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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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プンパニッケルを昼食に  Pumpernickel for Lunch
 つなぎに軽めの食の話題を(レヴューは別途執筆中です!)。退院して自宅へ向かう途中、昼食用にサンドイッチを買って帰ろうということになり、バスを途中で降りて、自由ヶ丘駅から少し離れた「エリオント」へ。ここは比較的最近できたドイツパンを得意とするお店。サンドイッチ系やスイーツ系に加え、「ライ麦99.9%使用。16時間蒸し焼きにしました」とのポップに惹かれ、プンパニッケルも少しだけ買ってみる。試しにハチミツを塗って食べてみたら、独特のもっちり感は素晴らしいが、持ち味が強力で、これはもっとヴォリュームのある具材の方が合うなと。
プンパニッケル縮小
■エリオント自由が丘 Instagramより

ということで、土日の昼食用の食材を買いに行く時に一計を案じる。ちなみに我が家では、基本的に料理は妻が担当、私が洗い物担当なのだが、土・日・祝日の昼食は私が調理する。と言っても、パスタばっかりだけど。おかげでパスタ作りはそれなりに上達した。幾つかスペシャリテも開発。
退院直後で「大丈夫?」と妻に心配されたが、そこはリハビリの一環ということで。ここではパスタの前菜とドルチェに仕立てたプンパニッケルのサンドイッチをご紹介。
構成については別添構造図を参照(笑)。要はハムとザワークラウトにチーズを合わせたものと、チーズとブルーベリーを合わせたものの二種類。組み立ててからラップを掛けて冷蔵庫に入れ、食べる直前にラップごと切って盛り付け。
ハムサンド構造図縮小

ブルーベリーサンド構造図縮小

仕上がりについては別添写真を参照(肝心の断面がよくわからないが)。前菜の方は韓国ソウルで購入した木製の皿に。大葉の刻みとパルメザン・チーズを散らした。何だかオサレに見える。手前に配したのは山羊乳のチーズ。牛乳でつくった白いチーズよりもコクがあると言うか、旨味が濃い。リコッタ・チーズ(フレッシュ?)ともども、近所のそこで製造しているお店(というよりは工房に売り場が付属している)「チーズスタンド」で購入。ロース・ハムもザワークラウトも近所にある自家製造の名店「ダダチャ」で購入。パスタをつくる際に、ベーコンを拍子木に切ってよく使うのだが、ここのベーコンは肉質がよく、噛み心地が素晴らしい。もちろん、ハムもソーセージもおいしい。
具材をいっぱい盛り込んだので、パンの強さに負けていない。ゴチャゴチャしそうなところだけど、酸味が一本筋を通し、「えいやっ」と入れてみた大葉が効いていて、ヌケがある。これはもう「ハーブ」として機能している。
ハムサンド縮小

ドルチェは別の皿で。景徳鎮のレプリカの豆彩(闘彩)。いささかミスマッチですが(笑)。チーズとブルーベリーの組合せはチーズケーキでも定番だからマッチしないわけがない。ジャムは、入院中に妻の親戚からいただいた生ブルーベリーを妻が煮てくれたもので、かなり甘さ控えめなのだが、プンパニッケルのもっちり感の中にある本来の甘みを引き出す感じで、なかなかうまく行った。
ブルーベリーサンド縮小

 コーヒーはいつもの堀口を切らしていて、別の店の豆。やや浅煎りで酸味が勝っているのだが問題なし。プンバニッケルの持ち味を活かせて、復帰後初回のランチは満足のいく仕上がりに。




その他 | 13:36:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
耳を塞ぐな - 滞院聴取報告  Don't Close Your Ears - Listening Report of Hospital Residence
 簡単な手術を受けるため、7月5日から15日まで入院していた。その間に感じたことなどを幾つか記しておきたい。

1.響く靴音
 ベッドに臥せっていると、靴音がよく聞こえる。コツコツではなく、カッカッカッでもなく、キュッキュッ、あるいはギュ・ギュが多い。病院スタッフはみんな底が滑りにくい靴を履いていて、入院患者も転倒防止のためにスリッパやサンダルではなく「靴」の着用を求められているため、運動靴が多くなるのだろう。
 靴音が目立つのは、話し声が聞こえないせいでもある。新型コロナウイルス感染拡大防止のため今年になってからずっと面会は禁止。荷物の受け渡し等もスタッフ・ステーション経由で、入院中は家族とも直接会うことができない。四人部屋の病室はカーテンが引き巡らされ、患者同士の会話もない。テレビやラジオ、スマホはイヤホンで。もちろん病室でのスマホの通話は禁止。病棟内ではマスクを着用。
 だから検温や点滴交換時の声掛けや、入退院時の手順、手術前の注意事項等を説明する、看護師や医師の声しか聞こえてこない。後は食事を運んでくる配膳車のずしりと重くくぐもった車輪の音。看護師が記録用のPCや血圧計、院内処方の薬剤等を載せて押し歩くワゴンのカタカタと鳴る金属製の揺れ。
 武満徹は『サイレントガーデン −− 滞院報告』で、病室の外の廊下から入ってくる生活音について書いているが、そうした生命観に満ちた「いのち」を励ましてくれる響き(それはかつて自分が属していた「日常」につながっている)は、おそらく当時の何分の一かに減じてしまっていることだろう。

滞院報告3縮小


2.毎朝の儀式
 手術自体は無事完了したものの、初めての全身麻酔だったこともあり、術後のひどい麻酔「酔い」に悩まされた(術部の痛みこそなかったが、手術自体の身体へのダメージは当然あっただろう)。当日の夕方から翌日の午前中まで、何とも言い難い苦しさ、居たたまれなさに身をよじり、シーツがぐっしょりと濡れるほど油汗を流し、しかし吐き気が強くて水が一滴も喉を通らず、溲瓶をあてがわれても尿はまったく出なかった。つなぎっ放しの点滴からは1リットル以上の薬液が注入されているというのに。

 翌日の朝食も喉を通らず、ほうじ茶とヨーグルトのみ。昼・夜もほぼ同様。朝食の後、看護師に支えられてトイレに行き、洋便器に腰掛けて、ようやく少し尿が出た。紅茶か番茶のような、今までに見たことのない濃い色。点滴で水分・栄養補給のほか、痛み止めと感染防止の抗生剤を注入。
 翌々日になって、ようやく自分で起き上がれるようになる。疲労や怖れや焦燥や混乱がこころとからだの中に澱のように降り積もっている。気晴らしをしたいが、集中を要する音楽はとても聴けそうにない。明るく軽いだけの音楽も嘘寒く、かえって疲れる。閉ざされたカーテンの中に居続けると何しろ気が滅入ってくるので、スマホと入院に備えて買い求めたイヤホンを携えて、その階のスタッフ・ステーション前のロビーへ。
 youtubeで音楽を聴いてみよう。むしろふだんは聴かないクラシックはどうだろうか、たとえばモーツァルトのピアノ協奏曲とか、あるいは‥‥と検索するうちに、ふと思いついてサミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」を聴いてみる。
 音が鳴り始めた途端、いままで見えていた光景が透明なガラスの向こうに、すっと一歩遠ざかる。いや、自分の眼で見ているのに、ヴィデオキャメラで撮影してモニターを通して眺めているような感じに変わると言った方が正確か。遠くなるだけでなく、「いま・ここ」のアクチュアリティから切り離され、ガラスの入った額縁がはめられる。音量は決して大きくなく、周囲の物音がよく聞こえるのだが、それらはみな音楽のスクリーンで濾過され、投影された画面の中から響いてくるように感じられる。スタッフ・ステーション内の看護師の動きも、カウンターの前を通り過ぎる回診の医師や床を清掃する業者の歩みも、車いすを押してもらって、あるいは点滴のスタンドを杖代わりに、ゆっくりと検査に向かう入院患者たちの移動も、すべてキャメラのレンズの向こうへと遠ざかり、現実感を希薄にして、妙に整然と美しくまとまった一幅の画となっている。見ている私はキャメラのこちら側へと切り離され、そこにはいない部外者、第三者として、距離を隔てて画面を見詰めている。つまりは「観客」として。
 冷ややかに透明な哀しみがどこからともなく舞い降りてくる。自分とは切り離された「物語」として、これから起こる「悲劇」を眺めているとでも言えばよいのだろうか、得体の知れないふわふわと現実離れした感じ。切断による間隔化がもたらした空疎さを、条件反射的に「物語」で埋め合わせようとしているのか。それともアクチュアルな手触りを失って意味不明にカクカクと動く人体が、機械仕掛けの滑稽さをたたえるからなのか(そこに哀れみを感じるというのも何とも傲慢な話だが)。スタッフ・ステーション内の分散した動きが、この後、突然の災厄に見舞われてパニックに陥る前の、最後に残された日常のように見えてくる。あるいは救急の担架で運び込まれ、息を引き取りつつある者の瞳に映る、この世の最後の光景。
 思えば、この曲をたぶん初めて聴いた映画『プラトーン』でも、あるいはその後に観た役所広司主演のテレビドラマでも、演出はそうした「感じ」を求めていた。曲が流れ始めるとその場に付随する現実音が消され、画面はスローモーションに切り替わり、眼の前の「現実」から生々しい「現実感」が取り除かれ、ありふれた日常は美しい(恐ろしい、悲惨極まりない‥‥)絵空事に変貌する。雑味はすべて除かれ、指に触れる手がかりもまた取り払われて、光景はどこまでもどこまでも冷ややかに美しく透き通って、やはり透明極まりない弦の響きとともに、ゆっくりと崇高に向け上昇していく。辺りを物憂げに見下ろす哀しみをたたえながら。
 死の瞬間に、脳は「脳内麻薬」を分泌して現実感を喪失させ、苦痛や恐怖を取り除くという話を、どこかで読んだことがある。ライオンに襲われ食われかけた人の「自分の身に起こっていることではないように感じられた」との証言が引かれていた。それと似た「浄化」作用が擬似的に生じているのかもしれなかった。苦しかった記憶や不安が水っぽく柔らかくなって、薄らいでいくように感じられた。

 これは生の営みを一片の物語へと譲り渡してしまう悪い「物語化」だ、極めて不健全な習慣だと思いながら、私はしばらくの間、毎朝、この「儀式」を続けた。ただ、その後、そのまま閉ざされた病室のベッドには戻らず、イヤホンを外してトイレに行き尿が便器に当たる音に耳を澄ましたり、自宅に電話して妻と話すなど、現世へと帰還するためのプロセスをバッファーとして必ず設けるようにした。

滞院報告2縮小


3.コンパートメント化の進行 「いま・ここ」からの離脱
 入院前日、7月4日の夕刻、いま借りている本をいったん返却しようと、私は目黒区立大橋図書館に向かっていた。そこで奇しくもその日に田園都市線で起こった騒動を体験することとなった。
 私は4両目4番ドアの近く(優先席の次のブロック)に座っていた。そこが池尻大橋駅ホームの階段に近いからだ。まだ17時前なので車内は混んではいなかった。ガラガラでこそないが、付近に立っている乗客はいなかったように思う。三軒茶屋駅を出発後しばらくして、もうすぐ目的の駅というところで、座っていた左手側、列車の後方からドンと大きな音がし、座ったままそちらを振り返ると隣りの車両との連絡ドアに人の姿が張り付いていた。次の瞬間、ドアが開くと同時に、わっと三・四人の人の群れが噴き出してきた。つんのめり床に手を着く者があり、脱げた靴が片方だけ床に落ちていた。しばらく前の京王線の放火事件が頭を掠めたが、火の手が見えるわけでもなく、臭いもしなかった。続けて人が押し合いへし合いしてドアから吐き出されるが、さらに次の車両まで逃げようとはしない。最初に逃げてきた男性二人が「何があったんですか」、「さあ、人がすごい勢いで走ってきたから‥‥」というような要領を得ない会話をしている。勢い良く開いた反動でドアが一度閉まり、すぐさま荒々しく開け直されると「○○ちゃん、いまは靴なんてどうでもいいの」と母親らしき女性の叱り声が響いた。
 すでに車両は池尻大橋駅に入っていた。もう連絡ドアからの人の流れは途絶えていた。すぐ近くの4番ドアから降りて、ホーム後方の様子をちらりと伺うと、一斉にホームに吐き出された乗客たちの背中だけが見えた。私はそれ以上そこにとどまることなく、改札口に向け階段を上がった。車両が運行を一時停止する旨のアナウンスが響いていた。

 後ほどニュースで確認すると、乗客が暴れて6両目と7両目の間の連絡ドアのガラスを叩き割ったようだった。詳しくは書かれていないが、おそらくその乗客は6両目に乗っていて、割れたガラスに驚いた6両目の乗客が5両目に逃げ、その様子に慌てた5両目の乗客が私の乗っていた4両目に駆け込んできたのだろう。5両目の乗客は、おそらく何が起きたかもわからず、ただ凄い勢いで人が逃げてきたから、押し出されて避難したものと推測される。7両目の乗客は後方の8両目に逃げたのだろう。とすれば、避難者の流れが割とすぐ途切れ、人数がさして多くなかったことも説明がつく。6両目の乗客は4両目まで逃げる必要を覚えなかっただろう。すでに駅に着いていたのだし。
 混雑している時間帯ではなかったのが不幸中の幸いと言えるが、それでも押し倒され、あるいは躓いて転んでいる者がいた。もし混雑していたら将棋倒しによる怪我人が出たかもしれない。先日の放火事件と異なり、「事件」自体による生命への直接の危険はなかったにもかかわらず。なぜ、このようなパニックが起きてしまったのか。

