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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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歌女再臨 ―― 20170226歌女@大崎l-eライヴ・レヴュー  KAJO's Second Coming ―― Live Review for KAJO @ Osaki l-e
 中央にティンパニ、その周囲を取り囲むようにスネアやシンバル、ハイハット、ティンバレス等がぐるりと配置され、打面に小シンバルが置かれ、小鐘が吊り下げられ、コーヒーテーブルには、タンバリンや様々な音具が並べられている。ハンガー掛けのような何に使うのかわからないフレームまで。中央に固められた楽器群から殺風景な白い壁まではだいぶ空間があり、以前に「歌女」を聴いた早稲田茶箱や池袋バレルハウスとは随分と雰囲気が異なる。低い天井から蛍光灯の冷たい光が煌々と降り注ぎ、コンクリートのたたきに反射する様は、倉庫から運び出された楽器群が、舞台の袖に運ばれるまでの間、しばらく置き去られているような寂寥感がある。

 しばらくして現れた高岡が、黒いケースからびっくりするほど小ぶりのチューバを取り出し、管の巻きがキツイのでサイズは小さいが、音域の最も低いB♭分の管長がある、19世紀末の楽器の復刻版で、リュックサックを意味するトーニスターと名付けられている‥‥と話し始める。「旅するチューバ」はなるほど彼にふさわしかろう。吹き口とベルの高さがほぼ同じで、チューバの出音を初めて自分の耳で直接聴くことができたとも。

 チューバの息音から演奏が始まる。呼吸に合わせ寄せては返す響き。以前の楽器での息音が「管を鳴らさない」モノクロームな冷ややかさを放っていたのに対し、うっすらと色づきが感じられる。他の二人がぱらぱらと音の破片を振り撒き、ティンパニのスキンを震わせて鳴らす。熱い息を吹き込まれたチューバが、急にほら貝のうなりを上げる。サイズには似つかわしくない低音。リズム隊が勢いづき、チューバもニューオリンズ調のブロウへと向かう。高岡の右足が慌ただしく踏み込まれ、演奏を煽り立てる。
 藤巻と石原が互いに競うように連続的なパッセージを叩き出すが、打点を精密にコントロールし、音を鳴らしっ放しにしない。これにより音は粒子化し、音の粒と粒の間に隙間が生まれ、どれほど音の密度が高まっても、響きは空間を埋め尽くさない。
 高岡はノンブレスのロングトーンでブランジャーの開閉による音色変化を試した後、一気に高速フレーズを連ねて空間を吹き破りにかかり、他の二人とラテンぽいノリで絡み合う。たとえフレーズがゆったりとしたものへと移り変わっても、息を張ったテンションの高さが感じられるのは、おそらく新しい楽器の特性(鳴りにくさ?)なのだろう。楽器を傾けてベルがこちらに向いても、以前のような鼓膜を締め上げるような風圧感はない。
 だが、それにしても藤巻・石原の「進化」ぶりに驚かされる。各種打楽器の刻みから音具のあしらいまで、音を細分化し粒立たせる演奏の方向性は変わらないが、温度/速度感の変化にしろ、緩急/強弱のうねりにしろ、ひとつひとつの振る舞いが存在感を高め、本当に色濃く、香り高くなった。小シンバルをスネアやティンパニの打面に重ねるような特殊奏法による音色変化も、「サンプリング」の挿入ではなく、一連の動作の中で滑らかに行われるようになった。それは音具の工夫にも表れていて、冒頭に触れた謎のフレームは、上部にヴァイオリンの弓を固定し、弓を小シンバルや金属片で擦ることにより、弓弾き音を簡単に得られるようにするものだった。
 うなり声による楽器音の二重化をこすり系倍音の折り重ねが迎え撃ち、校舎の屋上での吹奏楽部の練習風景を思わせる遠い響きに、空気をはらんだ細かい叩きが重ねられる。動と静の切り替えに瞬時に即応するアンサンブル(あまりに同時化し過ぎると言いたいくらいに)。以前の「歌女」では、チューバが息音やロングトーン、倍音奏法等を駆使し、色合いを薄めるようにして、打楽器の海の中に身を沈めていく場面が見られたが、今回は新楽器の音色特性の変化と打楽器隊の色彩感の充実が相俟って、チューバの響きはすぐさま打楽器に追いつかれ、前景/後景として分離し得ず、たちどころに侵食されてしまう。右足の踏み込みでギアを切り替えるだけでは足りず、空蹴りをしたり、椅子から立ち上がり、また腰を下ろしたかと思うと、前面へと歩み出て、跪き、深くお辞儀するように何度も上体を傾け、あるいは天を仰ぐといった姿勢の変化(それは楽器と身体のポジションの切り替えであると同時に、空間に対する関係性のヴァリエーションでもある)を頻繁に繰り返したのは、ある定常/膠着状態からの身のもぎ離し方の試行ではなかったか。
 チューバの音がふと止んで、しかし、他の二人は静へと向かわず、互いに響きを積み上げる高さを競い合う。高岡が位置を変え、他の二人もぐるっと回転して立ち位置が動き、手元の楽器が入れ替わる。いったんリセットしたところから、再び足場が組み上がり、吹き破るようなチューバのアタックにそそり立つスネアの弾幕が応え、さらに多層に折り重ねられたマーチング・ドラムの波状攻撃へと移り変わる。あえて響きを解き放ち、空間に充満させた音が、ふっと掻き消えると、細いロングトーンだけが残され、やがて滲むように消え失せる。前半の終了。
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撮影:益子博之


 「今決めましたが、後半はフォーメーションを変えて、それぞれの楽器単体の音に焦点を合わせて演奏します」との突然の高岡の宣言に合わせて、藤巻と石原が各楽器の配置を分散型に変更する。
 高岡はマウスピースを外したチューバに息を吹き込み、息音からむしろ木管楽器を思わせるくぐもった音色でミニマルなフレーズを奏でる。藤巻は小シンバルを指先で叩き、石原はスネアの打面に押し付けたスティックを擦る。
 動と静、希薄/点在と充満を往還した前半に対し、後半は車窓の眺めが次々に移り変わるように、音色/楽器を切り替えながら進められた。リズミックな盛り上がりがブレークした後、金属棒を叩いていた石原が、チューバのベルにタンバリンを押し付けて震わせる高岡に押し出され、床の中央部にあったマンホールの蓋を叩き始め、重い蓋をこじ開け、浮かせて、響きを変化させる。おそらくマンホールの内部にはビル全体の汚水槽につながる空間が広がっているのだろう。僅かなマンホールの隙間は、異世界への扉を開き、音響空間の在り様を一変させた。目聡く気づいた高岡がビリビリと空間を震わせ、藤巻はスネアを床置きして共鳴させる。ドラム・ロールを基調とした前半とは異なる肌触りの充満が、この日のフィナーレを飾った。
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撮影:益子博之


