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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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『松籟夜話』第九夜来場御礼  Thank You for Coming to "Syorai Yawa" the Ninth Night
 6月11日(日)開催の『松籟夜話』第九夜「音響都市の生成」、多くの方にご来場いただき、ありがとうございました。「都市」がテーマということで、もっとライトな仕上がりになるかとも思っていたのですが、結局はいつも通り掘り下げに掘り下げて、ハードコアかつディーブ極まりない内容に成り果てました(笑)。特に後半のクライマックスの連続は、これまでの中でも出色の展開ではなかったかと思います。
 ここでは、当日ご紹介した音源をリストアップし、コメントを添えます。コメントは当日のままではなく、また企画の性格上、当然のことながら、プログラムの流れの中に位置づけての説明となっておりますので、その作品の全体像をニュートラルに伝えるものではありません。なお、試聴トラックはあくまで雰囲気を感じ取っていただくためのもので、必ずしも当日プレイしたトラックと同一ではないことにご注意ください。

蠖捺律・神convert_20170616173057
撮影:原田正夫


開演前BGM

V.A.『エチオピアの音楽』tr.11「エチオピアの教会音楽」
試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
 エチオピアのコプト教会聖歌。前回の「聖なる場所に集う声」でご紹介したOcora音源とはかなり音の手触りが異なり、ゆったりとした御詠歌調。重なり合うレイヤーが揺らぐ様が今回紹介する音源と共通する耳の視点を要求する一方で、カテゴリー的には前回企画とつながっていることから、ブリッジ役を務めてもらった。


開幕

Colette Magny『Vietnam 67 / Mai 68』tr.13
試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=CdGVMsoivhg
 聴覚による都市イメージを探るにあたり、「音の絵葉書」的なかっちりした枠組みに到底収まらない溶解/流動状態の都市音響を「最初の一撃」として。タイトル通り、パリ「五月革命」の街頭実況録音を含む。飛び交う怒号、沸騰するパロール、ただならぬ気配の中、「インターナショナル」の決して勇ましくはない歌声が流れる。

蠖捺律・農convert_20170616173126
撮影:益子博之



第1部 スナップショットが浮かび上がらせる都市像

 都市が大規模化・多様化し、一望の下にはとらえきれなくなったことを前提に(「見えない都市」)、スナップショットによる一瞥の断片の集積が浮かび上がらせる光景に耳を澄ます。もちろんそれは一部に過ぎず、「群盲、象を撫でる」が如く、決して全体像には行き着かない試みであるのだが。

Christina Kubisch&Eckehard Guther『Mosaique Mosaic』tr.1~2
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=10742
カメルーンで現地学生に教えてもらった「音が面白い場所」のサウンド・スナップショットによる構成。がやがやと埃っぽい市街の喧噪、下世話な生活感が溢れる。怒鳴り合う(?)声の応酬と、日向ぼっこする猫のように脱力しきった街角の讃美歌。拡声器やラジオの電気的歪みが最初から風景の一部として瀰漫している。レム・コールハース「ジェネリック・シティ」の猥雑な強度。洗練されたハイ・アート作家のイメージが強かったKubischによる思いっきり生々しい達成。

Craig Shepard『On Foot:Brooklyn』tr.1
試聴トラック:https://craigshepard.bandcamp.com/album/on-foot-brooklyn
タイトル通り、ブルックリン地区内をあちこち徒歩で巡りながらの街頭演奏録音集。なかなか始まらない演奏に向けてそば立てられる耳が、「何もない」街角の景色を思わず映し出してしまう。後から添えられるクラリネットの細い線も、「食いだおれ人形」みたいなドラムも、そうして成立した都市の聴覚イメージを、ふっと浮かび上がらせるものとして機能する。

近藤譲『ブルームフィールド氏の間化』B-1「夏の日々」
試聴音源なし
 コンサート終了後の拍手から始まる、彼には珍しいテープ・コラージュ作品から、目線の高さを飛行するクラリネット(前掲トラックからの連続性)に導かれて路地に入り込み、降り注ぐ蝉時雨の下に佇んで、子どもたちの言葉遊びを見守る部分を抜粋。穏やかな慈愛に満ちた、しかしノスタルジックでしかあり得ない耳の視点。

Carl Stone『Kamiya Bar』tr.4+tr.5
試聴トラック:http://www.allmusic.com/album/kamiya-bar-mw0000892540
 対して同じ「街角の声」(日本語)に着目しながら、「社会鍋」の呼びかけや市場の売り立ての連呼を採りあげるカール・ストーンの手つきは「クール」そのものだ。日本語を解するにもかかわらず、あえて意味にとらわれず、サウンドのフェティシズムに溺れる彼は、そのポップ&キッチュな耳の鋭さによって、凡百のエキゾティシズムを軽々と乗り越える。フィールドレコーディング音源によるセッションにおいても、彼の「空気を読まないこと」が微温湯的な閉域を切り裂く場面を何度も目撃した。

AMEPHONE『Retrospective』tr.2
試聴トラック:https://amephone.bandcamp.com/
 前々回特集したAMEPHONEから。駅まで近道をしようとして、不案内な住宅街に迷い込み、あたりを見回した瞬間、どこかの家の開け放たれた窓からふと聴こえてきそうな弦アンサンブルの音が、テープ速度の操作で歪み、すっと音もなく崩れ落ちる。何気ない日常の中で足元が揺らぎ、見慣れたはずのものが見知らぬ何物かに変貌する。

蠖捺律・胆convert_20170616173145 蠖捺律・点convert_20170616173201
撮影:原田正夫


第2部 俯瞰と転送 ― 都市空間における身体の位相

 先に見たスナップショットの集積に対し、俯瞰による眺め、あるいは聴き手を一瞬のうちに包み込む響き(J.J.ギブソン「包囲光」を踏まえて「包囲音」とでも呼びたいところ)により、別の場所へと一瞬のうちに送り届けられ、その場に投げ込まれる感覚の作品群を。

V.A.『エチオピアの音楽』tr.9「皇帝の到着」
試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
 ラスタファリアニズムが熱狂的に称えたエチオピア皇帝ハイレ・セレシエの到着の模様の現地録音。俯瞰的視点から、見渡す限りの人の波の広がりが大河の流れのようにゆったりと進み、厳かに鐘が鳴り渡り、あちこちで歓声が上がるかと思えば、手前では何やら話し込んでいる‥‥という、多層/多重なレイヤーの重なりがじりじりと動いていく。圧倒的な音後景の顕現。前半のハイライトのひとつ。