 ひとつ思い浮かぶのは、以前に比べ、乗客が周囲に注意を払わなくなっていることである。耳をイヤホンで塞ぎ、視線をスマホの小さな画面に釘付けにしている者が多い。それでは微かな予兆/前兆を感じることも出来ず、聞き耳を立てたりそちらを振り向いて危険の程度を確認することも出来ない。そして、これらの情報収集に基づき事前に身構えることも。情報ゼロから過大な入力がいきなり立ち上がることにより、慌ててパニックを起こしやすくなることは疑いない。
 いわゆる「スマホ依存」やゲームへの重症の耽溺でもはやそれが手放せないという者もいよう。しかし、私にはむしろ、「いま・ここ」から自分を切り離したいという思いの方が強いように感じられる。イヤホンから大音量で流れる音楽に聴き入っているというよりは、周囲にバリヤーを張り巡らして聴覚を塞ぎ、視界も画面で独占して環境情報を遮断して、コンパートメント化を図ることにより、自分の身体の存在する空間から「意識」を切り離す。かつてサイバーパンクは「電脳空間」に意識をジャックインさせることにより、身体を現実空間に置き去りにしたが、おそらくここでは、こうした切断が行為として意識されることはあるまい。単にミュートしているだけだからだ。何の覚悟も要らない手軽で気楽な操作。だが、それが時には重篤な結果をもたらすことにもなりかねない。
 単なるミュートであるがゆえに、現実の身体が占める空間に対しておそろしく鈍感になり、しかもそのことに一切気づいていないし、注意も払っていない。ひとことで言えば無頓着なのだ。担いだリュックや肩にかけたショルダーバッグが他人にぶつかっても気づかず、電車が揺れて他人にぶつかってもお構いなし、優先席に座った自分の前に高齢者や障害者、妊婦が立とうが知らんぷり。開くドアをはじめ、大勢が通行する動線を塞いでいて平気なのも、同じ無頓着によるものにほかなるまい。環境に感応しない身体存在。それはもう「生物にあるまじき振る舞い」とすら言える。一種の「幽体離脱」か。

 同じ空間を共有し肌を接しさえする眼の前の他者には無頓着/無関心で、はるか離れた別地点にいる他者が発するラインやツイッターのメッセージには慌てて応答する。以前は電車の中で電話しながら手を振ったり、ぺこぺこお辞儀する者を見かけたが、メールからさらにSNSに中心が移った今は、そうした身体動作は見られない。やはりあれはリアルタイムの会話が、別々の場所に話者がいるにもかかわらず、共通の仮想空間を立ち上げてしまうからこそのものだったのだろう。今やそうした同期もない。こうした「いま・ここ」への無関心は、結局、自分の身体を、そして他者の存在を軽視することにほかならない。いつかきっと手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう。


4. イヤホンを着けて街を歩く
 「ウォークマン(*1)をつけて外をあるく。音楽はロックではいけない。環境音楽もだめ。半透明なひびきと不安定なリズムをもつものがいい。ボリュームをいっぱいにあげてはいけない。つまみを調節して、現実音が音楽の波に洗われながら浮きしずみする状態をつくる。すると、風景がそこにはない音でフィルターをかけられているのがわかる。どこかちがうが、もとのままの風景にはちがいない。」【高橋悠治「メモ・ランダム」より 『カフカ/夜の時間』晶文社1989】
 *1 いまとなっては、この語にも注解が必要かもしれない。ウォークマンとは持ち運びの簡単な掌サイズの、ステレオヘッドホン(イヤホン)で再生音を聴取するカセットテープ・プレイヤーであり、もともとは1979年に初めて製品化したソニーの商品名だが、「セロテープ」等と同様に、それがそのまま呼び名として流通し、普通名詞化することとなった。当時のソニー会長の「出先でカセットテープを高音質で聴きたい」というリクエストに応えるため、取材用の携帯カセット・レコーダーから録音ヘッドを取り除き、再生ヘッドをステレオ化したものがプロトタイプになったと言う。この「テープレコーダーから録音機能を外す」発想が画期的だった。実際、社内からも「そんな製品が売れるわけがない」と猛反発を受けたと言う(その後に録音機能が付属している機種も製作された)。自分で用意した音源を移動中に(呼び名通り「歩きながら」でも)聴ける点で、その後の携帯CDプレーヤーや同MDプレーヤーを経てi-pod等に至る流れの先駆けとなった。

 この高橋悠治の表明は今でも新鮮に響く。というのも、みんなウォークマンをそのようには利用せず、あくまで他の音を遮断して音楽だけを聴いていたからである。細川周平『ウォークマンの修辞学』(朝日出版社1981)においても、彼自身が「あとがき」で断っているように、ヘッドホンを着けると周囲の音が完璧にシャットアウトされ、カセットの音だけが聞こえてくるという「理想的な」想定が議論の前提としてなされている。言わば、都市体験のサウンドトラックだけがカセット収録の曲目に差し替えられるのだ。その効果はむしろ視覚的なもの、映画でよく行われる映像の異化(新たな文脈/意味の付加)にとどまるだろう。都市体験そのものの変容には至らない。電話口で一瞬聞き覚えのない声から、ずいぶん長いこと顔を会わせていない友人の顔貌や立ち居振る舞いがまざまざと浮かび上がる時の、あるいは空港に降り立ったとたんに全身を包み込む微かな匂いに、前回訪問時の記憶のあらゆる細部が一瞬のうちに鮮やかによみがえる時の、身体がぐらりと揺らぐタイムスリップにも似た感覚はない。やはり嗅覚や聴覚は、視覚よりも「古層」の感覚だからだろうか。

滞院報告1縮小


5.「いま・ここ」を丸ごと聴くこと
 やはり「聴く」こと、しかも「いま・ここ」を丸ごと聴くことが重要だと思わずにはいられない。イヤホンを挿し込み、出来合いの音楽だけをあてがって、耳を「塞ぐ」のではなく、全周囲360°へと開くこと。こんな音まで聞こえているのかと、自分の耳の「底知れなさ」に驚くだろう。と同時に、そうした「底知れない」耳をもってしても到底聞き尽くせないほどたくさんの多種多様な音が溢れかえり、交錯し乱反射してありとあらゆる方向から脈絡なく降り注いでいることに、否応なく気づかされるはずだ。「底知れない」耳をはるかに上回る「底なし」の音。その時、私たちは世界の恐るべき豊かさの一端に触れている。

 「見ることとは光の制限である」とアンリ・ベルクソンが言ったように、「制限」がなければ眼はただ光の洪水に溺れ、「ホワイト・アウト」を起こしてしまうだけだろう。しかし、耳は、もちろん可聴周波数帯域があらかじめ限定されているとは言え(これは光も同じだ)、響きの渦や乱流が立ち騒ぐ中を、「ホワイト・アウト」を起こさずに、かなりの程度動き回れるように思う。よく知られる「パーティ効果」のことを言っているわけではない。それとは話が逆だ。話し声とグラスのぶつかる音、哄笑からひそひそ笑いまで様々な響きのシチューから、特定の発話を抽出して聞き取るのではなく、反対にそうした特定/抽出をすることなしに、すなわちマスキングやフィルタリングなしに、すべてを丸ごと聴くこと。初めての宿に泊まり、耳慣れない物音に耳が捕らわれて寝付けなくなり、次から次へふだんは耳を傾けずにいた様々な音が聞こえてきたことはないだろうか。あるいは遠ざかっていく列車の音に耳を澄ますと、そこに結びつけられたロープが引き伸ばされていくように、遠くの音が浮かんできたことがないだろうか。そうした「聴くことの深まり」は後で触れるフィールド・レコーディング作品を聴く際にもよく生じてくる。

 こうして論を進めていくと、聴覚のマスキング/フィルタリングの最たるものが、イヤホンから大音量の音楽を流し込み、しかもそれを聴こうとせず鼓膜を嬲らせているだけの「遮断」であることが浮かび上がってくるだろう。先に見たように、それは世界の豊かさとの回路を切断し、自らを閉ざすことに他ならない。各自の意見形成におけるインフォ・バブルやエコー・チェンバーの悪影響が指摘されて久しいが、それは必ずしもSNSという「ストラクチャー」の産物ではない(当然のことながら増強効果はあるにしても)。むしろ、耳を塞ぎ聞かないこと、すなわち、あらかじめあてがったもの以外を聞かない/聞こえないようにしてしまうことの結果なのだ。


6.標語による二分法
 この「あらかじめあてがったもの以外を聞かない/聞こえないようにしてしまうこと」の蔓延は、SNSの流行などよりもはるかに遡って、コミュニケーションの重要性が「送信者から受信者へのメッセージの伝達」という情報通信工学の図式で示されるようになったことと深く結びついているように思われてならない。通信ノイズを排除してメッセージを受信するということは、「メッセージしか受信しない」ということであり、さらには「受信した内容からメッセージを仕立て上げられればそれでよい」とすることにほかならない。個別具体的な差異を踏まえた、適切な分析=記述がなければ、具体性を欠いた、恐ろしく抽象的な観念ばかりが、頷きあうための「合言葉(あいことば)」として垂れ流され、加速度的に流通・増殖することとなる。蓮實重彥が大正期の言説空間について、差異の意識を消滅させる「標語」というものの周辺のみを回っている‥‥と指摘している(*5)が、そうした状況がまたも繰り広げられているのではないか。
 *5 浅田彰、柄谷行人、野口武彦、蓮實重彥、三浦雅士 共同討議「大正批評の諸問題」p.23 『批評空間』1991年No.2(福武書店)
 たとえば「多様性(ダイバーシティ)の尊重」が内実を欠いて「標語」に堕してしまうならば、ただちに「多様性」の信奉者とそうでない者を色分けする線引きのための口実となる。「金槌を持てば何でも釘に見えてくる」と言うが、まさにここで作動しているのは「釘か、釘でないか」の二分法にほかなるまい。

 冒頭に述べた毎朝の「儀式」を「不健全」とした理由がここにある。人間の感覚・思考は、世界の混沌とした不透明で見通すことの出来ない豊かさとの触れ合いを欠けば、恐ろしく透明な単純さに陥ってしまいやすいからである。
 もちろん、そうした世界の過剰さとそのまま向かい合うことが難しい、心身ともに衰弱した状態であれば、ひとときの休息が必要だろう。雨が上がるまで、ちょっと軒下を借りて雨宿り。だが、ずっとそのまま軒下に居続けることはできない。掌を「外」へと差し出し、雨粒を皮膚で直接に受け止めてみる必要があるのだ。
 「普通の日の普通の心を少しの間調べてみるとよい。心は無数の印象を受け取る。ささいな印象、奇異な印象、はかない印象、あるいははがねのような鋭さによって刻み付けられた印象を。これらの印象は、無数の粒子の絶え間ないシャワーとなって、あらゆる方向からやってくる。」【ヴァージニア・ウルフ「現代小説」】
 ウルフの言う「粒子のシャワー」を浴びること。セザンヌの言う感覚の感光板を感光させること。衝突してくる粒子にブラウン運動的に突き動かされながら、この一歩を歩み出すこと。そのようにして運動した軌跡が「物語」となる。「物語」とはあらかじめ記されるものではなく、この一歩ごと、一瞬ごとに書き進められ、振り返るたびに聞く/読むことによって、その都度編み直されるものにほかならない。


7.フィールド・レコーディングの現場から
 自身もフィールド・レコーディングを行う津田貴司が、それぞれに異なる仕方でフィールド・レコーディングに携わる五人のアーティスト(井口寛、高岡大祐、Amephone、柳沢英輔、笹島裕樹)と二人の聴き手(原田正夫、福島恵一)にインタヴューした『フィールド・レコーディングの現場から』が、今月、カンパニー社から出版された。アーティストだけでなく、聴き手からも話を聞いたのは、フィールド・レコーディングについては「録ること」だけでなく「聴くこと」にもまた「現場性」が宿っているとの津田の認識があったのではないかと、私は考えている。
 実際、聴き手の話は「何がきっかけでフィールド・レコーディングを聴くようになったか」、「どのようなところに魅せられていったのか」といった点についても語っており、これからフィールド・レコーディングにアプローチしようという方はもちろん、すでに聴き親しんでいたり、すでに自らフィールド・レコーディングを行っていたりする方にも、「そうか、そういう入口、行程、視点があり得るのか」と、フィールド・レコーディングへの関わり方を多角的に深めるのに役立つのではないかと思う。
 先に「それぞれに異なる仕方で」と述べた通り、五人のアーティストの視点・姿勢・手法は様々で、本当にいろいろな角度から「気づき」を与えてくれる一冊となっている。その一方で、録音や聴取の仕方をマニュアル的に示すものではない。録音や聴取時のエピソードはふんだんに盛り込まれているし、インタヴュー中に挙げられている作品については簡単なガイドを付しているので、実際に音源にアプローチする際にも役立つだろう。しかし、網羅的なディスク・ガイド(たとえば時系列や傾向に沿った)とはなっていない。いや、あえてしていないと言うべきだろう。
 これはあくまで一参加者の私見となるが、「ジャズの聴き方指南」といった「○○の鑑賞法を教えます」といった書物と本書が大きく異なるのは、「フィールド・レコーディング作品の聴き方」という、決まりきった「作法」とか「王道」があるとして、それを伝えようというのではなく、フィールド・レコーディング作品を聴くことを通じて、その「体験」に自ずと触発され、日常の聴き方、耳の眼差し自体が深まることを目指している点にある。すなわち本書は、これまでと違った仕方で世界と触れ合う体験への誘いなのだ。