 高岡大祐がFacebookのコメントで、次のように書き込んでいるのに眼を惹かれた。

なんか歌女ってAEOCっぽいんだよなあ、ってだいぶ前から思ってた。儀式性はない(と思うんだけど)し、打楽器二人はそんな意識もないだろうし、僕もない。音も形態も違う。そうやろうとしたわけでもないけど、やってる最中、よく思う。どちらかというと、AEOCなき後の、ロスコーミッチェルのやっていたことの方面だろうか。サルディーニャ島でみたロスコーのトリオは、もはやジャズでもなんでもなくて、違う、何か素晴らしい音楽だった。

 と言うのも、以前のブログ記事「音との自由な交感が連れてくるプレ・モダンな風景 歌女@バレルハウス20150815ライヴ・レヴュー」※で、「歌女」の演奏の持つ強い情感喚起力をAE(O)Cをはじめとする一群のフリー・ジャズと関連付け、「プレ・モダンな風景を連れてくる」と評しているからだ。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-369.html
 2月26日の「歌女」の演奏は、この時とは大きく異なっていた。それはもちろんいろいろな要因によるものにほかならないが、「即興演奏には初めて用いた」というトーニスター・チューバがもたらした変化は大きいと考えられる。それについて高岡はFacebookにこう書いている。

巻けば巻くほど息の抵抗感は増すので、ちょっとやそっと吹いたくらいでは音がまともに出ない。
おりゃあああああ、と吹いてやっと芯のある音が出る。
しんどい。
音程は相変わらずまだフラフラ。
でもなんか、この楽器から体にフィードバックされる音の印象で、気持ちよく歌える。
ベルが耳の下にあって、生まれて初めてじかに聞く自分の音に感動。
多分これでアイデアが生まれるのだと思う。
今まではある意味盲滅法吹いていたようだ。
自分の音がモニターできる感覚自体が新鮮。

 以前の「歌女」の演奏では「チューバを楽器として鳴らし過ぎない」という自己抑制が感じられた。むしろ「うねうねと巻かれた剥き出しの金属の管」として取り扱い、それと息や身体の内外に広がる空間をどう触れ合わせ、響きに折り合いを着けるかということに感覚の焦点が当てられていたように思う。今回はその頸木が束の間外され、ラテン・ミュージック調の急速フレーズが迸り、キューバやトリニダード・トバゴ、ブラジル等を思わせる中南米の熱気が気持ちよく吹き抜けた。その点では、同じAE(O)C系でも、『Great Pretender』等のレスター・ボウイによる試みに通じるところがあったように思う。


2017年2月26日(日)
大崎l-e
歌女:高岡大祐(tuba)、石原雄治(percussion)、藤巻鉄郎(percussion)


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撮影:吉良憲一




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:11:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第八夜来場御礼  Thank You for Coming to the Listening Event "Syorai Yawa" Eighth Night
 小雨がぱらつく肌寒さの中、大勢の皆様に『松籟夜話』第八夜にご来場いただき、厚く御礼申し上げます。当日のプレイリストをご紹介いたします。各盤に簡単な紹介コメントを付けましたが、当日の案内の流れを再現するところまでは至っていません(そちらについてはまた後日にできれば補足を)。なお、参考のために試聴用リンクを付しましたが、こちらも必ずしも当日ご紹介したトラックの音源ではありませんので、その点ご注意ください。


撮影:津田貴司


開演前BGM:Umeko Ando『IHUNKE』Chilar Studio CKR-0108
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=_hhuSIYDwvs
アイヌの音楽家、安藤ウメ子による歌(ウポポ)。「イフンケ」とは子守歌のこと。ゆったりと沁みてくる優しい声音。トンコリ奏者OKIによるプロデュース。




第1部 複数の煙が立ち上るような声の集積が、その場所を照らしていく

久高島イザイホー』宮里千里 琉球弧の祭祀Bsf006 tr.1, tr.6
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/BsF006.html
この1978年以降、もはや行われていない12年に1度の神事(神女ノロの任命式)の貴重な録音。「エーファイ」という掛け声があちらこちらから湧き上がり、歩み出した声の列は、周囲の観客の話し声や歓声をも巻き込みながら、ぐるぐると渦を巻く。


宮古西原古謡集』久保田麻琴編「南嶋シリーズ」ABY-004  tr.1
試聴:http://elsurrecords.com/2013/04/22/v-a-%E3%80%8E%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E8%A5%BF%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E8%AC%A1%E9%9B%86%E3%80%8F/
1974年奥原初雄録音制作。西原村立100周年記念盤として発表された2枚組アルバムをもとに、久保田麻琴が復刻。祭祀の熱気が感じられる名演と言える。イザイホーに比べて静的な(移動のない)録音である。交差して行き過ぎる二つのさざ波のように、ゆったりとずれながら重なり合う声。

服部龍太郎監修『南海の唄ごえ―奄美民謡集』日本コロムビアPLP-99(AL-5018)A-8
試聴:
次第に高まっていく声の響きあいが聴けるが、指笛や掛け声の合いの手や太鼓の拍子に「のる」のではなく、指笛も太鼓も声も、それぞれがそれはそれとして進行しているように聴こえる。収斂せずしこらない音の群れ。

台灣原住民音樂紀實3『雅美族之歌』TCD-1503 tr.16
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2479037
台湾南東沖にある蘭嶼(LANYU ISLAND)に暮らす海洋民族アミ族。どことなくポリネシア系のチャントに通じるものを感じる。




台灣原住民音樂紀實1『布農族之歌』TCD-1501 tr.16-17
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2730908
南部山岳地帯に暮らすブヌン族。小さな遠くのほうから聴こえるような声から始まり、下からせり上がるかのように次第に声が増えていき、音程も徐々に上がっていく。



台灣原住民音樂紀實8『魯凱族之歌』TCD-1508 tr.1-2
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2571374
ルカイ族。どことなくブルガリアンボイス的な響きを感じる立体的なポリフォニーだが、それでも西洋近代的な多声のあり方を相対化するに十分な成り立ち。バックにかすかに虫が鳴いているのが聴こえる。



台灣原住民音樂紀實7『排灣族之歌』TCD-1507 tr.12
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/3165202
パイワン族。力強い男声の独唱を基音に多声が重なる。これもどことなくブルガリアンボイス的な響きを感じる。しかし、部族ごとの感触の違い、声のスペクトルの広がりは驚くほど。柳田國男や折口信夫が琉球に「原日本」を見出すきっかけとなった台湾蕃族の文化は、実はかくも多様だった。

ブルガリアの音楽〜バルカン・大地の歌』KING WARLD MUSIC LIBRARY KICW1096 tr.16-17
試聴:https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%AD%8C-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B00005F832
旋律の最後に声が裏返るところが特徴的でブルガリアの合唱ということがわかるが、台湾原住民族の合唱と並べて聴いても特にヨーロッパの音楽だというふうに差異化認識できない。当日は台湾音源に続けて、どこの国の音源かは最初伏せたままプレイした。


