■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

『松籟夜話』第十夜来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Tenth Night
譚セ邀溷、懆ゥア10-1_convert_20170926220116
撮影:原田正夫


 『松籟夜話』第十夜にご来場くださった皆様に、厚く御礼申し上げます。『ジャジューカ』のCDがかからなかったり(たまたまLPも用意していたので事なきを得ましたが)、急にスピーカーの下に挿んでいたスペーサーが飛んだりと、怪奇現象に悩まされながらもどうにか無事終えることができ、お陰様で今回も充実した回となりました。以下に当日のプレイリストをジャケット写真及び試聴リンク付きで掲載させていただきます。なお、試聴リンクにつきましては、必ずしも当日プレイした部分ではないものも含まれていますので、ご注意ください。

譚セ邀溷、懆ゥア10-2_convert_20170926214757
撮影:原田正夫


 今回の第十夜は、三回シリーズ「漂泊する耳の旅路―現地録音を聴く」の最終回ということで、移動、距離、伝播、転地‥‥といったいささか抽象的なテーマを掲げることとなりました。こうした語が指し示す茫漠とした広がりから、何に注目して音源を採りあげ、何を導きの糸としてそれらを配列していくのかについては、大層苦労することとなりましたが、その結果、むしろ音源の配列については、ヴァリエーションを拾い集めるよりも類比と連想の線を追うことに集中した、明確に筋を貫いたものになったのではないかと自負しております。確かに音盤の「ジャンル」としては、初期カリプソの復刻からインダストリアル・ノイズ、アパラチアン・ミュージックに沖縄ポップス、『アンソロジー・オヴ‥‥』や『ジャジューカ』といった伝説的作品や仏サラヴァの名盤、ポリティカルなサンプリング・ミュージックにフリー・ジャズ戦士の未発表ライヴと、月光茶房原田店主が驚いていたように、やたらと幅広いのですが。

まずは「距離/隔たり」をしっかと見据える眼差しをそこに感じ取り、移動や伝播とは、ピンと張り渡された細い綱をゆるゆると伝っていくことにほかならないと踏まえつつ耳を傾けていただければ、きっとそこには、情報にしろ、モノにしろ、あるいは形を成しようのない想いにしろ、何物かが響いていく様々な「渡り」の光景が連なり合って得噛んでくるのではないでしょうか。

 音(聴覚資料)だけでなく、文章や映像による資料も用意し、互いに照らし合うよう努めてきた『松籟夜話』ですが、今回はテーマ自体の幅広さと、それと表裏一体の展開の絞込みにより、映像はなし、文章資料もいつものように小説やエッセイ、詩からの引用は果たせず、今回の特集を陰で支えてくれた参考書目からの抜粋のみで構成することとなりました。とは言え、アフリカン・ディアスポラと洞窟壁画とアビ・ヴァールブルクが並べて論じられる機会もそうそうないはずなので、これはこれで少しは興味深いものになったかとは思います。

譚セ邀溷、懆ゥア10-3_convert_20170926215202
撮影:津田貴司


 最後にプログラム内容を最終的にまとめる段階で、心棒となってくれた相方を務めてくれている津田貴司の書き込みを掲げたいと思います。今回の『松籟夜話』に私たちが込めた想いが凝縮されています。


ビセカツさんの言葉を思い返す。云く「糸満発祥の漁法は琉球弧のほとんどにみられるが、本部の備瀬集落にしかない独特の漁法がある、といったことから文化伝播の痕跡を考える手がかりはある。しかし唄の場合は本土の流行歌をもじったり聞き伝えに変化したりして、伝播の痕跡を辿ることができない」。

音楽という「遠さ」。
伝播の「飛び火」。

線をたくさん引くこと。
軸をたくさん想定すること。
重力からできるだけ自由になること。


 それでは『松籟夜話』第十夜のプレイリストをどうぞ。次回以降も続きます(たぶん)。

譚セ邀溷、懆ゥア10-4L_convert_20170926215016 譚セ邀溷、懆ゥア10-4R_convert_20170926220437
撮影:原田正夫



 開演前BGM
 
Various Artists『Music of Morocco Recorded by Paul Bowles 1959』CD2
 すでに彼の地への永住を始めていたボウルズが、連邦図書館等の委託により手掛けた現地録音の集成(CD4枚にモロッコ皮装丁を模した分厚い冊子を収めた美麗ボックスセット)。異国への憧れに突き動かされ、「現地」へと赴いた者だけが眼差し得る魅惑の音風景。だが、それだけが唯一の「真実」や「正解」なのではない。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduHSXQhskA3Kmgdgytt63zQ



1.移動/交通による生成と距離のもたらす断絶 あるいは甘さと苦さ

(01)登川誠仁『Howling Wolf』tr.7【2:59】
 試合開始のゴングが鳴るや否やの強烈な一撃。これをパロディととらえ得るのは、安全圏にいる第三者の視線であり、耳での聴き取りだけによる再現がもたらす「錯誤の豊かさ」を聴き逃し、正統な文化伝統と演奏者の意図という二つの「純粋さ」に事態を還元してしまう。当事者たちはもっと切羽詰まっている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=u1n7vc1QQwU

(02) Various Artists『Marvellous Boy Calypso from West Africa』tr.2【3:22】Bobby Benson And His Combo「Taxi Driver (I Don't Care)」
tr.5【3:01】Mayor's Dance Band「Bere Bote」
 街頭音のギミックで始まり舌足らずのビジン英語によるコロニアルな甘美さに溢れるtr.2とよりアフリカ音楽的でしゃっきりした、ハイ・ライフを思わせるtr.5で、移動/交通がもたらす豊かさと甘さをまず。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=IXdAD4ucHws

(03)Various Artists『The World Is Shaking Cubanismo from The Congo,1954-55』
tr.1【3:06】Laurent Lomande「Maboka Marie」
tr.2【3:05】Adikwa Depala「Matete Paris」
 前作同様、カリブ海から「故郷」たるアフリカを振り返るのとは逆向きの眼差し。かつての日活映画で流れそうな無国籍キャバレー音楽tr.1は、こうした交通による混交がすでに世界を覆っていたことを示している。tr.2はよりアフリカ的な乾いた硬質さを明らかに。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=m3YXxhFdBxE

(04) Various Artists『My Intention Is War Trinidad Calypsos 1928-1948』
A-1【3:00】The Lion「Death」
 声音と演奏はコロニアルな甘美さを極めながら、どこか気だるく陰鬱に響き、曲題通り、歌詞は永遠、憂鬱、哲学等の語をちりばめて不可解に暗い。甘さのうちに忍び込む苦さ。
試聴:http://www.reggaerecord.com/en/catalog/description.php?code=69104

(05) Various Artists『Anthology of American Folk Music』CD5 tr.6【2:56】Dock Boggs「Sugar Baby」
 弾むバンジョーの中華的な喧噪とお決まりの性的な歌詞にもかかわらず、声は突き放したように無表情。甘さと表裏一体の痺れるような苦さ。
試聴:https://folkways.si.edu/anthology-of-american-folk-music/african-american-music-blues-old-time/music/album/smithsonian
  https://oldweirdamerica.wordpress.com/2012/03/15/62-sugar-baby-by-dock-boggs/

(06)Various Artists『Classic Mountain Songs』tr.3【5:27】
Old Regular Baptists*「I Am A Poor Pilgrim Of Sorrow」
 揃わぬコーラスによるホワイト・ゴスペルtr.3は、うねりやコブシを伴うことなく、互いの声の肌を擦り合わせる。まるで血の滲む痛みにより生きていることを改めて確認するかのように。アパラチアン山脈に行く手を阻まれ、孤立し、食い詰め、どん詰まった嘆きが刺すような剥き出しの苦味を放つ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLzPfZr0tOrsdvj8UXbN7SI7WYOebEoSwS

(07) Various Artists『MYAHK 宮古 多良間 古謡集1』tr.5【3:10】「雨乞いぬ唄」(
 やはり揃えることを至上としない合唱。複数の起源の異なる旋律を組み合わせたような混交ぶりを示す。張り詰めた前曲に比べ、より柔和な表情を見せるが、童歌を思わせるユーモラスな繰り返しにもかかわらず、つらさを背負った塩辛さが滲む。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=tw_FXrL3g18

(08) Various Artists『PATILOMA 波照間 古謡集1』tr.3【1:40】「中皿ぬアヨー」
 ゆったりと引き伸ばされた声の足取りは、波音に洗われながら、曲や旋律自体は共同体の文化に属しつつも、歌はそこを離れてひとり歩むしかない重いつらさと凛とした気高さを、塩辛く物語っている。
  試聴:http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=8043
     http://elsurrecords.com/2013/04/22/v-a-%E3%80%8E%E6%B3%A2%E7%85%A7%E9%96%93%E5%8F%A4%E8%AC%A1%E9%9B%86-1%E3%80%8F/

(09) Various Artists『Classic Mountain Songs』tr.13【5:00】
Berzilla Wallin「Conversation With Death」
 女声による無伴奏ソロ。旋律的にはアパラチアン民謡でありながら、オールド・グッド・タイム・ミュージック的なハッピーさとは無縁な、渋柿をかじったような口中が引きつる極限的苦さ。そのルーツである英国トラッドと異なり、共同体に所属し得ない孤独さを全身から放っている。
試聴:https://folkways.si.edu/classic-mountain-songs-from-folkways/american-folk-old-time/music/album/smithsonian
https://www.youtube.com/watch?v=pSf4-DCDtkc



2.隣接する異郷、変調される音響/変容するリアリティ

(10)Higelin & Areski『Higelan & Areski』tr.1~3【5:07】
 ヨーロッパ世界が「内海」地中海を隔てて相対する最も身近な他者たる北アフリカからの砂漠の乾いた風が、絞り込まれた音の隙間を吹き抜ける(Areskiはモロッコ出身)。ループすることなく微細に移り変わるリズムと空間配置の絶妙の構成はAreskiと録音技師Daniel Vallancienの真骨頂。途中に現れるバンジョーのリフレインは先ほどのDock Boggsに通じるものがある。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=j51DIOPvQiA

