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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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災厄の街、不穏な眼差し 「タダマス33」レヴュー  Disaster City, Unrest Gaze Live Review for "TADA-MASU 33"
 私にしては早々と、4月27日(土)に開催された「タダマス33」のレポートをお届けする。これは、前々回「タダマス31」のレポートを「タダマス32」の告知記事と同時に書いて、このやり方は効率的かも‥‥と「タダマス32」のレポートを書かずに放置していたら、「タダマス33」の開催に間に合わなかったという苦い経験に基づくものである。遡ってレポートをご覧いただければわかるように、「タダマス31」自体が極めて特殊な回であって、それをどう取り扱うべきか悩み続けて書けなかった事情を、そのままルーティンとして採用しようと下ことに、そもそも無理があった(反省と懺悔)。
 それともうひとつ、今回の「タダマス」では作品と絡めてジャケットの写真が話題となり、私自身もそれに強く惹かれたことがある。今後も機会をとらえて、映像等にも着目していってほしいと思う。

 さて、いつものことながら、以下に記すのは私自身の興味関心に引き付けて再構成したリポートなので、当日の全貌を客観的に報告するものではないことを、あらかじめお断りしておく。当日のプレイリストについては、以下のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

タダマス33フライヤー縮小



 「GW効果なのか、今日はオーディオが『タダマス』始まって以来というくらい、調子がよくて‥‥」と益子が切り出す。なるほど冒頭のRuss Lossing(pf)のトリオによるPaul Motian曲集からして、ヴェールを二、三枚剥がしたかのように透明度・解像度が高い。ピアノの単音においては、鍵盤の深い沈み込みから、打たれた弦が震え、響きがたちのぼる様が眼前に浮かび、ダブルベースのピツィカートでは、弦の震えはおろか右手と左手の位置まで見えるかのようだ。今回のゲストの森重靖宗が「ベースがいいですね」と褒め、益子が「彼は日本人なんだけど、いまやNYのシーンでもマイスターとして知られています。日本では全然知られていないんだけど」と応じた通り、引き締まった静けさを帯びながら、ゴリッと深く音を刻んでいくMasa Kamaguchiが素晴らしい。一方、ピアノの描くラインの浅薄で詰まらないこと。これまた多田が「あらかじめわかっている最適解を並べているだけで、少しも発火しない」と言う通り。
 続いてもMats Eilertsen(b)、Thomas Stronen(dr)を含むピアノ・トリオ。ECM録音だけあって残響成分が多い。ピアノ弦もベース弦も見えない。一定の距離を離れ、細部を注視せず、トリオ全体を見込む録音。益子が録音場所である教会の中のステージの写真を示し、セパレーションを立てずに演奏していることを説明する。一音一音の打鍵を際立たせずなだらかに連ねていくピアノ、ゴングやグランカッサ(大太鼓)を多用するドラム、フラジオによるのだろうか胡弓を低音にシフトさせたような音色を紡ぐアルコ・ベースが一体となって、豊かな倍音を雲の如く湧き立たせる。
 再生音の良さに思わず見開いた耳も、音楽的内容の乏しさにいささか醒めてくる。結局、前半はさしたる収穫なし(ニューエイジ、ヒーリング・ミュージックまがいの音源もあった。なぜ選ばれたのだろう)。しかし、後半は打って変わって充実ぶりを見せる。


タダマス33-1Tom Rainey Trio『Combobulated』
Intakt Records Intakt CD 316
Ingrid Laubrock(tenor & soprano saxophones)
Mary Halvorson(electric guitar)
Tom Rainey(drums)
 4作目にして初のライヴとのことだが、「トリオの第四のメンバー」とTom Raineyも認めるDavid Tornが編集を担当しているとのこと。私には彼がかなり手を入れているように感じられた。
 最初にかけられたtr.2では、ライヴ演奏特有のバンドが一体化して盛り上がる「ノリ」が、注意深く遠ざけられている(あえてそうしたトラックを選んでいるのかもしれないが)。ドラムの打音から飛び散る火花に響きが広がって、サックスのか細い息漏れのリフ、セルロイドっぽい柔らかく半透明の歪みをたたえたギターの遠い弦鳴りと、互いに互いを映し出しあう。一定の速度を三者の共通の軸線としてキープしながら、誰もそれに直接合わせようとせず、寄せたり離れたり遅れたり進んだりを繰り返しながら軸線の周囲を旋回し続け、これにより軸線を、ビル中央部分の配管スペースのような全き「空虚」として、冷え冷えと浮かび上がらせる。この場面など、たまたまそのような事態が生じていた部分、普通のロック・バンドのライヴ・アルバムなら編集段階で切り捨てられてしまう箇所をあえて拾い、切り出したものなのだろうか。それともTornが三者の演奏を別々の場面から切り出して貼り合わせ、再構築したものなのだろうか。
 続くtr.4においても、ギターの刻みが輻輳し、サックスの微視的な崩しや分岐と交錯していく。その不均衡感やギザギザした破片の危うい組み立て感覚は、かつてRock in Oppositionの一員として活躍したベルギーのグループAksak Maboulを思わせる。危うく傾きながらも二人が細やかに絡み合い支え合っている状態から、片方がぱっと消え、残されたもう片方が大きくバランスを崩しながら、それでも倒れずに疾走を続ける場面とか。


タダマス33-2Watussi『Stargazers』
Klein 09
Joachim Badenhorst(clarinet,bass clarinet,tenor saxophone,voice,field recordings)
Ingrid Schmoliner(piano)
Pascal Niggenkemper(double bass,bells)
 「タダマス」の常連Joachim Badenhorstによるトリオ。彼の自主レーベルからのリリースで、相変わらずパッケージが妙に凝っている。「普通に棚に収まらないので、管理が大変だ」と益子がこぼしていた。
 ピアノの何気ない一音がそのまま引き伸ばされ、e-bowによる持続音へと変移し、そこに様々な断片が振りかけられる。ひそひそ声を転写したリードの振動、かすれたヴォイス、電動ファンによるピアノ弦への軽やかな連打、オルガンに似た波動(木管の多重録音によるのだろうか)、バス・クラリネットのノンブレス・リフが運んでくるムビラを思わせるプリミティヴな音色のリズム‥‥。冒頭のピアノの音は、後から重ねられた音に埋もれ消えたかと思うと、ずっと鳴り続けている。その都度その都度、そこに響いているサウンドが互いに結び合って、あるかたち/パターンを束の間生み出すが、不安定で続かず、すぐに解けてしまう。12分強のトラックは、勝手気まま、思いつくままに構成されているようでいて、不穏な振動がシミのように広がって全体を覆い尽くすラストまで、辛抱強く脈絡を保ち続ける。これは見事な達成だ。
 Badenhorstは一方で職人的技芸によりアンサンブルを支え、他方、自身の作品では特異な想像力をはばたかせる。周囲の環境音に侵食されて消え入ってしまうような「心霊写真」的ソロや、いにしえのヒッピー・コミューンを思わせる夢見るようなゆるゆるのフォーク・ソング等が思い浮かぶが、いずれも職人的技芸を支えるプレイヤーシップ、ミュージシャンシップの頸木を脱したところで、言わばノン・ミュージシャン的に制作されている点に注目したい。いつもやり過ぎのパッケージの意匠にしても、アーティスト的というより、親しい友人へのサプライズといったプライヴェートな感覚、アマチュア性を強く感じる。本作も歴史上に類似物を探せば、1970年代ドイツ等で盛んに試みられた、ごくごく私的な、それゆえ静かで深い狂気を宿したテープワークあたりが浮かぶのではなかろうか。


タダマス33-3RJ Miller Trio『RJ Miller Trio』
Apohadion Records
Dave Noyes(trombone,bells,keyboards,synthesizer),
Pat Corrigan(timpani,vibraphone,amplified birdvage,toys,junk),
RJ Miller(drums,samples,keyboards,bells)
 本日のハイライト。前作も音が中空に像を結び、天井に反射したかげがおぼろに映るような、こわれやすく繊細な構築ぶりに惹かれたが、淡い感触ゆえに強い印象は残らなかった。対して本作は強烈な衝撃を聴き手の身体に刻み付ける。
 圧倒的な密度/強度と全体として映像のサウンドトラック風の展開は、「タダマス30」で紹介されたRafiq Bhatia『Breaking English』を思わせるところがある。「タダマス30」に対する拙レヴューから、同作品に関する部分を抜粋して以下に示しておこう。