V.A.『Streets of Lhasa』tr.17
試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=PBbEn-fdB0o
 タイトル通り、チベットのラサ市街における現地録音。四方八方から襲い掛かる混濁した雑踏音に、方向感覚を喪失し、くらくらと酩酊してしまう。Sublime Frequenciesレーベルらしい猥雑なストリート感覚。アルバム全体の編集はSun City GirlsのAlan Bishopが務めている。

前林明次『I/O Distant Place』tr.4+tr.10
試聴音源なし
 やはり異国の地のフィールドレコーディング音源。タイトル通り、自分の部屋に居ながらにして、別の場所に瞬間転送され、その場所に立ちこめる響きや匂い、温度/湿度の只中に放り込まれる感覚。自身の頭部にマイクロフォンを装着して、街を歩き回ったバイノーラル録音。


Christina Kubisch&Eckehard Guther『Unter Grund』tr.1
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=14340
 このパートの冒頭にプレイした『Mosaique Mosaic』チーム再び。こちらは独ルール地方を支える地下揚排水システムのフィールドレコーディングから、地下水位の上下に即して、いったん停止した巨大機械が再び作動を開始するまでの間を抜粋して聴取。動作音と入れ替わるように暗騒音が揺らめき立ち上り、暗闇を見詰める視線に閉所恐怖が充満する。


休憩

Moondog『Viking of Sixth Avenue』
試聴トラック:http://honestjons.com/shop/preview/27437
 ムーンドッグ活動初期の街頭録音から。チャカポコとしたドンカマ的リズムとハンマー・ダルシマーの音色。ムーンドックの演奏する姿は都市の一点景である一方で、やはり録音は演奏する彼へと向かい、環境音は単に背景に過ぎない。


Michael O'Shea『Michael O'Shea』 A-1
試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=50059285
 ハンマー・ダルシマーを改造した創作楽器「モ・カラ」を演奏するストリート・ミュージシャン。WIREのB. C. GilbertとG. Lewisがプロデュースし、彼らの起こしたDomeレーベルからリリースされた。緩やかな打撃が弦の上をどこまでも移ろう。



映像解説「生成/浮上する都市のイメージ」
音源の聴取とコメントが織り成す文脈に、視覚イメージにより補助線を引く試み。ここではボードレールの愛したGiovanni Battista Piranesi(1720-1778)とCharles Meryon【1821-1868】をまず採りあげ、前者による古代ローマの想像的再現『Campus Martius』をヘテロトピックな「コラージュ・シティ」(Colin Rowe)の先取りと評価し、後者によるパリ市街図の幻想による侵食とその再抑圧を、「表象の空間」(Henri Lefevre)の視点からとらえた。続いてWOLS(Alfred Otto Wolfgang Schulze)【 1913-1951 】と難波田史男 Fumio Nambata【1941-1974】において無意識から浮上する都市イメージに関し、難波田の愛好したPaul Klee【1879-1940】の分割と反復による構築と対比させた。
 
            Giovanni Battista Piranesi ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ

 
                     Charles Meryon シャルル・メリヨン

 
             WOLS  ヴォルス             難波田史男 Fumio Nambata


第3部 路傍の芸

藤本由紀夫『Ears on the Rooftop』
試聴トラック:http://www.geocities.jp/paganrail/omegapoint/editionOP-2.html
 屋上に据えられた金属パイプを通して聴く周囲の音響。ごーっという管の共鳴のうちに環境音の断片が浮き沈みする。大道芸の沸き立つイメージに冷水を浴びせかけ、しかるべき距離と冷静さを確保するための1ステップ。

Willem Breuker『Lunch Concert for Three Barrel Organs』B-1
試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=90378353
 大道で懐かしい響きを奏でるはずのストリート・オルガンが、広場に3台も集められて、口角泡を飛ばしながら議論し合うゲリラ的パフォーマンス。すわ何事かと慌てる市民。ブロイカー本人の証言によれば警官まで駆けつけたという。


里国隆『路傍の芸』tr.1~3
試聴音源なし
 盲目の伝説的ストリート・ミュージシャン(奄美出身)。沖縄那覇の市場アーケードでの演奏に幸運にも出くわした宮里千里による貴重な録音(彼は『イザイホー』の録音者でもある)。鋭く律を刻む四ツ竹、繊細にしてグラマラスな箏の音、地を這い胸を刺し貫く声の強度、周囲を取り囲む聴衆のざわめき、そしてその向こうから聞こえる買い物客の賑わい‥‥何もかもがくっきりと墨色鮮やかに生々しい。歸山幸輔特製スピーカーがまた新たに潜在能力を解き放った。里と宮里の曲間の会話も収録されており、「空間を丸ごととらえる」宮里ならではの仕事。

Satomimagae『Awa』tr.4+tr.9
試聴トラック:https://satomimagae.bandcamp.com/album/awa
tr.9 Official MV https://www.youtube.com/watch?v=9aP5lMtVZRc
 街頭演奏の現地録音ではないが、フィールドレコーディングによる都市のざわめきを挿入する特異な女性SSW。「これはギターの弾き語りではない」と自ら主張するように、ライヴでも流される都市の音響は、単なる装飾や背景にとどまることなく、鋭く張り詰め彫り刻まれた声/ギターと拮抗して、ざらざらと粗く冷ややかに耳にやすり掛けして、どこまでも聴き手の覚醒を促す。私や津田の愛聴盤である本作品でもまた、歸山スピーカーはこれまで聴いたことのない異次元の再生ぶりを見せた。

hofli『Lost and Found』tr.11
試聴トラック:http://www.pastelrecords.com/koencafe/?p=218
参考文献:http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-265.html
 市街の片隅で演奏を繰り広げるバスキングを何度も見かけ、これに刺激され、ヨーロッパの地下鉄駅通路でのフィールドレコーディングにオモチャのスティールパンを重ねたものだという。都市のざわめきの向こうの(フィルタリングされた)演奏風景ではなく、演奏音によって紗を掛けられ、その網目に浮き沈みする都市の光景。「たったひとつの現実」が「もうひとつの現実」への回路をすっと開いてみせる。


第4部 音響都市の生成

 一瞥=スナップショットの集積による第1部に対し、こちらは腰を据え、たじろぐことのない凝視=持続により、都市が生成していく様をとらえる試み。第3部の里国隆あたりから大きく押し広げられた耳が、未曽有の事態を目撃するに至る。

