと、各演奏者がサウンドの範囲を極端に絞り込み、オン/オフの切り替えを主軸に演奏しているように感じられた。即興演奏にありがちな性急なコール&レスポンスはないのだが、音を重ね、擦り合わせることのほとんどない演奏は、メイン・ストリームのジャズならありきたりの「ソロ回し」を音響化したように感じられた。サウンドは「交替」するだけで、複数の音色の化学反応による「変容」や「変質」は起こらない。別にコンダクターがいて、彼に指差された演奏者が順番に音を出しているようにすら思われた。後半、3人の間の距離がふっと縮まる場面があるのだが、それも長くは続かない。

タダマス24-4 この3枚に、前半最後に掛けられたAnna Webber's Simple Trio『Binary』(Skirl Records)を加え、4枚が編み上げる風景を改めて見直してみたい。
 John Hollenbeck(dr,perc)、Matt Mitchell(piano)とのトリオで登場したAnna Webberは、以前の「Hollenbeck印」のブランド・コピー的な作風から一転して、ユニークな個性を確立してきた。アンサンブルの推進力が細かく叩き分けるドラムであることは変わりないのだが、ミニマルな繰り返しに向かわず、目まぐるしく不断にギアを切り替えながら、常に力強くペダルを踏み込み続ける身体的なドライヴ感がある。3人乗りタンデムというより、鋭い突っ込みを見せるMatt Mitchellの打鍵と、どこかオモチャ的な軽い音色でパタパタとせわしなく散乱し続けるJohn Hollenbeckの、ちょうど噛み合わせ部分にAnna Webberのサックス・リフが入り込み、かつてのHenry Cowを思わせる硬質なリズム構築全体が、ひとつの車輪と化して、ぐるんぐるん回転している感じを与える。
 この演奏に対し、多田は「サックスに視点を合わせて聴くと、耳を走らせるドライヴ感がある。リズムやアクセントがどんどん移り変わっていくにもかかわらず、重心が定まっていて、行く手を見詰める視線がまっすぐで揺るぎない」とコメントした。これは体感的に納得できる。晩年の菊地雅章トリオのように、彼方に結像した共通の光景を見詰めているというより、各演奏者の身体同士を直接結び合わせ、重心の移動、それに伴う動きを、まるで組み体操のように連結させている印象なのだ(ここで私は、互いに他の者の足首をつかみ、3人がひとつの輪になって前転を続けるマット運動を思い浮かべている)。ここで三者によるイマジナリーなラインの共有は、ひとつに連ねられた身体運動感覚とどきどきする心臓の鼓動に取って代わられている。

 そこから見ると、(1)Ingrid Laubrock、(2)Eve Risser White Desert Orchestra、(3)Raphael Malflietの演奏は、順を追って身体が引き離され、(1)まずはイマジナリーなラインがくっきりと太く現れ、(2)次いでそれが細く淡く手応えの薄いものへと変容し、(3)ついには実体を失って、ゲームのルールやマニュアルに示された作業手順のような単なる指示へと変化していくプロセスを描いているように思われる。
 もちろん、こうした度合い自体を取り出して、どの水準が適切かという議論をしてもしょうがないわけだが、少なくとも演奏の肌触りとしては、私にはIngrid Laubrockによる果敢な挑戦が好ましく感じられた。Eve Risser White Desert Orchestraによる音色のテクスチャーの生成が、それよりも繊細で精緻な瞬間を有していることは認めざるを得ないのだが、ピアノが内部奏法から打鍵に移り、それでも発散的な音響で星座的な見晴らしを持続するものの、続くピアノの和音に管楽器が積み重なってテーマ風の情景を提示するパートに至ると、以降、確かに音色の線はそうした「器」から溢れ、こぼれ落ちていくものの、それ以前の張り詰めた緊張(それこそが星座の映る天蓋を支えていたものなのだが)をずいぶんと緩めてしまうように感じられた。

 最後に発表された益子と多田の選ぶ2016年ベスト10に、Ingrid Laubrock『Serpentines』が選ばれなかったことへの異論のように読めてしまうかもしれないが、もちろん本稿の主眼はそこにはない。このような聴取がもたらす体感的な気付きの可能性を選盤・選曲の流れとしてプログラムし、なおかつ、それを当日の新たな発見として即興的に名指し、さらにそれを的確に認め、また投げ返すといった、益子と多田の実に真っ当な批評のアクションに、改めて打たれたということなのだ。
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撮影:原田正夫


masuko x tada yotsuya tea party vol. 24
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 24
2017年1月22日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:藤巻鉄郎(ドラム・打楽器奏者)


"TADA-MASU" Best 10 Albums of 2016

1. Tyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』(Pi Recordings PI 65)

2. Flin van Hemmen『Drums of Days』(Neither/Nor Records N/N 005)

3. Raphael Malfliet『Noumenon』(Ruweh Records 003)

4. David Virelles『Antenna』(ECM Records ECM 3901)

5. Jim Black Trio『The Constant』(Intakt Records Intakt CD 268)

6. Eve Risser White Desert Orchestra『Les Deux Versants Se Regardent』(Clean Feed Records CF 399 CD)

7. Lilly Joel『What Lies in the Sea』(Sub Rosa SR 416)

8. Leah Paul『We Will Do the Worrying』(Skirl Records SKIRL 035)

9. Jeff Parker『The New Breed』(International Anthem IARC 0009)

10. Marcus Strickland’s Twi-Life『Nihil Novi』(Blue Note Records/Revive Music B002468402)

extra. Bon Iver『22, A Million』(Jagjaguwar JAG 300)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:18:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
気球が空に舞い上がり… 『タダマス23』レヴュー  Kikyuu Ga Sora Ni Mayagali... Review for "TADA-MASU 23"
 10月23日(日)に行われた益子博之と多田雅範のナヴィゲートする四谷音盤茶会(=タダマス)第23回をリポートしたい。例によって、あくまで私の興味関心に基づいて切り取られた視角に関する報告なので、会の全貌をお伝えすることはできないことをお断りしておく(特に今回は偏りが激しいのではないか)。なお、当日のプレイ・リストについては、次のURLを参照していただきたい。
 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

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撮影:原田正夫


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 会が始まる前にRobert Glasperの新譜がかけられていて、益子が、これはジャズというより、ブラコンと言っていいと思うんだけれど、どうも80年代がブームということになっているらしく、途中Weather Reportみたいになったりするんですよね……とコメントする。なるほどシンセサイザーのうなり具合とか、まさにそんな感じ……と、ここで、David Bowieの「遺作」となった『★』について気になっていたあれこれが、ふと浮かび上がる。ロック・ファンのとらえ方は「ボウイが新世代ジャズのミュージシャンを起用」というところで話が終わってしまい、そのサウンドの内実に踏み込もうとしない。一方、これに対するジャズ側の応答は、ボウイと共に「Sue (Or In A Season Of Crime)」のオリジナル版をつくりあげたMaria Schneider Orchestraを、彼とDonny McCaslin及びMark Guilianaの出会いの機会ととらえ、『★』のレコーディングを彼とMcCaslinのレギュラー・クワルテット(に先の「Sue」の録音に呼ばれた元MSOメンバーのBen Monderを加えた5名)によるものと見なしている。そしてMcCaslinたちの「新世代」性がテクニックの卓越に加え、「ジャズの生演奏とエレクトロニック・ミュージックの融合」を目指した結果として説明されるのだが、そこで言う「エレクトロニック・ミュージック」が原義よりはJ.Dilla以降の「ズレをはらんだリズム・プログラミング」を指すものであってみれば、これはヒップホップに代表されるブラック・ミュージックの視点から、ジャズを再評価することにほかなるまい。それゆえ「新傾向」の旗手として、当初から先のGlasperが掲げられることになっているわけだ。だが本当にそうなのだろうか。