(11) Ghedalia Tazartes『Diasporas』tr.1【2:40】
  出身地未詳のさまよえるユダヤ人Tazartesの張り上げる、引き裂かれた悲しみにまみれた濁声が、積層されたヴォイスのテープ・ループに吹き惑わされる。ディアスポラの象徴的音像化。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nURr8ma2KWI



(12) Bob Ostertag『Sooner or Later』tr.1【3:10 F.O.】
  政府軍に射殺された父親の遺体を埋葬する少年の姿(エル・サルバドルでの現地録音)。土を掘り掛けるシャベルの音と少年の涙にむせぶつぶやき、早くも寄って来た蠅の羽音が、決して単純なループではなく、トラウマ的に強迫反復され、現地録音が抽出した「現実のちっぽけなかけら」を際立たせつつ、前曲の構造を照らし出す。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nFOWPZEj-3E

(13)『Brian Jones Presents The Pipes of Pan at Joujouka』tr.1【3:20 F.O.】
  不審死を遂げた初期ローリング・ストーンズの中心人物Brian Jonesによるモロッコ現地録音のスタジオ加工作品。通常、「現地録音を素材にスタジオで構築された作品」と説明されるが、実際には現地での邂逅を再体験すべく、録音に定着し得なかった音響を補充し続けた結果ではないのか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LwEoDGeNyrE

(14)Gilles Aubry『And Who Sees the Mystery』B-1【途中5分程度】
  現地演奏家のサウンドチェック時の録音を電子的に加工。マイクロフォンのハウリングが呼び起こす刹那の感覚。短波放送の混信。街路の雑踏のスナップショット。様々な記憶が去来して過去に呼ばれ、またすぐ現在に引き戻される。前作の冷徹を極めた現代版と言うべき作品。
試聴:http://corvorecords.de/release/gilles-aubry-and-who-sees-the-mystery/

(15)Zoviet France『Shouting at the Ground』tr.6-8【7:50】
  「インダストリアル・ノイズ」に位置付けられながら、サウンドは他と隔絶した唯一無比なもの。民族音楽等を素材としながら、その遺伝情報を解析して古代へと遡る緻密な想像力が、先史時代の古い地層から「古代音響」を電子的掘削探査する。ノイジーにざらついた不透明な音響は、地層の褶曲をもたらす巨大な圧力に押しつぶされ、異様な高密度に至っている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=TLIbVMAGzBY
https://www.youtube.com/watch?v=gh9sPLw9-QQ

(16)Evan Parker『As the Wind』tr.1【6:20 ~ 12:00 F.O.】
  リトフォン(石琴)の水の滴りや火花を思わせる響きと細く紡がれるソプラノ・サックスの呼吸が暗闇を手探りし、そこに潜む眼に見えない広大な空間を照らし出す。「芸術の起源」たる洞窟壁画の描かれた聖なる空間における音響・環境・即興に向けて遡行する想像力。
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=22651

(17) Various Artists『Music of Morocco Recorded by Paul Bowles 1959』CD4-tr.6【1:30】
 彼方から響いてくる祭礼の喧噪。辺り一面に集く虫の音。眼前から発進する車のエンジン音‥。夜明けまで至る儀式をとらえた録音から切り出された断片に映り込むフィールドレコーディング/サウンド・アート的光景。それはこれら一連の録音が「訪問者」による距離を置いた醒めた(と同時に狂おしいほどに魅せられた)視点によることを明らかにする。件のボックスセットのエピローグ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduYC249uFC1SvFq-5fatGBY

譚セ邀溷、懆ゥア10-5_convert_20170926215335


休 憩

Pacific 231『Miyashiro』tr.6-7,10
 蓮実重臣らメンバー2人がハワイに暮らした日系人作曲家を模してつくりあげた仮想世界。日本ではなく、ハワイでもない、あり得ない記憶の感覚に満ちた曲集。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=p8jFta3d6J0





3.幻想の大陸の彼方へ

(18)Bengt Berger『Bitter Funeral Beer』tr.1【3:00 F.O.】
 ガーナで現地録音された伝統的葬儀の様子(女たちの泣き声)にスウェーデン人ミュージシャンのスタジオ演奏が重ねられ、彼方へと送り届けられる。辺り一面に立ち込め、混じり合い、相互に浸透していく音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=fIB0i8tmk1U



(19)Kelan Phil Cohran & Legacy『African Skies』強調文tr.1【4:15】
 異世界への扉を開ける開幕曲。「アフリカ回帰」というにはあまりにも透明に澄み切ったケルト的音響は、「いまここ」とは別のいつか/どこかへの憧れに満ちている。演奏風景もどこかSF的な異世界感覚に満ちている。彼はシカゴを拠点とする黒人ジャズ・ミュージシャンで、サン・ラのアーケストラに参加した経験を持ち、ステージではサン・ラ同様、エジプトのファラオ姿の扮装も見せる。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=mB58izkmArc

(20)Count Ossie & the Mystic Revelation of Rastafari『Grounation』CD1 tr.1【4:50】
 ラスタファリの儀式音楽ナイヤビンギ。アフリカン・ディアスポラをユダヤ人の宿命と重ね合わせ、バビロンからザイオンを、ジャマイカからエチオピアを、カリブ海からアフリカ大陸を眼差し、幻想の起源へと遡る想像力。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dfJFh4t_HmA

(21)Town and Country『Up Above』tr.1【7:42】
 ハーディ・ガーディの唸りとヴァイオリンの軋みにも似た甲高い響きにより、ミニマルに織り成されるドローン的な音響は、明らかにアパラチアン・ミュージックの記憶を枠組みとしている。最後に聴かれるハープの音色は聴き手を(15)で垣間見たケルトの幻へと連れ戻す。アメリカーナの安逸さに流れることのない、レコードの針飛びにも似た強迫反復的音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dYy-ye7wjCs

(22)Albert Ayler『Holy Ghost』CD5 tr.2【6:00 F.O.】
 これは「破壊者アイラー」が撒き散らしたフリー・ジャズ的混沌なのか。否。ここまで長い旅路を続けてきた耳は、そこにマーチとスコットランド民謡とニューオリンズ・ジャズと教会音楽(ニグロ・スピリチュアル?)がメリー・ゴー・ラウンドのように巡り続ける様を看て取るだろう。子どもの頃に高熱に浮かされて見る夢。今際の時に巡る思い出の走馬灯。テーマの器楽的な変奏へと飛び立つ代わりに、異なるテーマをメドレー風に繰り返す特異なインプロヴィゼーションのあり方は、ちりばめられた異質な記憶の断片にその都度囚われ、その度ごとに異なるテーマ・メロディを強迫反復せずにはいられないことの現れととらえられよう。1966年ベルリンでのライヴ。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=inaJpgH11X4

(23) Various Artists『Various Instruments of Indonesia』tr.13【2:00】
 ホラ貝楽器によるアンサンブル。くぐもった音色による揃わない千鳥足の演奏のうちに、ニューオリンズ的とも言える大らかな讃美歌風のメロディを聴くことができる。アルバート・アイラーの高熱に浮かされた密度からの帰還/沈静のために(と同時に彼の鎮魂のために)。
試聴:https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%9A%E5%BD%A9%E3%81%AA%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%A5%BD%E5%99%A8-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGUM


 サルヴェージ

Washington Phillips『What Are They Doing in Heaven Today ?』A-1【1:59】
 音響の深淵から現世へと浮上するためのプロセス。ベビーベッドの上で回るメリーにも似たドルセオーラの夢幻的な音色は、自身のアンサンブルにハープシコードを導入したAlbert Aylerが追い求めていた天上の響きではないだろうか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=EtLfSknVW3M

譚セ邀溷、懆ゥア10-6_convert_20170926215357
今回もその力を如何なく発揮してくれた歸山幸輔設計の反射板スピーカー
「奈落の底を覗き込むスピーカー」(多田雅範 撮影も)


『松籟夜話』第十夜参考文集 引用文献一覧

1.距離 遠さと近さ
 篠山紀信・中平卓馬『決闘写真論』朝日新聞社
 ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社

2.移動、伝播、転移、再配置、転位、位置喪失
 アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社

3.手つかずの無垢で純粋な民族文化という幻想
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
 ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院

4.アフリカン・ディアスポラ 
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社】
 レナード・E・ベレット『ラスタファリアンズ』平凡社】
 ポール・ギルロイ「Could You Be Loves ?」
  赤尾光春・早尾貴紀編『ディアスポラの地からを結集する』松籟社
 ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院

5.残存、記憶の「生き残り」
 キャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』明石書店】
 村田勝幸『アメリカン・ディアスポラのニューヨーク』彩流社
 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
 ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社

6.イメージの人類学
 ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社】
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社】

7.メディアへの記録(写真や録音)によってつくりあげられる配置の平面
 ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
 カルロ・ギンズブルグ『ミクロストリアと歴史』みすず書房

8.洞窟壁画、感覚遮断、内部光学、環境・音響・即興
 江澤健二郎『バタイユ 呪われた思想家』河出書房新社
 アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
 デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ『洞窟のなかの心』講談社
 ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』紀伊国屋書店】
 中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房


『松籟夜話』第十夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
◎第十夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第三回。「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似へと耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年9月24日(日)18:00 ~ 21:00
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)

事前03
季節の星座をテーマにした川本要デザインのフライヤーは『松籟夜話』の顔と言うべき存在。



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:27:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
フリー・インプロヴィゼーション/フィールドレコーディングのパラタクシス あるいはキスの作法 ― Les Trois Poires @ OTOOTOライヴ・レヴュー  Parataxis of Free Improvisation / Fieldrecording OR the Manner of Kissing ― Live Review for Les Trois Poires @ OTOOTO
1.Les Trois Poires 2017/07/29 OTOOTO東北沢
 降り出した雨の中、演奏はすぐに始められた。照明を落としたホワイト・キューブに響きの層が広げられる。テーブルクロスに形のない薄い染みとなって広がる低音の震え。大型のデザートドラムに張られた皮が、ゴム球でゆっくりと撫ぜられて挙げるくぐもったうなり声。ギターの弓弾きの植物質のかすれが放つ新しい畳のつんとした匂い。響きの各層は弛みを排し、緊張や硬さを遠ざけて、何より鋭敏であることを目指しながら、手の甲同士を微かに触れ合わせ、「徴候」を探り続ける。

