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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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タダマスは1月28日に28回目を迎える  " TADA-MASU " will mark the 28th on 28th January.
Iago ; I have looked upon the world for four times seven years. "Othelo"
Alice ; Let me see: four times five is twelve, and four times six is thirteen, and four times seven is–oh dear! I shall never get to twenty at that rate! "Alice in Wonderland"
TADA-MASU ; Yotsuya Tea Party will mark the 28th on 28th January.


 益子博之と多田雅範のナヴィゲートによるNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、この1月28日に奇しくも28回目を迎える。第7シーズンの完了に伴い、2017年のベスト10が紹介されることだろう。前回は惜しくも参加できなかったのだが、採りあげた作品の充実ぶりが半端なかったとのことなので、今回のベスト10振り返りの中で、その一部を耳にできるのではないかと期待している。

 アルゼンチンの音楽サイト El Intrusoの国際批評家投票(*1)やポルトガルはコインブラに拠点を置くJazz ao Centro Clubeの選出(*2)に納得こそすれ、全然違和感を覚えないのは、Vijay IyerやTyshawn Soreyをはじめ、「タダマス」で聴き慣れた(しかし、なぜか他の日本語記事では眼にすることが少ない)名前がずらりと並んでいるからにほかならない。「世界標準」というと、何やら拝外主義的かつグローバリゼーション礼賛風で恥ずかしいが、視野狭窄/自家中毒に陥らぬよう、押さえるべきは押さえておいて悪いわけがない。しかもそれだけでなく、複数の耳の視点からの議論にさらされればこそ、新たに見えてくるものもある。
「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。
*1 http://elintruso.com/2018/01/05/encuesta-2017-periodistas-internacionales/
*2 https://jazz.pt/artigos/2017/12/26/melhores-de-2017/


 益子による口上を以下に転載する。

今回は、2017年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2017年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、ギター奏者の加藤一平さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズからエレクトロニックな即興まで幅広い領域で活躍される加藤さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

タダマス28縮小

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)




ライヴ/イヴェント告知 | 22:34:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
声の震え、息の歩み ― 池間由布子・高岡大祐ライヴ・レヴュー  Voice Vibration, Steps of Breeath ― Live Review for Yuko Ikema and Daysuke Takaoka
 おかげさまで、また、素晴らしい歌い手と出会うことができた。
 今回初めて共演することになった高岡大祐がFacebookに何度も「素晴らしい」と書くものだから、このところずっと気になっていた。youtubeにアップされているライヴ音源では、いまひとつピンと来なかったのだが、行ってみてよかった。やはり拙い録音ではわからないことがある。それに高岡の演奏が彼女の本質を、潜在能力を含め、思う存分引き出したということもきっとあるだろう。
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高岡大祐のFacebookより転載


 開演時間を間違え、最寄り駅で降りてからは以前に訪れたはずの店の入り口を見つけられずに通り過ぎ、着いた時には第一部が終わりかけていた。暗がりに潜む段差につまずきながら店内に足を踏み入れ、ドアのところに立ち尽くしたまま、音に囚われる。向かって左側に腰かけた高岡はチューバを垂直に構え、リズミックなベース・リフをノンブレスで懸命に吹き鳴らす。間合いや強弱、立ち上がりをきめ細かく操作しながら。そして右側にはやはり腰かけてギターを掻き鳴らしながら歌う池間由布子の声の震え。
 ここで「震え」とはもちろん、音程の揺れやブレスの不安定さを意味するものではない。そうではなく、声の不思議な、かけがえのない魅力/魔力としてある。ひとつには音域による声音の変化であり、声の輪郭の鋭敏な移り変わり―場面によりくっきりと像を結ぶかと思えば、中空に溶けてしまいそうになる―であり、さらには倍音成分の響きの豊かさとそのあえかな揺らぎである。そうした特徴が最もわかりやすいのは、ゆったりとした曲調で声を引き伸ばした部分だろう。高岡もまた息を長く保ち、水平にうっすらたなびくように線を引いて、柔らかく滲んだ声のホリゾントをつくる。池間の声は子音のエッジを感じさせることなく、すっと力みなく、だが速度感を感じさせないほどの素早さで立ち上がり、チューバの音と並行に声の指先をどこまでも伸ばしていく。声を張るのではなく、外に向けて響かせるのでもない独自の仕方で。それは言わば内側に負荷をかけて声を内に引き込み、体幹で声を吊り支える感覚だ。声は、言葉は、そこにありながら、彼女の内部にぽっかりと空いた暗く深い淵に飲み込まれていくように感じられる。
 だが、こうした注目すべき達成も、この日の彼女にとっては、まだまだ暖機運転に過ぎなかったと、すぐに知ることになる。

 短い休憩を挿んで第二部が始まる。池間は立ったままギターを構えている。後半は立って演るんですかと高岡。いや、ちょっと離れてみた方がわかることもあるかと思って‥と池間。その後、二人のユーモラスなやりとりが続き、リハーサルにはなかった曲(「雨はやんだ」)をいきなり歌えと、高岡が無茶ぶりされる場面となるのだが、そうした打ち解けた親しみやすさと何が起こるかわからない「野生の空間」のあり方以上に、ここではアコースティック・ギターの弦を強く弾(はじ)く池間の身体の運動に注目したい。リズミックにビートを刻む一律な縦ノリでは決してない、空中に身体を浮かせ揺らがすような動き。それが「めっちゃくちゃ難しい」と高岡の言うメロディの不可思議な動きと、歩調をゆるめ、立ち止まって語りになったかと思うと、急にスキップを始める天衣無縫な声の歩み、さらに高岡の演奏と自在に呼応しながら、即興的に声を散らばせて、空間のあちこちに貼り付けていく運動神経は、すべてこの身体の揺れ動きから分泌されているようだ。そして、先に見た彼女の特異な声のあり方も、ここではもはや声の身体各部のバラバラな諸特徴としてあるのではなく、「歌を歌う」という運動のうちに余すところなくすべて奉仕し、その中で息づき輝くものとなっている。見事なものだ。
 高岡もまた、そうした彼女の変容に突き動かされ、実に見事な共演をした。舌を巻くソロを取ることよりも、鮮やかに彼女の声の本質を引き出す仕方で。しばしチューバを置いて、歯笛(口笛ではなく)で伴奏した場面では、口笛の鋭さの代わりに歯に砕かれて輪郭を滲ませ、豊かな倍音を揺るがせる歯笛の震える音色に、池間の声の秘密を「ほら」といきなり指し示された気がして驚かされた(実際、高域を長く保つ部分の感触など驚くほどに通っている)。また、持続音をゆったりとくゆらせる箇所では、空の色が刻々と変わるように音色を移し、ここぞと言う場面で音量をすっと絞り、池間の声をひとり立たせて、その声の勁さをまざまざと明らかにしてみせる。と同時に、ことさらに構えることのない、一見何気ない歌詞に描き出された、日常のありふれた点景に潜む、ぞくっと手足を痺れさせる深い闇を覗き込ませる。「その踏切を渡ってはいけない。その踏切の音だけは聴いてはいけない。」
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高岡大祐のFacebookより転載


 高岡が激賞する歌い手として、もうひとり華村灰太郎がいる。高岡の新バンドDead Man's Liquorを聴きに行った際に、彼らに先立って灰太郎と福島ピート幹夫のデュオを体験することができた。ギター弾き語りとアルト・サックスのデュオと言うと、かつて目撃した三上寛とジョン・ゾーンの邂逅がいまだに衝撃として自分の中に鳴り響いていて、どうしようもなくそれと比べてしまうのだが(これがとんでもなく高いハードルであることはご理解いただけよう)、彼らは決してそれにひけを取らなかった。
 剥き出しでガツンと来る声の生な手触りが、叩きつけるギター・カッティングと衝突して弾け飛び、アルト・サックスがノンブレスで絶え間なく放出し続ける呼子にも似た甲高いノイズと、千々に入り乱れる。ノイジーに散乱しても互いに音の輪郭は揺らぐことなく、それゆえ「溶け合う」のではなく、撹拌された水と油のように「混じり合う」のだ。歌詞やメロディ、あるいはフレーズをなぞるのではなく、声/息が走り抜け彫り刻む溝が、そのまま線となり伸びていく。溢れ出る声、振り絞る息の軌跡として。
 二人とも演奏開始直後は調子が出ず、共演のピントも合わず、途中、ようやく「温まった」感がしてから、俄然ヴォルテージが上がったのが面白い。高岡の評価する歌い手はみんな暖機運転を必要とするのだろうか(笑)。

 今回は池間と高岡の初共演に捧げたレヴューである。灰太郎と福島のデュオに続いて披露されたDeadman's Liquorの素晴らしかった演奏について語るのはまた次回としたい。また、当の池間と高岡のライヴの模様についても、最初の聴き逃した部分について触れようもないのは当然のこととして、それだけでなく聴いた部分についても、あえて二人の間の、あるいは客席との微笑ましい交感等には触れておらず、むしろ視野とフォーカスは鋭く絞り込んでいる。決して全容を伝えるものではないことを改めてお断りしておきたい。