フィールドレコーディングの現場から縮小

フィールド・レコーディングの現場から
津田貴司 編著
B6判並製:256頁
発行日:2022年7月
本体価格:2,200円(+税)
ISBN:978-4-910065-08-3

フィールド・レコーディングすることとフィールド・レコーディングされた音を聴くことは地続きである。井口寛(録音エンジニア)、高岡大祐(チューバ奏者/録音エンジニア)、Amephone(音楽家/プロデューサー)、柳沢英輔(音文化研究/映像人類学)、笹島裕樹(サウンドアーティスト)、原田正夫(月光茶房店主)、福島恵一(音楽批評/耳の枠はずし/松籟夜話)の7人との対話を通じて、サウンドアーティスト・津田貴司がフィールド・レコーディングの現場を探索する。録音が切り開く耳の枠の外部へ――音を標本化しないままに「他者としての音」に出会うこと。フィールド・レコーディングによって可能となる聴取のあり方を考える。

▼目次
まえがき――フィールド・レコーディングの現場
なぜ録音するのか、なにを録音するのか
●井口寛との対話
01 ディスク・レビュー
音質が表象するもの
●高岡大祐との対話
02 ディスク・レビュー
聴くことの野性
●Amephoneとの対話
03 ディスク・レビュー
録音の中でしか行けない場所
●柳沢英輔との対話
04 ディスク・レビュー
なぜ、写真ではなく録音なのか
●笹島裕樹との対話
05 ディスク・レビュー
耳の枠の外部へ
●原田正夫との対話
06 ディスク・レビュー
聴こえない音にみみをすます
●福島恵一との対話
07 ディスク・レビュー
ここではないどこか、いまではないいつか
まとめ|フィールド・レコーディングの可能性 津田貴司×福島恵一
あとがき――録音できない音


付記
 「今時、簡単な手術で11日間も入院させる病院があるか」と訝しく思われる方もいるかもしれない。実際、私の病室に限っても、大抵の手術は前日入院で、合計三泊四日か、四泊五日だった。私の場合は術部の感染が懸念されたため、最初は術部にドレーンを挿入して血液が溜まらないようにし、術後一週間経過して抜糸するまでの容態変化を見て、そこで退院の期日が決定された。それゆえの入院期間の長さと理解されたい。




その他 | 19:09:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
日常を食い破る記憶 ―― 日本美術サウンドアーカイヴ | 上田佳世子、渡辺恵利世《トートロジー》1973年  Memories ( To Remember ) Break Through Everydayness ―― Japanese Art Sound Archive: Kayoko Ueda and Erize Watanabe, Tautology, 1973.
1.時を織る
 片方が一瞬遅れて後を追ったり、相手の動きを確認するかのように途中で筆を止めたりしても、概ね重なり合い同期していた「キュッ、キュー、キュッ‥‥」というマジック・ペンの軋りの「ハーモニー」にふと違和感を覚えた次の瞬間、床に落ちる前に垣間見えた画用紙の数字は「28」と「29」にすれ違っていた。そんなことが起こり得るのかとの当惑をよそに、その後も平然と数字は書かれ続け、マジック・ペンの軋りはズレ続け、書き手には見ることの出来ない数字の閃きがそのことを証し立てる。

 1973年8月に上田佳世子と渡辺恵利世が《トートロジー》の第8回として行ったパフォーマンス《時を織る》は、今回の日本美術サウンドアーカイヴの展示で、次のように説明されている。
「室内には1台のテーブルと、向かい合う2脚の椅子がおかれ、女声二人が腰掛けている。二人の眼は黒い布でかくされ、視覚的情報は遮断されている。互いに息を整え、呼吸を読みとりながら、無言で紙に数字を書きつける作業を始める。相手の動きを読み取りながら、作業が進んでいく。書かれた紙は床に捨てられ、1枚ずつ落ちた紙は、散らばり広がっていく。室内には60枚の紙に書き付けられるサインペンの音と、床に落ち続ける紙の音が、ずれながら重なっていく。」
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 ■《時を織る》 1973年8月 日本美術サウンドアーカイヴ ウェブページより(スクリーンショット)

 冒頭に記したのは、今回、6月24日に同展で改めて上演されたパフォーマンス《時を織る》の一場面である。以前に当ブログで参加体験リポートした安藤朋子による演劇ワークショップの会場となったBUoYカフェに連なるスペースに透明なビニールが敷かれ、やはりビニールを掛けられたテーブルと椅子が置かれている。演者(岡千穂と田上碧)が登場し、客席に向け一礼して着席する(向かって右が岡、左が田上)。テーブル上に置かれていた黒い布でそれぞれ目隠しをし、マジック・ペンを取り、キャップを取って、各自の左手側に置かれた画用紙を1枚取って、「1」から順に数字を書き、書き終えたら紙を床に落とす。することはわずかにこれだけ。演者二人は儀式ぶったり妙に勿体ぶることなく、すらすらと行為を続けた。
 視覚が閉ざされている中で行為の同期を図るため、向かい合う二人は相手の動きに聞き耳を立てることになる。紙を取る音や床に落とす音は当てにならないのだろう、「キュッ、キュッ‥‥」というマジック・ペンの特徴的な軋りが同期のキーとなっている様子が浮かんでくる。次の紙を取ってテーブルに置くのはいつも岡の方が速い。ペンを持った利き手で紙を取る彼女に対し、利き手でない左手で取る田上がいつも少し遅れてしまう。だが岡は先には書き始めず、ペンを構えたまま、田上が書き始めるのを、具体的にはペン先が画用紙に触れる「キュッ」という音がするのを待って、それからおもむろに書き始める。数字ごとの画数や、書いている部分が直線か曲線か、さらには線の長短の差異がつくりだす音響のリズムにおいて、自分と相手のペンの動きが重ね合わされ、自ずと検証されて、「同じである」との安心感をもたらしていたことだろう。もちろん、細部まで合致しているわけではないにしても(たとえば「7」を一方は一画で、他方は二画で書いていた)。
 「60」まで無事書き終え、ペンにキャップをはめてテーブルに置き、目隠しを取る(ここで外したキャップをポケットに入れた岡がすぐ取り出せたのに対し、田上はテーブル上に置いたキャップを探し当てられず、キャップをせずにペンを置いて目隠しを取り、後からキャップをはめるという違いが生じた)。
 これで終了かと思っていたら、二人は席を立ち、新たな画用紙の束を取って席に戻り、また目隠しを着けて行為を繰り返した。とは言え、細部には違いがある。田上は外したキャップを今度はポケットに入れた。一方、岡は、田上が書き始める気配が掴めるようになったのだろう、「15」を過ぎた辺りから、「キュッ」という音がする前に書き始めることも見られるようになった。互いの身体の動きがわかるようになった分、数字を書く動きも、一画ずつ確認するぎこちなさが薄らいでスムーズになったように感じられる。数字が書かれる位置や大きさも安定してきた(最初のうちは、相手の動きに合わせようとするあまりか、数字が紙の中央から外れて偏ったり、線がはみ出しそうになる場面が見られた)。
 この安定した繰り返しが、この後ずっと続くのだろうかと緊張が緩んだ瞬間、同様のことが演者にも生じたのか、冒頭に記したズレが生じた。田上が数字をダブって書いてしまったのだ。演者二人は書かれた数字の違いを見ることはできないが、以降、紙にペンを走らせるたびに、その軌跡を示す音響が同期しない居心地の悪さに苛まれ続けたことだろう。さらに田上が取った画用紙が1枚足りなかったのか、「59」と「58」が床に落ちた後、岡が「60」を書き上げて床に落とすまでの間、田上はぼつねんと過ごさねばならなかった。
 ペンにキャップをはめてテーブルに置き、目隠しを取り、席を立って、また画用紙の束を取り、再び着席して三回目の繰り返し。今度は田上が左手で取った紙を、手首をひねり裏返して置くように動作が「改善」された。「キュッ、キュッ」という同期がまた始まって、他はほぼ変わりなく、このまま何事もなく事態が進むと思われたその時、またも「28」を岡が重複して書いてしまう。筆致の生み出す音響は以降ズレを提示し続けながら、「59」と「60」がはらりと舞い落ちるラストを迎える。ペンにキャップをはめてテーブルに置き、目隠しを取り、立ち上がって一礼。終了。


2.《トートロジー》
 「『トートロジー』は1973年に渡辺恵利世(堀えりぜ)と故・上田佳世子が8回連続で行った作品行為の総称である」と堀えりぜは本展リーフレットに記している。ここで同リーフレットに基づき概略のみを記せば、二人の共同生活の場であり、彼女たちが開いた子ども向け絵画教室の会場ともなった東京都大田区南雪谷のマンションの一室で同年1月に第1回を開催し、以降、毎月、異なるテーマで展覧会を開催した(第3・5回をこの部屋で、第2・4・6〜8回を画廊等で)。その内容はインスタレーションから制作作品展示、パフォーマンスまで多岐に渡っている。なお、当初の予定では、1年間12回を開催する計画であったという。

 今回の展示では、パフォーマンスが行われたスペースから壁一枚隔てた隣の細長い空間に、《トートロジー》各回の記録写真と第2回《アリアドネの糸》の再制作作品、及び堀えりぜによる解説コメントが、ひび割れたコンクリート剥き出しの壁面に掲示された。また、第6回《真空の》のインスタレーションの再制作と新作《あなたはいつも私より強い、あなたはいつも私より弱い》(この二作品については後ほど改めて言及する)が、反対側の壁面の前に展示されていた。さらに前章に述べたように、最後となった第8回のパフォーマンス《時を織る》が今回上演された。
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 ■展示風景(スペースの奥の部分)
 右手の壁面に記録写真パネルが、奥の壁面に《アリアドネの糸》の再制作作品が展示されている。左側のインスタレーションのように見える椅子やポリバケツについては「5.刻印 ―― 地層を貫く力線」を参照。

 日本美術サウンドアーカイヴの主催者である金子智太郎は本展リーフレットに寄せた評文「反復と不在 上田佳世子、渡辺恵利世《トートロジー》」において、その特質を、①自宅で展覧会を開催することによる制度批判と、②第6回「真空の」で参照されたシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』から引き出した真空と重力の対比の二点において見ようとしている。私なりの要約を以下に示そう。
 まず①制度批判については、単に画廊ではない場所で展覧会を開催したというだけではないことに注意したい。金子は、ベビー・ブームと高度経済成長がもたらした人口増加と都市化により住宅が社会問題化しており、これに美術が反応して住宅をテーマにした展示や自宅における展示が行われたことを指摘し、さらに高松次郎による彦坂尚嘉《FLOOR EVENT》評に触れながら次のように述べている。
 「この作品が重要なのは、美術館や画廊以外の場所で展示したからではない。彦坂は、学生運動のさい『日常』を破壊するためにバリケードを築いたにもかかわらず、そのなかに非日常ではなく『日常』が構成されたと感じたという。自宅を舞台とする彦坂の作品は『日常性』のあり方を探求するものだろう-と。高松がここで語った『日常』を、彦坂らの言葉を使って『制度』と言いかえることができそうだ。美術をめぐる制度とは美術に関わる人やモノのあり方、規制や慣習の全体を意味する。高松や彦坂は文化的再生産の場である自宅を、オルタナティヴな展示空間ではなく、美術をめぐる制度を根本から問うための場所としてとらえた。」
 ここで、日常性を支える、日々の生活に沁み込んだ固定観念や慣習・習慣の総体を、「制度」としてとらえる、言うならばアンリ・ルフェーブルHenri Lefebvre的視点は極めて重要であると考える。
 一方、②については次のように述べられている。「ヴェイユによれば、人間の魂はたえず『重力』の作用を被っており、『恩寵』がもたらされるには自分のなかに『真空』がなければならない。《トートロジー》における不在や欠如がヴェイユの『真空』という概念と結びつくなら、『重力』に対応するのは表現をめぐる制度や蓄積される過去だろうか。」と。
 ここで前述の「制度」が「蓄積される過去」と併置されていることに注意が必要である。実は先の引用に先立つ段落で金子は次のように述べている。「《トートロジー》は作品を重ねるごとに、場所を変えても、過去の作品を蓄積していった。彼女たちは、表現を条件づけるさまざまな制度を意識したように、過去の共同作業を新たな制作の条件としていったように見える。そして、視覚の欠如と一定の規則にしたがう行為を通じて、互いの存在を確認しあうパフォーマンス《時を織る》を最後に、過去の蓄積を保ちきれなくなったかのように、シリーズは計画の途中で動きを止めた。」