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撮影:原田正夫


タダマス23-1 タダマス23-2
 と、ここで長々と説明を差し挟んだのはほかでもない。今回の『タダマス23』の冒頭に続けてかけられたSteve Lehman & Selebeyone『Selebeyone』とCorey King『Lashes』が、図らずも私のこの疑問に触れていたからだ。
 前者は益子により、これまでもヒップホップを採りあげていたLehmanが最初からヒップホップ作品としてつくりあげたものと説明される。Glasperのグループで演奏していたDamion Reid(dr)によるスネアとキックの配合を主成分とするビート構築は、Mark Guiliana同様の「不整脈」系で、多田が言う通り「ジタバタ感があり、単にノリだけで進まないところがよい」。これに対し上物は、ひたすらウネウネと絡み合う2サックスにしろ、ストリングスの残像だけを取り出したようなキーボードにしろ、棒読み調の英語ラップとアジテーションの激しさを帯びた西アフリカの言語であるウォロフ語によるラップの対比を際立たせることに徹している。ビートとラップというヒップホップの核心を突きながら、ここにブラックネスの色濃さは感じられない。Lehmanはあくまでヒップホップの鋳型をどう転用するかに注力しているように思われる。
 これに対し後者は「新世代ジャズ」のサンプルとしても採りあげられるErimajのトロンボーン奏者のソロで、他のメンバーがバックアップしているもの。ここでKingはヴォーカルを務め、各種キーボードやプログラミングを担当しながら、トロンボーンは吹かない。Erimajとの差別化を図るためともとらえられるが、サウンド自体がそもそも80年代シンセ・ポップ風で、もともと教会でゴスペルを歌うことから音楽に親しんだという声は、黒人風の粘りをわずかに感じさせるものの、歌唱あるいは歌ものの造りとしては、益子の指摘通り明らかにRadioheadの影響下にある。本人もRadioheadやBrian Eno、Daniel Lanois等のファンであることを公言しているという。やはりブラックネスは希薄だ。


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 後半の開幕にかけられたECMからの2作品Jakob Bro『Streams』とAndrew Cyrille Quartet『The Declaration of Musical Independence』が、さらにこの問題を敷衍していたように思う。
 Jon ChristensenにJoey Baronが替わった前者のトリオからは、Paul Motianに捧げた10分近い即興演奏のトラックがプレイされた。ディレイの使用によりひたすら自らを自らに折り重ね、心地よい揺らぎを生じさせながらも、徹頭徹尾サウンドスケープしか生み出さないJakob Broのアンビエントなギターに対し、Thomas MorganとJoey Baronは共に、ディレイの生み出すレイヤーの広がりとその敷き重ねによる演奏の生成を念頭に置きながら、実際にはディレイを用いることなく演奏に臨んだ。具体的には、音高を極端に絞り込み、触覚的なさわりを前面に押し立てつつ、さらに音が反復しながらだんだんと遠のいていくような「人力ディレイ」(益子)を奏でたベースと、余韻を切り詰めたサウンドにより間を際立たせ、時折鋭角的な突っ込みを見せたドラムによる、二人の「聴く力」(多田)を遺憾なく発揮したプレイである。ここでも「エレクトロニック・ミュージック」の鋳型が異なる景色をもたらしている。
 他方、後者では、Cecil Taylor(p)のユニットのドラム奏者を永年務め、ブラック・フリー・ジャズの「闘士」として、ドタバタと忙しなく叩き回り、音数多く「うるさい」演奏を繰り広げていたAndrew Cyrilleが、時折忙しなさを見せるものの、むしろ間を重視した繊細な演奏を聴かせ、これにAnthony Braxtonとの共演こそあるものの、元Musica Elettronica Vivaのメンバーで明らかに畑違いのRichard Teitelbaumのシンセサイザーが、ホワイトノイズを散布して空間の広がりを眺め回し、あるいはサックスの気息音を模して視界を横切り、ただならぬ気配を充満させる。形を変えていく雲のような浮遊感を漂わせながら、以前よりは輪郭を明確にしたBill Frisellのギターは、基本的にメロディ・フレーズを繰り返すだけだ。ここにもブラック・ミュージックの祖型を用いながら、それをパブリック・ドメインとして自在に中身を組み替えていく手つきが見られるように思う。「マンフレート・アイヒャーではなく、サン・チョンのプロデュースだからこそ可能になった作品」という多田の指摘は鋭いと思う。


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 この回のハイライトは、前半にかけられたJeff Parker『The New Breed』とJim Black Trio『The Constant』ではなかったか。Tortoiseのギター奏者として知られる前者は、益子によるとAACMにも参加しており、近年、活動拠点をシカゴからLAに移したとのこと。スクエアなビートに、ビートルズ「ストロベリー・フィールズ」的な弦アンサンブルの劣化サンプリングが、そこから滑り落ちそうな不安定さで重ねられ、さらに軽快なサックス・ソロが乗り、そこからさらにサックスがサンプリングされてループし、ドラムが連打をずらしていくという、ミスマッチを微妙なところまで見極めた編集感覚が素晴らしい。「レトロ・フューチャー」という益子の評も当たっている。冒頭部分が少しだけ披露された次曲はかつてのTortoiseを思わせる、細密に作り込まれながら、どこか牧歌的なカンタベリー風味だったから、本質は変わっていないのだろう。
 後者はメンバーを固定しての3作目。バシバシと小気味よく叩き込むドラムが前面に出るのはいつも通りだが、まだ26歳というピアニストの、サウンドを切り詰めてドラムを引き立てつつ、自らをも立ち上げるバランス感覚に耳が惹き付けられた。高音と低音に極端に二極化したパーカッシヴな打鍵によるプリペアド・ピアノ的演奏をはじめ、フレーズ展開風のソロを取らず、リズミックに砕け散ったアブストラクトなパッセージを中心に、むしろサンプラーやターンテーブル奏者のようなサウンド/ノイズ・メーカーに徹した演奏は、冗長さを徹底して削ぎ落とし、三人が一丸となって急坂を転げ落ち、飛び石伝いに川を渡り、絶壁の縁をひたひたと歩む運動の一体感を強めていた。もちろん、その陰には『タダマス』御用達ベーシストThomas Morganの支えがあるのだが。