 撮影:原田正夫                     撮影:益子博之



休憩時BGM:『台灣 士林 神農宮』
台湾旅行に行った友人(本業はイラストレーター/画家)による(おそらく道教寺院の)読経。無造作に置かれた簡単な録音機材が、見事にお堂の空間的なボリュウムを描き出している。
(この場所のようです/https://www.travel.taipei/ja/attraction/details/937)



THAILAND:Music and songs from the Golden Triangle』MUSIQUE DU MONDE 92754-2  disc2 tr.8-10
試聴:http://losapson.shop-pro.jp/?pid=60052921
そっと肩に手を置くように、声の身体が重なり合う。あらかじめ音高構造によって声の居場所を切り分け確保するのではなく、声の肌をすり合わせ、共棲するもうひとつのポリフォニーのあり方が、琉球弧から台湾を経て、ここにも浮かび上がる。

アイヌのうた』萱野茂、平取町アイヌ文化保存会 JVC WORLD SOUNDS VICG-60400  tr.4-6, tr.10
試聴:http://victorentertainmentshop.com/product/?item_cd=VICG-60400
繰り返し現れる「トゥルルルルッ」という、喉や鼻の奥を震わせるような発音に、外気の寒さを感じる。老婆の声の襞の暖かみが際立つ。


『INUIT fifty-five historical recordings』LE COUEUR DU MONDE SUB ROSA SR115 tr.3-4
試聴:http://www.subrosa.net/en/catalogue/le-coeur-du-monde/inuit.html
取り上げたのは1961年のテープ録音と、1906年の蝋管(ワックスシリンダー)録音。ノイズの彼方から聞こえる声に、時間的空間的な「遠さ」を聴く。

VIETNAM music of the montagnards』LE CHANT DU MONDE CNR 27411085.86  disc2 tr.1
試聴:http://www.allmusic.com/album/vietnam-music-of-montagnards-mw0000030959
シンプルな旋律のバリエーションの繰り返しだが、輪唱でもユニゾンでもないタイミングで突然割って入る男声、さらにそこに女声が加わり、三声になる。そのどれもが互いに「合わせない」「ハモらない」。各自のテンポで、それぞれがそれはそれとして進行している。



第2部 声の照らし出す空間、環境を触知する息

参考映像集+参考文集紹介
合成写真による南島イメージ⇔山之口獏「会話」
 東松照明の沖縄への眼差し(混成文化、神秘性)⇔岡谷公二、ソクーロフ
 比嘉康雄によるイザイホー撮影(神秘性と日常性)
⇔柳田國男、折口信夫、ニコライ・ネフスキー、谷川健一
 風景による浸食⇔岡本太郎「沖縄文化論」、アントナン・アルトー「記号の山」
 ゴシックと(もうひとつの)ポリフォニー

Costis Drygianakis『Hymns of the Passion and the Resurrection』more mars team mm013 ( book + 2CD ) CD-1 tr.10, CD-2 tr.5, tr.14, tr.17
試聴:http://www.art-into-life.com/product/5843
中世ゴシック期におけるポリフォニーの成立が、楽譜を演奏に必要不可欠なものとし、作曲の地位を高め、音の動きの可視化により複雑化を加速し、「西洋音楽」を確立した。それ以前の姿をとどめるギリシャ正教の聖歌を、サウンドアーティストによる現地録音で。岩のようにごつごつした声の響きがぶつかり合い、空間を隔て、聖堂内に充満し、詰めかけた参列者のしわぶきの向こうに霞む。

灰野敬二『Un Autre Chemin Vers L'Ultime』Prele prl007 tr.1
試聴:http://www.art-into-life.com/product/6412
ノルマンディーの背も立たない洞窟内で、座り込んだまま、声を張り上げることもできずに、苦し気な吐息を漏らす灰野。冷え込む大気に押しつぶされながら、ふと白い息が立ち上り、空間を手探りし、壁を伝い、暗闇で頬を撫でる。原初へと遡り、空間を照らし出す声の底流。

沢井一恵『The Sawai Kazue』邦楽ジャーナル HJCD-0006 tr.6
試聴:
中国の古代遺跡から出土した五絃琴を基に復元した楽器のために高橋悠治が作曲。静かにかき鳴らされる単調な、だが縺れた繰り返しが、手元をぼんやりと照らしながら、巫女の虚ろな呻きを引き出す。床を伝い、板の隙間に沁み込みながら、空間を手探りし、闇の中に浮かび上がらせる息。シャーマニズムの原初へと遡る声の記憶。

Doneda, Achiary, Sawai『Temps Couche』Les Disques Victo VICTO CD 055 tr.4
試聴:https://play.google.com/store/music/album/Michel_Doneda_Temps_Couch%C3%A9?id=Bksovcpo64xd4timtqqofbt36ae&hl=am
珍しくフリー・インプロヴィゼーションで用いられた沢井のくぐもった低い声は、先の巫女の呻きと明らかに通底しており、他方、Benat Achiaryの灰野的な吐息へと迫る。Michel Donadaのソプラノ・サックスも次第にヴォーカルな熱を帯び、十七絃箏の乱舞に足元を崩されながら、揃わぬ声のクライマックスを演じる。


閉演(現世へのサルベージとして):茂木綾子『島の色 静かな声』DVD Silent Voice
試聴:https://vimeo.com/125685823
水面に映る月に雲がかかり、水の流れが聞こえてくる。神秘的とも言えるモノクロームな冷ややかさは、機織りのリズミックな動き、糸を紡ぐ柔和な手つきへと引き継がれ、次第に色彩を帯び、体温を高め、人が動き、布が翻り、犬が寝そべって、生活が立ち上がる。以前にスティルライフ(津田貴司+笹島裕樹)はこの映画と「共演」している。


撮影:益子博之



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:24:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
速度と動き ―― 「タダマス24」レヴュー  Speed and Movement ― Live Review for "TADA-MASU24"
 新譜ディスク・レヴューの一番の難しさは、その配列にある。各作品の核心をとらえること自体は、そう難しいことではない。だから優れた作品を選び出し、そうではない作品を外すことは、その延長線上で充分に可能だ。けれど、単に優れた作品を並べて、その美点を書き連ねても、表現が飽和して互いに打ち消し合い、輝きを減じるだけでしかない。そうではなく、一見類似した印象を対比や差異で切り分け、相反する手触りの間を類比の糸で結びつける。前掲作の響きの余韻が続く演奏の特質を照らし出し、さらに綴られたレヴューが先立つテクストに反対側から光を当てる。このようにして連ねられた峰々がひとつの風景をかたちづくり、起伏に満ちた物語を紡ぎ出す。最後に付け加えられた掌編に、それまでの展開を根底から転覆させる大どんでん返しが仕込まれていたりする。それは一幕の劇であるとともに、同時代を映し出す鏡ともなっているだろう。