 会場では肯定的に受け入れられていたRafiq Bhatia『Breaking English』だが、私にはかなりの問題作と感じられた。先に触れたように、その重厚な構築ぶりは見事と言うほかはない。重層的に重なり合う音塊が上空を制圧するように旋回し、音圧の波状攻撃を仕掛けてくる。ゴリッとした硬い角のあるベースをはじめ、たとえサウンドが飽和/充満に至る時であっても、個々の音は積み重なる音響の地層のうちに埋もれてしまうことなく、尖ったエッジを失わない。むしろ、ざらっとした粒子の荒れや粗さを活かした感触と言えるだろうか。ここで私は初期の中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」写真やスピルバーグ「プライヴェート・ライアン」の脱色されたコマ落とし映像の緊迫した不安を思い浮かべている。
 サウンドの造り込みの完成度と壮大なスケールの広がり、ドラマティックな展開力は、ハンス・ジマー、ジェームズ・ホーナーといった映画音楽作曲の手練れにも決して引けを取るまい。‥‥と、これだけベタ誉めしておいて、何を問題視しているのかと言えば、まさにその映画のサウンドトラック的な「完成度」にほかならない。ポスト・クラシカル人脈からの参加を仰ぎ、ポスト・プロダクションを尽して仕上げられたであろう作品は、「これしかない」という揺るぎない決定稿に至っている。詰め込まれた圧倒的な情報量に比して、極端に圧縮され切り詰められた短さもまた、そのことを証し立てている。当初の演奏段階ではふんだんに盛り込まれていたであろう即興的な展開、ああも行ける、こうも行けるという無限のヴァリエーション感覚は、あくまでも素材の1ピースへと貶められている。たとえ綿密なフライト・プランを描いたとしても、飛び立ってしまえば、後は常に眼に見えぬ気流や気団と繊細に対話し続けなければならない「飛行」の感覚が、持続の震えを、この演奏から感じ取ることはできない。と同時に、偶然や失敗を受け入れて、それをその瞬間以前には思いつきもしなかった新たな局面へのジャンピング・ボードとするしなやかな冒険心もまた。かつてそうした気概に溢れていたプログレッシヴ・ロックの残党が、CMやヴィデオのための音楽を作り始めた際と同じく、どこか饐えたような頽廃の匂いがしないだろうか。Rafiq Bhatia『Breaking English』は、いわばエッジを研ぎ澄まし、角を尖らせたアディエマスではないのか。
 ジャズが果敢に自らを更新することにより生き延び、「ジャズとは似ても似つかない新たな『ジャズ』」へと変貌を遂げていくとしたら、そこで途切れなく持続している「ジャズなるもの」、あるいは「ジャズの創造性」とは、ジャズ固有のフレージングやスタイルでも、サクソフォンのヴォイスでも、ブラックネスでもなく、こうしたリアルタイムの飛行感覚ではないか‥‥、私はそう考えている(だから「ジャズの新たな章」とは、いつまでたっても自己を更新できない旧来のジャズの、延命のためにだらだらと書き継がれ続ける「続編」でしかないとも)。とすれば、本作品はジャズの「未来」にとって危険な「寄り道」となるように思う。

 『RJ Miller Trio』もまた濃密な音群を操作する。電子音による黒く厚い雲のたなびき、その只中から浮かんでは消える細部の不安定な移ろい、シーケンサーのベース・リズム、呼吸音のコラージュ、パチパチと爆ぜる針音、ドラム・ストローク、ディレイを深くかけられたエレクトリック・ピアノの強迫的自己反復‥‥。音群の多様な移り変わりにもかかわらず、全体を覆う黒々とした濃度/密度は切断を許さない。すべての作業はそこから逃れることのできない強力な重力圏の下で行われ、外へと放出される音響はすべて深い淵から届けられる呻き声のようだ。
 『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』の大きな違いは、確定した最適解あるいは一般解を差し出す後者に対し、前者はどこまでも手探りで揺らぎブレ続けることにある。どちらがより深く掘り進んでいるかと言えば前者だろう。にもかかわらず、後者と異なり、前者は一向に底にたどり着く気配を見せない。暗闇の中、盲いて掘り進む前方におぼろげに光景が浮かび、視界が開けたかと懸命に掘り進むと、いつの間にか景色は消え失せ、また別のところにふと浮かび上がり、そこに向けて必死で掘り進むと‥‥以下繰り返し。そう、ここで「景色」の在りようは「地」となる音響平面へのスーパーインポーズではなく、厚い雲の切れ目から、束の間、下界の様子が垣間見える‥‥といった感覚である。覆いが取られ、幕がめくられて、中身が明らかとなる。
「タダマス33」当日のやりとりの中で、ホストの多田から突然コメントを求められた際に「都市のフィールドレコーディングみたいに聴こえる」と思わず答えたのは、こうした異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくるにもかかわらず、全体像が一向に明らかにならない事態をとらえてのことだった。当日は説明が足りず、伝わらなかったかもしれないので、ここでは補足しておきたい。暗い混沌の中から闇が晴れ情景が浮かび上がる様はGilles Aubryによるカイロの市街のフィールドレコーディングを、異なる断片が次々に浮かぶ構成は同様にChristina Kubischによるカメルーンのサウンド・スナップショットを、耳の視界すべてが切り替わるのではなく、その一部が望遠鏡の視界で切り取られたように推移し、焦点が合わされた箇所の物音が拡大されて現れる様は、Lucio Capeceがボール紙製のチューブとマイクロフォンを気球に仕掛けたフィールドレコーディングを、それぞれ連想させたのだった。
 『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』のもうひとつの際立った違いは、実は映像の強度にある。この点については長くなるので補論として別に取り扱うこととしよう。
 後半5枚中、今回採りあげた3枚が特に強力だったため、残る2枚Human Feel『Gold』、Anna Webber『Clockwise』については触れなかったが、これらも水準以上の出来だった。
次回「タダマス34」(次は7月か)に期待したい。

タダマス33-6縮小



【補論】 『RJ Miller Trio』に付された岡田敏宏(Black Opal)の写真について
 『RJ Miller Trio』のジャケット写真を益子が「just arrived」としてFacebookに掲げた時には、それほど惹かれたわけではなかった。ごちゃごちゃした市街を見下ろす位置から、シルエットの腕が伸び、彼方を指差している。それがどこだかは全くわからなかったが、何となく戦乱に襲われた都市のドキュメンタル・フォトのような気がした。その構図から、Josef Koudelkaによる「プラハの春」をとらえた写真がふと浮かんだからかもしれない。

タダマス33-7縮小


 しかし、「タダマス33」当日に益子が掲げたLPジャケットの写真は、予想を超えてはるかに禍々しい気を放っていた。この写真は岡田敏宏という日本人写真家により撮影されたもので、ジャケット内に収められた同寸法のブックレットには、やはり禍々しい気を放つモノクロ写真が2〜3点、ジャケット大で掲載されていた。

タダマス33-4縮小


 『RJ Miller Trio』に収められた音響に対し、「全貌の定かでない都市の異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくる」との印象を抱いたのは、この写真の影響が大きい。どこかはわからない高みから、暗がりに潜んだまま、眼下に広がる災厄の街に望遠鏡を向け、終わりなく窃視を続ける‥‥。しかし、そこに浮かぶ感情は優越でも、愉悦でも、歓喜でも、興奮でもなく、ただひたすら不安であるような気がした。
 益子の説明によれば、日本でも一冊写真集が出ており、他に国外でも写真集が出版されているが、少なくとも国内ではあまり知られてはいないようだ。国内で出版された写真集を入手したが、そこに掲載されている写真には『RJ Miller Trio』に収められている作品ほどの凄みはない。写真集は少し前のもので、こちらの方がより新しい作品ではないか。Black Opalの名前でブログやflickrで写真を発表しているので、興味のある方は見てほしい‥‥と。その場で回覧された写真集を見ると、確かにいささか既視感が漂う。「ネットでは森山大道のエピゴーネンと貶める意見もあった」とのことだが、「アレ・ブレ・ボケ」的な手法によるストリート・スナップが多いのは確かだった。しかし、そこに森山の多くの作品に伴う「打ち捨てられたものへの親愛の情」はなく、むしろ初期の中平卓馬や『太陽の鉛筆』など東松照明の沖縄を題材とした写真を思わせる突き放した視線があった。そしてそこにはやはり湧き上がる不安が怨念のように貼り付いていた。

【注記】2019/05/03
 上記本文中にの「『ネットでは森山大道のエピゴーネンと貶める意見もあった』とのことだが」との箇所(発話者を示していないが、これは「タダマス」ホストの多田雅範の当日の発言である)について、「タダマス」ホストの益子博之より、「「森山大道のエピゴーネン」というのは例によって多田さんの思い込みで、実際には「中平卓馬の〜」と言われていたようです。」との指摘を受けた。しかし、本文をご覧いただければわかるように、私は森山、中平に加え、沖縄を撮る東松照明との類似に触れた上で、RJ Miller Trioで使われた写真を、中平たちとは明らかに違った資質を現したものとして評価している。それゆえ、当日の多田の発言内容の誤りにもかかわらず、本文の論旨は全く変わることがない。‥‥ということで、この注記を加えるに止め、本文自体の修正は行わないこととしたい。

 益子から岡田のflickrのリンクが送られてきたので、早速見てみる。強烈。モノクロの画面は、湿ったまま保存したことにより黴や滲みや汚れで黒ずんだようにも、あるいは感光し退色したり、漂白されたようにも見え、至るところで明暗が逆転している。「アレ・ブレ・ボケ」のうちには、特に森山大道の作品など、ノー・ファインダーでのフレーミングのズレや手ブレを「運動感覚」として提示するものがあるが、岡田の作品にそうした「瞬間の視覚」や撮影者の身体の動きを連想させるところはまったくない。むしろ瞬間の一瞥にしろ、長時間の凝視にしろ、そうした身体時間の経過をいっさい感じさせない映像となっている。何やらSF調の物言いとなるが、脳内情報をスキャンし、意識下の映像をサルヴェージしたら、このようなものになるのではないか。いつどこで入り込み、いつからそこにあるのか、出所も来歴も不明の、宛てどころのない贈与/負債としての「不幸の手紙」。それこそ映画『リング』に出てくる「呪いのヴィデオ」の映像である。
 至るところ影が映り込み、輪郭は溶け出し、明暗は逆転し、水平は傾き、遠近は歪んでいる。これらの特徴は確かに所謂「アレ・ブレ・ボケ」作品にも見られる。しかし、一番の相違点は、「アレ・ブレ・ボケ」作品が、これらの写真本来の特質をあえて手放すことにより手に入れた、強烈な造形感覚による瞬間把持が、岡田の作品には見られないことだ(たとえば初期の中平の写真も大きな不安をたたえているが、この造形感覚ゆえに、個人的不安ではなく、より普遍化され、「滅亡への予兆」といった幻視者/預言者的な強度を帯びることになる)。代わりにあるのは、先に見た経年による風化/摩耗であり、それがもたらす疫病のように恐ろしい不安である。
 ロラン・バルトが『明るい部屋』で幸せな追憶に浸るように、個人的な記憶と互いに支え合うべき写真=映像記録は、だが岡田の作品にあっては、時間経過の中で変容を止めることが出来ず、色褪せ崩壊していく。一方、健常者にも日常幾らでも起こり得る錯視や幻視がもたらす不可解な映像、通常なら無視され、スキップされ、認知にも記憶にも残らず「なかったこと」にされてしまう映像が、核廃棄物や胎内に採り込まれた有機水銀のように、処理/排出できぬまま蓄積され続ける。そして夢や記憶退行によるサルヴェージ、あるいは突然のフラッシュバックにより、脳裏に眼前によみがえる。
 そのように突然脳内に現れるのではなく、写真集のページをめくり、ウェブページをスクロールしながら出会うのであっても、充分に不安神経症を引き起こせるだけの負のエナジー、怨念や呪いを、岡田の写真は帯びているように思われる。作品をとらえた視線がフリーズし、眼を離し顔をそむけたいのに、接続を解除できず引き込まれてしまう感覚。デカルコマニーによって作成されたロールシャッハ・テストの、それ自体では意味をなさない不定形の文様が、統合失調症発症のきっかけとなり得る侵襲性を有しているように。