 ベース弦と指先が触れ合い、小さく「ビン」と鳴った後を、追いかけて低音が湧き上がり、鋭いさわりを身にまとうに至る。その間、かざされたデザートドラムの皮にベース音がブルルッと鳴り響き、ギターの弓弾きがガサガサとささくれていく。

 ギターの弓弾きの遠く深い響きが、遥か彼方を半眼で見詰めている。時折混じる軽く希薄なかすれ音が視界をすっと横切る。乾いた紙に触れ、落ち葉をゆっくりとかき混ぜるカサカサした音がしばし聴こえたかと思うと、タタタタタ‥‥と岩から滲み出る湧き水の滴りに波紋音(ハモン:表面にひび割れ状に入れたスリットにより、部位により音高の変わる金属打楽器)を差し出したかのように、粒立ちが涼やかに鳴り響く。ベースは低く言葉少なにつぶやき、次第にその背後から低音が浮上してくる。

 短い沈黙を挿みつつ、クロッキー帳のページをめくるように、その度ごとに新たに始められ、終わりへと向かう演奏。始まってすぐ、全員が最初の一音を出し終わった時点で、三人の立ち位置はもう決まっている。儀礼めいた探り合いも、予定調和の盛り上がりもここにはない。丁々発止の掛け合いも、ケイオティックなエナジーの噴出も、我慢比べみたいな持続合戦(音を出さないことを競い合うのも含む)もない。彼らは誰の指図も受けず、目線も合わさず、すっとそれぞれの持ち場に着いて、確実に「チームとして」すべき仕事をこなす。
 この「チームとして」という表現の意味合いを、きちんと説明しておかねば誤解を生むことになるだろう。というのも、そこにある「集団としての同期性」は、通常の「チーム」という概念からは程遠いからだ。まず彼らは決して同じ方を向かない。それぞれが違うところを見ている。冒頭の部分に見られるように、各層を敷き重ねはするが、溶け合わせることはしない。寄り添うこともしない。ぶつかり合うことはないでもない。しかし、がっちりと組み合って事態が膠着へと陥らないよう、すっと身をかわし離れる術を心得ている。たとえ収斂しながらも、必ず隙間を残し、風通しの良さを保つ。変化/転換への道筋を残しながら、その角を曲がらず、終わりへと歩みを進める。それゆえ誰かが演奏を始めないうちに、終わってしまうこともある。だから変化は知らぬ間にすっと生じるのであって、三人がタイミングを測り、調子を合わせて動く‥‥などということはない。誰かが動いても、自分が場所を移し、あるいは行動を変える必要がなければ動かない。それでは、その「判断の基準」とは何か。
 もちろん、それをひと言で指し示すことはできない。できるとしたら演奏がつまらないか、そのひと言がどうとでも都合良く解釈できるマジック・ワードであるかの、どちらかであるに過ぎない。ただひとつ言えるのは、最近の彼らは演奏の度に、コンポジションと言うはおろか、ルールとすら呼べない、ごく簡単な「取り決め」を用いてインプロヴィゼーションを行っている(津田の弁)のだが、先ほど触れた「判断の基準」は、その取り決め自体がもたらした結果ではなく、その度ごとに変わる取り決めが次第に明らかにしてきた、チームとしての生理/倫理そのものではないかということだ。

LTP逾槫次蠑伜ソ誉convert_20170808123049
写真:神原弘志  twitterから転載させていただきました


2.パラタクシス
 ギター、ベース、パーカッションと、楽器編成こそ典型的なスリー・ピースのギター・トリオであるにもかかわらず、彼らの演奏がそのようにコンヴェンショナルに響くことはない。何より、ベースがボトムを支え、パーカッションがリズムを刻み、ギターが旋律を奏でる‥‥といった固定した役割分担が存在しない。かと言って、フリー・インプロヴィゼーションによくある全員がひたすらソロを取るとか、コール&レスポンスをさらに断片化してミラー・ニューロン全開の鏡像の強迫的分裂/反射に至るとか、空気を読みまくって希薄なドローンや、あるいは極端な点描による「沈黙」の共有に傾くこともない。そうした安易な解決を選ぶことにより、音が凛とした高潔さを失って安逸さの中に眠り込んでしまうことを、彼らは何より嫌っているに違いない。特に初期の演奏にあっては、「あ、終わるな」と感じたところから、またさらにtamaruが、改めて弾き始める場面がよく見られた。

 3〜4分程度の短い場面を連ねた今回前半の演奏においては、お互いの距離を緊密に保ち、密着しながら絡みあって終わりへと向かう展開が多く見られた。彼らは予定調和にはまらぬよう、巧みに身を入れ替える。各自の描く動線が重複/衝突せぬよう、すっと身をかわしつつ、手の甲を微かに触れ合わせる触覚のつながりは、決して途切れることがない。他へ従属し、固定した階層化に陥ることを拒否しつつ、同一平面状で交わり合うことを避けるため、言わば彼らは常に互いに「ねじれの位置」(三次元空間において直線が平行も交差もしない場合。この時、これらの直線は同一平面上にない)を取っているのだ。
 そのことによって、各自が互いに異質なままでありながら、同じひとつの時空間内で共存を図ることができる。「確固として異なる視点を持つ演奏者たちが、にもかかわらず共演できる」という彼らの高らかな宣言は、まさにこのことを意味している。

 この「ねじれの位置」という表現はあまりに直感的であり、このままでは、これ以上考察を深めることができない。何か別の捉え方はないかと考えていたところ、『表象』10号の岡田温司との対談「新たなるイメージ研究へ」で、田中純がモンタージュとパラタクシスを比較しているのに出会った。同じ異質要素の共存であっても、モンタージュは意図的な構成であり、エイゼンシュタインによれば記号の組合せにより意味を生成する方法、すなわちメッセージの伝達手法にほかならない。これに対しパラタクシス(並列)は、サリヴァン〜中井久夫によれば、イメージ中心の幼児型記憶の渾然一体(プロトタクシス)の中から、関連付けや階層性なしにバラバラに切り出されてくる様態を指す。発達段階としては、この後に、言語を通じた合意によりエピソード記憶が社会化されるシンタクシスが来るのだが、言語とイメージに二股をかけたパラタクシス性が潜在し続けているのではないか‥‥と中井は「発達的記憶論」(『徴候・記憶・外傷』所収)で述べている。
 一方、田中はモンタージュ嫌いの映画監督テオ・アンゲロプロスを例に挙げ、ワンシーン・ワンショットのリアリズムのうちにリアルな「もの」の論理の露呈を見る。ワンシーン・ワンショットとは「視野の周縁」でうごめいているものを捉えようとする撮影法であるというわけだ。ここのところは中井の議論とまっすぐにつながっていて、彼は顔貌記銘を例に挙げ、それが網膜中心部での「質」に関わる情動喚起的な色彩感覚記憶と、網膜周縁部での非情動的な形態的記憶のパラタクシス(重ね合わせ)であることを述べ、さらに暗闇で歩く際の警戒感覚による網膜周縁部の活性化から、聴覚へと話を進め、さらに漢字の記銘が手の運動感覚を巻き込んでいることに言及している。

 長々と文献を参照してきたが、ここでフィールドレコーディングに眼を転じれば、一挙に視界が開けよう。そこで音世界は、異質なものが混在/共存しているが、誰かの意図に基づいてモンタージュされているわけではない。この意図なきモンタージュ、すなわちパラタクシスを録音作品として聴取するためには、メッセージの伝達図式を排し、異質なものの並列を許容し、受容する必要がある。そこでうごめくリアルな「もの」の論理に、深々と身を沈める必要がある。この姿勢が、通常の世界との接し方、たまたま、その場に居合わせて、音が聞こえてくるという場合と全く異なっていることに注意しよう。そうした場合、私たちは行動に必要な情報だけを一方的に抽出し、自らに都合良くモンタージュするに過ぎない。フォン・ユクスキュルが動物について述べた「環世界」とは、まさにそのようなものだった。そうではなく、環境世界のパラタクシス性に留まり、全身を耳にしてそばだて、澄まし続ける必要があるのだ。
 それは一方的に受け身であることを意味しない。昆虫が触覚を揺らめかせるように、コウモリが超音波を放つように、能動的に探ることが必要となる。チューバ奏者の高岡大祐がよくFacebookやブログで釣りの話を書いている。彼の釣りは、ただ浮子だけを見詰めるとか、あるいは竿を何本も立てて、先端の鈴が鳴ったら、それを合図に取り込む‥‥というようなものではなく、まさに釣り糸を垂らすことによって水中や水底の在り様を探るものにほかならない。水深、底の起伏、根掛かりの原因となる障害物、浅い部分と深い部分では異なる水の動き、深さによって異なる魚の種類と密度、食欲や注意力・回避能力等を含めたエサ取り行動の水準‥‥等々。だから彼の釣りには「待ち」が存在しないことになる。

 Les Trois Poiresの3人の演奏者にも「待ち」は存在しない。彼らは音を発していない時にも探査/聴診を続けており、反対に音を発している時にも全身を耳にして聴いている(音を放つことを通じて「聴いて」いるのだ)。それは決して他の演奏者の意図を探ったり、フレーズを聴いて応答しようとしているのではなく、先にフィールドレコーディングの例を挙げたように、世界のパラタクシスな現れを、そこにうごめくリアルな「もの」の論理に触れているのだ。
 およそ出自も年齢層も、制作してきた作品の方向性も異なるLes Trois Poiresのメンバーについて、かつて津田貴司がこう語ったことがある。「メンバー全員、演奏だけでなく録音も手掛けていて、フィールドレコーディングもするんですよ。そこが結構大きなポイントかな」と。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