 四谷音盤茶会の選盤と構成を担当する益子博之が10枚の音盤でつくりあげる流れには、こうしたコンポジションの冴えがある。ある音に打たれ貫かれたということは、単にその1曲、1枚に惹かれたのではなく、その前後の流れに巻き込まれたということにほかならない。
彼の相方、多田雅範の唐突で無遠慮なツッコミは、そうした語りの流れを揺さぶり、あらかじめ描かれていた設計図を引き裂き、時には回帰すべき着地点を見失って、聴衆を途方に暮れさせる。しかし、彼が彼にしかできない独特の仕方で流れに熱く息を吹き込み事態を複線化し、異論を差し挟んで仮説を宙吊りにするかと思えば、予定調和の結論を勢い余って突き抜け、崖から転がり落ちることによって、その場で聴く体験としての「音」は確実に「触発する力」を強めている。
それは決してあらかじめ仕組まれた伏線としてのミスリードではない。事前のシナリオを投げ捨てて振り向いた瞬間、彼は思わずばったり必然の帰結と出会ってしまうのだ。避けようのない運命的な邂逅として。まったくのアクシデントのように。

 今回、私は、多田が自分でもよくわからない(であろう)説明の中で口走った「速度と動き」というつぶやきに、思考をギュッと鷲掴みにされた。益子もやはりこの一言に惹きつけられたらしく、その後の説明の中で、何度となく繰り返し触れていた。今回はこの一連の流れを採りあげて論じることとしたい。もちろんこれは私の視角からの切り取りであり、この回に披露された音盤を巡る議論やそこに秘められた聴取の可能性が、これから展開する論点に尽きるものでは決してないことは、改めてお断りしておきたい。
 なお、当日のプレイリストと、先立つ3回を含めた40枚の音盤の中からさらに選り抜かれた2016年のベスト10については、すでに益子がウェブ上にアップしているので、これを参照していただきたい(※)。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
タダマス241縮小
撮影:原田正夫



 チューバの低くくぐもった唸り声のいつ果てるとも知れない持続。トランペットの掠れた息。高域と低域の間にぴんと張り渡された空間に、箏の爪弾きと鉄琴の単音が振り撒かれ、傷跡を残した上を、ノイジーなエレクトロニクスの砂嵐がさらにやすり掛けしていく。楽器の音色の色彩感はことごとく取り払われ、すべては鈍く冷たい輝きを放つ電子音の構築と化して、耳の視界を薄暗くモノクロームに染め上げる。そこで前景化してくるのは、個々の音の断片であるよりも、むしろその背後に広がる空間の静まり返った広がりの方である。冷え切った希薄さ、いや空っぽな虚無/真空の中を、音は交錯も衝突も重なり合うこともせず、左右から現れ、すれ違い、ただ通り過ぎて、消えていく。満たされることのない空間は、距離だけが支配している。音/響きを触れ合わせ、積み重ねるアンサンブルの生理とは隔絶した音世界。この鈍く輝くモノクロームな音の手触りを、生楽器による電子音の模倣ととらえ、演奏全体を電子音楽的なコンポジションに見立てる者もいるかもしれない。だが、それは違う。ここには脳内の夢想を、演奏者という媒介無しに、余すことなく直接テープ上に定着できることがもたらした、電子音楽特有の自己完結的な閉塞性がない。一見、完璧に描きあげられた画布は、いつもどこかが撓み揺らいでいる。視界一杯に広がる美しく淀みない回転運動の中に、そこだけ別の画面をはめ込んだような逆向きの動きが潜んでいる。

タダマス24-1 この日、後半の幕開けとなった、タダマスの常連と言うべきIngrid Laubrockによる『Serpentines』(Intakt Records)の3曲目、12分以上にも及ぶトラックを「長いので途中まで聴いていただいて‥」とあらかじめ断りながら、結局はほとんど全編をかけてしまった益子が、夫君Tom Rainey(dr)をはじめ、いつものメンバーで脇を固めることの多い彼女が、やはりタダマス常連でもはや説明不要だろうTyshawn Sorey(dr)やCraig Taborn(p)、さらにはHenry Threadgillのアンサンブルの屋台骨を支えるDan Peck(tuba)、箏奏者Miya Masaokaとこれまでと異なるメンバーと共同作業を行っていることに注意を促す。ふだんは音を出し過ぎるPeter Evans(tp)やSam Pluta(electronics)が、ここでは珍しく抑制の効いた演奏をしており、Laubrock本人もほとんどサックスを吹かず、鉄琴を叩いているだけであるとも。
 多田が「ここにTyshawn Soreyがいる必然性」を指摘し、論述の口火を切る。後で発表された「タダマスの選ぶ2016年ベスト10」の堂々第1位を飾ったTyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』(Pi Recordings)にも似たゲンダイオンガク的な構築性が、なるほど、ここには感じ取れる。さらに多田は、ここには一定の速度があり、すべての奏者はそのひとつの速度をキープするために演奏しているのだ‥と続ける。それは決して各演奏者に共有された、アンサンブルのテンポ感覚といった凡庸なものではない。クラシックでは当たり前の緩急法であるテンポ・アゴーギクでもない。だが確かにここには、あるイマジナリーなラインが引かれ、その上を刻々と移動している感覚がある。同期を禁じられ、直接の接触はもちろん、目配せさえ許されず、各演奏者は暗闇の中を孤独に飛翔しつつ、それでもある軸線に沿って互いに重なり合う螺旋を描いている。まるで中空に残された「匂いの道」をたどる蝶の群れのように。

タダマス24-2 ここで示された「速度」というキーワードは、次なる聴取へと引き継がれ、さらには前後合計4作品を、ある光点から照らし出すことになる。続くEve Risser White Desert Orchestra『Les Deux Versants Se Regardent』(Clean Feed Records)は、楽器というよりは音色のコンポジションだった。「楽器」というひとまとまりの広がりは分解され、抽出された幾つかのかけらだけが、プラネタリウムみたいに注意深く配置され、星座の姿を浮かび上がらせる。ドーンという深い鳴りが空気を揺すり、様々な音色のかけらが軋みまたたく。ここで湧き出る「速度」は先ほどよりだいぶゆっくりであるように感じられる。そして響きのかけらが細かくなるのと比例して、イマジナリーなラインも蜘蛛の糸のように極端に細くなっている。なかなか見つからない導きの糸を探して、手元しか照らし得ないペンライトのちっぽけな光が、ちらちらと不安定にまたたきながらさまよう。

 物理的な速度ではなく、速度感、あるいは動きの感覚が重要なのではないか‥と益子が問題提起する。この2作品は共にいわゆる音響的即興と言いながら、実のところずいぶん異なっている。前者はイメージで言えば、竹林の中をずんずんと歩んでいる感じであり、細い枝や葉が動きによってがさがさと音を立てているように聴こえる。これに対し後者は、能のすり足みたいで、静かでゆるやかだがすごい力が込められている‥‥と。