タダマス33-5縮小


 岡田敏宏の作品については、以下のURLを参照していただきたい。

■flickr:black opal_2005
 https://www.flickr.com/photos/48049017@N03/

■ブログ:black opal 記憶の断片
 https://blog.goo.ne.jp/blackopal_2005

■岡田敏宏写真集『記憶の断片』
 http://qumuran.com/記憶の断片/


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:05:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
透明性/不透明性 「タダマス32」レヴュー  Transparency / Opacity Live Review for "TADA-MASU 32"
 遅ればせながら、今年1月26日に開催された「タダマス32」のレヴューをお届けしたい。この前回「タダマス31」の絶不調ぶりはすでに伝えたところで、いささか心配していたのだが、ゲスト初登場時の「タダマス15」(※)で、かけがえのない個性である「プレイヤーシップでも、ミュージシャンシップでもない何か」を遺憾なく発揮し、深いコメントを連発したベース奏者/作曲家の蛯子健太郎を二度目のゲストに迎え、この日はプログラム構成の一貫性、個々の作品の強度、ホスト及びゲストのコメントの的確さと、三拍子揃った充実した回となった。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-324.html

 さて、いつものことながら、以下に記すのは私自身の興味関心に引き付けて再構成したリポートなので、当日の全貌を客観的に報告するものではないことを、あらかじめお断りしておく。当日のプレイリストについては、以下のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


タダマス32-0 「タダマス」ではいつも、開演前のBGMとして、その回の選に漏れた盤であったり、あるいは注目作ではあるものの、採りあげるにはジャンル違いであったり、いずれにしても本編が眼差していく音世界の近傍には位置していながら、その文脈では参照されることのない作品が選ばれている。この日かかっていたのは、Bram De Looze『Switch the Stream』で、ピアノが現代音楽風に駆け巡る。右手がいささか垂れ流し気味なのが弱いが、とにかく録音がよく、震える弦から冷気の如く響きがたちのぼっていくのが見えるようだ。益子博之の解説によれば、通常は斜めに重ね合わされて張られているピアノ弦を、すべて平行に重なり合うことなく張ることにより、相互の干渉を取り除いているのだという。

タダマス32-1David Virelles『Igbo Alakorin ( The Singer's Grove ) 』
 本編は珍しくベタなキューバ音楽で始まった。前半の9曲を占めるオルケスタ演奏と後半5曲のピアノとギロのデュオから、それぞれ1曲ずつ。ピアノを前景に押し立て、リズムを重視し、メロディやそれを包み込むアトモスフェアはむしろ希薄。半ばを過ぎて歌やリード楽器群が入ってくるのだが、「上物が置換された」との印象で、全体の骨格は変わらない。ふだんは見せない舞台裏の機械仕掛けの蓋を開けて、中に組み込まれた歯車や滑車の精確な作動ぶりを覗き込んでいる感じか。ピアノの左手が自在に動き回って、多彩なリズムを見事にクロスさせていく。本日のゲストである蛯子健太郎の「奥行きがすごい」というコメントに、大小の歯車が重なり合う同じ光景を眺めている気がした。

タダマス32-2Rudy Royston『Flatbed Buggy』
 Bill FrisellやDave Douglasのところでドラマーを務めるRoystonのソロ名義の作品。彼は黒人だが、他のメンバーはHank Roberts(cello)を初め、すべて白人だという。
 リード、アコーディオン、チェロという超変則の三声がアメリカーナな広がりを持つメロディをゆったりと息づかせ、ドラムはこれらが結ぶはずの焦点、ピンポイントで担うべき支点をあえて外したところで踊ることにより、三者の絡みに側面から光を当て、仔細に浮かび上がらせて見せる。先のVirellesとは全く異なる仕方ながら、スケルトン時計のように音楽装置の作動ぶりを透かし見せる点は共通している。
 「ニュアンスで成り立っている」との益子の指摘を受けて、「音程がはっきりしている楽器がひとつもない」と喝破する蛯子の指摘に深く頷かされる。「身体が入っている」とも。これは実に鋭い指摘で、まったく危なげなく安定して推移する手練たちの演奏は、だがあらかじめ譜面に書かれた音符を正確になぞることで、自らの位置と速度、運動方向と軌跡を決定しているのではない。彼らはそれを、同じひとつの音響空間内を動いている者同士の音楽身体の触れ合いを通じて、達成しているのだ。
 その意味では、冒頭の演奏描写では、上物三者の絡み合いに眼を留めた視線を推移させてドラムを見出しているが、実際にはドラムが「ドーン」と鳴ったところから開けていく世界に三者が飛び込んで、開いては集まり、先んじては遅れ、浮き沈みして入れ替わりつつ舞っているのだろう。


 ここからは記述がいささか駆け足となる。というのも、後から振り返って、この回のプログラムの中心を「透明性/不透明性」の軸線が貫いているのではないかと感じたので、それを景色として浮かび上がらせてみたいからだ。この軸線が開演前のBGMから、すでに端を発していることに注意を促したい。個々の作品はもちろん注目すべき出来なのだが、この日は10枚の最後に、かねてからダントツの年間ベスト・ワンと喧伝されていた大作Tyshawn Sorey『Pillars』が控えていることがあらかじめアナウンスされており、さらに配られた資料でも明らかになっていたため、無意識のうちにそのクライマックスに向けて、聴き手の側が上演を「演出」してしまったのかもしれない。


タダマス32-3Christopher A. Hoffman『Multifariam』
 それまで2作品続いた「内部の機械仕掛けを透かし見せる過剰な透明さ」が、ここで分厚い「壁」に行く手を阻まれる。Henry Threadgillのバンドの中核を担うHoffmanは、本作でも大編成を駆使して、多方向にもつれ絡まり合う音響を編み上げているのだが、その広がりは極めてローファイで解像度が低く、過飽和状態で重なり合う音塊は渾然一体、ベタ一面、奥を見透かそうとする耳の視線をにべもなく跳ね返し、奥行きというものを生じさせない。楽器クレジットにloopsを挙げている奏者が多いことからして、これは決して録音の失敗ではなく、考え抜かれた確信犯に間違いあるまい。

タダマス32-4Jozef Dumoulin & Lidlboj『Live in Neerpelt』
 「フェンダー・ローズの魔術師」Dumoulinとヴォイスとエレクトロニクスを操るLynn Cassiersの「Lily Joel」の二人は、互いの様々なプロジェクトに参加しあっており、ここでも一緒だ。本作でDumoulinはフェンダー・ローズを用いていないということで、代わりにエレクトリック・ギターとしか聴こえないシンセサイザーの細いうねりを響かせる。彼とCassiersの女性ヴォイス、バリトン・サックスがリード・セクションを担うが、とりとめのない漂泊感が立ちこめ、サックスのソロのとらえどころのない無機質な感触が、さらにそれに拍車をかける。一方、匠Eric Thielmansはドラムを極めて繊細に叩き分けている。過飽和な充満や濁りとは無縁ながら、白日夢的な曖昧さの中で、やはり伸ばした指先は対象に触れることができない。確かさのない、いや、確かさへの紐帯を丁寧に一つずつ切断していった世界と言うべきか。妙に明るい半透明な閉域。
 ここでも蛯子から「病んでいる感じ」、「本人が言いたいことを聞き取るのが大変」、「収拾がつかない」、「ジャケが怖い」等の核心を射抜くコメントが提出された。一見簡素なジャケットのドローイングの恐ろしさ(私もこのジャケは相当怖いというか「ヤバい」と思う)に鋭敏に感応するあたり、流石はデヴィッド・リンチ『ツイン・ピークス』のファン(笑)。

タダマス32-5Jeremiah Cymerman『Decay of the Angel』
 基本的にはクラリネット一本で描かれる壮大な音響絵巻/サウンドスケープ(ちなみに今回聴いた曲は「the Canto of Ulysses」と題されている)。多重録音も用いられているのだが、あらかじめ作成した音響パーツを組み立てるのではなく、一筆の音の運びから迸る勢い、滲みだす広がり、たちのぼる香りによって、世界を構築しようという極端に限定した集中がひしひしと伝わってくる。それゆえ音色の肌理の変化、ロングトーンの内部に現れる各層のもつれやねじれ、倍音のたゆたい、気息音における息の流れや粒子の衝突・交錯、ドローンへと沈み込んだ際の生成への注視(特に平坦に引き伸ばされた薄層間の繊細なバランスとミックスの変容)等、駆使されるありとあらゆる鋭敏さが、聴き手の皮膚をピリピリと励起してくる。
 蛯子「優しく丁寧」、益子「そこで鳴っている音を実に注意深く聴いている」は全くその通り。これを「サウンドスケープ」として、すなわち自然の音風景に類似・近似した相当物をつくりあげる試みと解するならば、多田「自然の複雑さにはかなわない。どれがどの楽器の音か透けて見えてしまう」とのコメントも頷ける。しかし、洞窟内に異国的・異教的メロディが響き渡る場面等を見ると、ここでCymermanはかなり観念世界に傾いており、むしろ文学性、物語性、ストーリー・テリングの線を目指しているのではないかと思われる。当日、本作以前にかかったLisbeth Quartett(挟間美帆のバンドのメンバーCharloote Greve参加)『There Is Only Make』に対する蛯子の的確極まりないコメント「ジャズから文学性を取り除くと、悪い意味でのフュージョンになる。マシーンとしての性能は高いが、それに見合うストーリーがない」を参照したい。