3.フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング
 彼らの演奏は、もともと誰がどの音を出しているか判別が困難であるだけでなく、個々人のヴォイスの枠組みから音が滲み出し、空間の中で不可分に混じり合うことを最初から前提にしている。その響きの混淆体に対して、モニターの色調や彩度、明度、輝度等を相互に操作しあうような集合的な演奏がそこにはある。いつもの水道橋Ftarriよりは空間ヴォリュームが小さく、それだけ音の明瞭度や分離度が高いように感じられる東北沢OTOOTOにあっても、そこのところは変わらなかった。個がばらばらに切り離されて析出してくることはなかった。これはやはり会場の音響特性ではなく、彼らの生理/倫理によるものなのだ。
 特に今回前半、短い場面を連ねる展開においては、演奏が途中で大きな転換点を経ないこともあって、音景の提示にフィールドレコーディング的な感覚が強く感じられた。演奏性(演奏する身体)の突出を許さず、岩肌一面から滲み出す清水のようにミクロな生成を続ける仕方。淡々とドローンの見かけを保ち、アブストラクトな音列を紡ぎ続けるエレクトリック・ベースや弓弾きとパルス状の打撃音に素材を絞り込んだエレクトリック・ギター。ルーレットのように金属球を投げ込まれ回転させられるデザートドラム、スティックのしなりを効かせた連打により、まるで規則的な雨垂れを響かせる水琴窟のように響く波紋音。そこには自動/他動性に演奏を託して演奏者の身体性を希薄化し、手の跡を消し、熱量を下げ、すでに以前からそこにあった連続的な環境音やふとした物音に身を寄せて、たとえ大音量であっても響きをひっそりと空間に沁み込ませるしなやかな静謐さが宿っていた。それゆえ黒々としたたゆたいも、かすれた広がりも、淡く層を成している滲みも、点々と散らばった滴りも、すっと引かれた細くくっきりと勁さをはらんだ線も、雨にけぶり、霧に閉ざされ、風に揺すられ、闇に沈む林の樹々の諸相を、つまりは同じ風景の移ろいを思わせた。

 tamaruのエレクトリック・ベースのソロ演奏のレヴューを経て振り返ると、これまでLes Trois Poiresのライヴ・レヴューを書けなかった理由がほの見えてくる。
 デュオやトリオのインプロヴィゼーションを聴く時、耳は自然とメロディやリズムのフレーズを追い、音高と音価の推移を時間軸に沿ってスキャンしながら、それを個々の演奏者の移り変わりと演奏者間の照応関係の二つの軸でとらえる。演奏者同士が反応しあって演奏が進むわけだから、当然のことながら、ある時点で生じた事象は、それより後、未来に向かって影響を及ぼす。それが個々の演奏の変化や演奏者間の対応関係に現れるというわけだ。それは演奏を会話のようにとらえること、すなわち言語コミュニケーションにおいて意味内容が伝達/変容され、論理が構築/変型される様を観察するかのようにとらえることにほかならない。
 熱帯雨林のフィールドレコーディングを聴く時、耳は何を追うだろうか。獣や鳥の甲高い鳴き声、昆虫の羽音やクリック、滴り流れる水音、風とそれに揺すられる樹々、理由もなくガサガサと音を立てる下草の茂み、窪地のような起伏や寄生植物に巻き付かれた幹による奇妙な反響を、空間に点在する無数の音源の分布として、あるいは幾重にも敷き重ねられた音響のレイヤーとして聴くことだろう。「それは何の音/声か」という罠にさえはまらなければ、ぼんやりした浮かび上がる音響複合体の斑紋と、さらにそれらの間に生じる不思議な響き合いに、あるいは明らかに異なる系の間に生み出される、とても偶然の産物とは思えない、整然たる音響構築や緊密な照応に驚くことだろう。まるで会話しているみたいだと。でも結局のところ、耳はそれを会話としてはとらえない。時間軸上のリニアな推移はここでは重要ではない。意味内容や論理構築の変容も。ここで耳は時間の流れを追っているのではなく、空間の中を眺め回し、探っているのだ。だからAの次に来るのが、Bか、それともCかは、まったく重要ではない。

 〈環境・音響・即興〉をキーワードに掲げ、フリー・インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングの耳で聴くと宣言しながら、Les Trois Poiresの演奏をフリー・インプロヴィゼーションとして記述しようとしていたのだ。初回の演奏は何とかそれでとらえ得た(と思ってしまった)ことが、誤りの始まりだったのだろう。耳はすでに彼らが別の世界に遊んでいることを聴き取っていた。それゆえに深く揺すぶられ、打ちのめされた。けれど言葉が紡げず、事態を書き記すことができなかった。
 tamaruのベース・ソロをとらえるための視点をようやく設定したところで、彼らのライヴの当日を迎えた。まだ、tamaruに関するレヴューは書けていなかったが、新たに立ち上げた眼差しを通して眺めると、別の世界がそこにあった。音高と音価に基づく体系、その時間軸上の展開としてサウンドをプロットし(それこそはまさに差異の体系としての言語になぞらえて、音をとらえようとすることにほかなるまい)、触覚や視覚、あるいは体幹や運動感覚上のイメージを補助的に用いるのではなく、バランスを逆転させること。ここで顕著なパラタクシス性に沿って、言語とイメージに二股をかけながら、後者に属する手触り、肌理、密度・濃度、粘性、硬軟や重み等の質感、色彩、温度、匂いや香り、分布や勾配、流れの速度(BPMではなく)、広がり、奥行き、深さ、厚み、トポグラフィックな変形等への感覚を研ぎ澄まし、圧倒的に前景化すること。それにより、時の流れに沿った「物語」ではなく、イメージの膨大な集積を顕現させること。たとえば触覚的音響への注目は、決して音色表現の語彙拡大に留まるものではなく、音楽/演奏を触覚的なものの変容としてとらえるところまで突き抜けなければなるまい。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


4.弓を持つ左手
 後半の切れ目なく進行した演奏においては、随所で曲がり角を経るために、前半よりは演奏性が多少前景化することとなったが、それでも基本として、各演奏者の音の間の、そして空間にすでに漂っている響きへの相互浸透の色合いの強さは変わることがなかった。2音や3音のフレーズがいつの間にか移ろい変化し、ゆったりと深く打ち込まれていくベース。振動させた音叉を弦に触れさせて接触不良系の断続音を放つギター。柔らかく触れられ遠くから風に乗って運ばれるガムランを響かせる波紋音。
 だから、松本が急に波紋音を連打して前面に躍り出て、そのまま続けたのにはいささか驚かされたが、その結果として演奏はしばし「協奏曲」風のバランスに移行したものの、それによって演奏の基本的な性格や存立のための基底が揺るがされることはなかった。

 ここで特筆したいのは、津田が左手に弓を持ち替えての演奏である。その前から触れるか触れないかギリギリの接触を保ちつつ、超弱音で緩やかに弓を運び、そのまま、すうっと引き抜いて、余韻を垂直に立ち上らせる精妙さに感服していたのだが、右手で音具を扱っていた時だったろうか、立てかけてあった弓へと左手を伸ばし、そのまま指板上にあてがった。彼は右利きだから巧緻性は当然劣る。にもかかわらず、ゆっくりと垂直に往復する弓は、安定した平らかな広がりのうちに、精緻な粒立ちと軽やかな散乱を生み出した。これは決して収斂の賜物でも、偶然訪れた幸運の産物でもあるまい(後で津田に訊いたら、以前に練習中に試してみて、結構行けそうだから、これは本番用に取っておこうと思ったと言う)。右手に持った弓が、意図した音を放つために透明化すべき「道具」であったならば、不器用な左手はその回路を障害していただろう。そうではなく、弓と弦の接触面で圧力と張力、摩擦/抵抗が繰り広げるミクロな闘争の状況をまじまじと見詰め、感得することなら、これは演奏スキルではなく、身体の認知/感覚スキームの問題であるから、右手を左手に移すこともただちに可能となるだろう。

 興味深いことに、中井久夫が先に参照した「発達的記憶論」の中で、観測主体と観測対象をつなぐ線において切断の位置は任意であるとして、「ボーアによる有名なステッキの比喩」を引いている。それを参照しよう。「ステッキをゆるくもてば、ステッキは路の凹凸を反映し、固く握ればステッキは身体の動きに従ってそれを反映する。ステッキは主体に属することもあり、対象に属することもあるというわけだ。」
 津田にとって、ギター(の弦)を探査する弓は、さらにはギター自体が、「ゆるくもったステッキ」にほかならない。観測主体と観測対象の切断面は、ギター・アンプの発音部位からどんどん後退して、弦と弓の接触面へ、弓と指先の接触面へ、さらには身体の奥底へと遡っていく(その一方で、音の響き渡る室内空間へ、さらには聴き手の身体へと侵食・憑依していく)。前回のレヴューでtamaruのエレクトリック・ベースを「受信機」と呼んだが、津田のギターもまた同じ性質を色濃く有している(そう言えば、彼もまたストラップなしにギターを抱えている)。松本のパーカッション群もまた。
 Michel Donedaの息音もまた、ソプラノ・サックスのベルからまっすぐな管の中へ、リードへ、口腔内へ、喉の奥から身体の深奥へ‥‥と、先の切断面をどこまでも後退させ、「外」を身体の内側へと攻め込ませるための「方法」として、「受信機」や探査ゾンデの性質を帯びている。それは決してサウンド・パレットの増強であるとか、楽器演奏テクニックの拡張ではなく、むしろ「音響」を通じて「環境」と深く交わる(=「即興」)ための通路の開拓/掘削なのだ。もちろん、その一方で彼は、室内の空間ヴォリュームに直接マウスピースを接続したかのように、直に部屋の空気を吹き鳴らしてみせるのだが。

 個々で誤解のないよう、すぐさま付言しておけば、弓の表面で起こるミクロな事象をセンシングし、それを出音の変化を介してフィードバックさせ‥‥というような、システマティックな回路構築について語っているつもりは毛頭ない。もしそうであるならば、フィードバック・ループへの介入を容易にするために、ディレイやエコーを回路に挿入することが必要不可欠となるだろう(ここで私は小杉武久『キャッチ・ウェイヴ』やタジ・マハール旅行団の演奏を思い浮かべている)。これに対し、Les Trois Poiresの3人が、いずれもディレイを使用しない方向に歩みを進めていることを指摘しておこう。
 ここでは接触面での圧力や摩擦、速度と抵抗の知覚が、言わば中枢の大本営による言語判断を経ずして、そのままリアルタイムでの運動の変化/調整に結びついているのだ。もしそうでなかったら、私たちはいったいどのようにキスやセックスをしていると言うのだろうか。頭の中をマニュアル本に書かれた注意事項で一杯にして?