2018年1月12日(金)
祖師ヶ谷大蔵 Cafe MURIUWI(カフェ ムリウイ)
池間由布子(歌、ギター)、高岡大祐(チューバ)

2017年10月31日(火)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎(歌、ギター)、福島ピート幹夫(アルト・サックス)


なお、近々、関連ライヴの予定があるので情報を記載しておく。

2018年1月16日(火)
八丁堀 Sound & Bar HOWL
東京湾ホエールズ(池間由布子, 纐纈雅代, 高岡大祐)

2018年1月21日(日)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎カルテット(華村灰太郎、今福知己、高岡大祐、つの犬)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:38:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
残存の中ですり減ることと積み重なること―日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》レヴュー  Wearing Off and Piling Up in Surviving / Afterlife ― Review for Japanese Art Sound Archive ; Kosai Hori《Reading-Affair》
1.《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》
 眠っている猫の腹部のように、海面がゆっくりと上下している。
 海面の映像は正面の白壁いっぱいに映し出され(床から天井まで)、白いシーツを敷かれた上に置かれたソファ(やはり白いシーツで覆われている)に座る白装束の男女(顔もまた白塗りしている)にも投影されている。二人は手元の用紙に記された名前をかわるがわる読み上げていく。潮騒の音が小さく流れている。
 全体の仕立てと静謐な空気から、これが東日本大震災に向けられた追悼のパフォーマンスであり、読み上げられているのは被災者の名簿であろうことはすぐに想像がつく。しかし、それだけではなかった。
 二人の前には一本のマイクロフォンが置かれ、さらにその前方には二台のオープンリールのテープ・デッキが設置されている。マイクロフォンから入力された音声は、片方のデッキで録音され、テープは2mほど離れたもう一台のデッキに送られて、そこで再生され、二人のすぐ前に置かれたスピーカーから放たれる。読み上げの発声から録音された音声が再生音として放出されるまで約10秒の間隔が生じていた。再生された音声は、リアルタイムで読み上げられる声と入り混じるだけでなく、再びマイクロフォンに捉えられテープ・デッキへと送られる。録音・再生によるループ。

 この簡素な仕掛けからすぐに思い出されるのはAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』だろう。この作品では、「私は部屋の中に座っている」という男の声が冒頭に流れ、それがテープ・デッキで録音されて、その再生音が部屋の中に放たれ、再び録音され、再生され‥‥というループが巡り続ける。録音・再生が繰り返されるうちに部屋の空間の響きが乗っていって、言葉の輪郭は次第に不明瞭になり、ディレイとは異なる、周囲の空間に滲んだような反響音が積層して、ついにはせせらぎにも似た、鈴を転がすように涼やかな音響へと変貌を遂げてしまう。その状態からは元の素材が人の話し声であるなどとは、とても想像がつかないほどに。その一方で、ループの繰り返しによる変容のプロセスが時間軸上に展開されており、積層による変化は聴衆の耳に対し余すところなく「視覚化」されている。
 冒頭に描写した堀浩哉+堀えりぜによる《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》と『I Am Sitting in a Room』の端的な違いは、前者においてはリアルタイムで新しい声の層が常に追加されていくことである。回路を閉じることにより、変容のプロセスだけに純化した後者と異なり、眼の前で名前を読み上げ続ける声は、再生される自身の声とぶつかり合う。その代わり、ループが積層していく「声の地層」の深さを覗き込むことはできなかった。原理的には、再生音はまた再びマイクロフォンを通して録音・再生されるわけだから、ループが巡るにつれ明瞭さを失うにしても、最初に録音された音声はループのうちに永遠に残るはずなのだが、その痕跡を求めていくら耳をそばだてても、片鱗さえ掴むことができなかった。


2.《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
 実はこの日、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》に先立ち、同じテープ・ループ・システムを用いたパフォーマンスの、より1977年の初演に近いヴァージョンが《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》として上演(再制作)された。こちらは白いシーツや白装束、顔の白塗りは共通だが、男女のパフォーマーは堀夫妻ではなく若い俳優が演じ、発声も拡げた新聞を一文字ずつ読み上げるもので、映像もなかった。こちらでは読み上げが一音だけであり、また交互の発声がゆっくりと間を置いて為されたため(かわるがわる読み上げていた堀夫妻との対比)、第二あるいは第三世代の録音音声(らしきもの)を聴き取ることができた。そのようにして「声の地層」の深さ/積み重なりを垂直方向に覗き込む耳の視線に対し、眼の前を遮るように浮上し横切る不定形の影がある。フィードバックが生じているのだ。始めは時折浮かぶだけだった影は次第に床に立ち込め、とぐろを巻いて、さらには頭をもたげるようになってくる。第二あるいは第三世代の録音音声の姿を掻き消すばかりか、読み上げられる声にまで襲いかかり、いま録音されたばかりの音声すら歪ませてしまうようになる。空間を汚染したフィードバックがいよいよ水位を高めようとしたところで、スタッフがテープ・デッキのヴォリュームを操作し、フィードバックはいったん姿を消すが、しばらくすると、また床から頭をもたげてくる。

 《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》と《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》の上演の大きな差異として、声の姿勢の違いがある。これはおそらく元々の指示なのだろうが、前者では二人の演者はほとんど発声の仕方を変えることなく、淡々と文字を読み上げていた。これに対し、後者においては特に堀えりぜが、感情の自然な昂まりを反映させ(決して芝居っ気が勝っていたということではない)、伏し目がちに声を漏らしたり、斜め上方へ放り上げたり、涙を堪えたり、口ごもりあるいは言い澱んだりしていた。
 流れ続ける潮騒のせいか、最初のうちは生じなかったフィードバックが、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》にも現れ始めた。いったん起き始めると、その増殖は速く、ちょうど潮騒が場を明け渡して入れ替わったように、たちまち連続的な層を形成し、大きく息づき始め、ついには先ほどの上演を超える音量にまで至った。ノイズに洗われながら、二人は名前を読み上げ続ける。「名前」という語の性格のせいか、あるいは堀浩哉とえりぜがそこに込める感情や意志のせいか、二人の声は思わず人を振り向かせるような、強い呼びかけの力に満ちていた。フィードバック音響は二人の声に襲いかかり、録音音声を歪ませるだけでなく、激しく渦巻きながら、声自体をすら沈めてしまおうとしているのだが。そうした激烈な力に晒されながら、堀浩哉は立ち上がって叫び出したい衝動を押さえつけ腹に響かせるように、堀えりぜは感情を静かに解き放ち、声を幾分揺らがせつつ、噴出/爆発を押し殺しつつ、苦難に耐え声を放ち続けた。すると突然、テープ・デッキには誰も触れていないにもかかわらず、フィードバック音響がすーっと水位を下げ、急に雲が晴れたように潮騒が戻ってきた。後で聞いたスタッフの話では、潮騒が聞こえなくなったのでそちらのヴォリュームを上げたら、急にフィードバックが減衰したようだ。リミッターが働いたのかもしれないとのこと。奇跡/恩寵とも言うべき瞬間。

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©堀浩哉 撮影者不明


3.残存の中ですり減ることと積み重なること
 二つの上演の間の休憩時に解説リーフレットが配布された。堀浩哉自身による覚書、金子智太郎と畠中実という主催者二人による解説・論考が掲載されており、充実した労作である。上演に先立って金子によるイントロダクションと畠中による解説があったが、前者はむしろ今回の企画シリーズ「日本美術サウンドアーカイヴ」全体の説明であり、後者についてはリーフレット掲載の論稿と基本的には同内容ではあるものの、パワーポイントの投影ではなく印刷された文章で読めるので情報量が格段に違う。また、初演に近い再制作は白紙の状態で提示し、そこにさらに要素をプラスした新作上演に先立って背景を説明するという手順もよく考えられている。さらには上演終了後に三人によるトークが用意され、堀の最近のパフォーマンスの映像なども紹介しながら、堀による1970年代のパフォーマンスと1990年代以降のパフォーマンス(その二つの期間を20年以上に及ぶパフォーマンス活動の中断が隔てている)の違い、その連続と切断、継続と変容を縦軸と横軸から明らかにしていった。

 今回の企画で前提となるパースペクティヴとして示された、堀のパフォーマンスの歴史的位置づけ、特に大阪万博以降凋落していくテクノロジー・アートと「つくらないこと」を標榜する「もの」派の間での配置については、ここでは評価を保留したい。単純に言えば、そこで暗黙の前提とされている、堀の創作活動におけるパフォーマンスと絵画の対比に関し、堀の絵画活動についてほとんど知らないからである。もうひとつには、「もの」派とテクノロジー・アートを対立的に捉える構図に疑問を感じるためであり、これは特に「もの」派について、作品を作者の意図に沿って理解・評価することへの根本的な懐疑による。