タダマス32-6Tyshawn Sorey『Pillars』
 そしていよいよ本作に至る。CD3枚、LP2枚でリリースされ、しかもLP版はCD版の単なる抜粋編集ではなく別内容だというから、結局ディスク5枚をすべて聴かないと全貌が掴めないという怪物的大作。
 益子は本作について「聴くこと自体を問題にしてくるので、これを聴いた後、他の作品を聴けなくて困った」、「緩やかな時間の流れの中に変化があり、詰まるところ、全編を聴き通さないとわからない。どの場面を抜粋して聴いてもらえばよいか悩みに悩んだ」と語っていた。多くの演奏者がクレジットされているが、一度に大人数で演奏することはなく、ソロやデュオの場面が多いという。実際に当日流されたのは次の二つの断片。  「Pillars Ⅰ」 3:58〜9:58  「Pillars Ⅲ」 33:16〜41:04
 最初の断片はSoreyとTodd Neufeld(g)によるデュオの場面。出音は間を置いて間歇的に放たれ、各々の金属打楽器やギター弦に対するアクションは俊敏きわまりないが、互いの挙動に反射的に対応し、LEDセンサーをチカチカと点滅させるせわしなさとは全く無縁で、時間は何事もなかったように悠然と流れ続ける。その点で、蛯子のコメント「安心感がある。何かがずっと安定してある」には大きく頷かされる。
 その一方で、これらの演奏が何を目指し、何をかたちづくろうしているのかは、これだけの聴取からは正直浮かんでこない。「瞑想的」なだけの、あるいはある種のゲンダイオンガクを模した「ナンチャッテ」演奏でないことは、個々の出音のただならぬ強度、あるいは深々とした超低域の広がりまでをとらえた驚異的な録音からも明らかだが、やはり「群盲、像を撫でる」にとどまり、全体像へと至ることのできない感じは変わらない。個々の出音は手触れるほど細部まで克明に見届けられるのだが、それらが組み合わさった作動ぶり、巨大機械の成り立ちが見えてこない。いわば細部の極端な透明性が積み重なり、寄せ集まって究極の不透明性と言うべき不可視性を帯びているということだろうか。
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Tyshawn Sorey『Pillars』参加の面々


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 32
2019年1月26日(土)
綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:20:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、レコードプレイヤーの回転(1分間に33回転)に合わせ、メヴレヴィー教団の旋回舞踏を踊る  "TADA-MASU" Whirls Mevlevi Sema Turn Dance at the Same Speed as Record Player Turntable Spinning (33 per minute)
 多田雅範と益子博之がナヴィゲートするNYダウンタウンを中心とした現代ジャズ・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」も、本日4月27日(土)で、いよいよ33回目を迎えることになる。昨年10月開催の前々回「タダマス31」がいささか不調で、どうしたことか心配させたが、その理由をあれこれ詮索したところ、当たらずとも遠からずで、やはりその回のみの特殊事情のせいだった。その証拠に後述する「タダマス32」はプログラム構成の鮮やかさと二度目のゲスト出演となる蛯子健太郎のコメントの深さが素晴らしかった。

 そして今回「タダマス33」のゲストは、何と森重靖宗を迎える。森重と益子と言えば思い出さずにはいられないのが、以前に益子が「タダマス」と同じ喫茶茶会記を舞台にプロデュースしていた橋爪亮督をフィーチャーしたライヴ・シリーズ「tactile sound」に森重が呼ばれた2012年2月22日の夕べのことである。「触覚で感じる、いま・ここで生まれる響き」を標榜し、即興演奏を展開しながらも、共演者の選択も演奏の肌触りも、1970年代ECM的な「ジャズ」色が濃かった場に、ソロやダンスとの共演を中心にフリー・インプロヴィゼーションに徹してきた森重が招かれたのは、まぎれもない「事件」だった。結果は、もう一人のゲスト中村真の貢献もあり、極めて充実した演奏となった。その顛末は拙レヴューを参照していただきたい(※)。
※ http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-286.html

 「タダマス」のゲストもまた、これまでジャズ演奏者というか、少なくとも「ジャズも演奏する」者たちから選ばれてきたことは確かだ。森重はここでも、そうした慣例を打ち破る初めての例となる。企画者である益子は「タダマス」告知ページ(*)で次のように述べている。
* http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767

 ゲストには、チェロを中心とした即興演奏家の森重靖宗さんをお迎えすることになりました。世界中から来日する数多の即興演奏家たちと共演を重ねてきた森重さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。

 森重の演奏に対しては、その後、ますます演奏の焦点を絞り込み、とりわけデュオやトリオ演奏において、フレーズを排し音色を限定してサウンド・パレットを極端に「貧しく」し、応答のタイミングや出音の長短など、対話の相やレイヤーの重ね合わせに集中した「言語化」へと向かっているとの印象を持っていた。しかし、一昨年の10月にリリースされたソロCD『ruten』は、近接録音を駆使した苛烈極まりない、眼に痛いほど眩しいサウンドの爆発と閃くフレアに満ち満ちており(昨年聴いた作品のうちベストと言ってよい)、自身の演奏が洗練・枯淡へと向かっているわけではないことを鮮やかに示してみせた。そんな彼がどのようなコメントを披露してくれるか楽しみである。寡黙な集中に全編貫かれた演奏と異なり、アフターアワーズには和やかに会話に応じる彼のこと、きっと我々に新たな発見をもたらしてくれるだろう。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 33
2019年4月27日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:森重靖宗(音楽家)
参加費:¥1,500(1ドリンク付き)



未分類 | 15:22:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
不在を吊り支える束の間の一致 −−−− ARICA『孤島』レヴュー(補遺)  Momentary Matching Suspending Absence of Focused Body −−−− Review for ARICA " On the Island " (Supplement)
 ARICA『孤島』横浜公演を観た。同じ作品を、違う会場で、短期間のうちに二度続けて体験することで、初回には気づかなかった重要な細部が浮かび上がってきた。舞台の広さが大きく異なるため、演出も違ったものにならざるを得ないと聞いていたので、二度目の体験の際に、意識はその違いをとらえ、前回との視差から作品を立体的にとらえようと働くこととなった。
 しかし、今回新たな試みと見えた部分が、確かめてみると、実は程度の差こそあれ、前回にも行われていたとわかったりもして、「観る」ということがいかに不徹底で当てにならないものかと、改めて嘆息せずにはいられなかった。すぐれた演奏と同様、すぐれた舞台もまた、聴き尽くす/見尽くすことなど到底できはしない。汲んでも汲んでも汲み尽くせない豊かさがそこにはある。その豊かさから眼をそらし、見尽くせぬ「見残し」が常にそこにあるとの不安に蓋をするために、脚本や演出家の弁や、果てはチラシに刷られた主催者の惹句、つまりはあらかじめ用意された言葉に合わせて、わずかばかりの「見たこと」から、さらに細部を余剰あるいはノイズとして切り落とし、ベッドの丈に合わせて手足を切り詰めた、呈のいい言葉が、流通しやすい完パケの「正解」としてつくりだされる(140字以内に収まるとなおよい)。私はそれを批評と呼ぼうとは思わない。
 ともあれ、横浜公演の体験から見えてきたことを書き付けていくとしよう。

0.記憶を剥ぎ取られた場所
 ARICA特設会場と銘打たれた横浜公演の会場は馬車道通りからほど近い、もともとはライヴハウスだったというスペース。音楽ファンには関内ホールやエアジンのそばと言えば、ああ、あの辺りと見当がつくだろう。
 外の道路に面して床までの大きなガラス窓があるが、カーテンで塞がれており、入口を入ると正面から奥にバー・カウンターが伸び、右手が舞台、客席となっている。小学校の教室程度の空間、灰色のつるつるしたコンクリートの床、内装を取り去られ「すっぴん」のままの漆喰風の白い壁、パイプが剥き出しのシーリング。外壁やガラス一枚向こうは道路にもかかわらず、ほとんど車通りがないのか、外の音はほとんどしない。空調の音が低く響くばかり。元公衆浴場の空間で、壁の一部に刻まれた当時の名残や、残された浴槽から、水のたゆたいを映し出していた北千住BUoYと大きく異なり、こちらは暴力的に「記憶を剥ぎ取られた場所」との印象を受ける。それも『孤島』にはふさわしかろう。

 奥の両隅に机が設置されており、きっと福岡と西原が座るのだろう。バー・カウンターの一番奥にも機材がセットされているように見えるが、ここで藤田が客席からの死角に潜みつつ、音響の操作を行うのかもしれない。今回の舞台の唯一の装置である「島」は、最初から舞台左手前の太い柱の陰に、剥き出しでほっぽり出されている。まるで大道具倉庫を楽屋に使うので、倉庫の中身を舞台の端の邪魔にならないところに置かせてもらいました……とでもいうように。
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横浜公演会場入口


1.開幕
 暗転。最初から剥き出しの「島」の下に、安藤はどうやって入り込むのだろうと、楽屋につながっていそうな舞台左奥の暗闇に眼を凝らしていると、何の前触れもなく、「島」がすっと滑らかに動き始める。奥から手前へと伸びるバー・カウンターの中を抜け、意表をついて奥からではなく、手前から這い入ったのだろうか。舞台が次第に明るくなり、「島」は舞台上をあてもなく漂泊した後、中央手前へと寄り付く。薄闇の中に、背中に台車を敷いて、「島」を下から操る安藤の姿がぼんやりと見える。