 ここで多田から益子へとリレーされた「速度と動き」とは、自身率いるユニット「ライブラリ」の演奏について蛯子健太郎の語る「物語のスピード」と共通するのではないだろうか。 
私は以前このことについて、次のように書いていた(*)。「然るべき速度が、然るべき地点で、然るべきタイミングで出会い、あるいはすれ違う。合流地点や時刻が先に決められているのではなく、然るべき速度こそが然るべき出会いをもたらす。蛯子の言う「物語のスピードで」とはそうしたことだろう。張り詰めた氷が緩みせせらぎが聞こえだす季節、種子が芽吹きゆるゆると茎葉を伸ばす速度、回転するルーレットに投げ込まれた球の軌跡、倒れていくドミノの連鎖、転がる毛糸玉がするすると解け、自らの軌跡を跡付けながら、核心を露わにしていく過程。」
*http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-411.html

タダマス24-3 次のRaphael Malfliet『Noumenon』(Ruweh Records)をかける前に、益子が次にかける盤はちょっと心配があって‥‥と前説を始める。自宅で聴いた時に、最初は全然ピンと来なくて、試しに別のアンプに切り替えてみたら、すごく良くなった。3人の演奏者が個々ばらばらに、それぞれ独立して浮かぶのではなくて、溶け合ったサウンドが移り変わるように聴こえるとよいのだが‥‥と。喫茶茶会記の再生装置から聴こえてきた音は、音場型というよりは、やはり音像型というべきものだったので、益子の言う良さは伝わりにくかったのかもしれない。それでも印象を率直に記すと、各演奏者がサウンドの範囲を極端に絞り込み、オン/オフの切り替えを主軸に演奏しているように感じられた。即興演奏にありがちな性急なコール&レスポンスはないのだが、音を重ね、擦り合わせることのほとんどない演奏は、メイン・ストリームのジャズならありきたりの「ソロ回し」を音響化したように感じられた。サウンドは「交替」するだけで、複数の音色の化学反応による「変容」や「変質」は起こらない。別にコンダクターがいて、彼に指差された演奏者が順番に音を出しているようにすら思われた。後半、3人の間の距離がふっと縮まる場面があるのだが、それも長くは続かない。

タダマス24-4 この3枚に、前半最後に掛けられたAnna Webber's Simple Trio『Binary』(Skirl Records)を加え、4枚が編み上げる風景を改めて見直してみたい。
 John Hollenbeck(dr,perc)、Matt Mitchell(piano)とのトリオで登場したAnna Webberは、以前の「Hollenbeck印」のブランド・コピー的な作風から一転して、ユニークな個性を確立してきた。アンサンブルの推進力が細かく叩き分けるドラムであることは変わりないのだが、ミニマルな繰り返しに向かわず、目まぐるしく不断にギアを切り替えながら、常に力強くペダルを踏み込み続ける身体的なドライヴ感がある。3人乗りタンデムというより、鋭い突っ込みを見せるMatt Mitchellの打鍵と、どこかオモチャ的な軽い音色でパタパタとせわしなく散乱し続けるJohn Hollenbeckの、ちょうど噛み合わせ部分にAnna Webberのサックス・リフが入り込み、かつてのHenry Cowを思わせる硬質なリズム構築全体が、ひとつの車輪と化して、ぐるんぐるん回転している感じを与える。
 この演奏に対し、多田は「サックスに視点を合わせて聴くと、耳を走らせるドライヴ感がある。リズムやアクセントがどんどん移り変わっていくにもかかわらず、重心が定まっていて、行く手を見詰める視線がまっすぐで揺るぎない」とコメントした。これは体感的に納得できる。晩年の菊地雅章トリオのように、彼方に結像した共通の光景を見詰めているというより、各演奏者の身体同士を直接結び合わせ、重心の移動、それに伴う動きを、まるで組み体操のように連結させている印象なのだ(ここで私は、互いに他の者の足首をつかみ、3人がひとつの輪になって前転を続けるマット運動を思い浮かべている)。ここで三者によるイマジナリーなラインの共有は、ひとつに連ねられた身体運動感覚とどきどきする心臓の鼓動に取って代わられている。

 そこから見ると、(1)Ingrid Laubrock、(2)Eve Risser White Desert Orchestra、(3)Raphael Malflietの演奏は、順を追って身体が引き離され、(1)まずはイマジナリーなラインがくっきりと太く現れ、(2)次いでそれが細く淡く手応えの薄いものへと変容し、(3)ついには実体を失って、ゲームのルールやマニュアルに示された作業手順のような単なる指示へと変化していくプロセスを描いているように思われる。
 もちろん、こうした度合い自体を取り出して、どの水準が適切かという議論をしてもしょうがないわけだが、少なくとも演奏の肌触りとしては、私にはIngrid Laubrockによる果敢な挑戦が好ましく感じられた。Eve Risser White Desert Orchestraによる音色のテクスチャーの生成が、それよりも繊細で精緻な瞬間を有していることは認めざるを得ないのだが、ピアノが内部奏法から打鍵に移り、それでも発散的な音響で星座的な見晴らしを持続するものの、続くピアノの和音に管楽器が積み重なってテーマ風の情景を提示するパートに至ると、以降、確かに音色の線はそうした「器」から溢れ、こぼれ落ちていくものの、それ以前の張り詰めた緊張(それこそが星座の映る天蓋を支えていたものなのだが)をずいぶんと緩めてしまうように感じられた。

 最後に発表された益子と多田の選ぶ2016年ベスト10に、Ingrid Laubrock『Serpentines』が選ばれなかったことへの異論のように読めてしまうかもしれないが、もちろん本稿の主眼はそこにはない。このような聴取がもたらす体感的な気付きの可能性を選盤・選曲の流れとしてプログラムし、なおかつ、それを当日の新たな発見として即興的に名指し、さらにそれを的確に認め、また投げ返すといった、益子と多田の実に真っ当な批評のアクションに、改めて打たれたということなのだ。
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撮影:原田正夫


masuko x tada yotsuya tea party vol. 24
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 24
2017年1月22日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:藤巻鉄郎(ドラム・打楽器奏者)