 さて、その上で《Reading-Affair》を論じるに当たり、まず「記憶」に着目したい。これは当日のトークの中で、畠中が1998年にパフォーマンスを再開した堀が立ち上げた「ユニット00」について「これは『日本ゼロ年』展に対する反応なんですよね」と発言し、これに堀が応じて「歴史をリセットするなんてとんでもない。記憶は残っていくんだ」と語る場面をはじめ、随所で語られていた。堀は自身のパフォーマンスの70年代と90年代以降の差異についても、前者がそれぞれ一回限りの実験であったのに対し、後者は「絵画を取り戻す」のと同様、「パフォーマンスを取り戻す」として、一回だけでなく、何回も繰り返す中で、そこにいろいろなものを乗せていきたいと語っており、その例として、福島県の避難区域にある誰もいない小学校の映像に、いまここにある展示の影が映り込んだり、あるいは震災直後に訪れた宮城県で瓦礫の山を抜けてたどり着いた海が不気味なくらいに穏やかに凪いでいた様子を撮影した映像(この日用いられていた海面の映像もこれだという)に、パフォーマーの堀夫妻や参加者の影が映り込んでいるパフォーマンスを、「地層のように重ねて」と紹介していた。
 《Reading-Affair》において、「記憶」とは何よりもテープによる録音として示されている。本来、録音は「記憶」というより、機械的な「記録」だが、ここでは先に見たテープ・ループの仕掛けを通じて重層化され、否応なく変容を来していくことになる。原理的には読み上げられた音声が消失してしまうことはないが、実際にはすぐに語としての輪郭を失い不明瞭化してフィードバックに呑み込まれてしまう。声がすり減っていく一方で、それは澱となって積み重なりフィードバックをもたらす。ここではそれを「残存の中ですり減ることと積み重なることの拮抗/共存」と捉えたい。なお、ここで「残存」という語にはNachlebenにアビ・ヴァールブルクが込めた意味合い、すなわち「歴史の経過を超えて生き延びること」を含意している。
 なお、当日配布されたリーフレットに掲載された金子智太郎「波状の境界 堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》」の中で、金子は堀のパフォーマンスに対する峯村敏明の評語「収縮と膨張」に注目し、次のように論じている。
 「峯村の議論は、堀のパォーマンスをたんなる一方向の解体ではなく、収縮と膨張の間の危ういバランスをとることとして理解する。このような理解は《Reading-Affair》に向かう堀のパフォーマンスの展開を検討するために不可欠なものではないか。彼のパフォーマンスの展開は、収縮と膨張のバランスをとっては、あえて崩し、再調整するという作業の反復に見えるからだ。」
 さらに、この「収縮と膨張」と反復は「収縮と膨張の往還」と捉え直され、「往還」を「堀のパフォーマンスの展開にとって重要」と位置づけ、次のように述べている。
 「ギャラリー・カドで上演された《Reading-Affair》では、こうした往還とハウリングがさらに強調された。2人のパフォーマーの往還運動にはリズミカルな流れがある。また、パフォーマンスの経過とともに相手の声が聞きとりづらくなるために、行為することと聞くことの関係が一定の緊張感を保ち続ける。さらに、ハウリング・ノイズがだんだん声に混じり、声を覆って、これまでにない存在感を発揮する。パフォーマー2人の往還、堆積していく声、ハウリングが次第にあらわれて声と入れ代わっていく流れ、これらが《Reading-Affair》に幾つもの波動を濃密に共存させていく。」


4.《Reading-Affair》上演におけるプロセス
 作品を「プロセスを通じて生成してくるもの」と捉えるならば、作者が記したコンセプトや「意図」のみによって作品を評価したり、あるいは作品に遭遇した体験をそれらの絵解きに還元することはできない。《Reading-Affair》は音楽でもサウンドアートでもないが、この視点からすれば「上演」の問題を考えないわけにはいかない。
 《Reading-Affair》の作品構造からしても、また、堀浩哉における「記憶」、「重層化」、「往還」等の重要性から言っても、先に掲げた「残存の中でのすり減ることと積み重なることの拮抗/共存」は重要なポイントであると考える。これを上演環境において見るならば「テープ・ループの中ですり減っていく言葉と積み重なっていくフィードバックのバランスをどう達成するか」となる。
 たとえば録音された直後の再生音だけが聴き取れればよいのか、再生音がさらにマイクロフォンに拾われた第二世代、さらには第三世代の再生音も聴こえた方がよいのか。多くの層を透かし見られるならば、それだけ地層の深さ/奥行きを覗き込むように体験することができる。
 また、フィードバックはどのように詰み上がればよいのか。先に述べたその場で発せられる声と再生される声のつくりだす地層の深さを覗き込み充分体験した後に、その深みから湧き上がってきた方がよいのか。それとも、すぐにでも空間を満たし、声を水没させてしまってもよいのか。
 フィードバックの音量はどうあるべきか。ずっと小さい音量で足元を洗っていてもよいのか。あるいはパフォーマーの発声自体を聴こえなくしてしまうほど大音量になってもよいのか。この日の一回目の上演では途中でテープ・デッキのヴォリュームが操作されたが、そもそもそうした途中介入は望ましいのか。フィードバックが暴走し、パフォーマーの声が聴こえなくなるどころか、スピーカーのボイスコイルが飛んでしまい、システム自体が破壊されてしまうような事態に陥っても、それは会場の音響環境等がもたらしたものなのだから、それはそれとして放置すべきであり、手を出してはいけないのか‥‥。

 この点についてトークの終わりに設けられた質問コーナーで訊いてみた。時間が限られている中で、これほど丁寧に説明できたわけではないので、質問の意図が伝わりにくかった部分もあるだろう。それでも堀浩哉から次のような話を聞くことができた。

 これまで何度もやっていて、問題がなかったことはない。体験していない失敗はないんじゃないかと思うくらい、いろいろなことが起こる。フィードバックが欲しいのはその通りだが、それでもいきなりでは困る。バランスは重要だが、ちょうどよいところを想定して、それに合わせて調整するという発想はない。そもそもそんなにうまく調整できない。
 今日のパフォーマンスでも、演じているこちらからすると、果たしてこちらの声が会場に聴こえているのか心配になるくらい、フィードバックの音が大きかった。それでも聴こえなくても、それはそれで構わないと思って読み上げ続けた。パフォーマンスのプロセスの中で、そうした往還というのは常にある。えりぜの声との間を空けたりとか。
 手順や機器のチェックは必ず行うが、パフォーマンス自体のリハーサルはやらない。これは今までもずっとやったことがない。パフォーマンスというのはそういうものだと考えているから。

 この発言を聞いた限りでは、堀は言葉がすり減っていくプロセスを幾世代にも渡って聴かせることは考えていないようだ。ただ単にフィードバックが始まるまで、一定の時間が確保され、その間、パフォーマーの生の声と再生された第一世代の声が交錯する様だけを見せられればよいと。ここから彼が《Reading-Affair》のパフォーマンスをAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』に基づいて発想したのではないだろうと推察できよう。『I Am Sitting in a Room』を聴いていたなら、もっと言葉がすり減り、意味を脱ぎ捨て、声としての形状すら失って、ついには人の気配などしない空気の震えへと化していくプロセスに魅せられたはずだからである。それこそ私がかつてそうだったように。しかし、堀はそうではなかった。もちろん技術的な問題もあるだろうし(そもそもそんな風に積層化された光景を一望できるなぞ思いもよらなかったとか)、フィールドレコーディングされた音源に耳を傾け、眼前に広がる前景や中景をめくっていくと姿を現す、後景にたなびく音や響きに耳をそばだてた経験がなかったのかもしれない。

 ちなみに、畠中が堀の発言を補足して説明していたように、テリー・ライリーやロバート・フリップ等がテープ・ループのシステムを音楽演奏に用いる場合は、ミキサーを使用して音量を細かく調整できるようにし、コントロール不能の事態に陥らないようにしている。《Reading-Affair》のシステムには、そのような仕方でコントロールできる部分がない。これはその通りだ。また、この日のパフォーマンスにおいても、当初想定した人数に倍する観客が来場し、音響環境の見立てが全く狂ってしまったというのもその通りだろう。だが、そうしたサウンドの調整に関する部分が、パフォーマンスの本質的な部分ではなく付随的な部分に属するというのは、いささか認識が浅いのではないか。というのも、先の堀の発言にもあるように、また、ライヴの描写にも示されていたように、そここそが「往還」の、すなわちこのパフォーマンス=行為の核心部分であるからだ。
 あらかじめ誤解を生じないように説明するならば、このバランスは会場の選択によって運命的に定まってしまうものではないばかりか、決してテクニカルな問題に留まるものでもなく、上演に携わるパフォーマーが上演中にリアルタイムで関与することも可能な部分である。会場のエアー・ヴォリュームの変更が出来ない以上、音響特性を大きく変えることはできない。しかし、この場合、さして大きな会場ではないから、物を置いたり掛けたりすることにより吸音特性を変えることは可能だ。また、肝心なのは1本の再生用スピーカーと1本のマイクロフォンの間に成立する回路だから、位置や向き、パフォーマーの口元との距離の調節により大きく変えることができる。さらにはパフォーマーが声の強弱を変えたり、発声の間合いを調節したり、身体を傾けてマイクロフォンに口を寄せたり、上半身で、あるいは手を伸ばしてマイクロフォンをカヴァーしたりすれば、さらに音響は変化する。いずれの場合も、再生音のマイクロフォンへの返りを少なくすればフィードバック量は減少し、フィードバックは静まっていくことになる。