2.運動/感覚/身体像
 今回気づいたこと、これに基づいて思考を巡らした内容について、次の二点に集約して述べることとしたい。まずは、前回にも主要なテーマとして述べた、運動/感覚/身体像
の一致と揺れについてである。

(1)揺らぎの諸相/諸層
 前回の論稿では、運動/感覚/身体の揺らぎ、ずれ、不一致に注目し、その結果、焦点となる身体像が不在であることを指摘した。このことは、ある一点(これについては後ほど詳述する)を除いて、横浜公演でも変わりないことを確認できた。そのことを改めて振り返っておこう。

 ARICA『孤島』は不断に揺れ続ける。テクストの諸相/諸層においても、あらかじめ録音された/その場で発せられる声についても、様々な経路を通じて放たれる音響(その中には先に掲げた「声」も時に侵入し、その一部となる)においても、そして唯一の登場人物である安藤の身体の運動とその視覚像においても。

 この揺れは巡り続ける。たとえばテクストはあらかじめ録音された声により表象され、その声は身体の影を引かない虚ろな希薄さにより、その場で発せられる実在の声との差異を際立たせながら、時に実在の声と重ね合わされ、侵食される。テクストの記述は淡々と手記風に進みつつ、時にコンピュータによる機械的応答やサミュエル・ベケット的な繰り言を思わせる、語の組合せによる自動生成(「島は島」)に至る。かと思えば、「サトウキビは島を守り、島は国土を守る」といった明らかに「南島」を示唆する語りが現れ、イメージはローカルな歴史へと係留され、さらには「私をどこかへ連れ出して、そのまますぐに捨てて」との歌謡曲的な叙情へと変奏される。

 あらかじめ録音された声は、当初、淡々と状況を説明する第三者的ナレーションとして外在化しながら、安藤による昔語りという側面を通じて、突然に内面へと踏み込んでくる(島抜けの招待状について急に声を潜めて語る)。これは安藤による「内語」のリアルタイムの実況ではないかと思わせながら、チャイムと共に迷子の呼び出し放送が始まり(声の加工により聴き取りにくく、前回には気づけなかったが、ここで「迷子」として探されているのは、明らかに当の安藤である)、これを聞いた安藤は慌てて姿を隠す。「外敵」として身体の防衛行動を誘発する声。もちろん、これも「内語」であり、トラウマによる強迫反復なのだと解することも可能だろう。しかし、二度目の「放送」に、その場で発せられる声が重ね合わされることにより、それも怪しくなる。これらの諸相/諸層を「自分自身との対話」、「応えるのは自分の声のみという孤独」と要約し、一面化してしまうことはできまい。

(2)映画における自由な切断と結合
 こうした細部の交錯や決定不能な揺らぎがもたらす豊かさを、「あらかじめ録音した声を用いることにより、身体の運動からいったん切断し、改めて多様な結合を操作した」結果ととらえることもできる。演劇にあらかじめ撮影された映像を積極的に導入する「2.5次元」のように、演劇に「他なるもの」を導入することが進化であると、手放しに礼賛される傾向もある。だが、それは、芝居などほとんど観ないど素人の私が言うのはおかしいが、演劇を貧しくする見方ではないだろうか。
 考えてみよう。映画はもともと映像と音声を切り離すものとして誕生した(無声映画)。さらにはキャメラを移動させ、あるいはいったん止めて場面を転換してから撮影し、これらを編集により結合することができた。同様に音声についても、後から付加することにより、映像との自由な結合が可能になった。だが、その結果明らかとなったのは、自由な切断と再結合は、混乱しかもたらさないことだった。棚に置かれていたはずの壺が急に消え失せてかと思えば再び現れ、いま聞こえている声が画面上の誰のセリフだかさっぱりわからない‥‥というように。

 「映画という機械は、見えるものの再現、再構成である以上に、まるでひとつの身体であるかのように世界を見て、聞いて、そして動く。(中略)イメージと声がシンクロしないことは、「誤ったつなぎ」の極致といえないこともない。」【宇野邦一『映像身体論』みすず書房 p.64〜65】
 ジル・ドゥルーズが『シネマ』で論じた「運動・イマージュ」に沿った滑らかなつなぎのことを思い出そう。そこでは運動/感覚/身体がぴたりと重なり合い、つなぎは「省略」として機能し、自らを目立たせない。彼の立論では、それらの結合がネオ・リアリズモを契機として解け、「時間・イマージュ」が産み出されてくると同時に、つなぎが目立ってくるわけだが、ここではむしろ、彼が映画の与える身体が演劇とは異なることについて述べていることに注目したい。
 「演劇を深く愛していた人々は、映画にはいつも何かが、現前が、演劇の特性であり続けている身体の現前が欠けていると反発していた。映画が見せるのは、波であり、揺れ動く微粒子であり、それらによって映画は身体を偽装するだけである。(中略)もし映画がわれわれに身体の現前を与えるのではなく、そもそも与えることができないとすれば、それはまたおそらく映画が別の目標を持っているからである。」【ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局 p.280】
 この指摘を踏まえて、宇野は次のように書いている。
 「そして演劇(あるいはダンス)においても、身体の現前はけっして自明なものではありえない。ただ身体が目の前にあるからという理由で身体が現前するとしても、やはり演劇さえも、その身体から何かしら「別の身体」を生み出すことを本質的な課題にするだろう」【宇野邦一『映像身体論』みすず書房 p.138】
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東京公演より


(3)「不在」を吊り支える束の間の「一致」
 この「本質的な課題」に応えるものとして、ARICAの一連の舞台、とりわけ今回の『孤島』はある。宇野は先の箇所に続けてアントナン・アルトーやベケットに触れているが、ベケットの力線がARICAの営為を射し貫いていることは論を俟たない。ここで一方では言語の自動生成にまで切り詰められたテクストは、もう一方で謎めいた寓意劇、スブラスティックな喜劇、歴史上の悲劇等、多方向に散乱しながら増殖し、舞台上にひとつしかない身体を引き裂きにかかる。だが、安藤の身体は、ここで多種多様なテクストが投影されるスクリーンとしてだけ存在するわけではない。時に自ら声を放つばかりか、頻繁に自身の姿を隠してしまう。
 ここで注意すべきは、彼女の身体が袖から掃けて舞台を去っているのではないことだ。彼女の姿が見えない時、彼女は「島」の下に身体を潜めている。そのことは『孤島』の開幕部分において、誰もいない「島」が動き回り、その下から彼女が這い出てきた場面で高らかに提示されていた。彼女の身体は常に舞台上に存在し続ける。揺れ続ける「島」と共に。

 このように「姿の不在」をすら含んだ幅広い身体のスペクトルの変容を、「明確な身体像の不在」として、揺らぎの全面的な顕現としてとらえたのが、前回の論稿だった。そこで私はこう述べている。「今回の『孤島』における安藤の身体は、そのように運動や感覚、あるいは言葉を集約する焦点とはなり得ない。身体はくっきりとした像を結ばず、何重にもずれ重なり、埋め難い欠落を帯びている」と。

 今回はそうした「明確な身体像の不在」を吊り支える特異点として、運動/感覚/身体像が一致し、力線を束ね、強度を極限まで高める瞬間が二度訪れたことを指摘したい。

 ひとつは、二度目の「迷子呼び出し放送」に重ねて、安藤が声を重ねるうちに高揚し、ロープでトランペット・スピーカーを吊り上げると、すかさず西原が乱入して、口元にマイクロフォンを吊り下げる場面である。
 前回の論稿では、この場面について次のように述べている。
 「即興的なやりとりを通じて、舞台上の身体の運動は最高潮に達するが、それでもその動きは、ARICAご贔屓のバスター・キートンによる疲れを知らない機械的な動作、スプラスティックな蕩尽的運動に至ることはない。それはむしろ、彼女がこの「島」に縛り付けられ離れられないこと、すなわち「島」に囚われた「運動の限界」を、明らかにするために繰り返される動きにほかならなかった。」
 なぜ、このように、いささか評価を保留しているかと言えば、東京公演では、この場面に一種のすれ違いを感じたからだ。
 「ロープを掴んだまま「島」から離れることのできない安藤に対し、まるで檻の中の猛獣を威嚇する猛獣使いのように、手に持った竿から吊り下げたマイクロフォンをぐいっと突きつけ、彼女が例えば「ホンドー(本土)」と叫びながらパン食い競争のようにそれにかぶりつこうとすると、今度はすぐさま引き離す」やりとりの中で、当初、吊り下げられたマイクロフォンで拾われた声は、トランペット・スピーカーから発せられる。しかし東京公演では、西原が意地悪くマイクロフォンを引き離した時にも、安藤の声はほぼ変わらぬ音量で(音質はやや異なるが)、舞台上に響き続けた。口元に装着されたミニ・マイクで拾った声で補っているのだろう【注1】。これにより、マイクロフォンに飛びついては引き離される身体の運動は、聞こえてくる音声と決定的なずれを来す。身体像(視覚)と音声(聴覚)がライヴな同期を手放してしまうのだ。私はこの瞬間を、不一致やずれの変奏の系においてとらえざるを得なかった。身体の運動が最高潮に達する場面ですら、なお、不一致が周到に挿し込まれ、身体像は焦点からずらされていると。

 これに対し横浜公演では、会場の狭さゆえ口元のミニ・マイクはなく、前述の場面で声の音量が補正されることもなかった。吊り下げマイクロフォンが口元を離れた時でも、会場の狭さゆえに、生の声がそれだけで充分響き渡ってしまうということはあるのだが。いずれにしても、ここにあえて不一致が挿し込まれることはなく、再生される爆撃音や西原の打ち付けるシンバルが鳴り響き、安藤が叫び続ける沸騰状態の喧噪の中で、安藤の(そして西原の)身体は、発話を含む運動と感覚の、視覚像と音声の、幸福な一致を生きていた。