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 もうひとつ、今回の収穫を挙げれば、声のゆるやかな温かみではないかと思う。Sara Serpa & Andre Matos『All The Dreams』では、音程の揺れる電子音やエコーの滲み、テープ逆回転の使用といった、いささかアナクロニックな「アナログ感覚」が、フレンチあるいはブラジリアン・ポップス的な声の処理(Stereolabが『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』で参照したような)と相俟って、そうした時の流れを生み出していた。
 対して、やはり最近『タダマス』登場機会のめっきり増えたJoachim Badenhorst率いるCarate Urio Orchestra『Ljubijana』からは、オブスキュアな日本語歌詞の曲を。深いエコーの中で交錯する口笛と囁きヴォイス、薄暗がりに沈んだ爪弾きギターとよく聴き取れないヴォーカル。「気球が空に舞い上がり、雲を突き抜けさらに高く、太陽とひとつになるまで」と力なく呟かれるイカロス的飛翔への憧れを含め、1970年代初頭の京都ヒッピー集団による自主制作盤と言われたら信じてしまいそうな仕上がり。愛すべき音楽。
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撮影:原田正夫


 この日は、エンクロージャの変更、ツイーターの故障と、このところ腰の定まらないところのあった喫茶茶会記のスピーカーが、以前とは異なるより明晰なポジションながら、据わりの良いサウンドを聴かせ、ようやく落ち着くべきところに落ち着いてきた感があった。ゲストとして『タダマス』2回目の登場となる井谷享志は、曲によっては用意された席が位置する側面から、おもむろに席をスピーカー正面側へと移し、熱心に響きへ耳を傾ける「聴き手」としての貪欲な集中を見せた。相変わらず発した言葉は多くなかったが、隣に座っていた多田が、聴取に集中している彼の気配に大いに触発された旨を語っていて、大いに頷かされた。複数で聴くことによる発見は、交わされる言葉よりも、むしろそこにある。今回かけられた音盤を聴いて、井谷が「実は僕歌いたいんですよね」と漏らしていたのも興味深かった。「声と打楽器というのは、何かモノクロな感じでいい」というのは、時にモノクロ写真がカラー写真以上の色彩感を持つように、最小限の要素から無限の可能性が広がるということだろう。「声と打楽器」と言われて最初に頭に浮かぶのは、チャールズ・ヘイワードや灰野敬二だが、彼の前にはそれとは違った可能性が開けているように思う。ぜひ聴いてみたいものだ。

タダマス23縮小

masuko/tada yotsuya tea party vol. 23: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 23
2016年10月23日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:井谷享志(パーカッション・ドラム奏者)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:57:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
いつもとは違う場所で − ライブラリ@横浜First  In a Different Place Than Usual − Live Review for Library@Yokohama First 20161001
 2枚のCDを何度となく聴き返し、幾度もライヴに出かけ、そのたびにレヴューを書いているというのに、蛯子健太郎率いる図書館系ジャズ・ユニット「ライブラリ」の魅力とは何か、未だにはっきりと名指せないでいる。
 今回は昨年10月の喫茶茶会記前回ライヴに引き続き、エレクトリック・ベースによる演奏で、蛯子自身が「何だか全部オルタナ・パンクみたい」と照れながら語るように、頁を繰る手ももどかしく一気に読み進めるように、曲名の紹介どころか、時にはベースの持続音を響かせたまま曲間の区切りすら欠いて、冒頭から7曲が続けて奏された。その一方で、各曲を始める前の蛯子の「カウント儀式」は健在で、眼を瞑り、おそらくは脳内で全編を高速スキャンしているのだろうか、初めて見たら首を傾げるほど時間をかけて、これしかない最適のテンポを指し示す。だから演奏は一気呵成に急坂を転がり落ちるかに見えて、そうした闇雲に先を急ぐ性急さとは一切無縁だ。然るべき速度が、然るべき地点で、然るべきタイミングで出会い、あるいはすれ違う。合流地点や時刻が先に決められているのではなく、然るべき速度こそが然るべき出会いをもたらす。蛯子の言う「物語のスピードで」とはそうしたことだろう。
 張り詰めた氷が緩みせせらぎが聞こえだす季節、種子が芽吹きゆるゆると茎葉を伸ばす速度、回転するルーレットに投げ込まれた球の軌跡、倒れていくドミノの連鎖、転がる毛糸玉がするすると解け、自らの軌跡を跡付けながら、核心を露わにしていく過程。
 それは微妙で危ういバランスの上に成り立っている。前回の彼らのライヴの記録動画を見て、そのことを痛いほど気づかされた。あれほど魅了されたアンサンブルがすっかり抜け殻となっている。もちろん夢を見ていたわけではない。おそらくはヴィデオの設置位置の制約もあって、録音がエレクトリック・ベースのソリッドで芯のある低音をとらえきれていないのだ。たったそれだけのことで、彼らの「物語」は崩れさってしまう。だが、手指の間からさらさらと虚しくこぼれ落ちる砂粒の感触から、すなわち彼らの魅力の不在の手応えから、その在処を感じ取ることもできる。
ライブラリ横浜1縮小
撮影:益子博之


 恒例の喫茶茶会記でのライヴに先立ち、いつも蛯子がジャム・セッションの受け皿を務めている(つまりはライブラリの物語を繰り広げてはいない)横浜ファーストでのライヴを聴いてみたいと思ったのは、場所が変われば(初めて訪れる店だ)、視点も移り変わって、彼らのまた違った側面を垣間見られるのではないかとの期待からだった。
 京浜急行日の出町駅から川を渡って右側にある店のドアを開けると、いきなりセミグランド・ピアノのボディが通せんぼをしている。天井があまり高くなく、奥へと細長く延びる穴蔵的空間。ピアノの脇をすり抜けて進み振り返ると、ドアとは反対側の角にドラム・セットが押し込まれている(演奏開始に当たり、井谷はドラム缶風呂に入るみたいにスネアを一跨ぎして、辛うじて隅に残された三角形の隙間に身体を滑り込ませていた)。ピアノの曲線に寄り添うように橋爪、中央に蛯子が立ち、手前のテーブルに横向きに三角が座る。

 この日、エレクトリック・ベースの演奏は、ディレイを効かした滲んだ響きのたゆたいと明確なリフにきっぱりと二極分化し、こうして方向性が絞り込まれることにより、アンサンブル全体に渡ってストレートな直接性が増し、飾り気のない音色が楽曲/演奏の基礎や骨組みを剥き出しにしていくように思われた。
 たとえばアップライトでないせいもあるのだろうが、飯尾のバッキングはいつもより明確に粒だって、曖昧な連なりではなく、個々の点の集積として聴こえた。これによりアンサンブルはいつもより透明度を高め、奥行きをさらに深めて、各演奏者の紡ぐ「物語」の行き交う様を、聴き手がさらに細やかに見通せるようになった。
 井谷の演奏もドラム・セットながら、いつものカホン中心の簡素なセット同様、いやそれ以上に余韻を切り詰め/引き延ばし(細やかに叩き分けられるシンバル)、音色のスペクトルを拡散しながら(スネアをスティックだけでなく、指先で、ブラシで、音具で叩きこする)、音を泳がせ、間を息づかせて、緩急を鋭敏かつ自在に操作していた。
 前回同様、ピアノに寄り添うように位置取った橋爪は、ライブラリ以外での演奏(橋爪亮督グループ等)を私が聴いたことのある唯一のメンバーなのだが、それらとライブラリでのプレイの違いにいつも驚かされる。ライブラリでの彼の演奏は、誤解を恐れずに言えば、彼の演奏能力の全スペクトルのうちのごく一部だけにフォーカスして、そこだけをあり得ないほど深く深く掘り下げる。例えて言うならば、サッカー選手の身体能力に注目して極端に難しい綱渡りに挑戦させるようなものだ。卓越したサックス・プレイヤーであるとともに優れたコンポーザーでもある橋爪は、創造性溢れる豊かなフレージングを鋭く自在に乗りこなすことができるが、ライブラリではそうした方向性は封印し、ロング・トーンの僅かな抑揚や点描的な音色の散らし描き、あるいはカタコトと階段を踏み外していくようなトイ・ミュージック的音響遊戯に没頭している。
 そして詩人である三角は、様々な方向から折り重なってくる音の層に対し、通常のヴォーカリストのようにメロディをなぞりながら響きを溶け合わせる代わりに、むしろ一つひとつの語やイメージを際立たせる。例えば冒頭に披露された「悪事と12人の死人」で、ゆったりとたゆたうエレクトリック・ベースの広がりに、細やかな文様を象眼していくソプラノ・サックス、ピアノ、ドラムスに対し、彼女はすっくと言葉を立ち上げる。「洗濯機がかんかんと回って 眠っている人はまだ眠っていて」……。かんかんと響き渡る声は、さらに三角の手によってサンプリングされ、薄くかげのように敷き重ねられて、幻惑的なズレ/交錯をもたらしつつ、その厚みから指先を傷つけそうな言葉の破片が、鋭く斜めに突き出している。