LTP豢・逕ー_convert_20170808123115
写真:津田貴司


2017年7月29日(土)
東北沢OTOOTO
Les Trois Poires:津田貴司(electric guitar), tamaru(electric bass), 松本一哉(percussion)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 12:42:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
震えへの凝視 ― tamaruのエレクトリック・ベース演奏  Gazing at Quiver ― tamaru's Electric Bass Playing
 前々回に「星形の庭(津田貴司+佐藤香織)」の演奏を振り返ってレヴューしたのに続き、今回はtamaruの演奏について書いてみたい。今回のレヴューはもともと7月29日(土)に東北沢OTOOTOで行われるLes Trois Poires(津田貴司+tamaru+松本一哉)のライヴに向けて書かれる予定だったことをお断りしておく。

 まず告白しておこう。前々回のレヴューの中で触れたように、特に『松籟夜話』第六夜で360°Records特集の第一回としてtamaruを採りあげて以降、彼の演奏はLes Trois Poiresや大上流一とのデュオで何度となく聴いてきた。むしろ、意識して追いかけてきたと言っていい。そしていずれの演奏にも深く揺すぶられ、打ちのめされた。今までに体験したことのない事態が眼の前で起こっており、それが途方もなく輝かしい素晴らしいものであることは、ずきずきと身体に響く衝撃と感銘から明らかだった。にもかかわらず、それを言葉に出来ないもどかしさに苛立った。もちろん、各演奏者のアクションを書き留めたり、サウンドを形容したりすることで、演奏の推移を描写することはできる。しかし、それは単なる「事実」や「印象」の羅列に過ぎず、そこで起こっている事態の核心、すなわち「真実」に迫り得るものではなかった。分析/記述のための視点を設定できず、それゆえ掘り下げが浅く、演奏の強度を受け止め、核心を射抜く言葉を紡げないでいた。
 何か少し掴めたような気がしたのは、水道橋Ftarriでtamaruのソロを聴いた時だった(「星形の庭」の対バンでの出演)。彼のライヴ演奏を聴く以前に、彼の映像作品の上映に接した際に感じた匂いがふと甦ったような気がした。東北沢OTOOTOで聴いた大上流一のソロ演奏との間にも、素早く照応の線が走った。
 さらに吉祥寺Liltで聴いた「星形の庭」の演奏を苦労して「言語化」したことにより、tamaruの演奏の言葉にできていない、思考し得ていない部分の輪郭がほの見えた気がした。そうした感覚を梃子にして、tamaruの音世界をぐいっとたぐり寄せてみたいと思う。


 tamaruはエレクトリック・ベースを抱えると、すっと音を出す。たとえその前に長い沈黙が置かれていたとしても、間合いを計るような素振りは一切見せない。指先だけが僅かに動き、音が鳴り響く。その音はおよそ撥弦楽器の音らしくない。長く張り渡された弦が弾かれて振動する際の、弦の撓む(伸び縮みする)感覚がないのだ。
 たとえば指腹を弦に垂直に打ち付けて奏でられる音は、まるで細く硬い金属棒を叩いたように聴こえる。大型の柱時計の中に仕込まれた「棒鈴(ぼうりん)」が鳴り響かせる時報、あるいはHarry Bertoiaのつくりだした音響彫刻。素早く垂直に立ち上がる、撓みのない、固い芯を持つ音は、立ち上がりの瞬間に放たれるチェンバロに似た金属質の輝きの華やかな散乱が、響きと化して長く尾を引くとともに次第に澄み渡り、しかし決して周囲の空気に滲み沁み渡ることなく、鋭く研ぎ澄まされたサーベルの切っ先のように聴き手の身体を貫いて、振動を直接伝える。

 通常、音を空間に滲み沁み渡らせることによって得られる響きの豊かさ(それゆえそれは常に濁りと共にある)は、彼の演奏にあって、すでに振動している弦に指先で微かに触れることで生じる「さわり」に取って代わられている。ビィーンと鋭い響きが頭をもたげる。角の尖った粒子の粗さ。琵琶やシタールのそれにもちろん似てはいるが、打ちっぱなしのコンクリートに落ちる水銀灯の光を連想させる、即物的でモノクロームな冷ややかさが際立っている。それぞれ低音域と高音域のヴォリュームをコントロールする左右足元のペダルが、前者から後者へと踏み替えられ、響きを照らし出す照明が切り替わって、細部の肌理を、明暗の鋭い対比を、より鮮明に浮かび上がらせる。あるいはその逆により、面相筆のくっきりとした筆致が次第に解け、曖昧にまどろんで、やがて闇に沈む。

 弦に触れる時点ではヴォリューム・ペダルを踏み込まず、音量を絞って立ち上がりを消し、弦の振動が安定した定常状態へと移行してから、それをクローズアップし、線香の煙のように繊細にくゆらせるという奏法も聴かれる。輪郭も芯もない広がり。灯りをつけずに暗闇の中で入る露天風呂のように、ぬるい湯の柔らかく細やかなたゆたいは確かに感じられるのだが、どこまでが外でどこからが内部なのか、皮膚表面が画定するはずの境界が曖昧に溶解し、もはや定かではない。聴き手の身体を浸潤する響き。超低域の音程のよくわからない音圧が黒々と波立って膝下を揺すり、そこから頭をもたげたパルスが、ボディ・ブローのように下腹に鈍く響いてくる。
 ペダルによるアタックの消去を行わずとも、そっと弦に触れるだけで魔法のように柔らかな震えを引き起こし、さらにはそれを絶えず供給し続けることによって、音の輪郭を感じさせない丸く深い響きが放たれる。最初は奥まって聴こえていた「ぽーん」という音が、次第に大きくなり、厚みを増して「ブゥーンン」といううなりを生じたかと思うと、ついには飽和して耳元でビリビリと響き渡り、やがて静まりつつ底なしに沈んでいく。
 あるいは弦に直接触れることなく、ベースのボディを親指の腹で擦ることにより、張り渡された弦の全体を揺らし、重くくぐもった色のない響きの質感だけをつくりだす。

 こうした演奏において、聴取上の外見は電子音によるドローン・ミュージックに似ているが、その本質はまったく異なっている。むしろtamaruのつくりだす映像作品に近い。どういうことか。
 彼の映像作品については、以前にレヴューしている(※)。その特徴は、何気ない日常の光景をとらえた一見変化のない画面の中で、細部のちらつくような揺らぎが常に生成し、揺るぎなく安定しているはずの視覚のうちに潜む、さらさらとした粒子やぼんやりと浮かぶ色彩の斑紋へと瓦解していくミクロで緩慢な「運動」― それを「震え」と呼ぼう ― を、大いなる不安とともに提示することにある。彼のベース演奏にも、マテリアルな音響を取り扱いながら、それを素材として何かを構築していくというより、聴取の体験自体を掘り崩していくものである。
 ※光と影は共に闇から生まれた ―『New Year Silence』ライヴ・レヴュー
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html

 もちろん映像作品とベース演奏の間には基本的な相違がある。前者の場合、あらかじめ撮影したローファイな映像をモニタで再生し、それを改めてハイファイで再撮影することにより、システム間に生じる「誤認識」が作品制作のカギとなっていた。これに対し、後者にはそうしたシステマティックな仕掛けはない。これは映像作品が必然的に含まざるを得ない記録/再生プロセスが、ライヴ・パフォーマンスである後者には含まれていないためである。
 しかし、にもかかわらず、両者の間には重要な類似がある。「震え」への凝視がそれだ。奏法の違いにより、音が立ち上がる際の音色を特徴づける「暴れ」(ミュジーク・コンクレートの創始者ピエール・シェフェールは、音色の特徴が周波数のフーリエ解析では再現し得ない理由をここに見ていた)を際立たせるか、打ち消すかの選択が、tamaruのベース演奏で大事な役割を果たしていたことを思い出そう。また、指先による鋭く硬質な「さわり」の付加や、それと対極的な輪郭を持たず、聴き手の身体を浸潤する低音の広がりが、いずれも「震え」に対する直接的な身体感覚を呼び覚ますことを改めて確認したい。通常、触覚的な音とは、「ガサガサ」とか「カリカリ」とか、音の生み出される物体同士の接触面の摩擦を、あるいは音表面の手触りを、触感になぞらえて表現してしまう(表現せざるを得なくなる)音響を指す。しかし、tamaruのベース演奏の場合、そうした「触覚」は音響の表象を超えて、音という力の聴き手の身体への作用そのものとしてある。すなわち震えや揺れとして。そこに彼の演奏の基底面を見たい。