津田貴司:未発表音源
試聴音源なし
 公園の池の水位調節用地下水路の空気抜きの穴に、マイクロフォンを下ろして収録した音響とのこと。水音と広がる響きが空間のヴォリュームを明らかにする(身体の中で『Unter Grund』や『Lost and Found』と響き合う)。覗き込む闇の奥にある広がり。しかし、途中から響きは聴き手の背後にも広がり、あたり一面に立ちこめて、耳は空間の内部へと引き込まれ立ち尽くす自分自身を発見する。何の抵抗もなく足を踏み外すように、微かな兆候すらなく世界の色合いが一変する瞬間。ここでもまた歸山スピーカーの力が際立った(聴き手を包み込む背後の音まで再生できるなんて。モノラルなのに)。

Gilles AubryStéphane & Montavon『Les Ecoutis, Le Caire』
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=2301
 以前から様々な機会にプレイしてきた音源だが、今回初めてしかるべきプログラムに組み込めた気がする。茫漠とした響きの雲の広がりが、動き揺らめいて次第に濃淡を明らかにし、やがてそこに見知った風景を映し出す。この占い師の水晶玉を覗き込むような体験を引き起こすのは、オーブリー自身が「間接的聴取」と名付けた手法(というより姿勢か)であり、おそらくは直前にプレイした津田の音源同様、対象/外界からの距離の異なる複数のマイクロフォン間のミキシング・バランスを連続的に変化させることにより得られる効果なのだろう。しかし、そこに生じる現象は左右のステレオ・パンニングなどとは異なり、体感総体を耳を通じて揺さぶりたてる世界認知(そこにいる/外部がある感覚)の変容にほかならない。その初期の中平卓馬の写真を思わせる、冷ややかにモノクロームで凝縮された「覚醒感」は、Satomimagaeと確かに通じるものがある。

『イザイホー』tr.6+tr.10
試聴トラック:http://www.reconquista.biz/SHOP/BsF006.html
 前回、冒頭に聴いた音源を再び。「最初に聴いてしまったために、そのすごさがじゅうぶん伝わらなかったのではないか」との反省に基づいての再演だったのだが、いやあ驚いた。最初の声の揺らめきの艶めかしく濡れたような輝きなど、絶対これまでの再生では聴いたことがなかったし、本当にこの世のものとは思われないような美しさだった。民俗学/民族学に大きく傾いた前回の聴取モードが、やっぱりアートより伝統/生活のがすごいよね‥とか、お婆ちゃんて最強無敵だよね‥というところに話を落とし込んでしまうのはツマラナイと感じていたのだが、それは結局、いま耳にしている響きの在処を、その向こうの実体に、そのキャラクターや物語に求めてしまうからだ。そうではなく、あくまでも「手前」にとどまって響きを構成するレイヤーを聞く‥‥という行為を、藤本由紀夫を導入に里国隆、Satomimagae、hofli/津田貴司、Gilles Aubryと強力極まりない音源に対して繰り返し続け、耳をつくってきたことが、こうした輝かしい「奇跡」をもたらしたのだろうか。なお、今回は締めくくりの「区長挨拶」も聴き、録音者である宮里の意識した「丸ごととらえる」ことをフォローした。

Gilles Aubry『The Amplification of Souls』tr.2
試聴トラック:http://www.adocs.de/buecher/sound/amplification-souls
 最後は今回のシンボルとなるアーティスト、ジル・オーブリーの新作から。キンシャサでのキリスト敦礼拝のフィールドレコーディング。まるで空爆のように炸裂する説教師の歪みまくったアジテーション。それに呼応して叫び、沸騰する民衆の怒号。レイヤーを切り出すことなどかなわず、ひたすら量子化してマイクロフォン/耳に襲い掛かる音の爆発/激流。「五月革命」より混乱/液状化し、『イザイホー』よりトランスした究極音源。初めて聴いた時は、小冊子に付属した体裁もあって、何だ、文化人類学/社会学調査のリポートかと失望したりもしたのだが、この日、この流れの中でようやく本領を発揮してくれた。


サルヴェージ

Satomimagae『Koko』tr.3「Niji」
Official MV https://www.youtube.com/watch?v=SbzGx_fy_wM
 響きの深淵へと深く深く沈潜した耳を(魂を?)現実世界へと浮上させるための儀式。今回は第3部でプレイしたSatomimagaeからもう1曲。不愛想に低く呟く声が、次第に高揚し、深い深い井戸の底から頭上に小さく開けた明るみを目指して、各層を貫いて力強く浮かび上がる「浮上感」にすべてを託して。

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今回も驚異的なパフォーマンスを見せた歸山幸輔制作の特製スピーカー  撮影:多田雅範   


【参考文集】

 今回も関連文献からの引用をちりばめた参考文集を配布した。0~7の8節で構成されるが、これもまた映像資料同様、テクスト/アーカイヴの視点から新たな補助線を引く試みであって、今回のプログラム自体の解説/絵解きではないことに注意されたい。引用元はご覧のように多岐に渡るが、今回のプログラムの背骨として、やはりヴァルター・ベンヤミンの視線/思考の存在が大きかったことを告白しておこう。ベンヤミン読解としては近森高明『ベンヤミンの迷宮都市』(世界思想社)が新たな視点を与えてくれた。合わせて感謝したい。


0.都市の時間・空間
 高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』
 ジェイン・ジェイコブズ『大都市の死と生』
 福島恵一「ロワー・イースト・サイド」 『アヴァン・ミュージック・ガイド』所収

1.見えない都市
 磯崎新『空間へ』
 磯崎新『いま、見えない都市』
 ヴァルター・ベンヤミン著作集11『都市の肖像』
 イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

2,溶解/沸騰する都市
 西山長夫『パリ五月革命私論』
 佐伯隆幸『最終演劇の誘惑』

3.写真都市
 鈴木一誌「廃墟のまなざし」 東京都写真美術館編『森山大道論』
 森山大道・鈴木一誌『絶対平面都市』

4.地図、抽象空間、都市計画
 永井荷風「日和下駄」
 ルイ・アラゴン『パリの農夫』
 アンリ・ルフェーブル『都市革命』
 レム・コールハース「都市計画に何があったのか?」 『S, M, L, XL+』所収
 コーリン・ロウ、フレッド・コッター『コラージュ・シティ』

5.都市の諸相/多層、年代の積み重ねた地層
 永井荷風『日和下駄』
 ルイ・アラゴン『パリの農夫』
 川田順造『母の声、川の匂い』
 矢作俊彦「夢を獲える檻」 『複雑な彼女と単純な場所』所収