 演奏された全曲を1曲ずつレヴューした前回ライヴと異なり、今回は楽曲の性格よりも、ライブラリというアンサンブルというか、演奏者間の関係の特異性が前景化したように感じられた。それは前回、ライブラリ楽曲のエレクトリック・ベース版演奏に初めて接したからということもあるが、むしろ今回、通常は「普通のジャズ」が流れているであろう空間に(そしていつもは蛯子がジャム・セッションの場を包容力豊かに支えている場所に)、それとは明らかに異質なライブラリの音が放たれたということが大きいように思う。私はライブラリの演奏に初めて接する「場付き」の聴衆のとまどいを肌で感じ、困惑の匂いを嗅いだように思った(もちろんそれは私の勝手な印象に過ぎないが)。
 だが私はそうしたとまどいや困惑が、やがて魅惑的な「謎」へと変容していくに違いないことを知っている。タネも仕掛けもないはずなのに、どうしてこんな結果が生じるのか、通常のプレイヤーシップやミュージシャンシップの範疇では解き得ない不思議さに、魅了されずにはいられないことを。なぜなら私自身がそうだったから。
 秘密はやはり蛯子が呪文のように繰り返す「物語のスピードで」にあるのだろう。「ジャズ」が暗黙の指標としてきたトップ・アスリートの競い合いのような速さでも、年輪を感じさせるじっくりと味わい深い遅さでもなく、きびきびとした快活さでも、紫煙をゆったりとくゆらすリラクゼーションでもなく。「音がこぼれる草の話」で次第に遅くなり沼に沈んでいくようなテナーのソロも、「237」でファンキーに盛り上がりそうな曲想にもかかわらず一向に熱くならないアンサンブルも、「仲間割れの歌」でのドラムの伸縮自在に揺れまくる刻みも、「滑車」のアンサンブルが解けて荷崩れを起こしそうなゆっくりしたテンポも、「4:00 P.M.@Victor's」の暮れなずむ停滞感も、「Trains」の曲題通り列車走行音の心地よい繰り返しも、すべてはそこに内包された物語が自らを開陳するにふさわしい速度なのだ。
 そして聴けば聴くほど謎はますます深まり、その魅力を増していく。

 次回は11月30日、喫茶茶会記でのライヴだ。

ライブラリ横浜2縮小
撮影:益子博之


2016年10月1日(土)
横浜First
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(drums)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)

今回のセット・リストは次の通り。
1 悪事と12人の死人
2 Angel
3 音がこぼれる草の話
4 あ、いま、めまい
5 237
6 仲間割れの歌
7 Monofocus
8 滑車
9 4:00 P.M.@Victor's
10 ひこうき【新曲】
11 Vitriol
12 Spherical
13 Trains
14 空がゆがむ時【新曲】

ライブラリの喫茶茶会記での前回ライヴ(2015年10月19日)については、次のレヴューをご覧いただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-377.html

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:32:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
羽ばたく天使、息を切らす女主人 - ARICA『蝶の夢 ジャカルタ幻影』レヴュー  A Flapping Angel, An Out of Breath Mistress - Live Review for ARICA presents Butterfly Dream
 「いや静かですよ。実に美しいものです。」
 首くくり栲象による首吊りのパフォーマンスは恐ろしくないかと尋ねた私に、ARICAの演出を担当する藤田康城はごく穏やかに、だが即座にきっぱりと言い放った。「首吊り」をパフォーマンスとして他人に見せることに対し、何とはなしに根拠のない懸念 −− 自傷行為や嘔吐、排泄等が売りの(というより他に見せるものがない)内臓露出的/露悪的な「見世物」に立ち会わされることになるのではないか −− を抱いていた私は、自らの不分明を恥じ、本公演を観に、木場のギャラリー・スペースを訪れることに決めた。

 入口をくぐると、外の光が奥へと伸びるバー/カフェに対し、L字をかたちづくるギャラリー部分に舞台と客席が設えられている。舞台スペースの中央にロココ風のチェアが置かれ、その右手に小テーブル。テーブル上には植木鉢、茶筒、ティー・カップとトレイ。その手前に旅行カバン。客席のすぐ左脇に天井からロープが下がり、舞台にも二本のロープが下がり、その先に鳥籠のようなものが吊るされている。うっすらと点された照明におぼろげに浮かぶ白い壁とグレーの床に眼を凝らしていると、舞台右手の柱の陰に白い人影が潜んでいるのに気づく。ふくらみのある白の上下に水色のカーディガン。ひっそりと薄闇に溶け込み、身じろぎひとつせず壁に背を這わせている。

 空間には金属あるいは竹製のガムラン楽器(ゴングを含む)の音色が香のように振り撒かれている。音響を楽曲へと編み上げることなく、リズム・パターンのかけら、素早いグリッサンド、間を置いた点描、長くたなびく余韻等が、それぞれ断片のまま、インスタレーション風の仕方で空間に配置されている。

 ガムランの音が止み、ふと外の犬の吠え声が遠く浮かび上がる。しばらくして、同じガムランの音色が幾分ひっそりと戻ってくると照明が少し明るさを増し、舞台が幕を開ける。壁際に佇む女がゆっくりとこちらを向き、ゆるやかに動き出す。
 ここで女の身体のスローな動きに、ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』の微分化され引き伸ばされた身体の運動を思い浮かべてはいけない(たとえ女を演じる安藤朋子が太田省吾による伝説的舞台『水の駅』で、「2mを5分かけて歩く」演技を成し遂げていたとしても)。両肘のたおやかな動き、優雅な上体のひねり、滑らかな重心の移動が、空間にたゆたう金属質の余韻に浮遊する様は、むしろジャワ宮廷舞踏を思わせる。そこにあるのは解体/分解ではなく、身体各部の改めてゆるやかに結び合わされた呼応にほかならない。
 ふと彼女の身体を何かが貫き(フラッシュバックか)、驚愕の表情がよぎったかと思うと、口の端から歌(の記憶)が漏れ出している。