 おそらく、そんなことはよくわかっていて、畠中は「バランスは付随部分に過ぎない」と指摘したのだろう。だが、とすれば、パフォーマンスの間、私たちは何を聴いているのか。ただ単に事前に決められた手順が、何があろうと遂行されていくのを見守っているだけなのか。何のためにパフォーマーと同じ空間にいるのか。「一回性」の恩恵を受ける特権的な観客であるためか。それではプロセスを聴いたことにはなるまい。
 ここで「バランスを取る」とは単に暴走させないという意味ではないし、コントロール下に置くということでもない。そこで生成する事態に不断に接続し続けるということにほかなるまい。凝視・聴診・蝕知・探査・関与・距離・伝播‥‥、それこそは『松籟夜話』でキーワードに掲げる「音響」「環境」「即興」の謂である。

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堀浩哉《Reading-Affair》リハーサルから  撮影:梅沢英樹



日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》1977年
2018年1月7日(日)
三鷹SCOOL

〈上演作品〉
堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
出演:関真奈美 / 馬場省吾
堀浩哉+堀えりぜ《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》
出演:堀浩哉 / 堀えりぜ

イントロダクション:金子智太郎
レクチャー:畠山実
トーク:堀浩哉、畠山実、金子智太郎


日本美術サウンドアーカイヴ特設ページ
https://cococara-minamiaoyama.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B4%E7%89%B9%E8%A8%AD%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/

金子智太郎による日本美術サウンドアーカイヴ告知
http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/20171103/p1


日本美術サウンドアーカイヴ次回──稲憲一郎《record》1973年
会期 2018年1月14日(日)〜1月20日(土)
12:00-20:00(月曜休廊、最終日は12:00-17:00)
会場 南青山 Art & Space ここから
展示作品
稲憲一郎《record》(1973年)再制作 他

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©稲憲一郎 撮影:稲憲一郎





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:30:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
声の肉の重さ ― NHK『SONGSスペシャル』 井上陽水×玉置浩二 レヴュー    The Flesh of Voice ― Review for NHK "SONGS Special" Yosui Inoue & Koji Tamaki
 いろいろとレヴューしなくてはいけないことがたまっているのだけど、昨日(2017年11月10日)のNHK『SONGSスペシャル』について、少し書き留めておくことにしたい。

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 この日は井上陽水と玉置浩二/安全地帯の特集。二人が共作した「夏の終わりのハーモニー」を31年ぶりにデュエットするのが目玉だった。
 フィナーレを飾った二人の共演では、やはり井上陽水の声のしなやかな強靭さに打たれた。玉置の声がハスキーなエッジをたたえながらも、平面的に広がってしまうのに対し、陽水の声は筆先の自在な動きとして、薄墨の一様な広がりの上に墨跡くっきりと浮かび上がり、鮮やかに弧を描き、なだらかにはらい、くっと跳ねる。後半、玉置が声を絞り、面を線に、言わばトランポリンをスラックラインに替えることで、二人の声を絡ませていたが、確かにこれでは、誰も陽水とデュエットなどしたがらないだろうと思わせた。

 無論、玉置は決して下手な歌い手などではない。魔法学院の校長みたいな白髪には驚いたが、声は力強く張りがあり、音程も正確で、息を長く保つことができる。日本のポップ・ミュージックの歌手としては最上級の部類だろう。だが、それでも陽水は別格だと感じずにはいられなかった。この日の放送では、本来、玉置浩二/安全地帯の持ち歌である「ワインレッドの心」を、作詞を担当した陽水に玉置が三度もダメ出しして書き直させた‥‥というエピソードが紹介された後、陽水が歌ってみせた。
 彼の声は、軟体動物のようにぬめぬめと這い回り、後ずさって、定型ビートの格子の隙間からだらりと垂れ落ちそうになる。拍に合わせて膝を叩いていると、後ろにもたれかかり、のしかかってくる声のだらんと弛緩した死体のような重さに、思わず指先の動きが止まってしまう。かつて高橋悠治のピアノやコンピュータの音の運びに似た感覚を覚え、まるで駅で見かけた彼の歩く姿のようだ‥‥と感じたことをふと思い出す。すっすっと等速で歩む身体各部のしかるべき推移から、一瞬ごとに踏み外し、滑り落ちる動き。しかしそこには、こうして拍を刻む指先にのしかかる肉の重さはなかった。
 と言って、決してブラック・ミュージック風のシンコペーションではない。声の発せられる立ち上がりの瞬間が遅延されているのではなく、すでにある声の重心が後ろにずらされているのだ。これはむしろアジア的な歌唱なのではないかと思う。たとえば、李香蘭(山口淑子)による「蘇州夜曲」の歌唱(*1)を参照していただきたい。よく彼女と並び称される渡辺はま子による歌唱(*2)をはじめ、多くの有名歌手が同曲をカヴァーしているが(*3)、少なくともこの声の運びについては、とても比べ物にならない。そうした中ではアン・サリーによる歌唱(*64が、その抑揚の精妙さで群を抜いているが、やはりシンコペーション的な遅延がベースになっており、声の重心のずらし、体幹の後ずさりが主ではない。
*1 https://www.youtube.com/watch?v=w0ht7Wkkc3s
*2 https://www.youtube.com/watch?v=x5KVEP_bFDo
*3 https://www.youtube.com/watch?v=Cyk6-fdtZ9c
   https://www.youtube.com/watch?v=bjhitYa0EEY
   https://www.youtube.com/watch?v=2omcKliTja4
   https://www.youtube.com/watch?v=j7hlz42HOXI
   https://www.youtube.com/watch?v=zi7Ixt4_7D0
   https://www.youtube.com/watch?v=auR5WhLe9w0
   https://www.youtube.com/watch?v=aStz4abVMUQ
*4 https://www.youtube.com/watch?v=b5nv_RdyR_Q

 こうした遅れ/後ずさりの感覚は、声を口腔内に滞留させ、口元を離れる瞬間を限りなく引き延ばし、その間も微細な加工を施し続ける発声の仕方と不可分のものである。
 以前にこのブログでベケット『しあわせな日々』のARICAによる公演をレヴューした際(*5)に、「声持ちのよさ」という視点を導入した。その部分を以下に引用する。

 何より前作「ネエアンタ」では役柄上、あまり聴くことのできなかった安藤朋子の声をずっと聴き続けることができたのが、私にとって大きな喜びだった。深い喫水を保って重い水をゆっくりと押していく息の安定した土台(これは優れた歌い手/声の使い手の必須条件にほかならない)に基づいて、しなやかに伸びやかに遊ぶ声。弾むようなしっとりとした甘さを常にたたえながら、声は喉から流れ出るだけでなく、舌先や唇で放たれる最後の一瞬までこねられ、編まれ、操られる。優れた投手の条件として「球持ちがよい」こと、すなわちボールをできるだけ長く持っていられること、能う限り打者の近くで放すことがよく挙げられる。その点、彼女は実に「声持ちのよい」投手と言わねばならない。
*5 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html

 実はここで安藤朋子に適用している「声持ちのよい」声の使い手には「原型」がある。それこそが井上陽水にほかならない。以前にこのブログで、陽水の声についてレヴューした箇所(*6)を以下に引用しよう。

 何より井上陽水自身がそうした言葉の極めて優れた遣い手/実践者にほかならない。彼が当代随一の歌い手であるのは、決して美声の持ち主であるからだけではない。
 冒頭に述べたように、彼はサウンド/演奏により曲を歌い変えていく。それは単にテンポやキーを変更したり、シンコペーションを効かせたりするといったレヴェルではない。彼はサウンド/演奏の起伏や肌理を触知し、自在に言葉のタイミングを操る。それも語よりもさらにミクロな単位で。それが先ほど「魔法」として描写した仕方である。エヴァン・パーカーが循環呼吸とマルチフォニックスを操るのと同様に、陽水も口腔の筋肉や粘膜を総動員して(彼ほど忙しく頬を膨らませたりひしゃげさせたり、あるいは長過ぎる舌を掻き回す歌い手はいない)、声を砕き、息を切り分けて細分化し、母音の変容を、子音の立ち上がりを、音素と強弱の配分をコントロールする。その場で即興的に。
(中略)
 むしろ声の楽器的な用法と言うべき(無論それだけにとどまるものではないことは強調しておかなければならないが)ヴォイス・インプロヴィゼーションを別にすれば、即興的な歌い手としてすぐに浮かぶのは、先頃死去したLou Reedだろうか。「この男には、歌詞を何も用意せずにステージに上るや、その場で歌詞を作りながら、幾らでも歌ってみせるという、天性のソングライターとでも言うべき才能が備わっていたのだ」(大里俊晴)。だが陽水の行っていることは、サウンドの斜面を声により自在に滑走することではない。彼は歌うたびに、曲を詩を改めて書き直しているのだ。先に見たような量子化されたミクロな領域で。それにより光の射し込む隙間の位置や幅が変わり、入射角が異なって、反射や拡散が違うものとなり、全く別の世界が立ち現れる。だからこそコメントの対象となるべきテクストは先に確定している必要がある。コメントを書き入れるべき余白を空け、文脈の紐帯を緩め、語の意味合いを多義的に散種させて。その時、彼の作品世界は、姿の見えないリンゴ売りとテレビが放射するあり得ない色彩、断頭台の隣で催される「指切り」の儀式と身動きできず舞台でもがくコメディアンが、触覚だけでなく、視覚/聴覚/味覚/嗅覚/体性感覚、いや思考や想起や妄想等、様々な質の「寒さ」の中ですれ違うカーニヴァル/メニッペア的な多次元空間となる。これを批評と言わずして何と言おう。
*6 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-268.html