6.都市の暗黒
 金子光晴『どくろ杯』
 平岡正明「満州貧民街における小悪魔の飽食」 『官能武装論』所収
 洲之内徹「掌のにおい」 『洲之内徹文学集成』所収

7.大道芸人たち
 金子光晴『どくろ杯』
 宮里千里「漂泊のマレビト」 里国隆『路傍の芸』CDライナー所収

松籟夜話第九夜ちらし縮小
デザイン:川本要




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:47:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第九夜へのお誘い  Invitation to Listening Event "Syorai Yawa" the Ninth Night
松籟夜話第九夜原田写真縮小
撮影:原田正夫


 今週末、6月11日(日)開催の『松籟夜話』第九夜について、もう直前になってしまったが、簡単にご案内しておきたい。

 今回は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第二回。 「音響都市の生成」と題し、「子どもの路地遊びや路傍の芸の街頭録音を入り口に、都市のざわめきそのものに深々と身を沈め、異なる時間/空間の交錯を透視する耳のパースペクティブを描き出す」ことを狙いとしている。

 今回のシリーズは、第七夜でAMEPHONEを特集したことを踏まえ、『松籟夜話』の背骨とも言うべき「現地録音」に、真正面から向き合いフォーカスしたシリーズをやろう‥というところから生まれた。「それなら是非コレをかけたい」という音源を津田と私が持ち寄り、『イザイホー』を核とした民俗学的深さと、Christina KubischやGilles Aubryらがつくりだす都市空間的広がりが対比的に浮かび上がった。シンボリックに言えば、前者は異質な「声」がぶつかりあいながら澄み渡っていく閉ざされた世界であり、後者は人工物を含め、ありとあらゆる音響が、かつ消えかつ結びつつ無際限に増殖していく空間である。
 歌声にとどまらぬ声の位相は、かねてからぜひ採りあげたいと思っていた主題だったし、ともすれば「自然讃歌」に傾きやすいフィールドレコーディングを扱う以上、「都市的なるもの」は避けては通れない論点だった。そのようにして第八夜・第九夜の企画方針はすんなりと決まった。
東京都渋谷区神南縮小
東京都渋谷区神南 撮影:原田正夫


 実際には、明確なイメージを描けていたはずの第八夜の企画は、その後、「南島文化」の多様性、民俗学の奥深さ、沖縄を巡る思考の広がりと驚くべき鋭いエッジ等との格闘となり、ずぶずぶと深みへと引き込まれていくことになる。もちろん、その分、得たものもまた大きかったのだが。第九夜の企画もまた、検討段階で大きく揺さぶられることとなった。
 都市のフィールドレコーディングを主題とすることから、先に挙げたChristina KubischやGilles Aubryの音源を聴き込む。一つひとつは断片に過ぎないスナップショットの集積が、モザイク画状に浮かび上がらせる都市イメージと、茫漠とした混沌が揺らぎ渦巻く暗闇を凝視するうち、いつの間にか街中に佇む自分自身を発見する瞬間。両者は対照的なアプローチのように見えるが、実のところ、一望では全体像をとらえることのできない「見えない都市」という認識を、共通の基盤としている。これらを第九夜の二つの極としてとらえることとしよう。
 これに対し、同じ「見えなさ」は、都市の巨大さ・複雑さ、多様な時間・空間が折り重なる多層性等によってだけではなく、突発的事態、例えば革命や内戦がもたらす「超」流動化によっても生じ得る。これをイントロダクションに置こう。
 さらに様々な音源を聴き進めるうちに、先の「スナップショット」と「凝視」がどちらも通常の目線の高さや周囲の物音(アフォーダンスを提唱したJ.J.ギブソンが創造した概念「包囲光」にならって「包囲音」と呼びたいところだ)に対する身体感覚を前提にしているのに対し、俯瞰的・鳥瞰的な視点から全貌をとらえようとしたり(実際には全体像は決して耳の視角には収まりきらないのだが)、あるいは「その場」に聴き手の身体を瞬間移動させるようなヴァーチャル・リアリティ的音響空間を構築したりする作品の一群が浮上してきた。これらを先の両極の間に置くこととしよう。

 当初から、都市の音響のもうひとつ欠かせない、重要な要素として、大道芸人やストリート・ミュージシャンの存在が挙げられていた。都市の日常に祝祭に彩りを与える路傍の芸。これを新たな視点として追加しよう。‥‥と、ここで大きな問題が生じた。先に触れた各パートの作品に拮抗し得る大道芸人やストリート・ミュージシャンの「現地録音」が意外とないのだ。これは決して、彼らの演奏の水準が低いことを意味しない。むしろ逆で、「ストリートにもステージで演奏するアーティストに比肩し得る、あるいはそれを上回る優れたミュージシャンが存在する」といった対抗的視点が災いして、彼らの演奏を彼らが活動する都市の空間ごと、まるごととらえた録音が少ないのだ。さもなくば都市の一風物として「音の絵葉書」化されてしまうか、アウトサイダーの一生として「人生哀歌」がフィーチャーされてしまうか‥‥。のっぺりとした一枚絵に平面化してしまうのではなく、都市は背景たる書き割りに過ぎないと片付けてしまうのでもなく、演奏者と場所の関係性にフォーカスし、そののっぴきならぬ必然性を明らかにする録音‥‥。ようやく選定の視点が定まり、狭義の街頭演奏/録音の範疇にこだわらずに、素晴らしい演奏を聴いていただくことができるようになった。
 ここでの葛藤の副産物は、改めて宮里千里の「耳力」(眼力の聴覚版)の確かさに打たれることを通じて、都市とは言い難い久高島を舞台に演じられるイザイホーの録音を、都市のフィールドレコーディングを聴く耳で聴いてみたらどうだろうかと思いついたことだった。前回の『松籟夜話』第八夜に対すると私と津田の一番の反省点は、披露した音源中、最も豊かで深い『イザイホー』をプログラムの最初に置いてしまったがゆえに、参加者にその強度をじゅうぶんに感じ取っていただけなかったのではないか‥‥ということなのだ。多層の積み重なりがその場で生成するもの、演奏者と場所との関係性への注視、時間・空間を濾過せずまるごととらえるといった特徴は、両者に共通している。今回、『イザイホー』を新たな耳で聴き直すことにより、南島文化、民俗学といった枠組みから解き放たれた、学術的/文化遺産的などではない、生々しい力を体験していただけることと思う。それはまた、都市へと向かう耳の視線を、大いに励起してくれることだろう。
沖縄久高島縮小
沖縄久高島海岸 撮影:津田貴司