 ふと入り口の扉が開いて、帽子の男のシルエットが目映い逆光に浮かぶ。音はいつの間にかギターに変わっている。肉の臭いのしない、さらさらと乾いた再構築されたブルース。女は……と見れば、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、じっと男の方を見詰めている。
 ここでひとつ注記しておかなければいけないのは、客席スペースの左後ろの角に近い私の席は、男と女の姿を最も見込みやすい位置であるにもかかわらず、それでもなお二人の姿を同時にひとつの視界には捉えられなかったことである。観客は皆、首を振りながら両者を見比べ、あるいは新たに現れた男ばかりを眺めて、女の方をほとんど振り向かずにいた。だが、ここでの二人の動き、いやそもそも「見え=プレゼンス」自体が、この男が登場した時点から、確信犯的なキャラクター化を通じて漫画チックに照応しており、絶え間なく「喜劇」を生み出し続けているのを見逃してはならない。

 近づくにつれ、男の姿が明らかになる。明るい茶からオレンジ色の上下、麦わら帽子に茶色のリボン。木製の踏み台を引きずっている。そのハリー・ディーン・スタントン(ヴィム・ヴェンダース『パリ・テキサス』に主演として召喚された西部劇の脇役俳優)を思わせる痩せた体躯と乾いた髭面に、パロディックな西部劇の情景がふっと浮かび上がる。女は両足を旅行カバンに乗せたしどけない姿で、男の方をにらみつける。植民地の女主人風のふうわりとふくらんだ古風な白いドレス。まるで以前に支払いを踏み倒して逃げた客を見つけた、クラウディア・カルディナーレ演じる酒場のおかみのようだ。
 男は舞うようなステップをふらふらと踏みながら、さらに近づいて、帽子を壁の釘に掛ける。女はだるそうに顎に手を当て、缶からつまんだ細長い焼き菓子をかじる。男は踏み台に上がり、吊り下げられたロープを試すように叩く。いったん下りて、踏み台を手前に引いて再度上るが、今度はロープに手が届かない。男は針金を取り出して、それでロープを引き寄せようと苦闘する。見下したように冷ややかに見詰める女。
 男はようやくたぐり寄せたロープに輪をつなぎ、首(実際には顎だが)にかけ、そのままぶら下がり、はっと思う間もなく、揺れた先の向かいの柱に蝉のように止まる。音は小鳥のさえずりの隙間に響くソプラノ・サックスに変わっている。
 男の身体が柱を離れ、しばらく揺れている。揺れが収まってくると、伸ばした爪先が床を擦る。そのまま爪先を軸としてオルゴール仕掛けのバレリーナのように、くるくると回転する。女は食べかけの菓子を置き、缶の蓋を閉め、ゆったりと背もたれに身体を預ける。男はロープをつかみ、身体を持ち上げ、再び台に乗り、ロープから輪を外す。

 ゆるやかなギターのうねりに伴われて、男が舞台上の左側のロープに歩み寄り、これに輪を掛けて引くと、何と右側にぶら下がったロープにつながっていて、椅子が宙に持ち上がり、座っていた女が勢い良くひっくり返り、二本の脚が奇麗にV字をかたちづくり、足裏が見事に天井を向く。男は何事もなかったようにロープの端に付いていた鳥籠を外し、輪を付け直す。音楽が止み、管楽器の息音に差し替えられる。首に輪を掛け、身体を動かすと、宙に浮いた椅子が上下する。
 無声映画的なコメディは、バスター・キートンの無表情な疾走にも似て、ここから一気にスラップスティックな加速を見せる。
 女は立ち上がると、宙に浮かんだ椅子に旅行カバンを吊り下げ、さらにテーブルを持ち上げて吊り下げ、さらに自分の体重を掛けてロープを引く。男の身体が宙に浮く。音が止み、女のはあはあと荒い息が浮かび上がり、これをピアノとヴァイオリンが優雅に伴奏する。息を切らしてロープを引く女をよそに、男は軽やかに宙を舞い、回転し、シャツをはだけ、天使の翼に見立てて羽ばたく(剥き出しにされた彼の痩身は、むしろ磔刑に処されたキリストを思わせるのだが)。
 音楽が止まり、男は自ら身体を引き上げると、首にかかっていた輪をロープから外す。宙に浮いていた椅子やテーブルが女の身体もろとも、どすんと落下する。男はそのまま、何やら歌を口ずさみながら立ち去っていく。女はすっと立ち上がると、椅子やテーブル、旅行カバン等をてきぱきと片付け、元あった位置に戻し始める。冒頭のガムランが再び鳴り響き、明かりが落とされ、女はまた柱の陰に身を潜める。先ほどまでのスラップスティックな身体の消尽が、いやそもそも流れ者らしき男の訪問自体が、一瞬の夢(フラッシュバック)であり、まったく時間など経過していないかのように。終演。
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 首くくり栲象は、現在も自宅の庭の椿の木で、毎月のように首吊りの公演をしており、首吊り行為自体は日課にしているというから、たまたま今回、この『蝶の夢』への出演を観たからと言って、その全体像を把握することは無論できまい。しかし、これだけは確かだと思う。「首吊り」に対する思い込みだけを根拠に、その行為を死の観念にだけ結びつけ、そこに固く縮こまり凝っていく肉体や、演劇や舞踏特有のジャーゴンと言うべき「ただごろんとそこにある(無為な)身体」を見出して安心を得ようとするのは、冒頭に書き記した私自身の不分明と同様、明らかに間違っていると。ここでは眼の前で繰り広げられる愉悦に満ちた舞踏、軽やかに散逸する遊戯的な身体の在りようをこそ、眼を逸らすことなく、観なければならない。
 ここで首吊りが身体から奪うのは、決して生(の一部)などではなく、グラウンドとの接点であり、大地を踏みしめる下肢であり、重力の束縛であり、「体幹に垂直に支えられる頭部」という秩序だった体系にほかなるまい。

 光溢れる「外部」から薄暗い「内部」への男の参入も、徒らにシンボリックにとらえる必要はないだろう。逆光の中からの鮮やかな登場は、確かに「彼方からの光臨」との印象を与えるが、私の観た回の上演では、ある「事件」が、すでにそうした象徴的文脈を脱臼させ、事態の格下げを果たしていた。というのも、ひっそりと静まった舞台に向かい、開幕を待ちわびる観客に、入口の扉を開けてはっとするような外の光を届けたのは、まずは遅れて来た観客であり、続いては「前に置いてある自転車はこちらのですか?!」と怒鳴り込んだ近所のオバサンだったからだ。意図せざるスラップスティック。

 もうひとつ指摘しておかなければならないのは、ARICAの上演において、切り詰められ絞り込まれたテクスト、身体/事物、イヴェントの配置にもかかわらず、いや、だからこそ、スラップスティックな身体の運動/消尽が、作劇の核心部分として、特権的な位置づけを得ているということだ。
 サミュエル・ベケット『ヘイ・ジョウ』を翻案した『ネエアンタ』(*1)では、山崎広太の「動かないダンス」が眼には見えない強風に翻弄され、身体各部の本来の連動/協応を欠いた、「15ゲーム」を思わせるカタカタした高速のブロックの移動が、身体動作が本来持つべき目的や意味を吹き飛ばし、きっぱりと脱ぎ捨てるに至る。
 『UTOU』(*2)では、ピンボール・マシーンのように高速でぶつかり合い、床を滑りくるくると回転する身体が、巡り続ける因果応報を衝突する金属球の粒子運動に転化させる。
 舞台装置のガラクタの山についには首まで埋め込まれ、身動きひとつできないベケット『しあわせな日々』(*3)の女もまた、溢れ出る言葉を、多種多様な声音や抑揚、アクセントやリズムの目まぐるしい変化を、すなわち「声の身体」を、能う限り消尽して止まない。
 *1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html
 *2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-305.html
 *3 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html