 一見ソフト&マイルドでふわふわとした歌唱に、恐ろしいまでの衝撃と破壊力を秘めたこの一曲だけで、もう充分なくらいだが、陽水はさらにパンキッシュな「Just Fit」と感慨深い「最後のニュース」を聴かせてくれた。
後者では、もともと歌詞の優れた報道写真のような鋭い現実の切り取り方が印象的だが、言葉の字余り的な長さを勢いで押し流さず、かと言って持て余すことなく声にして、繰り返されるフレーズの枠組みに収めていく歌唱は、そこに織り込まれた様々な視点‥‥逆説をもてあそぶ皮肉屋だったり、天真爛漫な無垢が残酷を招いたり、破滅の兆候を鋭敏に感知する預言者だったり、ナイフのように鋭く人を傷つける告発だったり、相手に気づかれることなく遠くからその姿を写しとる望遠レンズだったり‥‥を、スライド・ショーのように入れ代わり立ち代わり浮かび上がらせていく。
 アナグラムにも似た言葉の組み換えが、「意味」に揺さぶりをかけることにより、状況喚起力を強める「最後のニュース」に対し、「Just Fit」の意味を徹底的にすり減らし、ペラペラの記号と化していく陳腐極まりないフレーズの集合は、口中から勢いよく射出され、次々に着弾し、破裂する声にとってのカタパルトでしかないのだろう。この日はいつものロック・バンド編成による演奏ではなく、あえてアコースティック・ギター3本(陽水自身を含む)のバッキングが選ばれていた。これにより、ベースとドラムのビートの肥大した音圧に押し立てられるように見える声が、実はビートの網目を自在にくぐり抜ける速度を有していることが明らかにされた。叩きつけるような明瞭さを持ちながら、字幕なしには理解不能なほどひしゃげた発音は、獲物を見つけ翼をたたんで急降下する鷹の軌跡を思わせた。鋭くリズムを刻みながら、ふと乱れもつれていくギターのアンサンブルも、また見事だった。

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2017年11月10日(金) 22:00~
NHK『SONGSスペシャル』 井上陽水×玉置浩二
https://www.dailymotion.com/video/x68spu1
https://www.youtube.com/watch?v=eWW5-eoRZag

映画・TV | 23:44:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
青山学院大学のデレク・ベイリー、ミッシェル・ドネダ、フランシスコ・ロペス ― 「環境芸術論」ゲスト講義リポート  Derek Bailey, Michel Doneda, Francisco Lopez Disk Playback in Aoyama Gakuin University ― Report of Guest Speaker Lecture for "Environmental Aesthetics"
 鳥越けい子先生に招かれ、11月2日(木)、青山学院大学で、津田貴司と共に「環境芸術論」のゲスト講師を務めた。貴重な機会となったので、そのことについて書いておきたい。

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1.授業と教室の見学【10月19日 本番2週間前】
 『松籟夜話』に何度か(時にはゼミの学生たちと共に)参加された鳥越先生からゲスト講師の依頼をいただき、「環境芸術論」のふだんの授業の様子と会場となる教室を見学した。機器のトラブルで開始が遅れたのだが、鳥越先生がすでに教壇上にいらっしゃるのに、学生たちの私語がすごいのに驚いた。休み時間よりうるさいぐらい。「授業はまだ始まっていない」と割り切っているのだろう。先が思いやられたが、実際に授業が始まってみると、学生たちはうるさく私語をすることもなく、おとなしく講義を聞いていた。だが、やはり随分と「受け身」だと感じた。遠巻きに眺めている感じがするのは、ものの見事に教室の中央前列が空席になっているせいばかりではなかろう。
時折シャッター音がするので不思議に思っていると、パワーポイントによりスクリーンに映し出されている資料映像を、スマホで撮影している学生が何人かいるのに驚いた。知り合いの教授から「こっちが一生懸命に板書しているのをノートも取らずに聞いていて、最後にパシャッと撮影されると、本当にがっかりする」と愚痴をこぼされたことを思い出した。ここで講義内容は、その場での音源再生等を含んでいるにもかかわらず、いくらでもコピペ可能な単なる情報とみなされているようだ。
 もうひとつ課題として浮かび上がったのが教室の再生音響だった。150人ほど入る横長の教室で、前方の二つの隅にスピーカーが設置されているため、中央ではどうしても「中抜け」になり、右側や左側では片チャンネルだけの音を聴くことになってしまう。これでは音場感や空間の広がりがわかりにくい。



2.方向性の検討
 見学の後、津田と授業の内容や進め方について打ち合わせると、彼もスマホ撮影に驚いていた。これをきっかけとして、「情報ではなく、体験の機会を提供する」のを目指すこととした。ある意味『松籟夜話』と共通しているが、時間も短く、「聴く」ことに慣れていない学生に対し、「音をして語らしめる」だけではどうしても限界がある。そこで、何回かメールをやりとりして、次のように方向性を整理した。

(1)音楽が始まると静かになるので、何よりも先に開始の合図として曲をかける。1~2分くらいして、「何コレ?」と食いついてきたところで、パッと切って、すぐに始める。
(2)パワーポイントで提示するのは補足的な情報を中心とし、スライドの事項を読み上げることは基本的にはしない。たとえば、フリー・インプロヴィゼーションやデレク・ベイリーの話をする時、話の中では一般的な説明はせず、それらはパワーポイントで「注」として映し出し、パッパッと切り替える。
(3)レジュメやパワーポイントのプリントアウトは配布しない。体系的な知識の伝達ではなく、ふだんはしていない「体験」をすることが眼目であることを、冒頭に説明する。
(4)上記(2)に加え、音源再生中に、パワーポイントで聴き方をナヴィゲートする情報や関連図像等を映し出す。これにより「音をして語らしめる」ことに耳が届きやすいようにするとともに、情報量をさらに増やす。受動的な姿勢の学生に対し、情報のシャワーを浴びせることにより、強制的に「体験」を喚起する。
(5)上記(4)の通りナヴィゲートを行うことを前提として、音源はふだん聴いていない、初めて接するようなものとする。これにより「音楽の聴き方」に対する固定観念や身に着けた構えを無効化/武装解除し、そこで生じている出来事といきなり出くわさざるを得ないよう事態をセットする。
(6)音源は(5)の要件を満たし、かつ「音響」「環境」と直接触れ合えるものとして、まずフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを聴いてもらう。続いて、これらにより形成された新たな耳で、民族音楽やポップ・ミュージックを聴いてもらう。
(7)講師を二人で担当することを活かし、福島の講義を津田が途中からパフォーマンスにより攪乱する展開とする。また、プログラム中で津田自身の作品を採りあげ、福島による批評的言及とアーティスト津田による自作自解を共存/交錯させる。
(8)再生環境のため、音場感、空間の感触、背景音等が聴き取りにくい。何か改善の方策を考える。

 再生環境については、津田が小型のギター・アンプとCDプレーヤーを持ってきてくれることになった。当日の事前リハーサルで音出ししてみると、音量的にも充分で、サービス・エリアも均質になるだけでなく、ちょうど昔、街頭テレビをみんなで取り囲んで観たように、小さな音源に皆が集中することが生み出す効果も期待された。

 「音源再生中に、パワーポイントで聴き方をナヴィゲートする情報や関連図像等を映し出す」というのは、Francisco Lopezのワークショップに参加した際に、プレゼンテーションで用いた方法だ。発表の時間が10分間しかない中で、音源をかける時間を確保するため、音源をかけながら、説明を声ではなく、文字等で伝えるやり方を考え付いたのだった。その後もイヴェント『Study of Sonic』で金子智太郎と共同レクチャーを行った時にも使用した。だが、前述のようにワークショップでは10分だけだったし、共同レクチャーでも一部で用いただけで、今回のように全編に渡り何度も用いるのは初めてだった。このことに関し試行錯誤したのと「情報のシャワー」の水量を衝撃的に増やそうと欲張ったため、何とパワーポイント資料が本番直前になっても完成せず、最後の2作品についてはジャケット写真を表示できない‥‥という失態を犯してしまうこととなる。学生さんたちにはご迷惑を、鳥越先生と津田にはご心配をおかけしまして、申し訳ありませんでした。