 あまりネタバレになるのもどうかと思い、いささか抽象的な話を書き連ねてしまったが、当日、体験していただければ、「なるほど、そういうことか」と納得していただけるのではないかと思う。もちろん、『松籟夜話』はリスニング・イヴェントであり、こうした企画者側の用意した「プロット」は、所詮は下絵の線、あるいは単なる口実(プレテクスト)に過ぎない。ここでの聴覚、視覚、さらにはそれをはみ出す身体感覚の体験は、そうしたあらかじめ書かれた「プロット」を簡単に上回り、裏切ることになるだろう。いや、そうでなければならない。
 映画作品をプロットの整合性や社会現実との照応性(正しいとか正しくないとか)で評価したがる輩がいる。とんでもないことだ。映画とは次々に身体を襲う視覚・聴覚体験の連続であり、プロットやテーマはそれを射出するためのカタパルトに過ぎない。先日、國村準が特別俳優賞を受賞したことで話題の韓国映画『哭声(コクソン)』を観る機会があったが、ここでもプロットの整合性や顛末の解決は思い切りよく「二の次」になっている。ストーリーなどショットと音響の連鎖のうちに切れ切れに浮かび上がり、束の間の持続を確保すればよいのであって、ストーリーをなぞるために映像や音響を、ましてや俳優の演技やセリフを配するのではない。そんなに文字で綴られた物語が大事なら、原作やシナリオのページをキャメラで撮ればいいのだ。

 閑話休題。案内と言いながら、主催者自ら参加のためのハードルを上げてしまってはしょうがない(苦笑)。改めて準備運動を続けよう。今回の『松籟夜話』第九夜が都市のフィールドレコーディングを特集しながら、どのようなアプローチを採らないでいるかを説明すれば、意外とイメージが伝わるのではないかと思う。
 都市を近/現代、モダニズムのシンボルととらえ、その表象を音/音楽に見ようとするアプローチは採らない。例えばルイジ・ルッソロらイタリア未来主義が、機械の騒音と都市の速度/喧噪を顕彰して制作に勤しんだ音響詩やイントナルモーリによる騒音音楽。ヴァルター・ルットマンによる実験映画『伯林大都会交響楽』もまた、都市の音響に対する美術史的視点からは欠かせない達成だろう。だが、機械の規則正しい高速運動やこれと同期したきびきびしたカット割りが生み出す「都市のリズム」も、今回は同様に採りあげない(付された音楽は言わずもがな)。
  「見えない都市」、すなわち都市の一望性の喪失/崩壊を前提として、そこから浮かび上がる(視覚ではなく)聴覚による都市の把握、都市像の生成をモチーフとしているので、まさに一望性の産物である「地図」的なアプローチは採らない。この結果として、教会や学校の鐘、灯台の霧笛、より現代的場面ならば録音や合成音響がつくりだす音響サイン等への注視は行わない。マリー・シェーファーによる「サウンドスケープ」の視点も今回は採らない。
 金子智太郎から以前に教えてもらったトニー・シュヴァルツ(Tony Schwaltz)が進めた「都市の音響図鑑」的なアプローチも採らない。これは図鑑が掲載するのは「その場」から切り離した標本/オブジェに過ぎず、対してスナップショットには「避けがたく背景も写ってしまう」全体的なものであるとの理解からである。もっともムーンドッグ(Moondog)の路上演奏の街頭録音のように、彼にはそれだけにはとどまらない達成があることは強調しておきたい。

 どの程度、表題にふさわしい「お誘い」たり得ているか、はなはだ心もとないのだが、いつもと同様、ハードコアかつディープであることは保証する。今回もまた音源だけの紹介ではなく、テクスト(参考文集)の配布や映像からのアプローチを絡めたいと考えている。「横断的」であることにより「入口」を多数設けるという配慮もさることながら、音響と映像とテクストが交錯/衝突することによって、初めて「都市」という対象に迫り得るという思いがある。蛇足ながら、制作側の意図の詮索や歌詞の解釈等、結局のところ、テクストの内部に閉じこもって音楽批評のあり方への反発も。
 『あなたの知らない世界』的な「怖いもの見たさ(レア音源聴きたさ?)」で、どうぞ気軽に参加していただければと思う。ただし、事前のご予約をお忘れなく。
松籟夜話第九夜ちらし縮小
デザイン:川本要



『松籟夜話』第九夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。

第九夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第二回。 「音響都市の生成」と題し、子どもの路地遊びや路傍の芸の街頭録音を入り口に、都市のざわめきそのものに深々と身を沈め、異なる時間/空間の交錯を透視する耳のパースペクティブを描き出します。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年6月11日(日)18:00~(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
お席を用意する都合上、予約制とします。開催日前日までに、お名前・人数・当日連絡先を明記の上、下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)

会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/




ライヴ/イヴェント告知 | 02:11:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
渇望の向こうに ― 「タダマス25」レヴュー  Beyond Thirsty for Something More- Live Review foe "TADA MASU 25"
 遅ればせながら、今からもう1か月前、4月23日に行われた第25回四谷音盤茶会(タダマス25)のレヴューをお届けする。今回は珍しく、当日プレイされたほとんどの音源に対し言及しているが、それでも例によって、ひとりの参加者の個人的な視点からの報告であることには変わりない。必ずしも主催者の意図に沿った理解ではないどころか、往々にしてこれに反するものとなっていることを、あらかじめお断りしておく。なお、当日プレイされた音盤に関する詳しい情報は、以下のURL(*)を参照していただきたい。
*http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


 前半が導入部としての「ポップ・サイド」、後半が本領発揮の「ダーク・サイド」を構成し、後半のハイライトをNY勢のECM録音が飾ることの多い最近の「タダマス」だが、この日のプログラムはそれとは真逆に、Theo Blackmann『Elegy』、Craig Taborn『Daylight Ghosts』の2枚のECM盤を皮切りに、Jim Black『Malamute』、Eivind Opsvik『Overseas Ⅴ』と、後半の常連を連ねて進んだ。実は配られたセットリストを見て、開演前に益子に尋ねたのだが、いやポップ・サイドとかダーク・サイドとか特に意識してないから‥との答が返ってきたところだった。しかし、実際に音を聴いてみると、やはり後半に向けて深みを増していく構成はいつもと変わることはなかった。
タダマス25-1 タダマス25-2