 この『蝶の夢』でもまた、流れ漂う男とそれを見守り見送る女という古典的な枠組みを設定しながら、それをパロディックに使い倒し、身体/事物の活人画的配置を、身体動作を、オブジェの運動を、滑車が壊れるほど加速し、空っぽになるまですり減らす。まさにバスター・キートン的(というのは私にとって喜劇への最高の賛辞なのだが)スラップスティック。きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう。



アリカ『蝶の夢 ジャカルタ幻影』
2016年10月1日(土)18:00【追加公演】、10月2日(日)14:00 / 18:00
※私は10月2日(日)14:00の回を観させていただきました。
EARTH+cafe+bar
演出:藤田康城
出演:首くくり栲象(たくぞう)、安藤朋子
蝶の夢1縮小


【補足】
 後で舞台を見ると、外された鳥籠(安定させるためか一方には白いアルパカのぬいぐるみが、もう一方にはおもり袋が詰め込まれていた)といっしょに、何か部品の破片らしきものが落ちていた。旅行カバンを持ち上げようとした女性が「すごく重い」と言っていたから、中におもりを仕込んでいるのだろう。痩身とは言え、男の身体とバランスさせるのだから、かなりな重量となる。装置の荷重も大変なものだろう。安藤朋子に聞いたところによれば、滑車を使ったロープの仕掛けが何度も試せるものではなく、毎回ぶっつけ本番状態だと言う。
蝶の夢disk また、藤田康城によれば、冒頭の再構成されたガムランは、博物館の楽器を素材に構築されたAsturas Bumsteinas『Gamelan Descending A Staircase』(Cronica)で、私の執筆したディスク・レヴューで知ったと言う(えーっ、忘れていた)。本公演に続くインドネシア・ジャカルタでの上演に向けて選ばれたようだが、そんな理由が後付けに感じられるほどはまっていた。ギターはJohn Fahey、ソプラノ・サックスはEvan Parker、息音はMichel Donedaの演奏とのこと。いずれも藤田ならではの選曲と言えるだろう。
 このARICA『蝶の夢』のインドネシア・ジャカルタ公演は、Salihara International Performingarts Festivalの招聘を受け、10月15日・16日に行われる。

【後記】
 本レヴューの最後に私は「きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう」と記している。1カット2秒として15カット。それぞれにキャプションが付されるとして、20〜30文字×15セット。本来ならこのレヴューは、そのように簡潔で素早く切り替わるポップな速度に溢れたものであるべきだと思う。私の筆力不足でそれが成し得なかったことが返す返すも残念だ。

※フライヤー及び舞台写真はTheater Company ARICAホームページ及び公式Twitterから転載しました。





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:36:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第七夜来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Seventh Night
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 三連休の中日、不安定な天候と悪条件の中、多くの皆様にご来場をいただき、ありがとうございました。皆様の集中と熱気に包まれ、こちらもヒートアップして一気に駆け抜けた感があります。振り返ってみても充実した一夜だったとの手応えがしっかりと残っています。ここでは当日のプレイリストを、ジャケット写真、試聴リンク、多少のコメント付きで掲載させていただきます。なお試聴リンクはあくまで参考で、当日おかけした部分とはことなる場合もありますので、ご注意ください。コメントもまた当日の説明を再録したものではありません。

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 今回はCD、LPに加えDVD(PCで再生)まで音源に用いたため、再生の際のつなぎ替えが結構大変で、いろいろと不手際もあったことをお詫びいたします。
 ただ、再生環境については、『松籟夜話』の欠かせない一部となっている歸山幸輔設計の反射板スピーカーが、その底知れない潜在力をますます発揮して、凄いことになってきているのをご報告しないわけにはいきません。
 ちょっと舞台裏を明かすと、当日開演前のリハーサル時に、いつものように打合せ時に気になった部分を中心に、津田と予定音源を聴き返していたのですが、立ち会っていた歸山が「最近ようやく気が付いたんですけど、こうすると音が結構変わるんですよね」と言いながら、スピーカーの前面を床からすっと持ち上げ、少し仰角を付けた途端、音ががらりと質感を変えました。その時、私はスピーカーの正面ではなく、横に座っていたにもかかわらず、音の迫真性というか、説得力がぐんと増したのに驚かされたのです。見ると津田も月光茶房店主の原田も、そこにいた全員の顔色が変わっています。あわてて床とスピーカー前面フレームの間にスペーサーを挿んで固定し、正面に回ってみると、やはり生々しさや手触りの厚みが全然違っています。今までのは何だったんだ‥という感じ。スピーカーの角度について、ツイーターの高さや向きを耳の高さ等に合わせて調整する仕方はよく知られていますが、今回の音の変化はそうしたサービス・エリアの変化というより、スピーカーの正面側に対して、逆向きに付けられたスピーカー・ユニットの背面から音響が放出される際に、床との角度がかたちづくる「ホーンの開口部」に当たる角度の変化によるものではないかとのこと。また、スピーカー背後の壁に対する角度も当然変化するので、それによる響きへの影響もあるかもしれません。今回の再生音はオーディオに詳しい中村匠一さんも「これまでで鳴りっぷりが一番良かった」と誉めてくださいました。
 ますますその魅力に磨きのかかった『松籟夜話』(笑)、今後ともどうぞご注目くださいますよう、お願い申し上げます。
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2016/09/18『松籟夜話』第七夜プレイリスト

開演前BGM

V.A.『The Branch』(directed by AMEPHONE)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=BEIsINOFZiI
AMEPHONEの「監督」による作品集。コンピレーションの多彩さ。






開幕

ノスタルジアDVDAndrei Tarkovsky『Nostalghia』DVD【2:30F.O.】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LvumaiJPRwk
それが何であるかを告げずに、開幕のタイトル・クレジットの部分を映像無しで。風に運ばれるロシア民謡が、ふと湧き上がるヴェルディ『レクイエム』に沈み、犬の吠え声と車の音が響く。本作で死に至る病とされる「ノスタルジア」が今回の重要な伏線のひとつであることの予告。

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総論/導入部

AMEPHONE『Esquisse 1/3 attc』tr.1〜tr.3【6:18 / 3:48 / 3:35】
試聴:
ミュージシャン、録音エンジニア、フィールドレコーディング・アーティストと多彩な顔を持ち、演奏者を選び、イメージを伝え、音を組み合わせて、映画監督のように作品をつくりあげるAMEPOHONEの紹介。
台湾(?)の細路地の音景色(物売りの声が空間の奥行きを明らかにする)に、SP盤風の質感の女声による歌曲がかかり、風景との関係性を宙吊りにしたまま消える。突如としてレゲエ・バンド(AMEPHONE自身が演奏に参加)のライヴが挿入され、遠めの録音の薄暗さが、それが先ほどの細路地と地続きであり、一連の記憶の一コマであるかのような錯覚をもたらす。曲が終わると、耳は再びどこかの路地をさまよいだす(博打に興じる男たちの振る骰子の音)。
ここに見られるように複層化した彼の作品世界を3つの視点で切り分け(以下の第1~3部)、それぞれの線を伸ばしてみることにより、聴くことを深める試み。