撮影:原田正夫


 そこから改めて見直すと、これまでとは別の景色が浮かんでくる。tamaruのベース演奏において、フレージングは常に断片的であり、変奏による発展の契機を持たない。音程が定かではない音も頻繁に用いられる。高音域と低音域に分割されたヴォリューム・ペダルを操作することで、同じ一つの鳴り響きの中から、バランスの異なる倍音配合が引き出されてくる。すなわち彼の演奏にあっては、音高の時間的配列による旋律構成と、これに基づく構築自体が重要ではないのだ。このことは調律が不要であることを意味しない。実際、彼は毎回きちんと調律を行う。基音のずれは倍音列に影響を及ぼすのだから、これは当然のことだ。
 その結果、彼の演奏は、一音一音の振動を、「震え」を、凝視し続けることの繰り返しとなる。前述のレヴューで採りあげた彼の映像作品が、同質の視点設定から、雪の舞う住宅街の道路、窓の並ぶ建物、見上げる空に張り渡された電線、公園の池で泳ぐ鯉の群れといった対象をとらえた視角の直列接続であったことを思い出そう。すなわち彼のベース演奏とは、弦の、あるいはボディ各部の異なる「震え」が、入れ替わり立ち替わり、耳による凝視の下に立ち現れることなのだ。そう言うと極めて特異な演奏と思われるかもしれないが(実際、極めて独創的なものであることは事実だ)、そうではない。そのことは、たとえばLe Quan Ninhによる水平に置かれたバスドラムの演奏、様々な音具による楽器各部の多様多彩な振動のカーニヴァルをその隣に置いてみれば明らかになるだろう。特異なのはむしろ、かつては一部用いていた音具を捨て去り、ディレイすら外して、ただただ剥き出しの「震え」だけを見詰め続ける、tamaruのストイックな集中の方である。

 これらの演奏は、実はある基本的な仕掛けと、そのことを出発点として、無駄をそぎ落とし、研ぎ澄まされた一連の演奏マナーによって成り立っている。何より、彼のエレクトリック・ベースは途轍もない高増幅度に設定されているのだ。それは決して爆音再生のためではなく、まさに「震え」を凝視するためにほかならない。通常あまり用いられない極細の弦を張り、高感度のピックアップが弦の振動を鋭敏に拾い上げる。それゆえフレットを押さえることによりその都度指定された弦長(これが基音を規定する)だけでなく、弦が三次元的にどう振動するかが重要となる。指板に対する水平・垂直のみならず、弦の張られた方向に駆け抜けていく波や渦も含めて。だから彼はまるで顕微鏡下で細胞操作を行う実験技師のように弦を取り扱う。水平に揺らし、斜めに引っかけ、垂直に打ち付け、弦に沿って指を滑らし、あるいは振動している弦に指先を、指の腹を、爪の表面を僅かに触れさせる。そうした作業/動作に向けて、身体の可能性が等しく開かれているためには、楽器と身体の関係は固定されていてはいけない(情動失禁に至るまで、演奏者の感情の起伏を「透明」に音響に反映するためには、むしろ逆で、楽器は身体に深く埋め込まれなければならない)。だから彼は肩からストラップを掛けることなく、裸のエレクトリック・ベースを抱えて、いつも演奏に臨む。特に即興演奏の場合、楽器と身体との関係を固定することは、特に即興演奏の場合、特定の傾向を固定してしまうと彼は語っている。演奏の最中に楽器を取り落としてしまう危険さえ、演奏の欠くべからざる一部なのだと。

 こうした演奏マナーの在り方は、大音量を目指し続けた撥弦楽器の歩みとはいささか異なっているむしろ息を吹きかけただけで鳴ってしまうほど細く鋭敏な弦を張り巡らし、鍵盤を揺らすことでヴィブラートすら可能だったグラヴィコードを思わせる(そうした過剰な鋭敏さは、チェンバロからピアノフォルテへの「進化」の過程で捨て去られてしまった)。Derek BaileyやJohn Buther、Michel Doneda、Le Quan Ninhをはじめ、優れた即興演奏者たちが見詰め続けた、鋭敏な「受信機」としての楽器の側面。それは演奏者の自己表出のためのパワード・スーツに徹し、大音量や安定した音色を求め続けた楽器の歴史にとっては、切除され続けた危険な「病巣」でしかない。演奏者の意図の外部にはみ出した音を「聴いて(聴き、かつ生じさせる回路を開いて)」しまうからだ。しかし、そうした外部を欠いて、意図の中だけに封じ込められた音楽は貧しいものとならざるを得ない。それ以外を切り捨て、聴こうとしない聴取もまた。tamaruをはじめ、大上流一、津田貴司、高岡大祐、徳永将豪、Satomimagaeなど、最近注目している演奏者たちが、すべてこうした傾向を共有しているのは、決して理由のないことではないだろう。


 ‥‥と、ようやく言葉の形に吐き出し得て、7月29日(土)、思いのほか強い雨に降られた夜に、いつもの水道橋Ftarriとは異なる、東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで聴いたLes Trois Poiresの演奏について書き始められるかもしれない。冒頭に記したように、Les Trois Poiresや大上流一とのデュオでtamaruの演奏を聴いていた時は、その音世界に深く魅せられながらも、言葉にはとても移せない、写し取れない正体の掴めなさに当惑していた。彼のソロを聴いて、その弦の震えを彼と共に凝視することによって、何かが垣間見えたような気がした。その時のヴィジョンをとりあえず綴ったものが本稿ということになる。もちろん、分解した各パーツがわかれば、それらを組み合わせた全体像がわかるなどというものではない。音楽とはそんなものでは決してない。しかし、それでも、書きつけた言葉が新たに照らし出すものはあるはずだ。宿便のようにとぐろを巻いた思考がやっと排泄された後の隙間に、新たに芽生える直感もあるかもしれない。ここから、弦の震えを通じて照らし出される、大上流一の演奏の在り様についても、いつか改めて書いてみたいと思う。


2017年6月25日(日)
水道橋Ftarri
星形の庭(津田貴司+佐藤香織)、tamaru





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:19:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー  Piano As a Dissecting-table, Ability of Hesitation in Saying ― Review for "TADA-MASU26"
 自身がプロデュースするライヴ・シリーズ『tactile sounds』について、「今度のピアノ、初めて聴いたんだけど、すごく良いですよ」と益子博之が興奮気味に語っていたのを覚えている。そのピアノ奏者が今回の『タダマス26』のゲストであるリン・ヘイテツだった。ゲストにちなんで‥というわけではないだろうが、プログラムはピアニストを大きくフィーチャーしたものとなった。そうした中から、特に印象に残った部分を書き記しておきたい。
 いつものことながら、レヴューは一夜の内容の全貌を伝えるものではないし、企画者の意図を代弁するものでもない。あくまでも私の関心に沿って切り取られた視角であることを、あらかじめお断りしておく。
 なお、当日のプレイリストについては、次のURLを参照されたい。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955542


タダマス26-13.Aaron Parks 『Find the Way』(ECM)
 Billy Hartのドラムはパルスに限定することなく、時にはほとんど因習的とすら言えるジャズ・イディオム的なリズム・フィギアを叩き出しながら、Aaron Parksのピアノの音の運びに対し、常にズレた地点に設置していく。細やかに編み上げられたサウンド・レイヤーを滑らかにずらしていく‥‥といった最近のデスクトップ的な精緻な編集感覚とは異なる、もっとラフでざっくりとした感触がもたらす、どこか人を食ったようなヒューモア。益子の「老人力」との形容には思わず膝を打つところがある。

タダマス26-24.Soren Kjaergaard, Ben Street, Andrew Cyrille 『Femklang』(ILK Music)
 Billy Hart同様、NYダウンタウン・シーンで最近「再ブレーク」中のAndrew Cyrilleについて、「この盤の演奏が彼に対する高評価のカギではないか」と語りながら、Soren Kjaergaardのピアノ・トリオをかける(Aaron Parksのトリオとベース奏者が同じという周到さ)。音と音との間がだんだん広がり、たちこめる闇が次第に深さを増していく。遠くで幻の如く虚ろに響くカウベル(か、あるいは‥)が、手前のピアノやシンバルをほのかに照らし出す。

タダマス26-35.Roscoe Mitchell 『Bells for the South Side』(ECM)
 続くRoscoe Mitchell作品も大人数のパースネル表記にもかかわらず、披露された12分以上に及ぶ冒頭曲は、コーダ部分でまるで篠笛のように鋭く一文字に引かれたピッコロ(Roscoe Mitchell自身による)を除けば、Craig TabornとTyshawn Sorey(!)による2台のピアノの凍てついた交響とそこに影のようにひっそりと付き従うWilliam Winantのチューブラー・ベルズ等の金属打楽器しかない。間を置いて沈黙を切り裂き空間にそそり立つピアノの打撃音、さらにはピアノ弦を直接掻き鳴らし、あるいは筐体を叩いて生み出される高密度の音響は、明らかに音高や音価の組織化ではなく、空間を満たす強度/濃度の勾配によって導かれている。シカゴ現代美術館の硬く張り詰めた床や壁、はるかに仰ぎ見る天井、空間の圧倒的なヴォリュームと遠くまで渡っていく響き。深海を思わせる暗闇は、霧にも、むせ返る香りにも似た分厚い静寂にねっとりと充填され、もはや新たな音を解き放つことなどできようはずもない。ただ、たゆたい続ける響きの濃度を、浮かび上がる音粒子の軌跡を、捻じ曲げ、撓ませるだけだ。途中から微かな鈴の音が止むことなく鳴り続ける。それまで暗闇に沈んでいた静寂の襞に、しゃらしゃらと銀粉を振り撒いて、不可視の起伏を浮かびあからせ、最後、ピッコロが一文字に線を引くための舞台を整える。
 おそらくあらかじめ記された「楽譜」があるのだろうが、それは単なる指示書に過ぎない。どのように作戦を遂行し、成果を挙げるかは、一瞬ごとの状況判断、すなわち「即興」に委ねられる。ここでTabornやSoreyたちが開いてみせる世界の豊かさに比べ、あらかじめ用意された「書かれたもの」の構造は、それほど精緻でも複雑でもあるまい。逆に言えば、作曲は自己完結しておらず、演奏の豊かさを決して保証してはくれない。それが「ゲンダイオンガク」としての完成度の低さであると言うのなら、それはそうなのだろう。だが、それがいったいどうしたと言うのか。「たとえ楽譜を見て演奏しているとしても、(所謂「現代音楽」の演奏とは)時間の過ごし方、役割の果たし方が違う」という多田雅範の指摘は、まったくその通りだと思う。
※以下で録音時のライヴ演奏からの抜粋映像を見ることができる。
 https://www.youtube.com/watch?v=dMQ4WOGoMdQ