 すなわち、これらの諸作品は、その豪華なラインナップにもかかわらず、私にはどこか食い足りなかった。いつものTabornのピアノに顕著な、焼き締めた煉瓦や鉛のインゴットを積み上げる、そそり立ち仰ぎ見る「建築力」はここにはなく、Chris Speedのテナーと絡み合い、二重ラセンを描きながら昇り詰めていく。一方のJim Blackは、ビートをNeu!風の単調な定型の近傍へと絞り込むことで、畳み掛ける「叩き込み」の勢いに新たな息を吹き込んでいた。だが、あえてジャンクなシンバルを用いることにより、打音の減衰を速め、空間の風通しを良くするやり方は、適用する場面こそ異なるものの、80年代にDavid Mossがすでにトレードマークになるまで試みていたことだし、そこにかぶせられるChris Speedそっくりのかすれた吐息による棒読みテナーと混信だらけの短波ラジオを思わせる電子音の雲のブレンドはなかなか効果的だが、ハンマー・ビート以外を寄せては返す波音だけに切り詰めてみせた、かつてのNeu!の突き抜けた蛮行を聴き知る耳には、いささか甘口に感じられた。そうした中では、ダブルベースのアルコのフラジオ音とエレクトリック・ギターのサステインを敷き重ね、音数を切り詰めたピアノの重い打鍵及びリズムボックスと組み合わせたEivind Opsvikの創意が光るが、演奏が最初に描かれたラフ・スケッチの枠組みから果敢に踏み出していくことはなかった。
タダマス25-3 タダマス25-4


 多田はこの日のプログラムについて、「聴衆の評価は3・4と9・10の二者にはっきりと分かれた」と自身のブログで書いている。ここで3・4とはJim Black『Malamute』とEivind Opsvik『Overseas Ⅴ』を指す。


タダマス25-6 後半は「ピアノ・サイド」と言うべき構成。Vitor Goncalves(pf)のクワルテットは、Todd Neufeld、Thomas Morgan、DanWeissと「タダマス」常連がサイドを固める。冒頭、ピアノの右手と左手のフレーズをずらしながら重ね合わせ、さらにドラムスの長短のシンコペーションが敷き重ねられ、ギターが網を投げかける場面は、なるほどHermeto Pascoalのバンドにいたと言うだけはあると思わせるもの。ただ、そうして思わず耳をそばだてさせられるイントロが終わると、急に「さわやか」になってしまう。多田が「カクテル・ピアノ」と言うのもわかる。

タダマス25-7 続くRema Hasumi(pf)は最近の「タダマス」の最注目株。「懐石料理?」、「奥ゆかしい」(以上、大村)。「ポール・ブレイ?」、「音の細部のコントロールが従来のレヴェルを超えている」(以上、多田)、「音を呑み込んでいる」、「言いよどんでいる」(以上、益子)と場に豊かな言葉を引き出すこととなった。いずれも感覚的な表現だが、むしろそれがゆえに像を結びやすいのではないか。その死を看取った菊地雅章との類似性を示唆されることも多いが、私の考える菊地の真骨頂とは、「ジェンカ」というゲームのように、支えるべき音を抜き去っていくことにより、張り詰めたテンションと危機的なリリシズムを限りなく高めていくところにあるので、それと彼女のピアノの本性は明らかに異質であるように思う。ただ、ではその「彼女のピアノの本性」なるものをまっすぐに名指せるかと言えば、これは難しい。コード感的には「ジャズあるある」でありながら、音の選び方は決してジャズっぽくなく、タッチはクラシカルで、ムード音楽的にエコーもたっぷりとかかっていながら、饒舌に走ることなく、抑制/抑圧を感じさせる指さばき。その指を音が伝うような感覚は確かに異色だと思う。

タダマス25-8 続く8はSylvie Courvoisier(pf)とMary Halvorsonのデュオ。私にとってのこの夜のハイライトのひとつ。端正で重厚な打鍵と内部奏法による音色の不定形な変容。ギター弦のトレモロとエフェクターの変化により、急に溶け出して流れ伝い、空間へと滲みを広げる響き。すらりと整った楷書の筆文字きっちりと並んだ手紙が、音もなく炎に包まれ、燃え落ちていく感覚。床を傾け、時を歪ませるHalvorsonのエフェクター変化が、「いつもはフレーズの頭や尻尾に限っているのに、ここでは中間部分でやっている」という益子の的確な指摘通り、ソロで爆発する派手派手しさを抑える代わりに遍在化/潜在化し、いつどこで足元が液状化するか知れない脆弱な不安定さを生み出しており、その感覚はCourvoisierにも深く静かに、だがきっぱりと共有されている。それが「インタープレイしている」(大村)、「やっている行為自体はとても楽しそう」(多田)という指摘を産み出すのだろう。

タダマス25-9 Cory Smythe(pf)、Stephan Crump、Ingrid Laubrockによる9もまた私にとってのハイライトだった。テナーのかすれたフラジオと豊かに倍音を香らせるダブルベースの弱音の弓弾き。ピアノの冷ややかな打鍵。深々としたアルコに転じたベースにピアノの内部奏法が鋭く長い針を突き刺す。絞り込まれた音のアブストラクトな強度が際立つ。個々の音色自体の強さもさることながら、それらが的確に配置されることにより生み出される「カラーフィールド」の奥深くしめやかな強靭さ(ここで私はマーク・ロスコの大作群を思い浮かべている)が素晴らしい。音高と音価ではなく、振動と持続の配合による構成。「抽象の力」の輝かしさが見事に示されている。