第1部 「捏造」民俗音楽

amephone retroAMEPHONE『Retrospective』tr.1【6:50】
試聴:https://amephone.bandcamp.com/
 パリの公園のベンチ(?)での老人と旅行者の何気ないやりとり(日記映画風)が、タブラのリズムに煽られ、バリ島の喧噪、ひび割れたオルガン、サンバの沸騰をくぐり抜けるめくるめく音響絵巻。フラッシュバックする光景、恐るべき情報の洪水(でも懐かしく耳になじむ)。足元を常に切り崩し、耳を揺さぶり引きずり回す。深い混迷と眩暈のうちに現実(の記憶)と虚構の境目が溶解していく甘美さ。

AMEPHONE『Esquisse 3/3』tr.2【4:00】tr.4【4:50】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/aya002.html
 弦楽器の古風な爪弾き~クラシカルに香り立つピアノ~東南アジア歌謡曲のひなびたメロディが突然日本語に切り替わることにより、遠かったセピア色の風景が突然に自らのありえない記憶と響きあい、続くトラックのSP盤風の声の手触りと戦後まもない頃のエキゾ風南国アレンジが、さらに不確かな郷愁を掻き立てながら、知らぬ間にジャワ・ガムランに移り変わっている。詐欺の見事な手口を見せられたような感慨。

Soundworm『Instincts and Manners of Soundworm』tr.13【2:20】tr.1【4:40】
試聴:http://losapson.shop-pro.jp/?pid=11203809
 当初、『Circuit Brasireilos』冒頭曲のファウンド・テープ的音触ゆえにキーワードとして提示した「民俗音楽の捏造」だが、CANによるEthnological Forgery Series(民族学的偽物シリーズ)の冷徹な分析/再構築(彼らは「ロック」すら、そのようにして捏造した)と比較すると、AMEPHONE やSoundwormが捏造しようとしているのが「音楽」ではなく、それが演奏される「場(=生活空間)」やそこに漂う生活の「匂い」であることが浮かんでくる(よりストレートにサウンドへと向かうSoundwormと、精妙にセノグラフィを構築し、気配を醸し出していくAMEPHONEという違いはあるにしても)。AMEPHONE自身、「その場所に行ってみたいと思うような音楽をつくりたい。でもその場所って本当はないんだけどね」との趣旨の発言をしている。

kink gongKink Gong『Dong in China』tr.8【5:00F.O.】
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=9811
 前述の転換により、「捏造された音楽」ではなく、「現地録音に映り込んだ生活の匂いを聴く」ことに。ふらりと村を訪れ、住民と仲良くなり、生活空間にマイクロフォンを挿し込む(ステージを仕立てるのではなく)Laurent Jeanneau(=Kink Gong)の録音。中国少数民族による「蝉歌」と呼ばれる伝統合唱の向こうから、生活のざわめきや仕切られた空間の成り立ちが聴こえてくる。

V.A.『VIETNAM music of the montagnards』【4:30】
試聴:http://www.allmusic.com/album/vietnam-music-of-montagnards-mw0000030959
 ゆるやかに間を置いて打ち鳴らされるゴングの柔らかな響きの間から、演奏とは関係ない日常の生活音がざわざと溢れ出す。「民族音楽」の現地録音だが、この流れで聴くと、まるで生活音を引き立てるために手前に演奏を配したように感じられる。



第2部 映画的空間構成

AMEPHONE『Esquisse 3/3』tr.6【4:15】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/aya002.html
 捏造戦後歌謡による浮遊する異国情緒(よく聴くと歌詞もディープ)、主演俳優が歌う劇中歌風のへたうまデュエットが、背景への不明瞭なセリフのカット・インから車の走行音を合図にラウンジ風味のラテン・バンド演奏へ。視点/空間の唐突な切り替え/接合がもたらす映画的なカット割りの感覚。石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎が活躍したかつての日活無国籍アクション映画における、キャバレーでの喧嘩シーンからスポーツカーでの逃走劇へ‥という流れを彷彿とさせる。

nouvelle vagueJean-Luc Godard『Nouvelle Vague』CD1 tr.1【4:00F.O.】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=8oQfSqXCrnE
 冒頭部分を。音楽だけではなく、セリフや物音まですべてを収録した文字通りのサウンドトラック。音像の移動や遠近の響きの変化に、映像(視覚)を排しても、なお細やかなカットの切り替わりがまざまざと触知できる。モンタージュ(コラージュ)というより奥行きや広がりの異なる空間の共存がここにある。これを聴いた後で映画作品を見直すと、映像のカット割りが音響のそれと全く違うことに愕然とする。

大友大友良英『藍風箏』tr.7【4:48】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dgRA_FKUC4Y
 大友初の映画音楽作品から、映像内の音響を用いたトラックを。奥まったスクリーンを基準平面として、傍らでテーマが奏され、サステインの効いたエレクトリック・ギターが手前にうっすらと涙の幕をかける。ゴダールに比べ平坦な構成。


Steve Lacy『Lapis』tr.3「The Criptosphere」【3:09】
試聴:https://www.amazon.com/The-Cryptosphere/dp/B004G2OPGS
 Lacy最大の問題作から。「いかにもジャズ」な気怠い演奏(買ってきたレコードをかけている)が中央に配され、そのわずかな余白に書き込まれる切り詰められた演奏。多重フレーミングの重なりが奥行きをもたらす空間構成は、録音担当Daniel Vallancienの貢献が大きい(Lacy自身の証言あり)。
※ジャケット写真ははCD再発盤『Scratching Seventies』を掲載。

Bernard Vitet『Mehr Licht!』 A2「L'ange du bizarre」【9:00】
試聴:http://www.drame.org/2/Musique.php?D=91&LA=EN
 開かれた窓の外の音景色に演奏がかぶる。巨大なバラフォンと小さなウィンドチャイムによるオモチャな音色とベビー・ベッドの上で回るメリーを思わせる自動演奏風のフレーズという戦略的選択(確信犯!)が、演奏のリアルな存在感をどこまでも希薄化し、巧みに編集された音風景を無防備な耳に流し込む。録音担当はVallancienの後継者というべきDaniel Deshays。

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休憩BGM
 
モーラムLuk Thung『Classic & Obscure 78s from the Thai Countryside』
試聴:http://www.dust-digital.com/luk-thung/
 AMEPOHONEの愛するタイの歌謡曲モーラムから。東北地方民謡出自のイナタいメロディやケーンの響きが、キャバレーの箱バン風のアレンジやレゲエ感覚の後ノリのヴォーカルと合体。同時代の昭和歌謡曲と同じく無国籍な雑食的実験性溢れる人懐っこさ。