"TADA-MASU" Best 10 Albums of 2016

1. Tyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』(Pi Recordings PI 65)

2. Flin van Hemmen『Drums of Days』(Neither/Nor Records N/N 005)

3. Raphael Malfliet『Noumenon』(Ruweh Records 003)

4. David Virelles『Antenna』(ECM Records ECM 3901)

5. Jim Black Trio『The Constant』(Intakt Records Intakt CD 268)

6. Eve Risser White Desert Orchestra『Les Deux Versants Se Regardent』(Clean Feed Records CF 399 CD)

7. Lilly Joel『What Lies in the Sea』(Sub Rosa SR 416)

8. Leah Paul『We Will Do the Worrying』(Skirl Records SKIRL 035)

9. Jeff Parker『The New Breed』(International Anthem IARC 0009)

10. Marcus Strickland’s Twi-Life『Nihil Novi』(Blue Note Records/Revive Music B002468402)

extra. Bon Iver『22, A Million』(Jagjaguwar JAG 300)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:18:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
気球が空に舞い上がり… 『タダマス23』レヴュー  Kikyuu Ga Sora Ni Mayagali... Review for "TADA-MASU 23"
 10月23日(日)に行われた益子博之と多田雅範のナヴィゲートする四谷音盤茶会(=タダマス)第23回をリポートしたい。例によって、あくまで私の興味関心に基づいて切り取られた視角に関する報告なので、会の全貌をお伝えすることはできないことをお断りしておく(特に今回は偏りが激しいのではないか)。なお、当日のプレイ・リストについては、次のURLを参照していただきたい。
 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

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撮影:原田正夫


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 会が始まる前にRobert Glasperの新譜がかけられていて、益子が、これはジャズというより、ブラコンと言っていいと思うんだけれど、どうも80年代がブームということになっているらしく、途中Weather Reportみたいになったりするんですよね……とコメントする。なるほどシンセサイザーのうなり具合とか、まさにそんな感じ……と、ここで、David Bowieの「遺作」となった『★』について気になっていたあれこれが、ふと浮かび上がる。ロック・ファンのとらえ方は「ボウイが新世代ジャズのミュージシャンを起用」というところで話が終わってしまい、そのサウンドの内実に踏み込もうとしない。一方、これに対するジャズ側の応答は、ボウイと共に「Sue (Or In A Season Of Crime)」のオリジナル版をつくりあげたMaria Schneider Orchestraを、彼とDonny McCaslin及びMark Guilianaの出会いの機会ととらえ、『★』のレコーディングを彼とMcCaslinのレギュラー・クワルテット(に先の「Sue」の録音に呼ばれた元MSOメンバーのBen Monderを加えた5名)によるものと見なしている。そしてMcCaslinたちの「新世代」性がテクニックの卓越に加え、「ジャズの生演奏とエレクトロニック・ミュージックの融合」を目指した結果として説明されるのだが、そこで言う「エレクトロニック・ミュージック」が原義よりはJ.Dilla以降の「ズレをはらんだリズム・プログラミング」を指すものであってみれば、これはヒップホップに代表されるブラック・ミュージックの視点から、ジャズを再評価することにほかなるまい。それゆえ「新傾向」の旗手として、当初から先のGlasperが掲げられることになっているわけだ。だが本当にそうなのだろうか。

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撮影:原田正夫


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 と、ここで長々と説明を差し挟んだのはほかでもない。今回の『タダマス23』の冒頭に続けてかけられたSteve Lehman & Selebeyone『Selebeyone』とCorey King『Lashes』が、図らずも私のこの疑問に触れていたからだ。
 前者は益子により、これまでもヒップホップを採りあげていたLehmanが最初からヒップホップ作品としてつくりあげたものと説明される。Glasperのグループで演奏していたDamion Reid(dr)によるスネアとキックの配合を主成分とするビート構築は、Mark Guiliana同様の「不整脈」系で、多田が言う通り「ジタバタ感があり、単にノリだけで進まないところがよい」。これに対し上物は、ひたすらウネウネと絡み合う2サックスにしろ、ストリングスの残像だけを取り出したようなキーボードにしろ、棒読み調の英語ラップとアジテーションの激しさを帯びた西アフリカの言語であるウォロフ語によるラップの対比を際立たせることに徹している。ビートとラップというヒップホップの核心を突きながら、ここにブラックネスの色濃さは感じられない。Lehmanはあくまでヒップホップの鋳型をどう転用するかに注力しているように思われる。
 これに対し後者は「新世代ジャズ」のサンプルとしても採りあげられるErimajのトロンボーン奏者のソロで、他のメンバーがバックアップしているもの。ここでKingはヴォーカルを務め、各種キーボードやプログラミングを担当しながら、トロンボーンは吹かない。Erimajとの差別化を図るためともとらえられるが、サウンド自体がそもそも80年代シンセ・ポップ風で、もともと教会でゴスペルを歌うことから音楽に親しんだという声は、黒人風の粘りをわずかに感じさせるものの、歌唱あるいは歌ものの造りとしては、益子の指摘通り明らかにRadioheadの影響下にある。本人もRadioheadやBrian Eno、Daniel Lanois等のファンであることを公言しているという。やはりブラックネスは希薄だ。


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 後半の開幕にかけられたECMからの2作品Jakob Bro『Streams』とAndrew Cyrille Quartet『The Declaration of Musical Independence』が、さらにこの問題を敷衍していたように思う。
 Jon ChristensenにJoey Baronが替わった前者のトリオからは、Paul Motianに捧げた10分近い即興演奏のトラックがプレイされた。ディレイの使用によりひたすら自らを自らに折り重ね、心地よい揺らぎを生じさせながらも、徹頭徹尾サウンドスケープしか生み出さないJakob Broのアンビエントなギターに対し、Thomas MorganとJoey Baronは共に、ディレイの生み出すレイヤーの広がりとその敷き重ねによる演奏の生成を念頭に置きながら、実際にはディレイを用いることなく演奏に臨んだ。具体的には、音高を極端に絞り込み、触覚的なさわりを前面に押し立てつつ、さらに音が反復しながらだんだんと遠のいていくような「人力ディレイ」(益子)を奏でたベースと、余韻を切り詰めたサウンドにより間を際立たせ、時折鋭角的な突っ込みを見せたドラムによる、二人の「聴く力」(多田)を遺憾なく発揮したプレイである。ここでも「エレクトロニック・ミュージック」の鋳型が異なる景色をもたらしている。
 他方、後者では、Cecil Taylor(p)のユニットのドラム奏者を永年務め、ブラック・フリー・ジャズの「闘士」として、ドタバタと忙しなく叩き回り、音数多く「うるさい」演奏を繰り広げていたAndrew Cyrilleが、時折忙しなさを見せるものの、むしろ間を重視した繊細な演奏を聴かせ、これにAnthony Braxtonとの共演こそあるものの、元Musica Elettronica Vivaのメンバーで明らかに畑違いのRichard Teitelbaumのシンセサイザーが、ホワイトノイズを散布して空間の広がりを眺め回し、あるいはサックスの気息音を模して視界を横切り、ただならぬ気配を充満させる。形を変えていく雲のような浮遊感を漂わせながら、以前よりは輪郭を明確にしたBill Frisellのギターは、基本的にメロディ・フレーズを繰り返すだけだ。ここにもブラック・ミュージックの祖型を用いながら、それをパブリック・ドメインとして自在に中身を組み替えていく手つきが見られるように思う。「マンフレート・アイヒャーではなく、サン・チョンのプロデュースだからこそ可能になった作品」という多田の指摘は鋭いと思う。