 もうひとつの一致の瞬間は、これとは対照的に静寂のうちに訪れる。安藤が髪を梳かす場面である。この場面について、私は前回の論稿で「彼女が椅子に置かれたヘアーブラシを取り上げるや、動作が突然スローモーションと化し、それまで鳴っていた音も消え失せ静まり返って、緊張が異様に高まる中、正面を向きながら視線を横に流し、美しい銀髪をこれ見よがしに梳る蠱惑的な場面」と述べた。これが全編中で特権的な瞬間であることに気づきながら、それをある時は○○で別の時は××‥‥という、諸相の混淆、抽象と具体、聖と俗、シンボルとアレゴリーの両極を間断なく揺れ動く「揺らぎ」のひとつの極として切り出していた。
 だが、先に見た「沸騰する喧噪の中での一致」が定位されることにより、この瞬間の特異性が改めて浮かび上がることとなった。東京公演では一度きりしかなかった場面が、横浜公演では繰り返されたこともある。もっとも、これは例によって私の見落としかもしれない。ただ、先の「浮上」により、横浜ではより特権的な瞬間として見逃し得ないものとなったということも可能だろう。
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横浜公演より


(4)身体の中に降りていくこと 通常の演劇であれば全編で垂れ流されているはずの「運動と感覚の、視覚像と音声の一致」に、なぜこれほどまでにこだわるかと言えば、それこそが、この「制約」こそが、映画とは異なる「演劇の可能性」の根源だと考えるからにほかならない。映像や音声を自由に切断/結合し、演劇の「拡張」を試みることもいいだろう。だが、拡張自体に価値があるわけではない。即興演奏において、エクステンデッド・テクニックの開拓あるいは開陳自体に価値があるのではないように。

 tamaruの演奏/行為に触発されて書き上げた即興演奏論【注2】において、私はハープによる即興演奏を行うRhodri Daviesについて、次のように述べている。
 「彼は楽器を多様で異質な各部の複雑な構成として取り扱う。多種多様な部分共鳴/共振のアンサンブルとして。各種プリペアドや弓やe-bow等の様々な音具の使用により、各部の差異を際立たせつつ、さらに分割振動や相互干渉を引き起こしながら演奏は進められる。ここで演奏の資源として用いられる「複雑性」が、決してプリペアドや音具の使用といったエクステンデッド・テクニックによって新たに産み出されたものではないことに注意しよう。それは以前から存在していながら、正統な演奏方法によりノイズとして排除/隠蔽/抑圧されていたものなのだ。彼は足下の直下に豊かな水脈を掘り当て、そこから音響を汲み上げている。それはエクステンデッド・テクニックが目指す領土の拡大、水平方向の踏査ではなく、垂直方向の探査の産物である。足下に開けている深淵を覗き込むこと。気がつけば深淵はあちらこちらに不気味な黒い口を開けている。」
 また、次のように続けている。
 「Derek Baileyの試みもまた、ギターを拡張(extend)するのではなく、ギターの「運命」である脆弱さ、不安定さを垂直に掘り下げ、そこから汲み上げた、通常の演奏からは排除されてしまう発音のぶれ、音の粒の揃わなさ、ミスタッチ、付随的な演奏ノイズ等をランゲージに取り込むものととらえることができる。それらは外宇宙ではなく、J.G.バラードの言うところの「内宇宙」探査の取り組みなのだ。ちなみにBaileyは、少なくともディスコグラフィ上『Solo Guitar vol.1』(1971年)から『Improvisation』(1975年)に至る期間において、エレクトリックで開拓した語法を必ずアコースティックでも達成できるよう、常に試していた。ここでも加工により新たにつくりだすのではなく、すでにありながら埋もれ隠されているものを掘り当て、明るみに出すことが一貫して継続されている。ギターを改造するのではなく、アコースティック・ギターという楽器の元来の輪郭を保持しつつ、その足下を掘り下げて新たな世界を開く、「内宇宙」探査の試み。」

 それゆえ私は、「即興的瞬間」を豊かにはらんだ演劇は、まず何よりも身体の内部に降りていくことによってもたらされると考えている。探索すべき「内宇宙」である楽器としての身体。それは所謂「身体/肉体の演劇」を意味するものではない。むしろARICAがたびたび採りあげるサミュエル・ベケットの作品が、身体を制限し、極小化し、声と言葉、言葉と主体、主体と思考を残酷に分離し、引き裂く中で、なおそこに残らざるを得ないものを浮かび上がらせることも、身体の奥底へと降りていく一つの道筋であるだろう。

 そうした険しい道筋を辿ることができるのも、安藤朋子の身体があればこそだと、改めて思う。終演後に、私の近くに座っていた老齢の婦人が「朋ちゃんも本当に体幹のしっかりした、いい女優になって‥‥」とつぶやいていた。「体幹のしっかりした、いい女優」という表現が、果たして演劇界において一般的なものであるのかどうかは知らない。だが私の耳には、その親しみを込めたごく自然な口調と相俟って、的確であるだけでなく、至極当然な賞賛と聞こえた。
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横浜公演より


3.二つのメロディが照らし出す身体の厚み
 『孤島』の舞台上でちっぽけなラジオから音声が流れ出した時、それは遠さを媒介し、この場にはない他なるものを導入するための装置にほかなるまい‥‥と瞬間的に決めつけてしまったのは、ジョン・ケージの作品やキース・ロウKeith Roweの演奏に慣れ親しんでいたからかもしれない。その音声はノイズまじりの粗いものに加工されていて、声/歌であること、標準的な日本語ではないことぐらいしかわからなかったが、ここで「島」が沖縄を含めた「南島」のイメージを作中でしばしば付与されていることから、「外国のラジオ放送が受信できるくらい本土から遠く離れている」ことの表象ととらえ、台湾か中国の放送ではないかと見当をつけたのだった。
 前回体験時のこの推測は思いっきり外れていて、実際には宮古島の神歌だった。今回、そう言われて聴いてみれば、前回よりも多少聴き取りやすかったこともあって、確かにゆったりとしたたゆたいをたたえていることがわかる。

 今回、メロディについてはもうひとつ気づいたことがあって、最初、福岡のスキャットのうちに、うっすらとか細く現れた歌謡曲風のメロディが、最後は安藤自身によって再び口ずさまれる。これも横浜用の新演出かと思って確かめると、東京公演の時にもやっていたというから、ますます自分の注意力に自信がなくなるが、今回、それが舞台上に明確に立ち上がったことは確かである(実際、今回の方がより聴き取りやすかったらしい)。島と女と歌謡曲という「定番」というべき強力な結びつきは、ARICAの硬質な舞台にあって、むしろ強い違和感をもたらした。
 後で確かめると、このメロディはバタヤンこと田端義夫が歌ってヒットした「島育ち」で、もともとは戦前につくられた奄美新民謡だが、島唄の伝承が廃れてしまった徳之島では、島へ帰る船の中で大合唱が起きるほど、人々の記憶に定着しているのだという。

 古来より脈々と受け継がれ、生活に深く根を下す「土着」の文化である宮古島の神歌がラジオから流れ、対して昭和を迎えてから生まれ、後にレコード化されて全国ヒットした新民謡/歌謡曲が記憶の海からふと湧き上がり口を衝いて出るという、距離と時間の遠近の交差が興味深い。島とは中央から伝わる文化が最も遅れて届く場所であり、それだけ古い文化が変化を被らずに原型のまま保存されていたりもする。その一方で、島は海を通じて周囲に開かれており、異文化が最も早く伝来する「接触地帯」(ジェイムズ・クリフォードJames Clifford)でもある。そこにあるのは「純粋」で「手つかずの」文化などではないし、文化変容がイコール文化の衰退や死を意味する物でもない。
 『孤島』においては、こうした島が本来的に有している二重性/多重性への眼差しが、同時に、そこに暮らす民の生活や身体の厚みをとらえている。先に見た宮古島の神歌と田端義夫「島育ち」の関係もそのひとつだが、より身体が前景化された例として、作中二度繰り返される安藤が豆を食べる場面を見てみよう。彼女はポケットから豆を一粒取り出すと、何回か反動をつけるために腕を振り身体を揺すり(その度に「島」もまた揺すぶられる)、豆を投げ上げて、落ちてくるところを開いた口で受け止める。何度か繰り返され、失敗してこぼれ落ちることもある。そして最後には同じく反動をつけながら、投げ上げずにそのまま口に放り込み、ボリボリと大きな音をたてて噛み砕くのだ。客席から思わず笑いがこぼれるこの場面は、過酷な「島」の生活環境に耐えるだけではなく、時に出し抜いてみせる身体の狡智を示している。と同時に、不安定に揺れる「島」の上を、他のほとんどの瞬間、安藤が何事もないかのように自在に動き回っていることに改めて気づかせる。
 ここでは「しっかりした体幹」こそが身体の厚みであり、それはまた、先に見た抽象と具体、聖と俗、シンボルとアレゴリーの両極を間断なく揺れ動く「揺らぎ」を受け止め、映し出す多層の襞を備えた身体でもある。テクストに抗う身体。

【注1】
 後で聞いたところによると、東京公演でも最初は音量の補正はなかったとのことだ。しかし、そうすると、吊り下げマイクロフォンが口元を離れると声が聞き取りにくくなってしまうことから、テクストの内容をしっかりと伝えるため、あのような補正に至ったとのこと。私自身としては、叫んでも聞こえないことも含めて声の身ぶりであり、そのような身ぶりこそがテクストに息を吹き込むのだと思うところだが、それはもちろん作品中でテクストが担う役割によっても違ってくるだろう。よって、ここではこのこと自体の是非には踏み込まずにおく。
【注2】
「足下に口を開ける深淵 −− tamaruの無謀な企て」
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-458.html