第3部 空間による音の変容への眼差し

tsuki no waTsuki No Wa『真昼顔』tr.6【7:50】
試聴:
 以前にも別トラックを採りあげたAMEPOHONE録音/プロデュース作品から、今回はFuminosukeのヴォーカルなしの表題曲を。空間に滲み溶けていく響きへの眼差しが、体育館にこもる熱気と重ね合される。電子音(前出のSoundworm こと庄司広光による)が回路的なエフェクトとしてではなく、空間に放出され、ある帯域をマスクあるいは強調し、空気を揺り動かすことを通じて演奏と混じり合い変容させる。

Pierre Barouh『Ca Va Ca Vient』tr.1【2:36】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=gi9eAk41Rs0
 AMEPOHONEの先駆者と言うべきDaniel Vallancien録音作品を続けて4つ。まずは「世界最初のインディーズ・レーベル」Saravahを主宰するPierre Barouhの代表作から。街頭のざわめきと混じり合い空中に舞い上がって、ゆるやかにたなびきながら希薄に溶けていくブラスバンド(前掲のBernard Vitetも参加)の響きと、胸をそらした押しつけがましさの一切ない声が睦みまどろむ白昼夢。

Bridget Fontaine, Areski, Art Ensemble of Chicago『Comme a la Radio』tr.1【9:08】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=3WfVir1_Edc
 前掲作品に続きSaravah必聴名盤から。声量のないささやきヴォーカルの手触りをリアルにとらえつつ、管楽器の響きを極端に切り詰め、単一フレーズを繰り返すリズムに北アフリカの乾いた風を吹き抜けさせて、確保した隙間に異国の香るメロディをモザイク状にちりばめるDaniel Vallancien巧みな音響構築。この誰しもが聴いているはずの曲の「ジャズ」に対する徹底した異化ぶりを、ここまで鮮やかに示し得たのは、歸山幸輔設計のスピーカーの貢献が大きい。ちなみに本トラックのトランペットはLeo Smithによる(Saravah盤ジャケットに表記あり)。

Art Ensemble of Chicago『A Jackson in Your House』tr.1【5:50】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=5drrLal9fr8
 おどけたファンファーレ、静寂に浮かぶヴィブラフォンの震え、ガラクタ/オモチャな小打楽器類、下卑た笑いに満ちた乱痴気コーラス、突如始まるディキシーランド‥短い場面を連ね、多様な音色と幅広いダイナミクスを駆使した、フリー・ジャズの徹底的な異化/再構成(黒い哄笑に満ちた)を支えたのは、彼らによる音響への覚醒した視線を具体的にテープに定着し得たDaniel Vallancienにほかならない。

Anthony Braxton『B-X NO-47A』tr.1【中頃4:00】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=KPliRMCaV84
 前掲作と同じく初期BYG盤から。肉感的なブロウを排し、むしろ感情を取り除いた精密かつ多彩な微弱音を駆使したサウンドによるパペット・ダンス。その「非人間的」在りよう(前出のBernard Vitet『Mehr Licht!』にも通ずる)は定型フリー・ジャズの範疇では到底とらえられない。やはりDaniel Vallancienの耳なしには成し得なかったであろう達成。

Takashi Ueno, Hiraku Suzuki『Son et Lumiere』tr.3【4:40F.O.】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/MK40.html
 鈴木ヒラクのパフォーマンスと植野隆司の生ギターの共演。遠い録音が、ギターの響きが距離/空間に侵食変容される様をリアルにとらえており、空間のざわめきには、多方向から交錯する残響や背景ノイズのほか、パフォーマンスで空中のたなびかされる紙の音も微かに混じっている。以前に『松籟夜話』第五夜で採りあげた、さや、梅田哲也、高橋幾郎との『モエレ』以上に、デレク・ベイリーと田中珉による『Music and Dance』を彷彿とさせる空気感。

Laurent Sassi,Michel Doneda,Marc Pichelin,Le Quan Ninh『Montagne Noire』tr.2【10:05】
試聴:
 『松籟夜話』第一夜Michel Doneda特集でも採りあげた『Montagne Noire』から、それとは別のトラックを。打撃の直後に水に浸され音高を急にベンドさせるシンバル、かき混ぜられる河原の小石、川面を切り裂く水しぶき、泡立ちほとばしり靄のように立ち込める息‥‥間近に見詰め、不意に遠ざかり、自由奔放に立ち回る演奏者を追いかけまわし、一瞬静まり返った渓谷に響く小鳥の声に耳を澄ますマイクロフォン。まさに録音による演奏。

Michel Doneda, Jonas Kocher『Le Belveedre du Rayon Vert』tr.5【10:14】
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/flexion/flex-007.html
 廃業した伝統あるホテルの様々な場所での演奏から中庭の場面を。響きを通じて空間を手探され、演奏によって空間が照らし出される。ここで二人は互いに言葉を交わす代わりに、明らかに各々が空間を探査し応答しており、二つの軌跡が交差する様がレコーダーに記録されている。まるで地縛霊を振り払う「キヨメ」のような不気味さ。

ノスタルジアDVDAndrei Tarkovsky『Nostalghia』DVD【ラスト5:00】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LvumaiJPRwk
今度は作品名を明らかにした後に、荒い息を吐きながら苦行を果たし終えた詩人が呻き声と共に倒れ、やがて廃墟の中に故郷の家が浮かび上がり、恩寵のように雪が降り出す有名なラスト・ショットまで映像無しに。
音だけで(フィルムの映像ではなく)視覚の運動/変容が立ち上がってくると同時に、ヴェルディ『レクイエム』、ロシア民謡、鳴き回る犬と、スクリーンの映像は全く異なるオープニング・シーンを、音響が反復していることにも改めて気づかされる。
ノスタルジアとはnostos(帰郷)とalgos(痛み)の合成による造語であり、空間的・時間的に離れた「場所」に還りたい、身を埋めたいという切実な想い、死に至る病を指す(決して甘い郷愁ではない)。その場所とは実在の故郷なのだろうか。むしろ、いまここではない、どこか離れた場所への身を切るような想いではないか。その想いを託され、一瞬ではあるが叶える音楽の力があるのではないか。
ノスタルジア閉幕縮小


帰路へのサルヴェージ

Tony Kosinec『Bad Girl Songs』tr.11「The Sun Wants Me to Love You」【4:17】
試聴:https://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&cd=MHCP000000594
 『松籟夜話』ではいつも、音の深みから現実世界へと浮上する「サルヴェージの時間」を設けている。今回は知る人ぞ知るエヴァーグリーン的名盤から。ここでは本来センターに定位すべき声が、視界の片隅から遠い響きとともに聴こえてくる。まるで隣の部屋で歌っているような親密な肌触り。「いまここではないどこか離れた場所」とは、遠い異郷でも仮想世界でもなく、意外と近くにあるかもしれないという救いを込めて。


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興奮冷めやらず珍しく賑わうアフター・アワーズの交流



『松籟夜話』第七夜
日時:2016年9月18日(日)
場所:ビブリオテカ・ムタツミンダ(「月光茶房」隣接スペース)

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
第七夜は、360°records関連アーティスト、主にAMEPHONEの音源を灯台として、映画的な音像構成や民俗学的な現地録音、さらには空間に浸透していく響きの行方を見つめる眼差しへと至る、聴取の可能性を照らし出します。
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当日写真撮影:原田正夫、多田雅範、津田貴司





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:12:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
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