タダマス26-46.Craig Taborn, Ikue Mori 『Highsmith』(Tzadik)
 Craig TabornとIkue Moriのデュオと聞かされると、「ジャンル違い」というよりも、むしろ、隙間なくみっちりと石垣を積み上げる前者の「建築性」と、ソーダの泡が弾け、クリームが散乱し、色とりどりのチョコレート・スプレーが噴出する後者の女子会的「非建築性」の極端な対比が思い浮かぶ。間を置いて打ち鳴らされるピアノに対し、興奮して「沸いた」頭の中のように、空間のあちこちから噴き出し吹き荒れる電子音のつぶやき/ざわめきが、次第に静まって、空間がたゆたいながらも見通しを取り戻す様には、「音楽」を経由しない(「音楽」へと迂回しない)音の感覚/生理のより直接的な交感を見る思いがした。コメントを求められて「二人の音がまったく混じり合っていない」ことを指摘しつつ、さらに「音が混じり合うこと自体をよいとする価値観は、日本のシーンの方がアメリカよりもはるかに強い」としたリンの指摘が心に残った。

タダマス26-59.Plug and Pray 『Evergreens』(dStream)
 Erik Hove Chamber Ensembleのスペクトル楽派の影響(応用?)だという滲み感の強い管アンサンブル、不協和というよりは色彩の不透明な濁り感をブリッジとして、Benoit DelbecqとJozef Dumoulinのデュオ「Plug and Pray」へとエレクトロ・アコースティックな「空間のたゆたい感」が引き継がれる。スリラー映画で風もないのに揺れるカーテンにも似た、実体を欠いたナイトメア的なストリングス・キーボードの閃き。突如として制御不能に陥り、どもり続け、あるいはテーブの早回しを思わせるガラクタに壊れたリズム・フィギア(多田はアメリカン・クラッカーの痙攣発作的なビートに喩えていた)を噴出させるeドラミング(電子リズムボックス)は、「響き感」の操作により、リズムの刻みだけでなく、存在自体を極端に不安定化されている。ピロビロと輪郭を溶かし、ペラペラと厚みを欠いたまま、無限/夢幻に巡り続けるフェンダー・ローズ。息苦しいほどに濃密な飽和感/デジャヴ感。プールの底に足が届かず、宙を蹴る頼りなさ/救いの無さ。
 対してキーボードもドラムもエレクトリックにささくれざらついた質感へと思いっきり針を振りながら、切れ味の良いタイトなリズムが、Kate Gentileの作品を「Plug and Pray」とはまったく異なる感触に仕立てている。地に足を着け、足早に前へ進む時間。

タダマス26-0縮小
撮影:原田正夫


 Ryosuke Hashizume Groupの演奏の2拍目が引き伸ばされて宙に浮く3拍子を「3+5+3の11拍子」と鮮やかに分析し、あるいは先に触れたように、国内シーンの「音が混じり合うこと」への称賛ぶりに対して醒めた眼差しを向け、さらには変奏により新たなフレーズを紡ぎ出すよりも、同じフレーズを繰り返す方がカッコイイとされる最近の風潮を、「フレーズを繰り出しているうちに、既視感のあるジャズ・フレーズが出てくると、そこでテンションが下がってしまう」というわかりやすい理由説明付きで的確に指摘してみせる(なるほどThe Necksがもてはやされるわけだ)など、今回のゲストであるリン・ヘイテツは、五線譜に視覚化される音高・音価中心の体系を、そのまま具現化した楽器「ピアノ」の演奏者にふさわしい資質を、如何なく発揮してみせた。

 だが私が注目したいのは、彼が今回の『タダマス26』で何度か見せた「口ごもれる資質」である。これは決して皮肉ではない。いきなり(未聴の録音も多数含まれているであろう)新譜からの抜粋音源を聴かされてコメントを求められ、まるで知らないこと、あるいは未知のものにたじろぎ、打ちのめされることが恥でもあるかのように、「ああ、彼の演奏はNYで聴きましたよ」、「メンバーとして参加している○○のことなら、友達なのでよく知っていますよ」と、話をすぐさま既知の体験や人脈関係に着地させようとする者たちがこれまで多くいた中で、彼は違っていた。そもそもインプロヴァイズド・ミュージックなのだから毎回異なるはずの演奏を、あたかも聴く前からわかっていたかのように語ることは、そこに潜む未曽有の事態に耳を不意討ちされることを最初から回避するための身振りではないのか。その点、リンは率直過ぎるほど正直に口ごもっていた。

 それはもちろん、事態が不明であったり、頭が真っ白になって途方に暮れたりしたためではあるまい。むしろ演奏の底知れぬ豊かさを確かに受け止め、そこに潜む「未曽有の事態」にしたたかに打たれながら、その一瞬に彼が受信して/注入されてしまった膨大な情報量を限られた語数でどう伝えればよいのか、懸命に高速演算しているように思われた。色とりどりのランプをけたたましく点滅させながら、なかなか回答をテープに吐き出してくれない巨大コンピューターのイメージ。

 そこに私は彼の「批評」の力を見ている。作曲性と即興演奏性が、空虚な空間に放たれる孤独な音の軌跡と「音響粘土」をこねあげる造形力が、ざわめきと沈黙が、ズレと同期が、音高・音価体系と音色の質感や音自体の強度が、「ピアノ」という異質なものの出会いをかたちづくる「解剖台」の上でせめぎ合い、相互に浸透する様を見詰めた今回の企画 ― それはピアノを俎上に載せるというより、ピアノを俎板=解剖台としたと言うべきものだった ― に、彼は実にふさわしいゲストだった。彼の「口ごもり」を受け止め続けた益子と多田を含め拍手を送りたい。

masuko x tada yotsuya tea party vol. 26: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 26
2017年7月23日(日)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:リン ヘイテツ(ピアノ奏者/作曲家)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:28:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
猫の腹を撫でる ― 「星形の庭」ライヴ・レヴュー  To Stroke Cat's Belly ― Live Review for the Pentagonal Garden
 吉祥寺駅の階段を降りて、狭いバス通りを左手に折れて進む。意欲的な古書店Basara Booksに立ち寄り(店内のレイアウトがずいぶんと様変わりしていた)、ひとめで羽良多平吉デザインとわかる『VARIETE』を購入。佐藤重臣が書いているのに惹かれたのだが、目次をよく見ると間章も書いている。ガード下の交差点まで来ると、向こう側に「いせや」の賑わい。その煙と匂いの向こうに目指すスペースLiltの入ったビルがある。かつてSound Cafe dzumiへと通った道。
 ビルはやはりかつてとは随分様変わりしていたが、エレベーター・ホールまで螺旋階段を昇らねばならない不便さは変わらない。5階の扉が開くと、もうそこから店内。これはズミと同じ。ズミとは階が違うが、基本的な間取りは変わらない。奥のカウンターの位置取りも共通だが、それなりに場所を取っていたオーディオやレコード棚がない分、少し広く感じられる。天井から設えられた棚でマッキントッシュのインテグレーテッド・アンプが涼しげな青い光を放ち、英国ハーベスのミニ・モニターが瑞々しく香る静けさを奏でている。聴き覚えのある津田貴司の作品。ズミでも「メイン」スピーカーは同じBBCスタジオ・モニター系列の英国ロジャースLS3/5Aが用いられていたことを思い出す(JBLスピーカーと同時に鳴らすという、かなり無茶なセッティングだったが)。不思議な縁。

 所狭しと並べられた椅子は、もう9割方埋まっている。仕方なく最前列、ギターを構える津田のすぐ眼と鼻の先に腰を下ろす(決して圧力をかけるつもりはないのだが)。井の頭公園の樹々がズミよりも近く見える。程なくして演奏が始まった。
170709譏溷ス「縺ョ蠎ュ蜴溽伐3_convert_20170716213733
撮影:原田正夫


 音を立てずにギター弦上を往復する弓。リードを鳴らさずに畳まれていくアコーディオンの蛇腹のパチパチと焚き火が爆ぜるような軋み。下の通りの交通騒音がふーっと浮かび上がり、やがてそこに微かな音が敷き重ねられていく。次第に水かさを増す響きに耳を浮かべていると、ふっと音が止み、一瞬、正体不明の深淵が口を開ける。緊張のせいか、聴衆の椅子がぎいっと大きな軋みを立てる。
 運弓が再開され、がさがさした引っかかりが徐々に滑らかさへと転じ、それにつれて倍音がたちのぼり始める。蛇腹の往復もまた加速され、すうすうと漏れる「息」に比して、パチパチした軋みはだんだんと小さく軽くなっていく。路線バスのエンジン起動音がふっと飛び込んできて、リードの微かな鳴りに受け止められる。
 ここでギターとアコーディオンの音色はほとんど見分け難く溶け合っている。それは互いに中間点へと歩み寄り音を近づけた結果ではなく、沈黙のキャンヴァスに音の絵具を積み上げ盛り上げる代わりに、音に厚みを持たせず、ひたすら周囲の空間へと滲み沁み込ませる、クロマトグラフィックな広がりを選んだことの帰結としてある。希薄で極薄の空間の中で、弓の圧力の微細な揺れ動きが筆致の変化となって現れ、蝋燭の炎のように不安定に揺らめきながら消え入る和音が、水たまりの表面に浮かぶ油膜を思わせる玉虫色の響きの変容を見せながら、あたりの静寂へと沈み埋もれていくのとすれ違って、またパチパチという響きが微かにぼおっと浮かび上がる。