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3.当日 第1部
 左右のスクリーンには「聴くことを深めるために」というタイトルが映し出されている。教壇上には教卓の上にMac Bookを開いた福島だけ。その脇で鳥越先生が本日の広義の位置づけを手短に説明される。講師紹介にすぐには応えず、CDプレーヤーのプレイボタンを押す。Tomoko Sauvage『Ombrophilia』tr.1が始まり、空気が震え揺らぐ様が、水の中の寒天のように眼前に浮かぶ。かつて音盤レクチャー『耳の枠はずし』第1回で開演合図のチャイム代わり(?)にかけ、紹介したところ、その日のうちにFtarriの在庫が売り切れてしまった思い出深い音源。不意討ちを食らった学生たちがポカンと口を開く中、1分ほど経過したところで再生を停止し、「本日のゲスト講師を務める音楽批評の福島です」といきなり話し出す。スクリーンは私のプロフィール紹介に切り替わっている。
自己紹介を簡単に済ませた後、本日の講義の狙いが、いつもとは違う聴き方の体験、耳のストレッチであることを告げる。そのため、ふだん聴いていない耳慣れない音源として、フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを用いること。ただし、これらの音楽を紹介するために聴いてもらうのではないこと。パワーポイントは補足的な情報をシャワーのようにどんどん流すので、撮影しても役立たないこと。音源をかけている間に、聴き方に関するナヴィゲーションが画面に表示されること。指示や命令ではないので必ずしも従う必要はないが、念頭に置いてもらった方が「足がかり」ならぬ「耳がかり」にはなること。音量はいまかけたくらいなので、聴きにくければ今のうちに席を移ること。とても小さな音になる場合もあるので、私語はせず、居眠りする人もイビキはかかないようにして、静かに聴いてほしいこと‥‥等を早足で説明する。最後の注意は津田の登場に向けたお膳立てである。その間にも、デレク・ベイリー、フリー・インプロヴィゼーション、フィールドレコーディング等に関する説明がスクリーンに映し出されては、すぐに切り替えられていく。

  「それでは次の音源を聴いていただきます」とプレイボタンを押す。不定形に歪んだ音のかけらが、様々な方向から脈絡なく現れては消えていく。スクリーンに映し出されたナヴィゲーションは次の通り。

何が聴こえますか?
    ↓
メロディは聴こえますか?
リズムは聴こえますか?
ハーモニーは聴こえますか?
    ↓
メロディも、リズムも・ハーモニーも聴き取れないとしたら
いったい、あなたは、いま何を聴いているのでしょうか?
    ↓
これは音楽でしょうか?
これは演奏でしょうか?
    ↓
現在お聴きいただいている音源
Derek Bailey『Solo Guitar volume 1』

 この音源については、以下のURLで試聴できる。授業では2分程度のtr.1をかけた。
 https://www.youtube.com/watch?v=2RyMUqjVRE8

 学生たちの頭上に「?」が浮かぶのが眼に見えるようだった。ベイリーの演奏をご存知の方はすぐに気づかれたと思うが、ここでナヴィゲーションは「理解への到達」よりも「当惑の維持」を目指して構成されている。「ああ、ノイズね」とか「前衛ぽいヤツ」とありきたりのレッテルを貼られて「枠外」に片付けられてしまわないように。
 それゆえオープン・クエスチョンで始め、耳の眼差しをそらさせないよう、あえて「そこには無いもの」を探すタスクを与え、宙吊りの当惑状況を対象化し、さらに「脈絡のない音を聴いている」といった回答を迂回するために、これは音楽/演奏なのか‥‥と問いかける。

 続けて間髪を入れず、ノン・イデイオマティック・インプロヴィゼーションの説明を始める。スクリーンには次の解説が映し出されている。

従来の即興演奏では、ジャズならジャズの、インド音楽ならインド音楽のイディオムがあらかじめ存在し、そのイディオムを巧みに用いることで即興演奏が展開されるとともに、ジャンルの特徴を強く帯びることになる。これはある閉域をつくりだすことにほかならない。
これに対してフリー・インプロヴィゼーションの演奏は、そうしたイディオムを排することにより、開かれた即興演奏を、いやむしろ、演奏を不断に開き続けることを目指す。
そこでは音が連ねられる際に必然的に生じるフレーズ=イディオムの生成に対し、至るところ、あらゆる瞬間に「切断」を仕掛けることが必要となる。すなわち演奏は、出来上がりかけるイディオムを常に切り崩しながら進められることになる。

 もとより、言葉で理解してもらうことなど求めていない。「閉域」、「不断に開き続ける」、「切断」、「切り崩す」といった語の響きや、それらの語が生じさせる「力」のイメージが幾分かでも伝われば、それでよい。
 続いて、Derek Bailey『Pieces for Guitar』tr.1を最初の1分ほどだけかける。
 試聴:https://www.amazon.co.jp/dp/B01N2YW8QU/ref=dm_ws_tlw_trk1

 先の『Solo Guitar volume 1』(1971年録音)の5年ほど前の録音で、この頃、ベイリーはアントン・ヴェーベルンの音楽に魅せられ、それをインプロヴィゼーションに反映させようとしていたことを説明する。どこにもたどり着かない、漂うようなそぞろ歩きは、音列から踏み出そうとして踏み出せない(踏み外せない)もどかしさと共にある。ここには先ほどのようなきっぱりとした切断がないことを指摘し、ヤニス・クセナキスと高橋悠治の問答に触れる。

二つの音をつづけてひいて、それがメロディにきこえないようにする。どうしたらいいか。
    ↓
そのこたえ。二つ目の音の強さをわずかに変え、はじまる時間をわずかにずらし、前の音との間を気づかないほど区切る。それだけのことで、二つの音は一本の線ではなく、別々の線が偶然であったようにしかきこえない。

 続いてヴァルター・ベンヤミンによる「星座(Konstellation)」について説明する。

古来から、人は星空に星々がかたどる特定のかたちを見出し、それを「星座」ととらえていた。
しかし、星座を構成する一つひとつの恒星は、それぞれ異なる距離に位置するため、そのような「星座のかたち」が浮かび上がるのは、特定の方向から見た時だけである。
裏返せば、事態をある面で切断することにより、その断面に見かけとは異なる「星座」を浮かび上がらせることができる。また、視点を移動させることによって、「星座」を構成する結びつきを解体することが可能となる。

 視覚イメージを添えたのは、その方が直感的にとらえられるだろうと考えたからだ。すでにお気づきのように、問答と「星座」は表裏一体の「寓話」となっている。ブログ『耳の枠はずし』で大上流一の演奏を「ポスト・ベイリーの地平」に位置付けた時の次の説明は、ここで指し示しているのと同じ原理である。
 「イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。」
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-438.html

 ここで改めてDerek Bailey『Solo Guitar volume 1』tr.1をかける。同じ音源を説明なしとありで2回聴くことにより、違いを感じてもらうことを目指している。スクリーンに映し出すナヴィゲーションも前回とは変えている。

今度は何が聴こえますか?
    ↓
耳の視界の縁をかすめて飛び去っていく音
響かずそこに立ち尽くす音
右から左へ、奥から手前へ、三次元的に眼前を過る音
これらを捕らえ、「星座」を浮かび上がらせてください
    ↓
視覚モデルとしての原子崩壊の軌跡

 終了後、振り返らずに先へ進む。音をあらかじめ根拠づけられたものとしてではなく、散乱する音響のかけらとしてとらえ、その中に自ら「星座」を浮かび上がらせる聴取が、同時に演奏の「台紙」である沈黙のうちに、環境音や暗騒音を浮かび上がらせずにはいないことを指摘し、ジョン・ケージの「沈黙」に言及する。スクリーンには次の説明を表示している。

音を演奏者の意図の「乗り物」ではなく、散乱する音響のかけらと捉え、注視するならば、ふだんから我々の周囲にあり、いつもは樹にも留めない環境音や輪郭のはっきりしない暗騒音が浮かび上がってくる。
本のページを拡大鏡で眺め、インクの滲みや、紙の毛羽立ち、もとからある微かな傷が眼前に浮かび上がってくるように。音を聴くための「台紙」となる沈黙は、決して真っ白でつるつるした平面ではない。
1951年に「完全な沈黙」を体験しようと無響室に入ったジョン・ケージの耳に聴こえてきたのは、自分の血流の音と神経系統が立てる音だった。彼は人が生きている限り「完全な沈黙」などあり得ないことを知り、沈黙を「意図的な音のない状態」と定義し直す。それこそは環境音や暗騒音が波打ち、渦巻く世界にほかならない。

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4.当日 第2部
 説明している間に、教室の後ろの方から、潮騒にも似た響きが漂い始める。授業の開始時点から、教室の隅の席に何食わぬ顔をして座っていた津田が、小型のトランジスタ・ラジオで局間ノイズを流しながら、教室を徘徊しているのだ。ノイズはヴォリュームの操作、ラジオの向きの変化、スピーカー面を身体に押し当てる等により様々に変化し、「演奏」され、言葉とすれ違い、衝突して、柔らかく紗をかけ、また、浮かび上がらせる。

 それに気づかぬふりをして、次の音源を、やはりそれが何であるか明かさずにかける。スクリーンには次のナヴィゲーションが順に映し出される。

何が聴こえますか?
    ↓
周囲の音を無視して、ギターの音だけを聴かないでください。
足元を洗う交通騒音を通して、それと共にギターの音を聴くようにしてください。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
響きから壁の位置や天井の高さを感じてください。
何やら足音や人の動き回る気配がします。ダンサーと共演しているのです。
雨の音が強くなってきました。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
屋根を叩く激しい雨の音のせいで、ほとんど何も聴こえません。
雨音の向こうにギターを探すのではなく、時折漏れ聴こえる何かの音が、空間の響きを際立たせる様を聴いてください。
    ↓
いま聴いていただいた音源
Derek Bailey with Min Tanaka『Music and Dance』