3.再制作と批評性
 パフォーマンス《時を織る》の上演に続き、堀えりぜと金子智太郎によるトークが行われた。冒頭、パフォーマンスを見た感想を訊かれた堀は「とても緊張した。自分がやった方がずっと楽だ」と述べた。これは単に客席の笑いを取る「つかみ」ではなく、堀の実感にほかなるまい。彼女は「もうよく覚えてはいない」という自身のパフォーマンス当時と現在との「距離」を正確に感じ取っている。さらに本展準備のプロセスについて、「資料はいったん全部捨ててしまった。今回活用した資料は、処分してしまったと思っていたものが本棚の裏側に落っこちていて、たまたま残っていたもの。日付入りの写真も出てきた。これらがなかったら今回の展示はできなかった」と語りつつ、「展示の説明コメントはそれらに基づきながらも、現在の視点で書いている。そこには当時と異なる理解、批評性が入ってきている」と述べた。この「距離」の肯定とそこへの注力が、再制作を単なる記録や再現ではなく、いま・ここに立ち上がり、開かれたものとしていると言えるだろう。
 その後のトークの展開は、当時の社会や美術シーンの状況やそこから受けた衝撃・影響に関する生々しい証言(たとえば当事者ならではの裏話等)を期待していた向きには、あるいは肩すかしとなったかもしれない。堀はさばさばした思い入れのなさをたたえながら、画廊の高額な使用料など到底支払えないこと、特に銀座の画廊には権威に対する反発を感じていたこと、かと言って自宅だけでやっていたのでは駄目でみんなが来易いところでも展示をやらなければいけないと最初から思っていたこと、小学生の頃に安保闘争を見て政治闘争に期待を持たなくなったこと、斎藤義重に憧れて多摩美術大学に入学したが大学闘争で授業がなくなりBゼミに出るようになったこと、その流れで高松次郎の私塾にも通うことになったこと、斎藤も高松もスーパースターだし距離が近過ぎて影響を直接受けるというのはなかったこと、父親が推理小説を書いていて(父の弟がやはり作家で『新青年』の編集者だった渡辺温とのこと)言葉の世界が身近だったこと、ル・クレジオやソレルスは当時出たばかりで高松も読んでいて意気投合したことなどが緩やかに語られた。「かつてスゴイことがあった」といった伝説化・神話化の素振りをいささかも見せないその語り口を、私はとても好ましく思った。

 第6回《真空の》インスタレーションについて、解説コメントには次のように記されている。
「室内に入ると、一脚の椅子の上に2冊の本が置かれ、床には4冊の本が直に置かれている。それだけ。仮設壁の奥からは声が聞こえる。二人が交互に本を読んでいる声をテープに録音したものだが、どちらの声なのか、どの本をよんでいるのかも判然とはしない。そもそも聴く意志がなければ、言葉としても成立しないほどはっきりとは聞こえない。」
 コメントはさらに次のように続くが、「私たち」ではなく「私」が主語であることからして、これは再制作時に新たに書き下ろされた内容だろう。「私には、薄いアパートの壁から聞こえてくる他人の生活音に支えられた経験がある。隣の住人は、規則正しく毎日をおくる。自分自身がたてている音が、どんな音であるか考えたこともないだろう。グラスを洗う水の音、椅子を引いたり、ドアをバタンとしめたり、鉄骨の階段を駆け下りていく靴音など。それを聴くことが、私が生きている証だった。ただ音として、息を継ぐ言葉が、絶えず室内に降り積もる。意味もなくし、無になる過程を展示したかった。」
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 ■《真空の》 1973年6月 日本美術サウンドアーカイヴ ウェブページより(スクリーンショット)

 再制作展示において、「二人が交互に本を読んでいる声」は椅子の真下に置かれた小型のワイヤレス・スピーカーから流れていた。確かに聞き取り難く、何を語っているのか判然としない。連続するBUoYカフェのスペースから話し声や物音が入ってはくるが、コメントに記されているような「生活音」とは感じられない。そう感じられたのは、それが生活の場の隣室から聞こえてくる隣人の身体の軌跡であるからだろう。だからこそ、それは「私が生きている証」と成り得たのだ。再制作された展示からはそうした隣人の気配が抜け落ちて、代わりにその後の(現在の)堀えりぜの痕跡が残されている。コメントでは「一脚の椅子の上に2冊の本が置かれ、床には4冊の本が直に置かれている。」とあり、記録写真でもそのようになっているのだが、再制作では椅子の上に4冊、床の上には6冊の本が置かれ、スーザン・ソンタグ『サラエボで、ゴドーを待ちながら』、今福龍太『群島=世界論』、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』等、当時のものではなく最近出版された書籍が多く含まれている。おそらくは堀が最近読んだ本なのだろう。
 先の解説コメントにもかかわらず、当時のインスタレーションを体験した観客がまず感じたのは、その部屋の(不在の)居住者の気配にほかなるまい。声は誰のものともわからずとも、生活の気配がたちこめる住居の中に椅子と本が置かれていれば、まずはその部屋の主のことを思い浮かべるだろう。たとえ隣室から生活音が響いてきても、そのことを深く考えるには至るまい。
 このように考えてくると、かつて堀が隣人の生活音に「私が生きている証」を聴き取っていたことが事実だとして、本展展示再作成及びコメント執筆の時点おいて「隣人」として感じられていたのは、「当時の私」にほかならなかったのではないかと思えてくる。ずっと感じ続けていた「距離」に関する手触りが、ここから過去/記憶へと姿を変えて一挙にせり上がってきた。
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 ■《真空の》再制作(部分) 2022年6月


4.記憶の諸相
 堀は第2回《アリアドネの糸》(それぞれ中央部分の縦糸と横糸を抜いた2枚の布地を重ねた作品。今回、再制作作品を展示)と第8回《時を織る》に共通する「織物」という主題について問われ、「世界中どこでも、なぜか決まって機織り仕事は女性がしている(*1)。その点、女性二人が行う展示のテーマとしてふさわしいと考えた。たとえば《時を織る》は向かい合う二人が縦糸と横糸を織り上げていくパフォーマンス。二人がそれぞれ別の過去を引き摺りながらいっしょにやっていくところに、二人でやる意味がある」と答えた。
 実は本展を見る前の「予習」として、日本美術サウンドアーカイヴの記念すべき第1回、堀浩哉・堀えりぜ《MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair)》1977年の拙レヴュー(*2)を読み返した際、堀浩哉の「記憶は残り続ける」との発言が強く印象に残っており、それがこの回答や第6回《真空の》インスタレーション再制作に対する印象と結びつくこととなった。
 また、今回上演されたパフォーマンス《時を織る》を、コンポジションとも言い難いようなごく簡素な指定に基づくデュオ・インプロヴィゼーションととらえるならば(*3)、互いの身体(運動)の応対(主として同期)が前面に出て、何を書いたかは重要ではなくなる。実際、演じた二人に後で訊いたところ、「数字がズレるのは失敗ではないので、何しろ最後までやり通せ」と指示を受けており、途中で違和感を覚えたが表に出さず淡々とやり続けたと語ってくれた。にもかかわらず、冒頭に記したように見ている側は大きなショックを受けた。一見、機械的(自動的)な反復と思える動作が、実のところ不確かな記憶に辛うじて支えられており、いつ破綻するかわからない不安定なものであることに気づかされたからではないか。ここでも「記憶」が別の角度から主要なテーマとして浮上してくるように思われた。
 *1 これは確かにその通りだと思う。指が細く、糸を織り込む細かい作業に向いていることもあるだろうが、アジア、アフリカ、アラブ、ペルシャ等の民俗織物は主として女性が担い手であろう。また、工業化された織物業においても、我が国の「女工哀史」に見られるように、やはり主たる働き手は女性だった。その一方で、女性が集まって糸を紡いだり、機を織ることによって、女性が各家庭内に閉じ込められずに、世代を超えて女性同士の連帯を育めた側面も見逃すわけにはいかない。社会運動としてのキルト・ワークはそうした側面を継承している。細田成嗣編『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社)所収の拙論「録音/記録された声とヴァナキュラーのキルト」は、過激な制度破壊者としての面ばかりが強調されがちなアイラーにおける、フォークロアへの親和性や女性的なものの発露についてキルト・ワークをモティーフに論じている。ご参照いただければ幸いである。
 *2 ブログ 耳の枠はずし「残存の中ですり減ることと積み重なること―日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》レヴュー」
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-442.html
 *3 岡千穂、田上碧ともミュージシャンとして活動し、即興演奏も行っているから、この見立ては決して無理なものではあるまい。なお、このパフォーマンスについて、堀えりぜはトークの中で「時代が変わり、社会の感じ方、受け止め方も変化してきている中で、目隠しした女性の姿を舞台で晒すのはどうかとも考えた」と話していた。私は目隠しは仕掛けとして必須だったと思う。これがもし目隠しなしで衝立で視界を遮る装置だったとしたら、たとえ演者には対面する相手の姿が見えなくとも、客席からはそれを直接感じ取れないし、コロナ禍等への余計な連想が働いてしまったことだろう。ちなみに金子智太郎は、ライヴ・パフォーマンスの際に聴衆に目隠しをさせるフランシスコ・ロペスの来日ライヴを実施した経験があり、彼による助言もあったのではないかと推測する。

 そうした想いから、トークの最後に設けられた質疑応答において、堀浩哉においても重要なテーマとなっている「記憶」と《トートロジー》の関係、さらにはその後の彼との共同作業との関係について、それが当時に特徴的な時代的/世代的なテーマであったのかを含め、問いを投げかけてみた。
 堀えりぜによる回答は次のようなものだった。「記憶へのこだわりは強くある。私は写真のような映像的な記憶が強く、それがどんな状況でのことかは覚えていなくても、ある断片的な一場面を細部まで鮮明に、たとえばどんな色や柄の服を誰が着ていたかとか覚えていて、それがふと甦ることがある。」
 客席(私の隣!)にいた堀浩哉が続けて答えた。「20年のブランクを経てパフォーマンスを再開してから、『記憶するために』ということを重要なテーマに掲げ、ずっと継続して活動してきている。60年代末から70年代の初めにかけて、『制度批判』ということが盛んに言われた。ここで『制度』とは先ほど言われたように日常としてルーティン化したもので、ありとあらゆるところに及ぶ。制作というものは制度に従ってやるということでもある。そこで『記憶』によって、『記憶』を掘り起こすことによって、日常の殻を食い破るということが考えられた。これは『記憶』というものの、その時代の『用法』と言ってよいと思う。自分でずっと絵画を描いてきて、それが自分なりに出来上がってきた時に、それが制度化してきているという感じを持った。そこで『記憶するために』を掲げてパフォーマンスを再開した。この『日本美術サウンドアーカイヴ』第1回で《わたしは、だれ?── Reading-Affair 2018》という東日本大震災の死亡者の氏名を読み上げるという、やはり『記憶するために』と関わるパフォーマンスを行ったが、それもその後も機会があるごとに何回も行ってきている。」


5.刻印 ―― 地層を貫く力線
 「記憶」が彼/彼女らにとって重要なテーマであるというだけでなく、「制度批判」の動機付け/足場/源泉等として多面的にとらえられていることに注目したい。というのは、最近の歴史認識を巡る論争(というより「騒ぎ」)等を見ていても、過去=記憶=資料記録=‥‥=歴史的事実といった、すべてが難なく等号で結ばれてしまう杜撰な図式的理解が大きな障害となっているように思われるからだ。
 まず記憶とは多型的なものにほかならない。物語記憶は常に突き動かされ書き換えられているし、写真にも似た映像的記憶はたやすく属すべき文脈を喪失して、断片として浮遊してしまう。最近問題になっているように、ある暗示を与えて、偽の記憶を刷り込むことも可能である。ある瞬間に浮かぶ記憶は記憶総体のごくごく一部に過ぎず、それらが他の記憶とどのような関係にあるかもすぐに判断することはできない。そうした瞬間的に浮上し意識を支配する記憶を、日常を食い破るための手段とすることはできない。それは単にその場の激情に任せることに過ぎないのだから。

 ここで、堀えりぜが本展で展示している新作《あなたはいつも私より強い、あなたはいつも私より弱い》が意義深い示唆を与えてくれる。スペースに置かれているのは、第6回《真空の》インスタレーションのとは異なる木製の古びた椅子とその脇の水の入ったポリバケツ、そして椅子の背には作業着の上着のようなものが掛けられ、座面には白チョークと軍手が置かれているだけなので、これってインスタレーション?‥‥とうっかり見過ごしてしまいかねないのだが、実は作品本体は別にある(私も受付にいた金子に「椅子等は作品の制作中なので置いてある」と教えられて、ようやく理解した)。壁面に掲示されたプレートには次の説明が掲載され、壁にできた亀裂すべてに白いチョークの線が入っている。
 「私は1948年の冬に生まれた。私の両親は、生まれた子に、漢字で「恵利世」と書き 「えりぜ」と読ませる名前をつけた。それ以来、私は日本人でありながら外国名を持つ女の子として、フィクションとリアルの間を生きることになった。それに伴う差別も被害も経験した。その経験は特別な傷跡として、今も私の中に残っている。1970年から73年までの間に、私は「壁の亀裂」をテーマとした作品を何点か作った。堅牢な壁と、そこに走る亀裂が、私の中に残る引き裂かれた傷跡と共振したのかもしれない。その記憶が、ここ BUoYの壁を観た瞬間に蘇ってきた。そして同時に、この壁の亀裂を描き起こしたいという想いが湧き上がってきた。私たちの前にいつものように立ち塞がる壁の前で「壁の向こうに言葉は届くだろうか、壁の向こうから言葉は届くだろうか」とつぶやきながら。それが、再制作でもあり、ライブドローイングとしては新作でもあるこの作品である。」