 その後、二人の響きは様々な局面を経巡った。ギター弦の爪弾きが北欧の民族楽器カンテレにも似た凍てつくように張り詰めた音色を聴かせ、アコーディオンによる平らかな和音のふるふると震えるたなびきがせせらぎの水音に聴こえ、雪解け水みたいに足元を流れ行きながら、時折、ざわざわと高まり、沸き立つ。あるいは指先ではじかれた弦からこぼれ落ちた破片が、珍しく不透明な不協和音の壁の前を、初夏の宵の羽虫のように飛び交う。ここで鍵盤を押さえる指のポジションはコードの変化/進行というより、舞台照明の切り替えに似た効果をもたらす。増幅されない生のギター弦のか細くかそけき響きが、続いて踏み込まれたヴォリューム・ペダルの操作により、空間に拡大投影され大きく揺らめかされる。アコーディオンの蜘蛛の糸の如く細い細い音が、空間に張り渡されたかと思うと、ふっと掻き消える。耳の集中をたぐり寄せ、すっと解き放って、目印なしの空間に聴き手を向かい合わせる「オフ」の感覚の冴え。ギターのアルペジオにアコーディオンの和音が乗るフォーキーな展開にあっても、そこには響きの細部の細やかな揺らぎへの感覚が常に行き届いており、私はMark Fry『I Lived in Tree』の木床の軋みや部屋のつぶやき、空間のざわめきに満ちた音の肌触りを思い出していた。窓の外でだんだんと高く明るく大きくなっていく満月に照らし出されながら。
170709譏溷ス「縺ョ蠎ュ蜴溽伐4_convert_20170716213803
撮影:原田正夫


 実を言うと、前回月日に水道橋Ftarriで聴いた彼/彼女らのライヴでは、津田が弓弾きやゴム球による摩擦で演奏する部分とアルペジオを奏でるフォーキーな部分との落差/乖離に対し、聴き手であるこちらに、どう受け止めればよいかとのとまどいがあった。この夜の演奏では、それは解消されていた。どういうことか。
 弓弾きやゴム球でのギター演奏は、チューニングされた音高を連ねてフレーズ/メロディとして聴き取るのとは別の次元で展開される。言葉を換えれば、聴き手は耳のスイッチを無意識のうちに切り替えて、時間軸状に音高をプロットするよりも、いま鳴っている音自体へと集中を向かわせる。ミクロには音色を構成する音響の粒子の密度(濃度)・速度・運動の方向やパターン、マクロには手触りや色合い、流動性、空間の奥行きの中での重なりや分離の具合。『松籟夜話』のキーワードである〈即興・音響・環境〉で言えば、ここで即興性は、音響と環境との間でリアルタイムかつ刻一刻織り成される動的平衡の軌跡として現れる。
 この夜のゴム球によるギター演奏は、弦の素早いトレモロが倍音の雲を沸き立たせながら、左手指の的確なずらしとミュートがサウンドの飽和を阻み、水道橋Ftarriよりも天井が低くエアー・ヴォリュームの小さい空間でありながら呼吸可能な隙間を確保していた。それゆえ、充満したギター・サウンドの只中に、鎧戸の隙間から漏れ入る光の如く、アコーディオンの細くまっすぐな音(例えば最高音とその半音下の2音の不協和がつくりだす甲高い響き)が射し込むといういつもの構図を離れ、次第に満ちてくるアコーディオンの和音の下にギターが潜り込むという挙動を見せた。アコーディオンのたなびきを、底流に位置したギターの高まりが下から突き動かし、あるいはゆったりと引き延ばされた呼吸のうちにディレイの色合いを移ろわせながら、アコーディオンの響きをゆるゆると降り積もらせる。
 そこには津田が(hofli名義の作品を含め)録音された作品世界で行う、情景提示の感覚に共通するものがあった。そこで情景は眼に沁みるほどくっきりと像を結びながら、決して揺るぎなくそこに在り続けるわけではなく、眼の覚める間際に見る夢にも似て、一瞬の閃きがもたらす残響、無意識のうちに再構成された残像であるに過ぎない。そこで環境音のフィールドレコーディングがもたらす「外」のマテリアルで不確定な揺らぎは、この「星形の庭」の演奏において、弓やゴム球の往復が弦にもたらす、あるいは細く引き延ばされ、あえかに紡がれた息のムラが細いリードに吹き込む、不安定でこわれやすい移ろい、揺れ、濁り、滲みや染みの広がりに取って代わられている。あるいは一音の微細な変化が、例えば強弱のほんの僅かな揺らぎが遠近の感覚を揺さぶり、一瞬のうちに構図を描き変えてしまう鋭敏さの感覚。そうした身体感覚が、音響的な演奏にも、フォーキーでメロディアスな演奏にも通底していることを、確かに手触ることができる。

 ここではゆったりとしたアルペジオも、切なく胸に響く和音も、常に生成変化のプロセスの途上にある。あらかじめ紙に記された、あるいは頭に思い描かれた記号を再現するための「パッケージされた」、「ピンで留められた」音ではない。常に不均衡に移ろう弓の圧力と張られた弦の抵抗のせめぎあいの下でうごめく微細な音の脈動、かつ消えかつ結びて生成消滅を繰り返す無数の「音芽」。蛇腹の伸縮/抵抗と開口部となる各リードの振動/抵抗の拮抗がつくりだす「気圧/気流のドラマ」(アコーディオンにおいては、ピアノのようにひとつの鍵盤ごとに発音体を操作することができず、いま奏でられている和音に一音加えるだけで開口部が増え、内部の圧力と振動の均衡モードが変化してしまう。それゆえそこで繰り広げられるのは、常に逸脱をはらみ、展開が予測不可能な群衆劇にほかならない)。演奏者の意図やその運び手である記号相手ではない、徹底的にマテリアルでロウな(生な)音との交通がそこにはある。

 横たわった飼い猫の腹を撫でる。毛並みの手触り。体温や湿り気の感覚。内臓の脈動。筋肉の緊張。眼を瞑っていても注意深くそばだてられ、休みなく向きを変える両耳の動きに合わせ、時折走る神経の緊張(身体の各部へのあるいは全身への)。ひげの震え。尻尾の規則的な(リズミカルに横に振る)、あるいは不規則な(じっとしていたかと思うと急に鞭のようにしなって床をパタンと打つ)動き。掌や各指への力の入れ方、手の動きの速度や強さ、撫でる部位の変化、こちらが姿勢を変えれば互いの距離や位置関係が変わり身体の投げかける影も動く。背後からは夕食の準備をする妻の足音や調理器具の金属音や外を自転車が通る音がして、時折、猫が薄目を開けたり、ひげを震わせたりする。窓から吹き込む風は、カーテンをたなびかせ、私と猫を共に撫でていく。
 ここではリアルタイムかつ刻一刻のミクロな交通が成立している。それは別に猫の意識と私の意識の間で起こっているわけではない。接している腹部と掌の間の相互浸透として、いや私たちが共有しているこの空間の中の様々な場所で同時多発的に生じているのだ。

 ヴォリューム・ペダルとディレイ1台をグレッチのエレクトリック・ギターにつないだだけのシステム(そのディレイすらも極一部でしか使わない)。最近は音具も弓とゴム球と六角レンチに限られてきた。そして何のエフェクターも音具も用いない、友人から譲り受けたという年季の入ったアコーディオン。
 削ぎ落とし絞り込むことが目的ではない。極北を目指す過激な(往々にして自己破壊的な)ロマンティシズムやミニマリズム/リダクショニズム等のコンセプトも重要ではない(むしろそれこそが余計な邪魔物だ)。ひとつの奏法の中に、ひとつの音のうちに、幾つもの豊かな響きを、多方向からの多様な力の交錯/衝突を聴き取れることが、音のロウな局面に、すなわち物体/身体/空間の震えや揺らぎの深淵へと沈潜できるようになったことが、そのことを通じて共演者とだけでなく、周囲の物音や空間自体の在り様と交感できるようになったことが、場面とじっくりと向かい合う覚悟をしっかりと支えている。そこで楽器は、雑音を排して楽音を抽出する機械としてではなく、その鋭敏さによって周囲の物音を映し出す受信機ととして、さらにはそれ無しではたどり着けない深みから音を通じて世界を探査する聴診器として現れることになる。
170709譏溷ス「縺ョ蠎ュ豢・逕ー_convert_20170716213824
津田貴司のFacebookページより転載


 ミクロな震えに始まり、指先から全身、さらには空間を経めぐって、再び震えへと還ってくる演奏のあり方について、ここでは「星形の庭」の演奏に「託して」書かせていただいた。
実はこうした感覚は、津田貴司、松本一哉、tamaruによるトリオLes Trois Poiresや大上流一とtamaruのデュオに対して覚えたものだったが、なかなか言葉にすることが出来ないでいた。その後、先に触れた水道橋Ftarriでの「星形の庭」と同じライヴに出演したtamaruのソロ演奏に深く揺さぶられ、これはもう言葉にせざるを得ないと切羽詰まっていたところを、今回の「星形の庭」の演奏をきっかけとして、一気に吐露させていただいたところである。「託して」とは、そうした事情である。それゆえライヴのレヴューとしては、いささか偏った穿ち過ぎの部分があることをお断りしておく。

星形の庭(津田貴司E.Guitar+佐藤香織Accordion)
日時:2017年7月9日(日)
会場:Lilt 東京都武蔵野市御殿山1-2-3 5F
http://lilt.tokyo/
※自家製のジンジャーエールが絶品だったことを付記しておきたい。

170709譏溷ス「縺ョ蠎ュ蜴溽伐1_convert_20170716213709
撮影:原田正夫


なお、先に触れたLes Trois Poiresのライヴが7月29日に行われる。必聴。

Les Trois Poires@OTOOTO
2017年7月29日 18:30
OTOOTO 世田谷区北沢3-13-10 エコロニー東北沢B1F
tamaru+津田貴司+松本一哉による演奏です。ベースギター、ギター、パーカッションという編成ですが、通常のトリオとは全く違う発想で、即興/音響/環境という演奏と聴取の結び目、音楽の向こう側の名付けられない領域を探ります。 会場は、東北沢から先鋭的な音楽を発信するスペースOTOOTO。Les Trois Poiresとして初登場となります。 どうぞご期待下さい。



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:54:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
前のページ 次のページ

FC2Ad