 田中珉と舞踏についてわずかに触れた後、次の音源を、やはりそれが何か明かさずにかける。スクリーンには次のナヴィゲーションが順に映し出される。津田のパフォーマンスは続いていて、巻貝に水を入れてコポコポ鳴らしたり、水で満たしたガラス瓶を揺らしたり叩いたりする音が微かに聴こえる。

何が聴こえますか?
    ↓
がさがさと葉が擦れる音、ぽきぽきと小枝が折れる音がします。
ソプラノ・サックスやパーカッションが野山に分け入り、土壌から生い茂るように生成する様を聴いてください。
    ↓
実は録音技師もマイクロフォンを担いで、彼らの後をついていっています。
録音技師の耳の眼差しの移動や揺らぎを聴いてください。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
演奏者は先に進み、録音技師は後に残って、楽器の音のしない、環境音だけの音風景が立ち上がる。
だが、それは決して無音の光景だったり、空っぽな世界だったりはしない。弛むことのない自然の生成がそこでは繰り広げられている。
    ↓
いま聴いていただいた音源
Laurent Sassi, Michel Doneda, Marc Pichelin, Le Quan Ninh『Matagne Noire』

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5.当日 第3部
 音源再生が終わった時には、すでに教室を巡り終えた津田が教壇の上に立っている。「本日のもう一人のゲスト講師、津田貴司です」と私が紹介し、津田が自己紹介を始める。
津田の解説で彼の作品『Lost and Found』からtr.11を聴く。靴音の響く空間にスティール・パンが柔らかくかぶり、遠くで教会の鐘が鳴り響く。1分ほどのごく短いトラック。スイスで演奏した際に、地下鉄構内でのバスキング(街頭演奏)に惹かれ、録音したもののうまく行かなかったので、自身の多重録音によりつくりあげたのだという。続いて、また何かを明かさずに音源をかける。スクリーンには次のナヴィゲーションを順に映し出す。

何が聴こえますか?
    ↓
これはコスタリカに広がる熱帯雨林のフィールドレコーディングです。
隙間なく繁茂する野生の音響が多焦点の一様な広がり(オールオーヴァー)をつくりだす様を聴いてください。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
水音など様々な音響が奥行きのある三次元空間に配置されています。
パースペクティヴの異なる響きがレイヤーとして敷き重ねられている様を聴いてください。
    ↓
いま聴いていただいた音源 
Francisco Lopez『La Selva』

 続いてhofli『木漏れ日の消息』tr.7「夜の思想」の冒頭4分ほどを、津田自身の解説に引き続き聴いてもらう。分厚くのしかかる夜の闇と静寂の中に、目蓋の裏の光の移ろいのように音が柔らかく明滅する。フィールドレコーディングした真夜中のサトウキビ畑は本当に真っ暗で恐ろしかったとのこと。
 続いて、これまでフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングの聴取により、ストレッチしてきた耳で、今度は民族音楽やポップ・ミュージックを聴いてみたいと思います‥‥と前置きして、次の音源をかける。

何が聴こえますか?
    ↓
笛の菅の中の空気の振動に耳で触れてください。
    ↓
いま聴いていただいた音源
『Sacred Flute Music from New Guinea』

 デヴィッド・トゥープに関する説明もそこそこに、次の音源をかける。

何が聴こえますか?
    ↓
声の強さだけでなく、周囲の空間を蝕知してください。
    ↓
いま聴いていただいた音源
里国隆『路傍の芸』

 タイトル通り、ストリート・ミュージシャンによる大道公演であることを説明し、里国隆について、また録音者の宮里千里について津田から話をしてもらう。「イザイホー」の録音についても言及する。
 続いては津田の解説に続き、hofli『十二ヶ月のフラジャイル』からtr.12「シベリア気団より」をかける。ラジオの気象通報をフィーチャーした構成。曲が始まると津田はすっと席を立ち、パフォーマンスへと向かう。アナウンスにやすりをかけるラジオ・ノイズ。風や葉擦れの音、小鳥の鳴き交わしの向こうから届くアナウンサーの声。上空をゆっくりと飛行機が通過する。レイヤーされた音の層のたゆたいの経絡に的確に鍼を打つギター。高く抜けた空。きっぱりと張り詰めた真冬の朝の乾いた空気。

 いよいよ最後の曲になりました‥‥と、Satomimagaeについて、自身でフィールドレコーディングした音源をCDの制作にもライヴ演奏にも使っていることを説明する。たまたま外で鳴っていたサイレンとイヤフォンで聴いていた曲が混じり合い新しい音楽が生まれた体験がきっかけとなっているとのことも。Satomimagae『Awa』tr.4「Q」をかける。がさがさと暗く濁った環境音から析出してくる透き通った声と小鳥のさえずり。津田はすでに教室の中を巡り終え外廊下へ出ていて、後方の扉を開けっ放しにしたまま、ラジオ・ノイズを最大音量にして教室に向け放射している。彼女の曲の中にある環境音やノイズが流れ出し、教室の外から侵入する外の音やラジオ・ノイズと混じり合い、あるはずの境界、教室という閉ざされた場や大学の授業という枠組みがゆるやかに侵食され、通い合う。
曲の再生が4分ほどで終了する。CDプレーヤーの停止ボタンを押してから、少し間を置いて外へ出ていった津田が戻ってきているのを確かめ、ずっと全消灯していた教室の照明を一斉に点ける。

 これで終わります。福島恵一と津田貴司でした。どうもありがとうございました。

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6.リアクション
 とりあえず予定していた内容を大きなトラブルなく終え、時間を超過することもなかったので、ほっとする。残りの時間で学生たちにリアクション・ペーパーを記入してもらう。質問も求めたが、手は挙がらない。学生たちは飽きてしまうことなく、概ね最後まで聴いてくれたように思うが確信はなく、改めて不安に襲われる。
 回収したペーパーを見ると、B6大の紙面に、びっくりするくらいいっぱい書き込まれている。内容も当惑や居心地の悪さを正直に述べているものを含め、こちらが目指していた「揺さぶり」を体験として語ってくれているものが多く、うれしい限り。以下に幾つか抜粋を示したい。

(1)音源やジャンルに反応してくれたもの
○音楽を奏でるとは、メロディーやハーモニーを鳴らすということしかやったことがなかったので、無調で拍もなく、掴みどころのない「音楽」を今日どう聴いたらよいのか動揺しました。プレゼンの画面に従って感覚を集中させてみましたが、難しく、聴こえたものがすべてなのだ、と感じました。
○私は音楽を含めて多くのものに起承転結やドラマを求めてしまうので、ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングのようなスタイルの音楽はあまり得意ではありません。音の流れのどの部分に集中すれば良いのか分からず、全ての音に集中してしまって疲れてしまいます。ただ、今回の授業のように、スライドを用いて音楽を言葉で表現(「三次元的な音」やCDのタイトルなど)していただけると格段に分かり易くなります。得体の知れないつかみどころのないものに枠を与えてしまいがちな自分を認識しました。
○流してくださった音源の中ではDerek Bailey with Min Tanaka『Music and Dance』が最も好きでした。情報が何もない状態で聴くと、様々な光景のイメージが思い浮かぶからです。多分、聞いていた学生の頭の中には、人によって全く別の映像が浮かんでいたのではないかと思います。また雨音が強くなってきた時、私はギターの音を拾って聞いていましたが、スライドに「雨音の向こうにギターをさがすのではなく、時々漏れ聞こえる~」と表示されたため、その聴き方を意識したら、奥行きや立体感が感じられて感動しました。
○自然の中にあるような、ただ聞いているだけでは何も読み取れない音であったが、続けて聞いているうちに不思議とこころが安らいでいく感覚が出てきた。凛とした一音一音が、自分の中で波及していくように感じた。
○熱帯雨林の音源は、聴いている時に、自分がその場に居ると感じた。雨が葉っぱを叩いた音と虫の鳴き声に合わせて、その雰囲気が形成された。
○熱帯雨林の大自然の中の虫たちの音は教室の中で大きく鳴り響いていましたが、普段の授業だと大きすぎる位の音量にも関わらず、大自然と触れ合っているような、目を閉じると大きな力を感じて、私は「心地よい」に近いものを感じました。
○アントン・ヴェーベルンの曲(福島注:ヴェーベルンの曲にインスパイアされた‥と説明したDerek Bailey『Pieces for Guitar』からの曲と思われる)を聴くと、なぜか心が安らぎました。一人暮らしをしているのですが、生活で音がないとき、こんな音が流れていたら落ち着くだろうなと想像していました。こう思えて初めて"音楽"として聴くことができました。
○最後に流していた歌と他の音が混ざり合った曲は、歌だけでは出せないであろう深みを感じました。
○一番印象的なのは、ラジオをながしながら教室をまわっていたことです。最初は何かと思って驚きましたが、だんだん波の音のようにここち良く感じました。しかし、近くで音が大きくなると少し怖かったです‥‥。私は普段ラジオが好きでネットラジオで聴いているのですが、トランジスタ・ラジオで聴いてみたいなと思いました。