 ここで心の傷が壁面の亀裂に重ね合わされているというだけでなく、壁のひび割れ一つひとつを白いチョークでなぞり直すことが、ある力の刻印を発見し、それが描く軌跡/力線に身体を動かして同調しつつ、それを余すところなく可視化していく行為であることに注目したい。ここにあるのは、記憶を白黒のはっきりした単一なもの-たとえば単純な線引きや一瞬のうちに沸き起こる感情-に収斂させてしまうことから確実に遠ざかる手立てを着実に遂行することにほかならない。記憶の襞に分け入り、凝り固まったしこりを解し、回路を幾つにも分岐させ、全身に血を巡らせること。
 それは亀裂が生じた力のドラマに想像力を向けることでもある。地層はどのように形成されたのか、隆起や沈降、褶曲や断層はどの方向からどれだけの力が働いて成し遂げられたのか、それらの変容はどれくらいの時間をかけて生じ、それからさらにどれだけの年月が流れたのか。それは過去に刻印されてしまった傷跡を、自らの一部として受け止め生きていくプロセスでもあるだろう。
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 ■《あなたはいつも私より強い、あなたはいつも私より弱い》制作中 2022年6月


6.反語としてのトートロジー
 日常を食い破り得る「記憶」とは「かけがえのないもの」でありながら、単一の状況/物語/事実に収束・収斂していくようなものではないとすれば、むしろ中井久夫が「世界における索引と徴候」(*4)で提示している「索引」に近いのではないか。すなわち、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』における紅茶に浸したマドレーヌ菓子の如く一つの世界を開く魔法の鍵に。
 *4 中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)所収

 中井はやはり同書所収の「発達的記憶論 ―― 外傷性記憶の位置づけを考えつつ」で、実際には多くの記憶が失われているにもかかわらず、個人の記憶が現在までの連続感覚を獲得しているのはなぜかについて論じており、そこで米国の精神科医ハリー・スタック・サリヴァンの議論を紹介している。「サリヴァンのいう『セルフ』というシステムは、意識の幅を制御する仮想的システムであって、意識の統一性を乱すものを『解離』し続けている装置である。」中井はこのことを踏まえ、意識のスクリーンには一定の容量があり、それを超える量の記憶がいっせいに意識に現前すれば超氾濫状態により意識が瓦解する危険があるとし、意識に対して現前こそしていないが、そこから想起によって記憶を取り出すことの出来る「メタ化」した記憶の総体があると考える。先に挙げた成人型記憶の連続感覚は、このメタ記憶の存在感覚ではないか‥‥というわけだ。(*5)
 *5 中井 前掲書 p.51

 この構造的理解を「日常を食い破る記憶」と重ね合わせてみたい誘惑に駆られる。そこで制度化/日常化は個人や社会の「セルフ」の統一性を乱すものを解離するシステムの作動として現れてくるだろう。にもかかわらず、それらは消滅してしまうのではなく、メタ化した記憶として収蔵される。ここで注意すべきは、個人の記憶の連続性とは、あるいは個人の生=セルフとは、不変の硬直したものではなく、日々移り変わるものであることだ。
 「ストーリーは生きる時間とともに変わってゆく。細部の克明さも、個々の事実の重みも変わる。生死を賭けたと思う体験も階層の中では些細なエピソードに転化する。逆に、取るに足らない事件が後になって重大な意味を帯びてくる。生きるとはそういうことである。あるいは『歴史性』とは。」(*6)
 *6 中井 前掲書 p.50

 制度化/日常化は「セルフ」を守るシステムの作動であるが、それが行き過ぎれば生の硬直を招く。とすれば生きるとは、(メタ)記憶の活用により、不断に制度/日常を食い破り、柔軟に組み替え続けることではあるまいか。ある一瞬における記憶の爆発的な噴出により制度/日常が祝祭的に転倒/破壊されること(=大文字の「革命」)だけを夢想するのではなく、むしろ記憶による制度/日常のミクロな転化を、一見変わることのなく続く日常のただ中にこそ仕立て見出すこと。生活の場を舞台にして始められた、一見慎ましやかな一連の《トートロジー》の実践を、このように読み解くことも可能ではないか。

 この時、《トートロジー》というタイトル自体へのある疑念が湧いてくる。もともとトートロジーとは「A=A」のような事態や文脈に拠らず真であり、それゆえ情報量のない言明や話法を指す。では《トートロジー》で展開された一連の作品行為において、何がトートロジー、すなわち「A=A」だったのだろうか。
 「レディメイドを用いたインスタレーションだから」というのは、おそらく皮相な理解に過ぎまい。第1回のインスタレーション《予定調和的半過去》において、用意された点滴用ガラスボトル、点滴用装置、水道水、キャンパス生地は確かにそのもの自体=レディメイドとして用いられているから、そこにトートロジーを見出すことは可能かもしれない。だが、それではありとあらゆるレディメイドの利用にトートロジーを見出さねばならなくなってしまう。また、このインスタレーションの眼目と言える布地に滴る水のつくり出す、刻一刻移り変わる不定形の染みはその等式からはみ出してしまう。それは常に「水によって濡れた染み」であるから「A=A」だと言うのだろうか。それでは時間的変化を捨象して「A0」(開始直後の状況)と「An」(開始後n分経過後の状況)を同一と見なし、A0=A1=A2=A3=‥‥を無条件に前提してしまうことになる。
 冒頭に見たように、一見「A=A」的な機械的反復と思われたパフォーマンス《時を織る》にも、それをはみ出す予定外の事態が生じる。反復だからトートロジーだと決めつけることもできはしない。

 むしろ、ここで《トートロジー》は、「変わらない」とか、「同一だ」と決めつけて、左辺と右辺の間に暴力的に「等号(=)」を挿入すること―― それこそは硬直した制度/日常の抑圧そのものにほかなるまい―― への抗いの宣言として掲げられているのではないか。反語的表現用法として。
 トークでの堀えりぜの発言によれば、《トートロジー》とは後から思いついたものではなく、一連の作品行為の実施に先立って、最初に考案されたタイトルとのことである。おそらくそれは「渡辺恵利世」=「私」という等式への違和から芽生え、《トートロジー》と命名される前も後も様々にかたちを変えながら、生活の場において深く静かにミクロな次元で展開・継続されている戦い謂ではないだろうか。


日本美術サウンドアーカイヴ 上田佳世子、渡辺恵利世《トートロジー》1973年
2022年6月23日〜26日
北千住BUoY

上 演:上田佳世子、渡辺恵利世《時を織る》(1973 / 2022年)
     出演 岡千穂、田上碧(6月24日)
トーク:堀えりぜ、金子智太郎

日本美術サウンドアーカイヴ ウェブページ
 https://japaneseartsoundarchive.com/jp/jasa/
同 上田佳世子、渡辺恵利世《トートロジー》1973年
 https://japaneseartsoundarchive.com/jp/news/
 ※現在は「新着情報」に掲載されていますが、後日、「過去の企画」(アーカイヴ・ページ)に移り、展示等のオフィシャル写真が掲載されるとのことです。作品等の詳細については、ぜひそちらをご覧ください。




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:38:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
幻のもう一人に導かれて - 「星形の庭」@OTOOTOライヴ・レヴュー  Guided by Another Phantom Presence - Live Review of “Hosigata No Niwa (Pentagonal Garden) ” @OTOOTO, Higashi-Kitazawa
 ずいぶん以前の話になるが、津田貴司(ギター)と林香織(アコーディオン)によるデュオだった「星形の庭」に林享(ヴァイオリン)が加わってトリオ編成になると聞いた時、いささかとまどいを感じたことを覚えている。
 そもそも「星形の庭」結成時に、「簡素で愛らしいメロディを持つ『曲』を演奏するユニット」という性格付けにも驚かされたのだが、実際にライヴを聴いてみると、そこで演奏は「あらかじめ書かれたメロディ」をなぞることによって生み出されるものではなく、パチパチと弾ける蛇腹の軋みや弓奏ギターのフラジオが放つ香りといった、音の手触りや気配に二人が深く耳を澄まし身体を浸すことに支えられていた。
 肌を触れ合うことなく、視線も交わさず、聴覚という遠隔の感覚だけで二つの身体を同調させていくことは難しい。だからこそなぞるべきメロディや刻むべきリズムが、先にフォルム(文字通り、はめこむべき「型」)として与えられるわけだが、星形の庭の「曲」はそうした縛りを担うことをしない。二人なら出来たからといって、果たして三人で同じことが可能だろうか、それとも何らかのアレンジメントを用意するのだろうか(同じ楽器編成によるTin Hat Trioの洗練された腕達者な演奏が私の頭を掠めた)‥‥と勝手に気を揉んでいた。
 トリオ編成の初ライヴとなった文京区立森鴎外記念館での演奏は、決して芳しいものではなかった。ピカピカに仕上げられた食堂スペースという響きすぎる音響環境も災いして、演奏を支えていた濃密な交感は消え去り、アンサンブルは解けていた。しかし、その後の関内The Cave等でのライヴを経て、トリオの関係性は煮詰められ研ぎ澄まされていくこととなる。デュオの演奏にオブリガードを付け加えるのではなく、まずは三者を徹底的に重ね合わせ、そこから芽吹くように個体化の線が生じていく。トリオの結成当初から津田が冗談のように言っていた「Tony Conrad + Pauline Oliveros」というサウンド・イメージが、こうして具体のものとなった。外見を似せるのではなく、サウンドの産出原理として、またアンサンブルにおける体性感覚として獲得されたのだ。
 トリオ編成になった「星形の庭」の二作目CD『距離を含んだ色彩について』の特徴として、津田は「左右に広げるのではなく、点音源から発せられるかのように中央に寄せたモノーラル的なミキシング」について語っている。あえて補足すれば、それは決してスタジオでのポスト・プロダクションによって、つまり単なるアイディアやテクニックとして開発されたものではない。トリオの演奏感覚が開拓した地平を、録音という機械の知覚を通してわかりやすく聴衆に伝えるために、そうした手法が編み出されたに過ぎない。ただ、演奏中に自らの身体の内部に鳴り響いていた音の在りようを、ミキシング作業をしているスタジオのモニターから、すなわち身体の「外」から、自らの演奏身体とは切り離された聴き手と共有可能な空間から聴けたことが、彼らに確信と自信を与えたことは想像に難くない。
 以前に本ブログでレヴューした彼らの2019年8月17日、下北沢leteにおけるライヴ(*1)は、三人が演奏するステージ部分が、客席より幅の狭い「窪み(袋小路)」のようになっている空間構造(*2)も幸いして、三者の音がひとつに敷き重ねられ縒り合わされて放たれる様を、まざまざと感じ取ることができた。
 *1 ブログ『耳の枠はずし』 「うねりと濁り 「星形の庭」@下北沢leteライヴ・レヴュー」
    http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-469.html
 *2 前記*1掲載の写真を参照。


 2022年1月15日に東北沢OTOOTOで行われたライヴにおいて、「星形の庭」は初めて井口淑子(フルート)を加えたカルテット編成で演奏した。そこでは何がどのように変わっていただろうか。
 だが、しかし、会場には当然、「星形の庭」の演奏に接すること自体が初めてという聴衆もいたはずで、こうした問題設定はいささか限定的に過ぎるのではないかとの疑問が浮かぶかもしれない。それはその通りである。しかし、レヴュー執筆者として、この日のライヴの魅力と可能性を語るには、この視点設定こそがふさわしいと考え、そのために「デュオからトリオへ」という、カルテット編成への「前史」をイントロダクションとして述べた次第である‥‥とご了解いただきたい。
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 星形の庭@OTOOTO 津田貴司Facebookより転載


 今回のライヴで最も印象に残ったのは、演奏者間のリレーの見事さである。
 たとえば冒頭、アコーディオンのリードを鳴らさない「息音」、増幅しないエレクトリック・ギターのほとんど音にならない弓弾きや弦の軋み、フルートの吹き口部分を外した管だけの吹き鳴らしなど、アーラーブと言うべきざわめきの提示から、ヴァイオリン(できるだけ音を細くしようという努力にもかかわらず、楽器の特性上「鳴って」しまう)が入って高まり、ギターがディレイをかけてヴァイオリンに重なると、管をスプーンで擦っていたフルートが吹き口を取り付けてフレーズを奏でた瞬間、アコーディオンが楽曲のコードを弾き始める。
 フレーズを合図にコードを付けるなんてことは、当たり前と言えば当たり前の所作だが、しかし、そこで「曲」の演奏が始まるわけではない。新たに開かれたステージで、フルートがディレイをかけたように音を寸断し、ギターのディレイ音と響きを重ね合わせ、両者は組み合って回転するように交互に前景化していく。あるいはそのしばらく後に続く場面で、ヴァイオリンが弦への寸断されたアタックからドローンへと至り、やはりギターがゴム球によるトレモロでそれに厚みを加え、三人の演奏が飽和したところで沈黙していたアコーディオンが聴き覚えのある彼らの「曲」のメロディ/コードをきっぱりと弾き出し、流れを断ち切る。しかし、やはりそこから「曲」の展開がなぞられるわけではない。アコーディオンは五音で構成されるメロディのどれか一音(コード)を引き伸ばすなど、そこからすぐにインプロヴァイズへと歩みを進める。