タダマス25-10 最後を飾るMatt Mitchel(pf)のピアノ・ソロによるTim Berne作品集は、何よりその強靭極まりない打鍵とアブストラクトな速度において際立っている。すごい勢いで背後へと飛び退る景色はもはや色彩を欠いて、冷酷なモノクロームに閉ざされている。ノンペダルのまま、パーカッシヴに叩きのめされる弦の震えは、ピアノの本質が鋳鉄のフレームに張り渡された金属弦の集積であることを、隠しようもなく明らかにしてしまう。ここでは筐体の優美な曲線も、黒檀と象牙の規則正しい配列も、ハンマーやダンパーに組み込まれたフェルトも、所詮、狼のかぶった羊の皮に過ぎない。それゆえ、テーマとそのヴァリエーションといった、もともと曲が持っていたであろう構造も、内側から粉々に破砕され、跡形もなく吹き飛ばされてしまう。その結果として残るのは、獰猛にして俊敏な個々の音の運動に過ぎない。「血塗れのCraig Taborn」と評された彼が、本来持っていたはずの切り立った構築性は、ここには見当たらない。あらかじめ書かれた曲の構造をかなぐり捨てることに、すべて費やされてしまったのだろうか。そのほとばしる熱量を最大限に評価しながらも、個人的には先立つ8・9を高く評価したい所以である。それとは別に、このMitchelの凄絶な演奏に確かな希望を感じ取れるのも確かだ。それは演奏後の彼が、充足しきった(とことんやり尽くした)「ドヤ顔」ではなく、依然として渇きや飢え(渇望感とでも言おうか)を全身から放っているように感じられることだ。「これだけ弾いても言い切れていない。まだまだ湧いてきている」との益子の指摘は、この録音の彼方にさらに開けるであろう、彼の演奏の新たな地平を、しっかりと見通し指差している。


masuko x tada yotsuya tea party vol. 25
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 25
2017年4月23日(日) 綜合藝術茶房喫茶茶会記 
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:大村亘(ドラム・タブラ奏者/作曲家)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:15:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、スティーヴン・キング「幸運の25セント硬貨」を読む  "TADA-MASU" Reads a Short Story "Luckey Quarter" by Stephen King
 益子博之と多田雅範が主宰するNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)も、すでに6シーズン継続しており、この週末にいよいよ7年目に足を踏み入れる。長期に渡り、マンネリ化に陥ることなく活動を継続していられる理由は、毎回のゲストの多彩な顔触れを別にすれば、まずは益子の貪欲な聴取 ― 当初設定していたNYやジャズという土俵を果敢にはみ出していく ― にあるだろう。だが、決してそれだけではない。相方を務める多田の、常に新たな面をさらし続ける「切断力」が大きなカギを握っているのだ。

 先日、今回の「タダマス25」に向けた打合せを終えたばかりの二人と、少し話す機会があった。「多田さんは打合せの時の話の流れをいつも忘れている」とツッコミを入れる益子に対し、「いや、それはですね‥‥」とボケまくる多田という、いつもながらの漫才トークを聞かせてくれたのだが、事前の評価や周辺情報を即座にリセットして(忘却力!)、いまここで再生されている音源だけに聴取を賭ける、賭け切るというのは、実はなかなか出来ることではない。その証拠に、インターネット上に溢れるディスク・レヴューは、ほとんどすべて制作者側が提供したプレス・シートの劣化したコピーに過ぎないではないか。
 多田がもたらす想定外の揺らぎを、決して益子は「なかったこと」にして、事前に描いた予定調和に回収しようとしない。ズレやすれ違い、踏み外し、あるいは眼にも止まらぬ疾走や奔放な飛躍が、「録音物の再生」という、一見、差異など生じようもない行為に、熱く息を吹き込む。いや、実際異なるのだ。「他者と共に聴く」によって。他の耳の眼差しを意識し、他なる言葉に伴われた聴取は、音を、いや「聴くこと」自体を変容させる。

 先の二人との会話は、打ち解けた雑談だったから、「最近の料理はインスタを意識して、やたらスマホ写りのよいものになってきている」というような「最近流行事情」にも話が及んだ。SNSに写真をアップする際には、結局盛り上がるようなキャプション/コメントしか付けないから、「フォトジェニック」な料理は露出が増え、味とは無関係に絶賛が躍ることになる。何とも情けないが、まあ、流行とはそうしたものだ。そこにあるのは承認欲求を介した単なる同調圧力に過ぎない。

 先に述べたように「タダマス」はその対極にある。もっともらしいキャッチ・コピーや押しつけがましい評文の下に聴取を束ねてしまうのではなく、自分とは違う聴き方に気付くことにより、多様な聴取の可能性を解き放つこと。
 今週末の「タダマス25」では、果たしてどんな「別の聴き方」に出会えるだろうか。

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masuko x tada yotsuya tea party vol. 25: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 25

2017年4月23日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
綜合藝術茶房喫茶茶会記 
新宿区大京町2-4 1F(丸の内線四谷三丁目駅 徒歩3分) 
03-3351-7904

ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:大村亘(ドラム・タブラ奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2017年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム・タブラ奏者/作曲家の大村 亘さんをお迎えします。ジャズの世界で幅広く活躍し、インド古典音楽にも深い造詣をお持ちの大村さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

ライヴ/イヴェント告知 | 23:17:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
はなればなれに ―― 渋谷・関島・高岡・外山@kakululuライヴ・レヴュー  Bande à part ―― Live Review for Takesi Shibuya, Takero Sekizima, Daysuke Takaoka, Akira Sotoyama@kakululu
 池袋サンシャイン60の裏手ということになるのだろうか。ビルの谷間に小さな公園が開け、その傍らにストロベリー・ショートケーキみたいな不思議な形をした建物が姿を現す。今回初めて訪れるkakululuだ。
 テラスとカウンターのある1階を抜けて、螺旋風に回り込む狭い木の階段を昇ると、2階にライヴ・スペースが用意されている。部屋の入口部分から見て、左手側は梁と柱がつくりだした壁の窪みに、音楽と料理の本がずらりと並ぶ本棚が設えられ、家具調の柔らかい茶のアップライト・ピアノもまた、その窪みに身を落ち着けている。その奥に2本のチューバが並び、右手側の木の仕切り壁が弧を描いた先には、シンプルなドラム・セットがセッティングされている。ピアニストの背中をにらみつける位置。星座を思わせる不思議な配置。
 床は柔らかな木、壁は打ちっぱなしの上に白いモルタルを掛けているのか、わざと粗目の凹凸のある仕上げとなっている。天井はやや高め。響きは比較的ライヴだろうか。向かいの壁の大きな窓には厚めの硬い遮光カーテンが引かれ、右手奥の水平窓から切り取られた外の景色が覗いている。天井から吊り下げられた鳥のモビールが、その手前でゆらゆらと揺れている。
私は奥の壁際の、前から2列目の席に腰を下ろした。そこは先ほどの星座を見込む軸線上に位置しているように思われた。並んだ2本のチューバのうち、やや小ぶりの方が本日の企画者である高岡大祐の楽器に違いなく、しっかりとしたソファー・チェアはやや内振りに置かれていて、その席からは高岡と渋谷をほぼ中央に、そして外山と関島をその左右にとらえることができる。
 それにしても居心地の良い魅力的な空間だ。今回の企画のため、場所探しに精を出した高岡は自身のFacebookに次のように書き込んでいる。
  「打ち合わせがてらお茶しに来た最初の訪問で、あ、ここだ、と。店主高橋さんからひしひしと伝わる音楽好きの空気、海外の図書室のようなピアノのある二階の部屋。まだ音は出してないけど、ここだ、と。」
 