(2)幾つかのカギとなる概念に反応してくれたもの
○最初音源を聞いたときには「雑音」というような感じがしたけれど、星座のイメージの話を聞いてから聞くと一個一個の音で一つのものを作ると言うようにイメージできて、雑音というイメージは全くなくなりました。
○「答のある音」という表現はとてもおもしろいです。確かに僕たちは「これはこの、あれはあの音」というように何か見えない常識に当てはめさけられているように思いました。
○福島さんと津田さんが創り出す世界観は、ご本人もおっしゃっていた通り、答のないものだったように思えます。答がないということは、自分の想像力をはたらかせ、自身で納得できる考えを導き出すということです。砂浜に一人で立ち尽くす姿やどしゃぶりの中、車で運転している姿が、ふと頭の中に浮かびました。おそらく本日この授業を受けていた人数分の考えがあると思います。
○ギターの音に集中しようとするのではなく、雨音の奥にたまに現れるギターの音に注目するということを今までしたことがなく、耳の焦点を自然と自分自身で選択していたんだなと気づいた。

(3)「聴くこと」に関するもの
○音楽をどのように聴くか、ということはあまり考えたことがなくて、響きから壁の位置や天井の高さを感じたり、足音や人が動き回る気配から、ダンサーと共演しているのを感じとったり、ただ聴くだけではなく、こんなに細かく音を聴くのも良いなと興味を持った。
○表面的な音に耳をすませるということだけではなく、その音のひびき方、空間まで想像して音を愉しむという感覚はあまり意識したことがなかったので新しかった。
○ただ単に音が羅列しているだけでは? というふうに初めのうちは思っていましたが、いろいろな音をスクリーンに映し出されていた言葉、聞き方を頭に入れながら聞くと、空間というか、音が強弱や一定でない並び方によって、あるものを形づくっているように感じました。
○普段、音楽を聴いていますが、今回、"音"を聴くという体験ができました。歌詞やメロディが一切ない音を聴いても心は動かないと思っていましたが、じっくりと"音"を味わってみると、自分の頭のなかに色々なものや感情が生まれました。
○前半で聴いたダンサーとギターの音では、ほとんど雨の音で埋めつくされる部分があったり、どの音がメインとかではなく、全ての音が環境を生んでいるように感じた。音源の中にそのような環境があるうえに、教室の中でトランジスタ・ラジオの音があったり、さらに教室の外の音に耳が傾くときがあったり、複雑な体験であった。
○最近は舞台をよく観に行くと、ホワイトノイズやメロディがはっきりしていない音楽がBGMとして挿入されることが多く、シーンでその音が入る意味やストーリーの伏線になっていたりすることがあり、物語や世界の構成要素としての音の意味を少しずつ分かってきたような気がしていました。本日触れたものも、歌やクラシック作品のようなそれ自体が世界を作っているものではなく、この世界の構成要素の一つとしての意味、世界とともに世界を作るものとしての意味があるのではと思いました。自分の中の"音"に対する感覚が変わっていることを感じた時間でした。
○今回の講義をつうじて、私自身の中の音楽に対する考え方が変わりました。自然の音、生活音、そのすべてが音楽であり、ヘッドホンで雑音を消して音楽を聞くのではなく、様々な空間で発せられる音楽の中で音楽を聞く事も楽しいのではないかと考えたりしました。
○一番はっとしたのは、約90分間、何らかの形で立体的な普段は聴かない音の中にいた所から、日頃と同じような教室の音に戻った瞬間、いつもと異なる感覚を覚えた時です。


 ペーパーの記述から全体として感じたことを幾つか記しておきたい。
 これは社会の一般的な傾向だろうが、安らぐ、癒される、落ち着く、ヒーリング‥‥といった語が無条件にプラスの価値として音楽の、あるいは聴取の評価軸となっているのは、やはり心配だ。今回の記述では、そうではないプラスの表現として、心地よい、不思議な‥‥等が見られた。
 未知の音源に当惑したり、動揺したり、不安になったりと揺さぶられることに対し、音楽の知識や演奏経験がある方が「身体が硬い」ように感じられた。もちろん、これでは単なる決めつけになってしまう。芸術論というか、美学的な記述をしていた学生にも同様の感じを受けたことを踏まえ、もう少し言葉を補えば、むしろ、これは言語化のプロセスの問題なのだろう。未知の体験を言葉にしようとする時に、これまで音楽や美学で身に着けてきた語彙で賄おうとするか、あるいはむしろこれまでの日常体験の中で、音楽とも美学とも関係ないけれども似たような体験や感覚を探すか‥というような。
この場合、「言語化」のプロセスは、単にペーパーの記入に当たり駆動されるだけでなく、体験をどのように受容し記憶していくかに大きくかかわってくることになる。言わば「環境芸術論」の授業で体験したことだから、音楽・美学のページに書き込み、他とは切り離して整理するのか、あるいはそうではなく、もっと一般的なページに書き込まれ、他に広く波及してしまうかの差である。とすれば、後者のルートをたどった方が、結果として、これまでの記憶のプールを、異なる視点、異なるインデックスで検索し、様々な感覚をスキャンしたり、シャッフルしたりして、まさに記憶や身体感覚の体系自体が「揺さぶられる」ことになるのではなかろうか。もしそうした体験を少しでも提供できたのだとすれば、こちらとしては本望である。

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7.異質なものの共存
 今回の講義は何よりも「体験」を目指したものであり、首尾一貫した理屈建てに基づくものではない。とは言え、全体のバックボーンとなっているのは「異質なものの共存」であるということができるだろう。異文化共生やダイヴァーシティが盛んに謳われるように、あるいは逆に「排除」の一語が魔女狩り的に叩かれたり、いまや「異質なものの共存」は、誰にも異議の唱えようのない絶対原理となっている感すらあるが、実際にはそのようなことにはなっていない。常に多様性が謳われるのは、ある枠内の話であり、問われるべきは、その枠組みの設定であるからだ。
 今回の講義の冒頭で、デレク・ベイリーのソロ・インプロヴィゼーションを題材に検証したのは、ミスタッチとか、脈絡のない音として排除されてしまうような音を視野に収めることにより、そこにどんな「星座」が描かれるかということであり、さらにそこには「台紙の傷や染み」としての環境音、暗騒音もまた含まれ得るということだった。
さらにベイリーと田中珉の共演を通じて、距離による音の変容を目の当たりにし、そうした音自体の変容や共鳴等の付随音、あるいは雨音のような障害となる音も含めて受容するプロセスを見た。ここで注意すべきは、このプロセスが録音を介することにより、わかりやすく示されている点である。もし演奏の現場に立ち会っていたならば、耳は視線に随伴して演者たちの姿を追ってしまい、なかなかそのような並置/共存型の聴取はできないだろう。
このことはMichel Donedaたちの演奏/録音についても同様だろう。ここでは演奏者たちが去ってしまった後の音空間の重要性を指摘しておいたが、これを小津安二郎の作品で多用される所謂「空ショット」、すなわち登場人物が出ていった後にキャメラが捉え続けるがらんとした室内や廊下の映像と比べてみてほしい。そはれ決して寂寥感の表現などではない。
さらに同様の視線を、津田貴司やFrancisco Lopezによるフィールドレコーディングまで敷衍するならば、オールオーヴァーな広がりや曖昧で不定形な音響が視界に入ってくる。それらは録音機という「機械の知覚」により定着され、録音を聴き返すことにより初めて発見される細部や瞬間をふんだんに含んでいる。
その延長上に『Sacred Flute Music from New Guinea』や『路傍の芸』を置いたのはほかでもない。前者においては笛の放つ音響の外部への鳴り響きと管の中での息の震えを「空気の振動」としてひとつながりに聴きとる耳の視線が、後者においては、路傍でがなる声の強靭さと、周囲を取り囲む聴衆の呼吸、市場の通りのにぎわい、遠くからアーケードに反射して届けられる響きを切れ目なくとらえる聴覚視野が、共に求められるからである。
そしてSatomimagaeについて、「外で鳴っていたサイレンとイヤフォンで聴いていた曲が混じり合い新しい音楽が生まれた」という偶然の体験は、彼女自身が語っているものなのだが、ウィリアム・バロウズによるカット・アップの説明、すなわち読んでいる本の内容と、店の外で起こっている事態と、その時に頭に思い浮かんだことが、全部並列されているのがリアリティであり、現実自体がカット・アップなのだ‥‥と見事に響きあっている。
無意識に設定される枠組みを検証し改めて引き直すこと。また、意図せざるものの混入や距離がもたらす変容を不純なものとして濾過してしまわないこと。「偶然」の到来に向け、閉域を不断に開き続けること。「異質なものの共存」とは、これらにより、その都度その都度、一時的に達成されるだけの事態にほかなるまい。


末尾ながら、貴重な機会を与えてくださった鳥越けい子先生と授業に参加してくれた学生の皆さんに感謝いたします。どうもありがとうございました。

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撮影:津田貴司



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