 いま「インプロヴァイズ」と述べたが、トリオ編成の「星形の庭」に比べ、今回はるかに即興部分が多かったのは確かだ。終演後、津田は「今回はひと続きの演奏の中で、最低限これはしようということだけ決めておいて、後は即興に任せた。コードの提示や場面の切り替わりについてのキューも一切出していない」と話してくれた。だとすると、先に見たように今回のライヴで場面の決定力/切断力が最も強い(逆に言えば一番取り返しのつかない)のは明らかにアコーディオンなので、それを何のキューもなしに独断で、何のためらいもなくきっぱりと演じるとは、林香織の度胸の凄さに感心せざるを得ないが、ここで注目したいのはそのことではない。
 率直に言って、ただ演奏を即興に委ねただけで、このように滑らかな推移が紡げるわけでは決してない。そこにはこうした演奏を可能足らしめている様々な要因がある。
 まず、「星形の庭」トリオの三名において前述の「体性感覚」が下地として共有されていることが挙げられよう。それに加えて、そうした「体性感覚」の共有を成し遂げた後にも、彼らは即興体験を積み重ねてきている。たとえば、私が前回体験した彼らのライヴは、祖師ケ谷大蔵ムリウイにおいて「坂本宰の影」をゲストに迎えたものだったが、そこでは「坂本宰の影」の展開との共生を図るため、今回と同様に曲単位の仕切りが取り払われ、アコーディオンが時折奏でる「曲」のメロディ/コードを道標としつつ、ゆるやかに経巡っていく展開となっていた。こうした演奏の延長上に今回のライヴを位置づけることができるだろう。
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 星形の庭@ムリウイ 津田貴司Facebookより転載


 その一方で、今回新たに加わった要素として、先のリレー感覚がある。単純には演奏者数が三名から四名に増えて、いったん流れを離脱して全体を眺め渡し、受け継ぐべき流れを見定めて再突入する余裕が持ちやすくなったと考えられる(もちろん後ほど詳述するように、そればかりではない)。
 典型的な例は、音を出さずに演奏から離脱しておいて、タイミングを見計らって「曲」のメロディ/コードを弾き出し、ステージを鮮やかに切り替えるアコーディオンの在りようである。
 また、後半に津田が手に取ったハーモニウムの演奏も例として挙げられよう。和音をそっと置いていくような繰り返しで幕を開け、他の参加を促して響きが厚くなってくると、今度は大きな音で切れ目なく奏でながらアンサンブル全体をゆったりと引き伸ばしていく。さらには波打つように強弱をつけて煽り立て、そこから沈静化してゆったりとたゆたいつつ細かいリズムを不均衡に奏でて緊張を手放さずにおき、アコーディオンがコードを押さえる時には基音へと身を伏せている。このように音色を定めて役割をコンダクトに限定することは、トリオ編成では難しかったのではないか。
 さらに後半、ハーモニウムからエレクトリック・ギターに持ち替えた津田が弓奏により荒い呼吸音のような音(David Toopが自身のレーベルQuartzからリリースしたニューギニアの笛の魔術的な響きを思わせる)を奏でると、音を出していなかったフルートが思わず引き込まれるように演奏に加わった瞬間は、とりわけスナップショットのように鮮やかな印象として残っている。

 これらを支えた仕掛けとして、アンサンブルの分割/分散配置について指摘しておきたい。東北沢OTOOTOのステージ部分は、下北沢leteと異なり、客席と同じ幅で奥行きが浅い。このため演奏者は横に並ぶことを余儀なくされる。この日の前半は客席から見て、手前が開けた平たい台形状に、左端手前がフルート、左中奥がヴァイオリン、右中奥がギター、右端手前がアコーディオンと配置されていた。
 先に述べたように、演奏はアコーディオンがステージの切り替えを決定的に握っていたから、それより左手の三名がより細かな出し入れにより演奏を展開することとなる。このことに加え、さらに前述の「体性感覚」やリレー感覚が相俟って、演奏空間にはあらかじめ微妙な傾斜/起伏が与えられていた。これにより、所謂「フリー・インプロヴィゼーション」が陥りがちな「罠」、すなわち「ハリネズミのディレンマ」的なおずおずとした探り合い、各プレイヤー間を目隠し板で仕切ってテーブル上にカードだけを切り合うようなやりとり、ミラー・イメージ的なアクションの連鎖、足を止めての時にクリンチと見分け難い打ち合い‥‥等に、彼らははまり込まなかったのではないか。これらはすべて、演奏者の間に遍く広がり、そこに向けて音を放つことになる「演奏空間」を、何か透明で均質などこまでもニュートラルなものと、抽象的/概念的に受け止めてしまうことによりもたらされやすい。
 そのことがよりはっきり現れたのが後半の配置にほかならない。そこではギターがハーモニウムに置き換わり、おそらくはこれを「突き玉」としてフルートとアコーディオンが席を入れ替えた。コード楽器であるアコーディオンとハーモニウムを同じ側に並べたくなかったというサウンド・バランス上の配慮も当然あっただろうが、決してそれだけではあるまい。すでに見たようにハーモニウムはコンダクトに徹するため、ステージを切り替えるアコーディオンとの間に強力な軸線を引くことになる。ヴァイオリンとフルートはこの対角線によって両サイドへと切り分けられ、そのことでより強く結びつけられることになる。ハーモニウムがアンサンブルをゆったりと引き伸ばし、さらに煽り立てる場面では、まさにヴァイオリンとフルートをその中に巻き込んで、互いに「境界線」を侵犯してオーヴァーラップしあう展開を引き出していた。
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 星形の庭@OTOOTO(前半の配置) 津田貴司Facebookより転載


 津田は今回のライヴのためのリハーサル時の体験を踏まえ、「全員でいっしょに演奏している時に、誰が演奏しているわけでもない別のメロディが聴こえてくることがある。三人で演奏していた時にもあったけれど、四人になって、もっと頻繁に聴こえるようになった。それが面白い」と話していた。これは所謂「差音」や倍音の干渉といった音響現象によるものだけではなく、各自が奏でる微妙に異なるフレーズ同士が切れ切れに接合され、新たな/別のメロディが生み出されてくるのだろう。夜空に輝く星々の間に、星座の連なり/まとまりを見てしまうように。各自の放つサウンドを一体に重ね合わせることにより、各自の「発話」としての鎖列が解かれ、ネックレスがちぎれて飾り石が弾け飛ぶように散乱し、それらがまた別の鎖列へと組み立て直される。そこには「幻のもう一人」がいて、誰も弾いていないメロディを奏でているのだ。
 誤解のないよう、慌てて補足するならば、「幻のもう一人」は居場所を画定されているわけでも、「発話者」としての輪郭を備えているわけでもない。それはありとあらゆる隙間に佇み、そこにいる誰とも違う様々な声音で語る。それがいまどこにいて、どんな声音で何を語っているのか(いないのか)は、聴く者によって異なるだろう。
 彼らが互いの肌に触れることなく、視線も交わさず、さしたる地図もなしに、足を止めることなく、すっすっと歩みを進めていく様を眺めていると、「幻のもう一人」に導かれているのではないか‥‥という、何とも不思議な思いが浮かんでくる。「ミチオシエ(ハンミョウの異名)」に案内されるように、あるいは逃げ水の後を追うように。

 「非楽器」「非即興」「非アンサンブル」を掲げ、石や金属部品や水の入ったガラス瓶といった身近にある「モノ」たちから何の飾り立てもせずに率直に音を引き出し、それらを碁を打つように配列していくことによって、触覚成分を多く含むこれら響きの間にどのような結びつきが生じるか耳を澄ますスティルライフ(笹島裕樹とのデュオ)、各自が時には楽器構成や奏法にまで至る大きな振れ幅で演奏を変遷させながら、ライヴの度毎に〈いま・ここ〉を深掘りし、折り合いをつけず、共有平面も織り上げず、常にパラタクシックな「ねじれ」の位置関係を探り当てるLes Trois Poires(溜終一致、松本一哉とのトリオ。現在は固有のユニット名を持たず、演奏者名の連記により活動している)、そしてもちろんソロと、津田貴司は共同作業者と共に「インプロヴァイズ」することを、従来の「フリー・インプロヴィゼーション」に解消することなく、聴くことに軸足を置いて再構築するための営為を、様々な方面から黙々と続けてきた。ここへ来て、「星形の庭」もまた、思っても見なかった方向から、その戦列に加わることとなった。今後の活動に期待したい。


星形の庭[カルテット:津田貴司(G.)+林香織(Acc.)+林亨(Vn.)+井口淑子(Fl.)]
2022年1月15日(土)
東北沢OTOOTO






ライヴ/イヴェント・レヴュー | 18:46:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
三次元の厚み ― ARICA『ミメーシス』公演レヴュー  The Depth of Three Dimensional Theatrical Space ― Review of "Mimesis" by Theater Company ARICA
0.前口上
 Theater Company ARICAによる新作『ミメーシス』公演の最終日を観ることができた。ごく控えめに言って、本作品は注目すべき力作であり、かつ問題作である。だが、テクスト/演出による虚実の反転や入れ子構造といったメタフィクショナルな操作に留まることなく、テクストに抗う身体を舞台に載せ続けている点において、彼らの作品はいつだって力作であり、かつ問題作ではなかったか。では、なぜいま改めて、そのように言い募る必要があるのだろうか。
 それは次の二つの理由による。まず、「ダンサーは振付が行為の大切な動因です。しかしアクターは振付では動くことは出来ません」と演出を担当した藤田康城が自ら述べているように(*1)、本来共約不可能であるはずの演技する身体とダンスする身体を舞台上で直接ぶつけ合わせたことがある。確かにこれまでもARICAは『ネエアンタ』、『Ne ANTA』において、ダンサー山崎広太を舞台に立たせたことがある。しかし、そこで「ダンスする身体」が出現したのは、テクスト/装置/演出によって画定された一定の時空間及び意味付けの中においてのみであった。今回のように、二つの異質の身体の「交通」を通して作品全体が立ち現れてくるわけではなかった。
 いま「画定された時空間」と述べたが、通常、演劇においては、テクストによる設定、舞台装置、衣装等により、あらかじめ様々な準拠枠が用意され(ピーター・ブルックの言う「なにもない空間」においても、このことは基本的に変わりない)、身体の運動(発声を含む)はその中に位置づけられることにより、安定した意味を担い得る。たとえ虚実が不確定で激しく振動していたとしても、まさに振動体としては位置と大きさ、振幅等が確定されている。それゆえ上演ごと、あるいは場面ごと、さらには瞬間ごとに生じ得る身体(の位置や運動、発声等)のブレや揺らぎを瑣末なノイズとして棄却し、安心して舞台を眺めることができる。細部まで注視せずとも、演劇記号として受け止められれば十分というわけだ。
 しかし、本作品において、そうした準拠枠はほとんど与えられないか、あるいは機能しない。観客は上演のすべての瞬間において、身体の位置と運動に、照明とそれがもたらす陰影に、演者がリアルタイムで発するセリフやあらかじめ録音された声を含む様々な音響に、眼を凝らし、耳をそばだて続けなければならない。決定的に重要な何かを見落とし、あるいは聴き逃しはしまいかとの不安に常につきまとわれながら。
 この準拠枠の欠如は、当然のことながら演者にもただならぬ緊張を強いることになる。互いの身体の運動がひとつに同期したり、あるいは束の間安定した平衡をかたちづくる時でさえ、それぞれの身体の作動原理の違いは、そこに質的な差異を生じさせ、まさにそうした生成を通じて上演は歩みを進めていくことになる。一寸先を見通すことができず、その瞬間にも足元から崩れかねない上演が彼らに与えた負荷は、いかばかりのものだっただろうか。この不安定さへの果敢な挑戦が二つ目の理由である。

 もとより、かく言う私も、そうした不安定さから逃れられはしない。眼を見開き、耳をそばだてて舞台に集中し続けたつもりではあるが、そこで生じた事態を見尽くし、聴き尽くし得たとは到底思われない。それほどに豊穣な上演であった。それゆえ、これから書き記すことは、あくまで私が感取し、記憶/記録に留め得た範囲内の事柄についてであり、これに基づく成形(そこには当然無意識の変形が含まれていよう)の結果でしかないことを、何時にも増して強調しておきたい。

 *1 https://www.aricatheatercompany.com/news/433/
   なぜかページを閲覧できないことがあるようなので、以下に、藤田康城「『ミメーシス』」公演を終えて」の主要部分を同ページから転載しておく。

 ARICAは創立当時から、空間と音を劇の核となるフレームと捉え、その中で生起し変化し続ける身体と言葉の緊張関係を見据えてきました。そして今回の『ミメーシス』では、強靭な身体性を持ったダンサーの川口隆夫氏を迎え、ARICAの安藤朋子と彼が正対し組み合ったことで、身体表現の新たな可能性が開かれる思いを感じています。
 ダンサーは振付が行為の大切な動因です。しかしアクターは振付では動くことは出来ません。テクストのイメージやモノを扱う具体的な行為を一つ一つ積み上げていくことで、やっとそれらを内実化し動けるようになるのです。稽古を重ねる中で、真逆とも思える行為のプロセスの違いに戸惑いながらも、しかしお互いがそれぞれの方法で充実した身体を獲得したときに、二人が共鳴する響きはとても豊かだったと思います。