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横浜公演より

ARICA『孤島 On the Island』
演出:藤田康城
テクスト:倉石信乃
音楽・演奏:福岡ユタカ
美術・演奏:西原尚
出演:安藤朋子

東京公演 2019年1月31日〜2月4日 北千住BUoY
横浜公演 2019年2月15日〜2月17日 横浜ARICA特設会場
※文中「前回体験した」とあるのは2月3日の公演、今回体験したのは2月17日の最終日の公演です。






ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:17:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
誰が揺れる身体を目撃できるか −−−− ARICA『孤島』レヴュー  Who Can Witness Swaying / Shaking Body ? −−−− Review for ARICA " On the Island "
−1.身体の揺れを感じ取ること
 居間に座っていて、地震の揺れに遭遇することがある。あれ、揺れているかなと思っても確信できず、壁にかけた装飾具の振り子が揺れているのを見やって、ようやく得心する。自分の身体の揺れはよくわからない。今日は随分揺れていましたね、と隣席の友人に指摘されて初めて、ライヴ演奏に合わせて身体をゆらゆらと揺すっていたことに気づかされる。まだ幼い頃、家族旅行に出かけて、遊覧船に乗ったり、海水浴をした後、旅館に戻って寝そべると、畳ごとゆらゆらと揺すぶられて、揺れてるよ、揺れてるよと大声を出したことを覚えている。
 自分の揺れを感得できないのだから、他人の感じている揺れなどわかるわけがない。此れ見よがしに身体を二つに折り、波打たせれば、「揺れ」を表していることはわかっても、身体の揺れ自体を伝えることはできない。足下で台地が揺らぎ、支えを失って不安が走り出し、それでも何かを掴もうと足先に力が込められる。手指の先まで緊張が行き渡る。そうした張り詰めた身体を感得することはできても、やはり揺れ自体、揺れている身体そのものを感じ取ることはできない。


0.特定の場所
 ARICAの新作『孤島』の東京公演は、北千住BUoYで行われた。各路線が入り込んで無闇に長くなった駅の、今まで行ったことの無い南端の出入口から階段を降りると、かつて国鉄の高架下に軒を連ねていたような飲屋街が現れ、タイムスリップ感覚に驚かされる。墨堤通りまで出て、珍しく迷わずにたどり着く。かつてはボウリング場だったという2階のカフェ・スペースに上がると、廃墟感あふれる剥き出しのコンクリートに、木製の什器や装飾が配置され、これ自体、演劇的な空間をかたちづくっている。写真がないのが残念だが、天井までの高さ5mはあろうかという木製ドアに設置された、同じく木製のパズルみたいなカラクリ錠前の見事なこと。こちらは銭湯だったという地下の舞台スペースは、やはりコンクリートの梁が剥き出しの廃墟風で、突き当たりの壁に浴槽が残されており、水が張られているのか、ゆらゆらと揺れる波紋が温泉の大浴場風の石張りの壁に映し出されている。右手の奥と左手の手前に配されたラップトップPCを措いた机は、「演奏」とクレジットされている福岡ユタカと西原尚が座るのだろう。黒いPAスピーカーが配され、さらに選挙カーに乗せられているような巨大なトラメガ様のスピーカー(「トランペット・スピーカー」と言うのだそうだ)が黒い床に直置きされている。装置らしい装置は何も無い。乾燥した冬の空気の中、それでも水の気配に浸されて舞台は始まった。

ARICA孤島2縮小


1.開幕
 壁に水の揺らめきを映し出しただけの暗い舞台に、何物ともつかぬ黒い影が現れ、右手から左手へと動いていく。フランシスコ・ロペスFrancisco Lopezの作品で聴かれるような不穏な空虚音がスピーカーから放出されている。土台となる部分に幾つか突起物が付着した「それ」は、重さに軋みながら断続的に進み、左手の壁に突き当たって少し後戻りする。どうやって動いているのか、よくわからない。上から吊るした細いワイヤーが見えるが、それで動いているとは到底思えない。レールや車輪を使った滑らかな動きでもない。訝るうちに、影は今度は前へ、すなわち客席の方に進み始める。遠く聴こえる口笛にも似た響きに希薄なフィードバック音が重ねられ、影が奥と手前の段差を斜面で滑り降りると同時に波しぶきがすべてを包み込む。
 ようやく姿を現した「それ」は、2畳ほどの広さの「島」状の装置で、傾いた上面に椅子、引き出しダンス、傘立て、細い枯れ木、コンクリート・ブロック、半分埋もれた漁網の浮子等が乗せられている。ベケット原作によるARICA『しあわせな日々』の世界観を、ちっぽけな無人島(椰子の木が一本だけ生えた「無人島マンガ」の記号化された舞台)に反映させた感じ。

 「島」の下から女の手が現れ向こう側の上面を叩き、次いで両脚が上方に向かってV字に伸ばされる。やがて左側の下から、自動車整備工のように仰向けの頭が出てくる。装置の下に這い入って、この重い塊を背負い、あるいは押してきたのか……と驚くうち、両腕が伸びて椅子の脚を掴み、椅子の脚の間をくぐって上へと這い上がってきた。照明が点され、主演の安藤朋子の姿がくっきりと浮かび、波の音が静まって、あらかじめ録音された彼女のモノローグが流れ始める。
 感情や体温から切り離された声の冷ややかさ/遠さ。まるでピアノの鍵盤を弾いているように粒が揃い明晰で一定のテンポを保ちながら、まさにそのことによって語り手の身体性を切り取られた空虚にして平坦な声は、彼女の生い立ちや家族のこと、「本土」から切り離された「島」での生活といった一見わかりやすい物語を語りながら、文脈の連なりは具体的な身体像へと着地すること無く宙に浮かび、言葉の断片となって降り注いで、足元に積もっていく。実際、そうして放たれる言葉をよそに、主演の安藤は「島」の上をしばし動き回り、そのたびに重心が動いて「島」をあちらこちらに傾かせる(彼女の足裏に走る緊張)。かと思えば、また頭からずるりとずり落ちて、「島」の下へと這い入ってしまう。
 幼稚園か何かのフィールドレコーディングだろうか、子どもたちの歓声が遠く蜃気楼のように浮かび、オルゴールに似た天国的な音色(見れば西原尚の奏する親指ピアノだった)が重ねられる。


2.孤島とは
 今回の『孤島 On the Island』のフライヤーには、次のような惹句が掲げられている。

  ひとりで立っている たったひとり 島はひとつ 島は遠い
  島はここにある ここにあるのか ここは島 どこの島 島は島

 一方、当日、会場で配られたペーパーには、粗筋に当たるであろう説明として、次の文章が掲げられている。

  年老いた女がひとり。海に囲まれた小さな島、住人も旅人も少ない。
  女は、自分が落ち着くことの出来る居場所を作り上げるために、震える手と足で、
  小さな島のなかに、さらに彼女だけの、極小の居場所としての「島」を作ろうとする。
  それだけが彼女の望みであるかのようだ。
  しかし「島」は絶えず揺動して、定まることがない。
  西原尚が作る、揺れる奇妙な「島」と格闘する身体の演劇。

 さらに同じペーパーには、演出・藤田康城の署名入りの「マイナーなものを凝視する。」と題された文章が掲載されている。いやむしろ、この文章を掲載するためにペーパーが発行されたのだろう。そこで彼は、西原尚(『孤島』の上演で美術・演奏を担当している)の造形作品の「不毛な動きの繰り返し」に触れた後、「そんな、徒労に満ちた繰り返しは、サミュエル・ベケットのお得意だ」とつぶやき、ARICAによるベケット『しあわせな日々』のインド公演を振り返り、そこから改めて『孤島』について次のように語る。

 日本は島国だと言われている。
 「本土」が中心だと思わせながら、しかしたくさんの島がそこにある。
 そして、この舞台はどこかの小さな「島」の話だ。
 何処と名指されてはいないが、長い歴史と政治の中で、
 「中央」に翻弄され続けてきた「島」のようであり、
 その孤立性は、生きることの過酷さを表している。
 そうした「孤島」において、さらに孤立し、体ひとつを頼りに自分だけの「島」を作り、
 そこに居場所を求めようとするひとりの女の話だ。
 だが、その女のアクションは、ベケットの登場人物のように、
 ただただ無益な労苦を重ねるだろう。

ARICA孤島1縮小


3.焦点となる身体像の不在
 ここには多くの音が息づいている。音量が大きいとか、音数が多いと言うのではない。音源が多元化しており、それらがひとつの共通平面を織り成すことなく、多層のまま交錯し、敷き重ねられる。
 あらかじめ録音された声が語るテクストがある。基本的には前章に掲げた設定に沿っているが、決して一筋縄では行かない。感情や身体の揺れを映し出すこと無く、淡々と一定のテンポで、柔らかく、だがきっぱりと区切られたマルカートにより奏される声は、だがふと倍速に歩みを速め、あるいは半速に遅らせる。声の調子を何ら変えることなく、感情の動きとは無縁に(パーキンソン病的な不随意の感覚)。「ここにあらず」感をたたえて、言葉を宙に浮かせながら。かと思えば、秘密裏に送られてくる島抜けの招待状(おそらくは彼女の妄想なのだろう)について語る際には、声がふっと潜められる。
 突然にピンポンパンとチャイムが鳴り、「迷子情報」の放送が始まる。デパートや遊園地で流れるアレだが、そのいささか不明瞭で聞き取りにくい声は、先ほどまでの語りと音調は異なるものの、同じ彼女の声のように思われ、眼の前にある装置がつくりだしている舞台空間にも、想起が紡ぐモノローグの中にも着地できず、中空で不安定に揺れながら消えてしまう。
 ここではすべてが揺らぎのうちにある。福岡ユタカのうら寂しい口笛やスキャットも、西原尚の親指ピアノや鳴り物も、ふと始まるチターに彩られた観光音楽も、同調を外れた短波ラジオの電子ノイズも、語りの平面にも、装置のある舞台空間にも、「フレーム外」の音響にも収斂することがない。その一方で、眼前の安藤の動きと同期する音がある。「島」の上を動き回る足音やこれにより揺らぐ「島」の軋み、あるいは彼女が傘を取って「島」を叩く音などが同期するのは当然であり、何の不思議もないが、彼女がペットボトルから水を飲む音(飲み込む際の喉の鳴り)や漏らす息が、口元のマイクロフォンで拾われ、増幅されて空間に響き渡る。身体の内部の音が外へと放射され、外部の音と混じり合う。すると先程来の録音された声によるモノローグは、外付けのナレーションではなく、リアルタイムの内語ではないかとの疑念がふと頭をもたげる。例えば、ここで聞かれる「……というやり方」という口癖は、サミュエル・ベケット『しあわせな日々』でとめどもなく溢れ出す、いかにもベケット的な繰り言のうちに頻出していた。彼女がトランジスタラジオのアンテナを伸ばすと、くぐもって聞き取りにくい北京放送か何か(藤田康城によれば「あえて聞き取りにくくしているが、宮古島の神歌を使用している」とのこと)が流れ出し、これが効果音のように聞こえた短波ラジオのノイズと意味有りげな目配せを交わし合う。