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 この回のハイライトは、前半にかけられたJeff Parker『The New Breed』とJim Black Trio『The Constant』ではなかったか。Tortoiseのギター奏者として知られる前者は、益子によるとAACMにも参加しており、近年、活動拠点をシカゴからLAに移したとのこと。スクエアなビートに、ビートルズ「ストロベリー・フィールズ」的な弦アンサンブルの劣化サンプリングが、そこから滑り落ちそうな不安定さで重ねられ、さらに軽快なサックス・ソロが乗り、そこからさらにサックスがサンプリングされてループし、ドラムが連打をずらしていくという、ミスマッチを微妙なところまで見極めた編集感覚が素晴らしい。「レトロ・フューチャー」という益子の評も当たっている。冒頭部分が少しだけ披露された次曲はかつてのTortoiseを思わせる、細密に作り込まれながら、どこか牧歌的なカンタベリー風味だったから、本質は変わっていないのだろう。
 後者はメンバーを固定しての3作目。バシバシと小気味よく叩き込むドラムが前面に出るのはいつも通りだが、まだ26歳というピアニストの、サウンドを切り詰めてドラムを引き立てつつ、自らをも立ち上げるバランス感覚に耳が惹き付けられた。高音と低音に極端に二極化したパーカッシヴな打鍵によるプリペアド・ピアノ的演奏をはじめ、フレーズ展開風のソロを取らず、リズミックに砕け散ったアブストラクトなパッセージを中心に、むしろサンプラーやターンテーブル奏者のようなサウンド/ノイズ・メーカーに徹した演奏は、冗長さを徹底して削ぎ落とし、三人が一丸となって急坂を転げ落ち、飛び石伝いに川を渡り、絶壁の縁をひたひたと歩む運動の一体感を強めていた。もちろん、その陰には『タダマス』御用達ベーシストThomas Morganの支えがあるのだが。


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 もうひとつ、今回の収穫を挙げれば、声のゆるやかな温かみではないかと思う。Sara Serpa & Andre Matos『All The Dreams』では、音程の揺れる電子音やエコーの滲み、テープ逆回転の使用といった、いささかアナクロニックな「アナログ感覚」が、フレンチあるいはブラジリアン・ポップス的な声の処理(Stereolabが『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』で参照したような)と相俟って、そうした時の流れを生み出していた。
 対して、やはり最近『タダマス』登場機会のめっきり増えたJoachim Badenhorst率いるCarate Urio Orchestra『Ljubijana』からは、オブスキュアな日本語歌詞の曲を。深いエコーの中で交錯する口笛と囁きヴォイス、薄暗がりに沈んだ爪弾きギターとよく聴き取れないヴォーカル。「気球が空に舞い上がり、雲を突き抜けさらに高く、太陽とひとつになるまで」と力なく呟かれるイカロス的飛翔への憧れを含め、1970年代初頭の京都ヒッピー集団による自主制作盤と言われたら信じてしまいそうな仕上がり。愛すべき音楽。
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撮影:原田正夫


 この日は、エンクロージャの変更、ツイーターの故障と、このところ腰の定まらないところのあった喫茶茶会記のスピーカーが、以前とは異なるより明晰なポジションながら、据わりの良いサウンドを聴かせ、ようやく落ち着くべきところに落ち着いてきた感があった。ゲストとして『タダマス』2回目の登場となる井谷享志は、曲によっては用意された席が位置する側面から、おもむろに席をスピーカー正面側へと移し、熱心に響きへ耳を傾ける「聴き手」としての貪欲な集中を見せた。相変わらず発した言葉は多くなかったが、隣に座っていた多田が、聴取に集中している彼の気配に大いに触発された旨を語っていて、大いに頷かされた。複数で聴くことによる発見は、交わされる言葉よりも、むしろそこにある。今回かけられた音盤を聴いて、井谷が「実は僕歌いたいんですよね」と漏らしていたのも興味深かった。「声と打楽器というのは、何かモノクロな感じでいい」というのは、時にモノクロ写真がカラー写真以上の色彩感を持つように、最小限の要素から無限の可能性が広がるということだろう。「声と打楽器」と言われて最初に頭に浮かぶのは、チャールズ・ヘイワードや灰野敬二だが、彼の前にはそれとは違った可能性が開けているように思う。ぜひ聴いてみたいものだ。

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masuko/tada yotsuya tea party vol. 23: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 23
2016年10月23日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:井谷享志(パーカッション・ドラム奏者)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:57:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
いつもとは違う場所で − ライブラリ@横浜First  In a Different Place Than Usual − Live Review for Library@Yokohama First 20161001
 2枚のCDを何度となく聴き返し、幾度もライヴに出かけ、そのたびにレヴューを書いているというのに、蛯子健太郎率いる図書館系ジャズ・ユニット「ライブラリ」の魅力とは何か、未だにはっきりと名指せないでいる。
 今回は昨年10月の喫茶茶会記前回ライヴに引き続き、エレクトリック・ベースによる演奏で、蛯子自身が「何だか全部オルタナ・パンクみたい」と照れながら語るように、頁を繰る手ももどかしく一気に読み進めるように、曲名の紹介どころか、時にはベースの持続音を響かせたまま曲間の区切りすら欠いて、冒頭から7曲が続けて奏された。その一方で、各曲を始める前の蛯子の「カウント儀式」は健在で、眼を瞑り、おそらくは脳内で全編を高速スキャンしているのだろうか、初めて見たら首を傾げるほど時間をかけて、これしかない最適のテンポを指し示す。だから演奏は一気呵成に急坂を転がり落ちるかに見えて、そうした闇雲に先を急ぐ性急さとは一切無縁だ。然るべき速度が、然るべき地点で、然るべきタイミングで出会い、あるいはすれ違う。合流地点や時刻が先に決められているのではなく、然るべき速度こそが然るべき出会いをもたらす。蛯子の言う「物語のスピードで」とはそうしたことだろう。
 張り詰めた氷が緩みせせらぎが聞こえだす季節、種子が芽吹きゆるゆると茎葉を伸ばす速度、回転するルーレットに投げ込まれた球の軌跡、倒れていくドミノの連鎖、転がる毛糸玉がするすると解け、自らの軌跡を跡付けながら、核心を露わにしていく過程。
 それは微妙で危ういバランスの上に成り立っている。前回の彼らのライヴの記録動画を見て、そのことを痛いほど気づかされた。あれほど魅了されたアンサンブルがすっかり抜け殻となっている。もちろん夢を見ていたわけではない。おそらくはヴィデオの設置位置の制約もあって、録音がエレクトリック・ベースのソリッドで芯のある低音をとらえきれていないのだ。たったそれだけのことで、彼らの「物語」は崩れさってしまう。だが、手指の間からさらさらと虚しくこぼれ落ちる砂粒の感触から、すなわち彼らの魅力の不在の手応えから、その在処を感じ取ることもできる。
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撮影:益子博之