高岡大祐のFacebookより転載


 冒頭に奏でられたDuke Ellington「Dual Highway」に、いきなり胸をときめかされた。色褪せた写真から聴こえてくるようなピアノの古風な調べ。チューバ2本の柔らかなふくらみ。縦に区切らず、小節線などないかのように、どこまでもするすると優雅に横滑りしていくドラムス。チューバの響きの雲の中から、まず関島のソロが現れ、高岡がウォーキング・ベース風のバッキングを受け持つ。速いパッセージへと昂まっていった関島から、ソロのバトンが高岡に引き継がれると、ことさらになだらかにゆったりと引き伸ばされた息がグルーヴィに尾をうねらせる。コロニアル様式のアーリー・アメリカンな邸宅の空気。渋谷の柔らかいタッチと音色は、まさにこの眺めにふさわしい。
 だが、それにしても、外山のドラム・ワークの何と見事なことか。シンバルやスネアの上にセットしたカウベルの金属質の打撃が、ふっと「リズム」を離れ、誰もいない静まり返った部屋に甲高く響き渡るスチームの鳴りや自動織機の動作音といった「物音」へと憑依する。あるいはマーチング・ドラムの遠い響き。チューバ2本の生み出す豊かな倍音が回り込むのだろうか、壁際から湧いてきたり、天井から降ってきたりする響きと相まって、チャールズ・アイヴズの父ジョージが、2組のブラスバンドをそれぞれ街の反対側から向かい合わせに行進させ、異なる響きを現実の空間の中でミックスしてみせた‥‥というエピソードが頭を過る。シンバルの中央部分の硬く詰まった響きが、リズミックな「ノリ」へと自らを(そしてアンサンブルを)縛り上げることなく、むしろ砂粒のようにさらさらとほぐれ、花びらの如くはらはらと舞い落ちる。それでいて、チューバという「巻かれた長い管」の抵抗が引き起こす息の流れのよどみやもつれに、すっと寄り添い、手を携える。手を結び合うがゆえに、ふらふらと揺らぐ歩み。音素材を、音数を絞込みながら、豊かな滋味溢れるこの演奏を、シンコペーションやポリリズムだけで語ることはできまい。

撮影:益子博之


 以降、今回の4人の共通レパートリーである「エッセンシャル・エリントン」の曲目、カーラ・ブレイ「ローンズ」、大原裕「ディノ」、取り決め無しのインプロヴィゼーション等が奏されていく。響きが飽和気味になったり、ドラムのスキンが共振して鳴りまくったり、フレーズが危なっかしく階段を踏み外す場面も見られたが、柔らかく張り詰めた音色と、「アンサンブル」として隊列を組んで自分たちを窮屈に囲い込むことなく、空間をたっぷりとはらんで混じり合う仕方が本当に心地よい。がらんとした人気のない居間で女主人が手慰みに爪弾くピアノ、地下室で剥き出しの配管を軋ませるドラムス、街頭で葬列の尻を叩き、あるいは張り出しバルコニーの上でファンファーレを奏でるチューバが、庭先の芝生に寝転んでまどろむ耳へと風に運ばれてくる‥‥といった風情。まさに夢見心地。

 通常、チューバの生息場所であるアンサンブルやオーケストラは、群れあるいは組織にほかならず、邪魔臭い図体のデカさ、集団特有の内向きの鈍感さ、小回りの利かない慣性質量の大きさ、セクショナリズムのもたらす無責任さを不可避的に有している。総身に知恵の回りかねる恐竜的存在。では、フリーに解体されれば良いのかと言えば、もちろんそうではない。これは新聞で読んだのだが、最近は休日に家族でショッピングモールに出かけたとして、到着するなりバラバラに単独行動して、途中、LINEで連絡を取り合うだけなのだと言う。これではそもそも一緒にいる意味がない。
回りに合わせるのでも、指揮者に従うのでもなく、ひとりで素早くしなやかに動き回ること。今回の彼らの演奏では、2本のチューバが「ブラス・セクション」として、あるいはベース・パートを担うチューバとドラムスが「リズム・セクション」として、互いを拘束/結束する場面が出てこない。そうでありながら緊密に呼応/連動し、すっと向きを変える。肌を触れ合わせながら、異なる「現在」を見詰めている。
 ここで指揮者の任務から解き放たれた渋谷のピアノは、軽やかな自在さに満ちている。リズムを縁取って縦の線を揃えたり、ソロのラインを裏打ちしたりする必要は、もはやないのだから。

高岡大祐のFacebookより転載


 そうした中で、やはり圧倒されたのはラストの2曲。「Take the A Train」で急速調に歩みを速めながら「ブラス・セクション」として徒党を組むことなく、息の素肌をさらしながら鋭敏にステップを切るチューバ、湧き上がる響きの上で軽く泡立ちながらはじけるピアノ、そしてドラムの不断に組み替わるフラクタルなドライヴ。さんざん演奏され尽くし、手垢の付きまくった超有名曲が、たったいま皮を剥いたばかりの果物のように瑞々しく響き渡った。
 そしてラストは、高岡によって「僕が好きなニューオリンズの‥」と紹介されたRahsaan Roland Kirk「The Black and Crazy Blues」。高岡率いるトリオ「歌女」の演奏からも強く立ち上るプレ・モダンな匂いが、さらに濃密さを増し、立ちこめる。ロールをかましまくるドラムが、四角形、三角形、五角形、六角形‥‥とかたちを変えながら坂道を転がり落ち、ダークな音色で床を這っていた高岡のチューバがやおら立ち上がると、響きの粒子が光と風となって、あるいはぬるい雨となって、あたり一面、天井から降り注ぐ(あり得ない恩寵のように)。引き伸ばされたコーダの後、いつまでもいつまでも部屋の空気はふるふると柔らかく震えていて、天井から吊り下げられた鳥のモビールもまた、くるくると回り続けていた。

撮影:益子博之


2017年4月17日(月) 東池袋kakululu
渋谷毅(piano)、関島岳郎(tuba)、高岡大祐(tuba)、外山明(drums)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:58:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
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