 このようにミクロな疑念が沸き立ち続け、世界像が収斂し得ないのは、舞台上に視線の、運動/感覚の、あるいは言葉の焦点となるべき、明確な身体像が不在だからではないか。こうしたことは、これまで観てきたARICAの舞台ではなかった。『ネエアンタ』及び再演の『Ne ANTA』では山崎広太の身体が舞台上に存在し続け、安藤の声に語りかけられ続けていた。『しあわせな日々』では舞台の中央でうずたかく積まれた廃品の山に埋もれながら、とめどもなく語り続ける安藤の身体があった。『蝶の夢 ジャカルタ幻影』においては安藤と首くくり栲象の身体が、『UTOU』においては安藤とジョティ・ドグラの身体が繰り広げる、まさに運動と感覚をぎゅっと束ね圧縮するスプラスティックな運動があった。
 しかし、今回の『孤島』における安藤の身体は、そのように運動や感覚、あるいは言葉を集約する焦点とはなり得ない。身体はくっきりとした像を結ばず、何重にもずれ重なり、埋め難い欠落を帯びている。例えば、彼女が椅子に置かれたヘアーブラシを取り上げるや、動作が突然スローモーションと化し、それまで鳴っていた音も消え失せ静まり返って、緊張が異様に高まる中、正面を向きながら視線を横に流し、美しい銀髪をこれ見よがしに梳る蠱惑的な場面。あるいは「サトウキビは島を守り、島は本土を守る」というように、語り/テクスト中に不意に噴出/浮上し、露呈される沖縄の過酷さ。さらには、「私をどこかへ連れ出して、そのまますぐに捨てて」といった酒と煙草にまみれた歌謡曲的俗情の、他とは明らかに異なる匂い。

 そうしたずれや欠落が最も端的に、またシンボリックに現れているのが、安藤が録音された声に合わせて語りながら、そこからぼろぼろと歯が抜けるように、音が脱落していく場面だろう。もともと「伝えよう」という意志など微塵も感じられない希薄な音の平坦な連なりは、さらにライヴで声を重ねられ、また、その際の口の動きが極端に誇張され、発声との非同期感をもたらすことにより、複数化され、ずれを来たし、不明瞭なぶれをいや増して、言葉とは一切関わりのない口腔音の不気味でいびつな明滅と化していく。


4.「島」との紐帯
 先の場面に続く展開において、安藤が急に背伸びし、梁から垂れ下がったロープをつかみ引くと、壁際に置かれていたトランペット・スピーカーがぐいと中空に吊り上げられる。左手の机で演奏していた西原がやおら舞台へと乱入し、シンバルで太腿をバンバンと叩きながら、「島」のまわりを廻り始める。PAから放射される爆撃音が興奮を煽り立てる。ロープを掴んだまま「島」から離れることのできない安藤に対し、まるで檻の中の猛獣を威嚇する猛獣使いのように、手に持った竿から吊り下げたマイクロフォンをぐいっと突きつけ、彼女が例えば「ホンドー(本土)」と叫びながらパン食い競争のようにそれにかぶりつこうとすると、今度はすぐさま引き離す。
 この即興的なやりとりを通じて、舞台上の身体の運動は最高潮に達するが、それでもその動きは、ARICAご贔屓のバスター・キートンによる疲れを知らない機械的な動作、スプラスティックな蕩尽的運動に至ることはない。それはむしろ、彼女がこの「島」に縛り付けられ離れられないこと、すなわち「島」に囚われた「運動の限界」を、明らかにするために繰り返される動きにほかならなかった。

 彼女は「島」から離れることができない。まるで眼に見えない臍の緒で結ばれているように。彼女は常に「島」を背負い、あるいは抱えている。思えば、彼女が「島」の下から這い出し「上陸」する時も、決して「島」から身を離すことがなかった。頭からずるりと滴り落ちて「島」の下に入り込む時もまた。
 「島」の境界は鋭く断ち切られている。傾いた椅子は、その境界線に沿って一部を斜めに断ち落とされている。このことは「島」が世界の中に居場所としての広がりを確保しているのではなく、ちっぽけな区画に閉じ込められていることを示していよう。「場所」というより「容器」としての「島」。
 ひょっとして「島」の下に入り込む動きは死を、這い上がる動きは誕生/再生を暗示しているのだろうか。そう考えれば、彼女が「島」へと這い上がる時に、いつも苦労して椅子の脚の間やタイヤの穴を通り抜けねばならない理由もわかる。容れ物としての身体を抜け出し、また入り込む魂。とすれば、「彼女」は、何度も死んでは生まれ変わる「彼女たち」の一断面にほかなるまい。
 「彼女たち」は繰り返し繰り返し、愛してなどいない父母に先立たれ、愛していた兄に置き去りにされ、届かない招待状を待ちわび、長い髪を梳かしながら年老いていくのだ。それは差異を産み出す能産的な反復ではなく、無限に続くループへと閉じ込められた生であり、暗く重苦しく痛く苦い倦んだ持続にほかなるまい。


5.テクストへの抵抗
 ARICAが以前に上演した『UTOU』のコーダ部分で、安藤がひそひそと語り漏らした倉石信乃によるテクスト「死んだ小鳥のために」について、私はレヴューで次のように述べている。

 「私は最後に読み上げられたからと言って、それが何か劇の結論めいた終着点と見なしたくはない。この国の現在を水没させている重苦しく出口のないやりきれなさに、鳥を殺し続ける罪深さを結びつけようとは思わない。能舞台の座標空間から思わずフレームアウトしてしまう、ほとんどスラップスティックな身体同士の直接的なやりとりを、ぎりぎりまで切り詰め削ぎ落とした結果、微かな気配ばかりとなってしまった「反転した希望」に向けて、決意表明を行うための助走と位置づけることはしない。
 むしろ、この「コーダ」は、これまで劇の上演を観てきた一人ひとりが、各自それを振り返り、自分なりの「物語」を再構築する「自律」に向けて、反発を惹起し組織するために置かれたのではないかと、私は思うからである。」

 今回の『孤島』のテクスト(やはり倉石信乃による)は、「死んだ小鳥のために」よりも、さらに暗く重苦しく痛く苦い。それは時代の空気の率直な(あるいは何重にも屈折した)反映なのかもしれない。ちっぽけな閉域に押し込められた装置と身体は、歴史をもはらみ込んだテクストの混沌とした分厚さに対抗する術を持たないようにも見える。
 だが、第3章の冒頭に記したように、ここには実に様々な音が息づいている。演出の藤田康城は客席の後方、すなわち観客の視界の外で、ずっと音響を流し、あるいは声を細かく編集加工していたと語ってくれた。
 この多様な音響の生成変化の側から舞台を眺め、過剰なテクストと過剰な音響の間で、また不安定な装置の上で揺れ続ける身体の、そのぶれや揺らぎにこそ注目することにより、テクストの重さに抵抗しようというのが、本論の目論みということになる。
 これがいささかバイアスのかかり過ぎた見方であることは承知している。だが、一見簡素な外見とは裏腹に、むやみに情報量の多い上演に接し、ずたずたに刺し貫かれた観客の身体が、切れ切れの記憶や印象をつなぎ合わせて、何とか自分なりの体験を言語化しようというのだから、公平・公正・客観的な言述など出来ようはずもない。
 おそらくは2月15日から始まる横浜公演を見直したならば、まったく違った見解に至るのではないか。また、この『孤島』という作品自体が、上演空間に合わせて様々に変容するであろうことも想像に難くない。そのような体験への欲望を喚起することこそが、演劇の(と言うよりもより幅広く、上演の)使命ではあるまいか。

 開演から終演までずっと、舞台上には「島」の装置の軋みが間歇的に鳴り響き続けていた。唯一確実なことは、このちっぽけな大地が揺れ続けていること。でも、誰が、いつ、どこで、その揺れを感じているのか定かではない。

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ARICA『孤島 On the Island』
演出:藤田康城
テクスト:倉石信乃
音楽・演奏:福岡ユタカ
美術・演奏:西原尚
出演:安藤朋子

東京公演 2019年1月31日〜2月4日 北千住BUoY
横浜公演 2019年2月15日〜2月17日 横浜ARICA特設会場
※私が観たのは2月3日の公演です。

ARICA公演レヴュー一覧
『ネエアンタ』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html
『しあわせな日々』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html
『UTOU』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-305.html
『Ne ANTA』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html
『蝶の夢』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-410.html




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 02:53:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
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