 恒例の喫茶茶会記でのライヴに先立ち、いつも蛯子がジャム・セッションの受け皿を務めている(つまりはライブラリの物語を繰り広げてはいない)横浜ファーストでのライヴを聴いてみたいと思ったのは、場所が変われば(初めて訪れる店だ)、視点も移り変わって、彼らのまた違った側面を垣間見られるのではないかとの期待からだった。
 京浜急行日の出町駅から川を渡って右側にある店のドアを開けると、いきなりセミグランド・ピアノのボディが通せんぼをしている。天井があまり高くなく、奥へと細長く延びる穴蔵的空間。ピアノの脇をすり抜けて進み振り返ると、ドアとは反対側の角にドラム・セットが押し込まれている(演奏開始に当たり、井谷はドラム缶風呂に入るみたいにスネアを一跨ぎして、辛うじて隅に残された三角形の隙間に身体を滑り込ませていた)。ピアノの曲線に寄り添うように橋爪、中央に蛯子が立ち、手前のテーブルに横向きに三角が座る。

 この日、エレクトリック・ベースの演奏は、ディレイを効かした滲んだ響きのたゆたいと明確なリフにきっぱりと二極分化し、こうして方向性が絞り込まれることにより、アンサンブル全体に渡ってストレートな直接性が増し、飾り気のない音色が楽曲/演奏の基礎や骨組みを剥き出しにしていくように思われた。
 たとえばアップライトでないせいもあるのだろうが、飯尾のバッキングはいつもより明確に粒だって、曖昧な連なりではなく、個々の点の集積として聴こえた。これによりアンサンブルはいつもより透明度を高め、奥行きをさらに深めて、各演奏者の紡ぐ「物語」の行き交う様を、聴き手がさらに細やかに見通せるようになった。
 井谷の演奏もドラム・セットながら、いつものカホン中心の簡素なセット同様、いやそれ以上に余韻を切り詰め/引き延ばし(細やかに叩き分けられるシンバル)、音色のスペクトルを拡散しながら(スネアをスティックだけでなく、指先で、ブラシで、音具で叩きこする)、音を泳がせ、間を息づかせて、緩急を鋭敏かつ自在に操作していた。
 前回同様、ピアノに寄り添うように位置取った橋爪は、ライブラリ以外での演奏(橋爪亮督グループ等)を私が聴いたことのある唯一のメンバーなのだが、それらとライブラリでのプレイの違いにいつも驚かされる。ライブラリでの彼の演奏は、誤解を恐れずに言えば、彼の演奏能力の全スペクトルのうちのごく一部だけにフォーカスして、そこだけをあり得ないほど深く深く掘り下げる。例えて言うならば、サッカー選手の身体能力に注目して極端に難しい綱渡りに挑戦させるようなものだ。卓越したサックス・プレイヤーであるとともに優れたコンポーザーでもある橋爪は、創造性溢れる豊かなフレージングを鋭く自在に乗りこなすことができるが、ライブラリではそうした方向性は封印し、ロング・トーンの僅かな抑揚や点描的な音色の散らし描き、あるいはカタコトと階段を踏み外していくようなトイ・ミュージック的音響遊戯に没頭している。
 そして詩人である三角は、様々な方向から折り重なってくる音の層に対し、通常のヴォーカリストのようにメロディをなぞりながら響きを溶け合わせる代わりに、むしろ一つひとつの語やイメージを際立たせる。例えば冒頭に披露された「悪事と12人の死人」で、ゆったりとたゆたうエレクトリック・ベースの広がりに、細やかな文様を象眼していくソプラノ・サックス、ピアノ、ドラムスに対し、彼女はすっくと言葉を立ち上げる。「洗濯機がかんかんと回って 眠っている人はまだ眠っていて」……。かんかんと響き渡る声は、さらに三角の手によってサンプリングされ、薄くかげのように敷き重ねられて、幻惑的なズレ/交錯をもたらしつつ、その厚みから指先を傷つけそうな言葉の破片が、鋭く斜めに突き出している。

 演奏された全曲を1曲ずつレヴューした前回ライヴと異なり、今回は楽曲の性格よりも、ライブラリというアンサンブルというか、演奏者間の関係の特異性が前景化したように感じられた。それは前回、ライブラリ楽曲のエレクトリック・ベース版演奏に初めて接したからということもあるが、むしろ今回、通常は「普通のジャズ」が流れているであろう空間に(そしていつもは蛯子がジャム・セッションの場を包容力豊かに支えている場所に)、それとは明らかに異質なライブラリの音が放たれたということが大きいように思う。私はライブラリの演奏に初めて接する「場付き」の聴衆のとまどいを肌で感じ、困惑の匂いを嗅いだように思った(もちろんそれは私の勝手な印象に過ぎないが)。
 だが私はそうしたとまどいや困惑が、やがて魅惑的な「謎」へと変容していくに違いないことを知っている。タネも仕掛けもないはずなのに、どうしてこんな結果が生じるのか、通常のプレイヤーシップやミュージシャンシップの範疇では解き得ない不思議さに、魅了されずにはいられないことを。なぜなら私自身がそうだったから。
 秘密はやはり蛯子が呪文のように繰り返す「物語のスピードで」にあるのだろう。「ジャズ」が暗黙の指標としてきたトップ・アスリートの競い合いのような速さでも、年輪を感じさせるじっくりと味わい深い遅さでもなく、きびきびとした快活さでも、紫煙をゆったりとくゆらすリラクゼーションでもなく。「音がこぼれる草の話」で次第に遅くなり沼に沈んでいくようなテナーのソロも、「237」でファンキーに盛り上がりそうな曲想にもかかわらず一向に熱くならないアンサンブルも、「仲間割れの歌」でのドラムの伸縮自在に揺れまくる刻みも、「滑車」のアンサンブルが解けて荷崩れを起こしそうなゆっくりしたテンポも、「4:00 P.M.@Victor's」の暮れなずむ停滞感も、「Trains」の曲題通り列車走行音の心地よい繰り返しも、すべてはそこに内包された物語が自らを開陳するにふさわしい速度なのだ。
 そして聴けば聴くほど謎はますます深まり、その魅力を増していく。

 次回は11月30日、喫茶茶会記でのライヴだ。

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撮影:益子博之


2016年10月1日(土)
横浜First
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(drums)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)

今回のセット・リストは次の通り。
1 悪事と12人の死人
2 Angel
3 音がこぼれる草の話
4 あ、いま、めまい
5 237
6 仲間割れの歌
7 Monofocus
8 滑車
9 4:00 P.M.@Victor's
10 ひこうき【新曲】
11 Vitriol
12 Spherical
13 Trains
14 空がゆがむ時【新曲】

ライブラリの喫茶茶会記での前回ライヴ(2015年10月19日)については、次のレヴューをご覧いただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-377.html

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:32:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
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