1.戦場としての身体
 公演最終日とあって客席は満員だった。前方に開けた舞台には何ひとつ装置はなく、奥と左右に設えられたフットライトの列だけが唯一空間を仕切り、そこが舞台にほかならぬことを示していた。手前の床にも中央と左右の三基のライトが設置され、左右奥の角にはメインのPAと思われるモニタースピーカーが立っていた(見上げると客席の上にもBOSEのミニ・スピーカーが設置されていたが、上演中、どのように使われていたかはよくわからない)。
 暗転。空調が止められ沈黙が舞い降りると、みなとみらい線新高島駅改札の誘導チャイムが風に運ばれてくる。川口が舞台の中央左手寄りにひとり立っている姿が、斜め上方からの照明により浮かび上がる。黒いハーネスのようなものを身に着け、両腕を後ろに回し、踵を開き爪先を重ね合わせて、膝を痛いほどに突き合わせている。身体が極度に緊張し、引き攣れるほどに力が入っている様がひしひしと伝わってくる。身体の各部が震え、全体として小刻みに揺れているが動かない。顔をやや仰向けて斜め上方を睨んでいる。顔面は強ばり、やはり力が入っているのがわかる。だが感情的な表情は読みとれない。眼は開けている。
 音が聴こえてくる。はっきりはしないが街頭の環境音のように聴こえる。通行人の漏らす話し声や交通騒音、鳥の声……。細部が聴き取れないよう、あえて輪郭を不明瞭にしているのだろうか。
 川口のねじれた肢体/姿態と斜め上方に向けられた顔、それを劇的に照らし出す、やはり斜め上方からの光はエル・グレコの宗教画を思わせる(あの原色のハレーションはここにはないが)。当時のカトリック宗教画は、反宗教改革プロパガンダのためのメディアとして、宗教的法悦に包まれる受苦(パッション)の身体を執拗に描き出したのだった。

 そのままの状態が続く。全身を緊張させている力は一瞬たりとも緩むことがない(この持続が絵画とは異なる点だ)。先ほどとは顔の向きが変わっているから、首をゆっくりと回しているのかもしれないが、それはマネキン人形と化して静止を見世物にするパントマイム芸とはおよそ異なっている。あちらではスイッチがオフの安定した静止ポーズから、たとえば観客がピエロの身体に触れるとオンに切り替わって身体が作動し、また別の安定した静止ポーズに至る。もちろん重力があるのだから、すべての力が身体から抜けているわけではないが、少なくとも無駄な力は入っていない。最小限の力で安定した均衡を達成することが芸の秘訣であるだろう。こちらはその逆で、ありとあらゆる身体部位に無駄に力が入っている。多方向に勝手に動き出そうとする筋肉や腱、関節が一斉に立ち騒いで互いに抵抗し合い、結果として相殺し合って重力への抵抗だけを残し、震えながら屹立している。そんな具合だ。

 そのよじれた立ち姿は、以前に仕事で何度となく間近に接した重度脳性麻痺者の身体の在りようを思わせもする。わずかな言葉を発するにも力んで身体を震わせ、金属チューブを巻き取って練り歯磨きを絞り出すようにしないと、声そのものが出てこない。それが動かない身体を力任せに動かそうとしているのではないことを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。たとえばリハビリテーションで関節の可動域を広げれば、それで身体が動くようになるのではない。身体を動かそうと、ある筋肉に力を入れる(力が入る)こと自体が、身体反射を通じて別の筋肉を動かしてしまう。随意的な運動に対し、常に抵抗するように不随意の反射が生じ、身体動作が妨げられる。すなわち身体を意図的に動かすとは、それ以外の部分を動かさぬよう、運動を厳重に抑制することなのだ。(随意的)運動の達成が(不随意的)運動の抑制にほかならないというのは、一見、逆説的に思えるが、乳児の発達過程において、原始反射や無軌道な動きが消滅して初めて随意運動の獲得に至ることはよく知られている。

 かさかさと落ち葉を踏みしめる足音にも似た音が聴こえる。続いては金属質の振動。列車の走行音とも。運ばれている感覚。自分では動くことができないが、運ばれて移動することは可能ということだろうか。受動的(パッシヴ)な身体。

 ここで川口の身体は多方向の力線に刺し貫かれ、立ち尽くしている。彼の意志(というものがあるとして)をよそに、彼の身体は群雄が割拠する「戦場」となっている。戦況は常に硬直状態で一進一退が続いている。この長い「静止」場面は、決して「身体障害者」といったキャラクター設定を提示するためのものではなく、こうした戦闘状態が絶え間なく続いていること、それが彼の身体の普段/不断のあり方、すなわち日常であることを示していよう(付加される音響はすべて日常の身体を取り巻く環境音である)。

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 写真 宮本隆司


2.大洋を漂流する二つの非対称な身体
 舞台右奥隅に安藤の黒い影が現れる。ラジオ体操の音楽がピアノで奏でられる。彼女はまっすぐ前を向き、音もなく左手方向にゆっくりと歩みを進める。左手奥の照明が強まり、川口の影が対角線上に長く伸びる。彼の顔は当初とはすっかり逆側を向いている。市場の掛け声のような音が混じる。安藤は川口の真後ろを通り過ぎ、さらに歩みを進める。音響のエコーが強まる。安藤が舞台左端に到着し、こちら側に向き直って、静かに川口に歩み寄る。手には赤いロープ。近づくにつれ圧迫感が生々しく高まる。
 安藤がやや斜めに進んで川口の右後ろに至り、ハーネスにロープの端を装着すると、そのまま右手側に離れる。ロープを持った手を右に突き出し、身体を横に開いてポーズを取る。合図するようにロープを引き、「あ・る・い・て・み・て」と言葉を軽く切断しつつ、指示を投げかける。「は・い」と答えた川口は指示に応じようとするが、身体の内圧が高まるばかりでうまく歩み出せず、足元が不安定なまま、身体がさらに奇妙に曲がってしまう。ロープで結ばれた二人の影が大きく拡大され、活人画のように後方の壁面に映し出される(安藤が身体を横に開いてポーズしたのは、おそらくこのためだった)。ここですでにロープが弛んでいることに注意したい。それはマリオネットの吊り糸のような対象を直接操作するための機構ではなく、「主従関係」を可視化/シンボライズするための装置である。影絵の方が、そのことをはっきりと映し出している。

 川口がつんのめって前方に倒れそうになり、後ろで組んでいた腕が解け、斜めによろけるように一歩、二歩と前に歩み出る。ロープが引かれ、元の位置に戻る。「も・う・い・ち・ど」。「は・い」。なけなしの歩みが、たちまちロープで引き戻される(前へと進むのと比べて、その速いこと!)。川口がひざまずき、腰を折って頭を床に着けてしまう。「い・た・い ?」、「は・い」とのやりとりに続き、「痛い。少し痛い。まだ」と録音された声が流れる。ぼそぼそとつぶやくようだが、決してたどたどしくはなく、発声に詰まることもない。いま眼の前の舞台で放たれている声とは異なるが、川口の声なのかもしれない。この「録音された声」は後で詳しく見るように、様々な問題を孕んでいる。ここではそのことだけを指摘して、先へ進もう。
 安藤がロープを手繰りながら川口に近づき、顔を彼に寄せて、幼い子どもにそっと言い聞かせるように語りかける。「あるいて。もういちど。わたしのあとについて」(発声の区切りは先ほどまでよりも目立たないものとなっている)。「は い」。「うなずき、うなだれる」と「録音された声」。川口が身を起こす。「びっこをひきながら歩く」と「録音された声」。ロープがピンと張り詰め、安藤が力を入れる。彼女の身体を軸、ロープを回転半径として川口の身体が円運動を始める。彼の身体が外側に大きく傾いてロープの張力と拮抗し合う。「傾いている」と「録音された声」。川口の速度が増し、ますます身体の傾きが大きくなって、安藤が引き摺られ位置がずれる。もはやロープによる回転直径が一定なだけで、回転の軸は安藤の身体を離れ、ロープ上を細かく推移している。「はやい。はやすぎる。おそくして。もっとおそく。おそくな〜れ」と安藤が子どもをやさしく諭すように声をかける。「遅くする。遅くなる。なり過ぎている。もつれる」と「録音された声」。川口の身体が動きを止めると、安藤が手に持っていたロープを床に放り出す(ただし、端は手放さない)。

 「正しく遅く。なって正しく。なって正しく背筋を……」と安藤が上機嫌で浮かれたように早口で繰り返す。ラジオ体操のピアノが戻ってきて、その高揚を下支えする。安藤の身体の動きがラジオ体操モードに移行していく。両手を回し、身体をひねると、ロープも大きく揺れる。川口はただ立ち尽くしている。「背筋を伸ばして……」と安藤が楽しそうにはしゃぎながら身体を動かす。照明フル。目映い光に照らし出される中で、ピアノ演奏のテンポがどんどん速くなっていく。安藤はそれに合わせて弾けたように身体を動かし、加速させ続ける。このスプラスティックに川口はまったく対応できない。突然ピアノが止まり、安藤も動きを止める。川口は身体内に余波が響き続けているかのように、しばらく身悶えている。
 再びピアノがゆっくり始まる。「背筋を伸ばし過ぎず。ときどき縮める」。深呼吸をし、身体をゆっくりと大きく旋回させる。ピアノのテンポがさらに遅くなる。「だらんと。時々だらんと」。ピアノがさらにさらに遅くなる。安藤がロープを手繰りながら川口に近づき、ハーネスからロープを外す。

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 写真 宮本隆司


3.「教える・教えられる」からの離陸
 安藤の登場からしばらくの間を、かなり細密に描写してみた。記録映像を参照しているわけではなく、リアルタイムでの記憶/記録に基づく記述でしかないから、欠落や誤認もあるだろう。しかし、ここで「交通」する二つの身体が、その役割/立場においても、また作動原理や運動の軌跡においても、異質で非対称的であること、にもかかわらず、それらは演劇の岸辺にも、ダンスの浜辺にも決して寄り付こうとせず、二つの身体の接触/距離(ここで赤いロープは、それを鮮やかに可視化/シンボライズするものとなる)を媒介としながら、次なる一瞬一瞬を生み出していることを、一定程度描き出し得たのではないかと思う。
 とはいえ、演劇的な物語にも、ダンス的なムーヴメントにも解消しきれぬ過剰さを、この先、どのように咀嚼したものかと、読んでいて途方に暮れる思いがするのではないか。実のところ、今回の舞台に接し、これと割り切って(決めつけて)飲み下すことができず、喉に詰まり、口中に溢れていく苦しさを、安藤の登場以降、しばらく感じていたことを白状しよう。

 公演会場で配布された二つ折りのプログラムで、演出の藤田康城は次のように述べている。

 今回、身体行為のミメーシスを、二人の登場人物の「教える・教えられる」という関係性の中から捉えようとしている。「教える・教えられる」の指示は、二人の間に結ばれた赤いロープで伝達される。だがいつしか、ロープ自体の暴力性が顕になっていき、操っていたはずの教える側の行為も、その赤いロープに拘束されてしまうかのようだ。

 「ネタバレ」することも厭わず、作品の成り立ちを明かし、全体を理解するためのヒントを提供するかのように見えるが、実はそうではない。これは舞台制作のスタートラインに過ぎず、上演を通じて彼らは作品をさらに深化させた。「教える・教えられる」立場という区分に基づく、二元的な理解が通用しなくなるほどにまで。
 ここで二元的な理解とは、「教える」安藤と「教えられる」川口という、二つの身体へのラベリングに相当する。この階層性は、教師と生徒、看守と囚人、主人と奴隷、親と子どもといった役割設定(準拠枠)によって保証されている訳ではないから、観客は安藤の意図的に「動くことのできる」身体と川口の意図的には「動くことのできない」身体の対比に、その根拠(説得材料)を求めることになるだろう。そこからは「身体障害者への虐待(に対する批判・糾弾)」といったテーマ理解が短絡的に導かれかねない(後に詳しく見るように、本作品における「録音された声」の語りは、そうした短絡的理解を助長しかねないリスクをはらんでいる)。実際、そうした主旨の観劇感想ツイートも見られた。だが、あらかじめ用意されたテーマ/メッセージの「絵解き」を上演の中に探し求めるというのは、何ともツマラナイ見方ではないか。それはあえて準拠枠を設けないことにより、舞台から「だだ漏れ」に溢れ出すがままにされる過剰な視覚/聴覚的イメージの負荷に耐えきれず、そこに蓋をして「見ざる・聞かざる」へと逃げ込むことにほかなるまい。
 反対に、この視覚/聴覚的イメージの洪水に覚悟して身を沈めるならば、先の二元的な理解は保留され、一部は解体されることになるだろう。代わりに複層化されたセリー(系列)の束が浮かび上がることとなる。


4.複層化されたセリーの束
 まずは身体の動きのセリーがある。川口と安藤の身体は、まずは切り離された別個のものとして現れるが、ロープで結ばれることにより変容が準備される。ロープが急に引かれて合図が送られたり、あるいは弛みながらも両者を結び合わせて主従関係を可視化/シンボライズしている間は、依然として二つの身体は個別に運動している。しかし、回転運動の中でロープが張り詰めると、二つの身体はペアのフィギュアスケーターのようにカップリングされる。もはや安藤が川口を振り回しているのではないし、傾きながら闇雲に歩みを進めようとする川口を安藤が繋ぎ止めているのでもない。そこでは先ほどまで別個に存在していた二つの身体は消滅し、それらの結合により、また別の新たな身体が生み出されている。このことは、前章で描写した最後の場面「ロープ外し」に続く展開、すなわち川口と安藤の身体のロープを介さぬ直接の接触の中で、さらに明らかになっていく。また、それぞれの身体の運動も「ひとりの登場人物」の動作の範囲をはるかに超え出て暴走する場面が見られる。
 同じく視覚に与えられるものとして、照明とそれがもたらす身体の影(床面・壁面への投影)のセリーがあることを付け加えておこう(先ほどの影絵の場面がそれだ)。

 続いて聴覚に与えられるものとして、まず音声化されたテクストのセリーがある(今回は投影等によりテクストが視覚に与えられることはなかった)。これもとりあえずは安藤と川口がそれぞれリアルタイムで行う発声と(おそらくは川口の語りによる)録音された声があるが、先の身体運動と同様に、こちらも「ひとりの登場人物」の言動の範囲を超えて、即興的に噴出する場面が見られる。
 同じく聴覚に与えられるものとして、すでに見たように環境音等の音響のセリーとピアノによる音楽のセリーがある。このうち音楽は、先に見たようにテンポを極端に速くしたり遅くしたりと操作され、同期を通じて身体の運動を変化させる。その点から、ここで音楽と音響はひとつながりの「聴覚的舞台装置」を構成していると言えるだろう。

 本作品の上演は、これらのセリーを束ね縒り合わせていくプロセスとしてある。二人の登場人物の出会い、あるいは二つの身体の関係性の変容だけはないことに改めて注意しよう。その時に舞台の展開はどのように立ち現れてくるのだろうか。


5.バレエのポーズ
 後ろ向きで、体をねじり、突っ伏すようにうつむいているKの姿勢をAが直そうとすると、Kの身体がAにしなだれかかってくる。Kをまっすぐに立たせ、舞台中央に横移動させようとするとKの身体が突っ張る。今度はKを後ろから支えながら(大変な力業)、交互に足を出せようとする。しかしKは進めずに立ったまま止まってしまい、AはKの背後に隠れたまま、「背筋を伸ばして……」の声に合わせてKの身体をキャラクター・フィギュアにポーズを付けるように操り、両腕を高く上に挙げたY字型のポーズ、両肩をいからせたポーズ、最後には両腕を頭上に挙げたバレエのポーズを完璧に決めてみせる。

 ここでは安藤が川口の身体に直接触れて動かし、お仕着せのポーズを取らせる。ロープという緩衝材/間隔化のための装置が外されたことにより、対象の操作がより直接的になり、服従のレヴェルが一歩進んだのだろうか。そうとばかりは言い切れない。冒頭、〈しなだれかかり〉→〈受け止め〉の機制があって、両者の身体のカップリングが生じる(ここに「甘え」や「母子」のテーマ系が束の間浮上するが、これについては次章で検討する)。安藤の身体は運動を目指して作動し、川口の身体はこれまでに引き続き、運動への抵抗として当初現れているが、安藤が川口の背後に隠れることにより「一体化」し、よりスムーズな運動が可能となる。ここで「抵抗」は完全な服従により消滅させられたのではなく、カップリングにより運動の一部へと「転生」を遂げたのである。最後の「キメ」のバレエ・ポーズにおいて、極端な内反足によりもつれてつまずいてばかりいた足元は、そのねじれをそのまま活かす形で両爪先を両踵に着けた5番ポジション(膝が見事に伸びていることに注意)に、同様に伸びきらない腕や曲がったままの手首は、優雅な曲線をたたえたアン・オーに、それぞれ優美に転換している。

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 写真 宮本隆司


6.騎馬戦(「おんぶ」ではなく)
 ピアノに伴われて、極めてゆっくりとしたテンポでラジオ体操が始まる。「だら〜んと」の声に、ピアノも漂うように響くが、Kの身体は緊張し続けている。「わたしはそうやって崩れ落ちる」と「録音された声」。Aに支えられたままKの身体は後ずさりし、後ろに倒れ込む。AがKの頭をなでる。
 「もっと」とAがKにおぶさる。KがAをおぶったまま立ち上がる(騎馬戦のポーズを思わせる)。Aは興奮し、Kも眼を見開く。「逃げてはいけない」、「逃げろー」、Aが早口でまくしたてる。「最後に飛び降りる崖には近づかない」、「ぶらーん、だらーん」とも。「わたしは崩れ落ちる」と「録音された声」。Aを背中に乗せたままKが床に伏せる。
 Aが両腕を伸ばし、Kの両手の甲を上から押さえる(なぜか左手だけ手袋をしている)。AがKの背中の上に立ち上がる。「やったー」と叫び、背中から降りて、またロープを取り付ける。Aは「ほいっ」という掛け声とともにロープを引き、Kを立ち上がらせようとするが、Kは背中で両腕を組んでいるため腕を使って起き上がることができず、転がりながら横に移動する。Aがロープを引いて「ストップ」と声を掛けると、Kの身体が裏返り、仰向けになって止まる。

 ここで両者の身体の密着度はさらに高まり、結果として、後退し、後ろに倒れ込み、おぶったまま立ち上がり、そのまま前向きに床に伏せる……と多様な運動が可能となっている。ここでおぶさる形が、通常の柔らかな曲線による密着型ではなく、川口の身体の突っ張りの上に安藤がガキ大将よろしく直立するという直線的な騎馬戦型になっていることに改めて注目したい。ここでもまた例の「転生」が生じており、緊張/硬直して動かない身体が可能とした直線は、「甘え」や「母子」のテーマ系に決して自らを位置づけようとはしない。
 身体のカップリングにより一心同体化も進んでおり、安藤の突発的な興奮(観客の知らない忌まわしい過去の記憶がフラッシュバックしたように見える)が、そのまま川口の眼の見開きに直結する。一方、頭をなでる、「もっと」、おぶさる等、「甘え」や「母子」のテーマ系がさらに色濃く浮かび上がるが、安藤=母、川口=子というように役割が固定しているわけではなく、とても一筋縄では行かない。
 ロープが回帰して密着が解かれると、さきほどまでの「転生」はもう生じることがなく、元通り、指示に応じることができず、意図通りに動けない身体が戻ってくる。

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 写真 宮本隆司


7.「コンタミ」する(*2)告発の語り
 天井からロープのリールが機械仕掛けで降りてくる。Aがクレーン車に指示するように、手で合図する仕草。リールからロープを取って手元のロープにつなぎ、さらにリールを回転させてロープを引き出し、あるところで切る(*3)。金属質の軋みが鳴り響き、Kがロープの端を口にくわえて転がる。「痛い」と「録音された声」。「録音された声」は、この後、以下のように続き、その間、KとAの身体の動作が並行して進められる。
 傷がついている。
 少し腫れている。
 救いはない。
 ここにいても出ていっても同じ。
 仕方ない。
 私は弱い。
 ここはひどい。
 ここにいるしかない。
 もっとひどくなる。
 麻痺してきた。
 感じない。
 摩滅してきた。
 Kが転がりながら、ロープを身体に巻き付ける。Aにロープを引かれ、転がる。Kがまた転がりながら、身体にロープを巻き付けているうちに、足が上に持ち上がり、揚げ過ぎたエビフライのように反ったポーズになる。
 音響:再び軋み音がして、ティンパニの連打らしき音が重ねられる。
 Aが自由連想を思わせる仕方で言葉を連ねていく。「氷の上とか、月面とか、爪先立ちで歩きながら」、「曲がった道」、「平均台みたいにバランスを取るのではなく」、「落ちる。平均台はだめ」、「平均はだめ」、……。
 Aがロープを引き、Kは逆さになったまま足を引っ張られる。ぱっと翻って、Kがロープを身体中に巻き付けたまま立ち上がり、足先だけ動かして横に移動する。
 音響:ガムランの単音に似た金属質の幻想的な響き。
 A:「よく考えて、すぐに出れないかもしれないけど」。ロープを投げる。メロディを口ずさむ。「歩く。歩く足」、「おろそかにしない」、「おろそかな道はない」と、言語の自動運動とでも言うべき遊戯的な仕方で言葉が紡がれていく。
 打楽器音に深くエコーをかけた音が鳴り響き、Aがロープで鞭のように床を叩く。

 このシークェンスにおいては、川口のヨガ風の逆立ちポーズ、ティンパニの連打の音響、自由連想や言語遊戯を思わせる安藤のセリフの連射、天井から降りてくるロープのリール等のハイライトにもかかわらず、これらのセリーがすべて断片的で多方向に散乱するため、集中して連続したメッセージを発する「録音された声」の印象が抜きん出て強くなる。逆に言えば、拡散した印象をひとつにまとめようと、観客は「録音された声」の発するメッセージに飛びつき、それを「幹」と位置づけ、他の事象をそこから派生する「枝」としてとらえようとしてしまう(あるいはメロディとそれに付されたハーモニーと言った方がわかりやすいかもしれない)。それもまた散乱するセリーのうちのひとつでしかないにもかかわらず。
 ここで「録音された声」とは何であるか、改めて検討してみよう。先に述べたように、まずはそれを川口の演じる登場人物の「内なる声」ととらえてよいだろう。安藤に命令され「はい」としか答えられない彼は、心中にこんな思いを抱えているのだと。最初の「痛い。少し痛い。まだ」は、まさにこうした枠組みでとらえられる。しかし、続く「傾いている」、「遅くする。遅くなる。なり過ぎている。もつれる」等は、彼の身体感覚に基づく「内なる声」でありながらも、そのあまりに沈着冷静な客観性において、そこからいささかはみ出していると言わねばなるまい。自らの身体が陥っている危機的な状況に際し、声は驚きも慌ても怖れもせず、ただひたすらに淡々と事態を物語っているからだ。それは言わばTVドラマ等で使われる説明的ナレーションに近い。「すべてお見通し」の作者の視点から(つまりは「三人称」により)、「この場面は、(これだけではわからないかもしれないが)○○という事態が生じている」と、登場人物たちは俯瞰し得ない物語の組立を説明する「神の声」。しかし、ここではまだ登場人物の身体感覚と「録音された声」の語る内容が、一定の同期を保っていた。
 本シークェンスにおいて、「傷がついている」に始まる「録音された声」の語りは、観客の視線に晒されている登場人物のリアルタイムの身体を離れ、過去の記憶(と想定されるもの)へと羽ばたく。しかし、その過去の記憶と眼の前の身体の動きを結びつけるものは、彼の「思い通りには動かない」という身体の特質を措いてない(過去の記憶のフラッシュバックに苦悶するといった様子は見られない)。かくして、「彼は身体障害者として、虐待や差別を受ける等の苦しさからずっと逃れられずにいたのだ」という「キャラ」理解が生じる(その浅さ、貧しさを際立たせるため、あえて「キャラ」という省略語を使用している)。何より「録音された声」は、これまでも常に淡々と事実/真実を、つまりは「正解」を語ってきたではないか……と。
 その時、眼前の二つの身体の挙動が、その類い稀なる強度にもかかわらず、虐待や差別等の再演(絵解き)と見えてきても不思議ではあるまい。先に「本作品における『録音された声』の語りは、そうした短絡的理解を助長しかねないリスクをはらんでいる」としたのは、まさにこのことを指している。こうした物語理解の下では、前章で見た「転生」など、取るに足らぬ細部でしかあるまい。それゆえ、こうした理解は本作品の豊かさを取り逃がす結果をもたらすだろう。

 ここで強調したいのは、上演の豊かさを享受するために、「録音された声」の語る告発のメッセージには耳を貸すな……ということではもちろんない。そうではなく、「傷がついている」に始まる本シークェンスでの「録音された声」の語りが自己完結していないという事実について、改めて注意を促したい。これにより、上演を感取するパースペクティヴが大きく変わってくるだろうから。
 前章で見た「逃げてはいけない」、「逃げろー」、「最後に飛び降りるのだけはしたくない」、あるいは本シークェンスにおける「氷の上とか、月面とか、爪先立ちで歩きながら」、「曲がった道」、「平均台みたいにバランスを取るのではなく」、「落ちる。平均台はだめ」、「平均はだめ」、……「よく考えて、すぐに出れないかもしれないけど」等の安藤のセリフは、明らかにここでの「録音された声」の語りと通底している。言わば「録音された声」=「川口の演じる登場人物の内なる声」から中身が外部に漏出しているのだ。それは濃密な関係を取り結ぶ二つの身体の間での「転移/伝染」(これもまたミメーシスの別の顔にほかなるまい)であり、上演に対してテクストを散種することでもあるだろう。こうして、一連のテクストは「正しい弱さからの告発」といったPC的な純粋さ/単純さの印象から、それゆえ局部に留まり、そこから一直線に突進するしかなかった自己完結性から解放され、本作品の上演全体を「コンタミ」することにより、多義的な解釈を許す不透明な厚み、言わば「身体」を獲得する。

 *2 医学/生物学の実験等で用いられる言い方。たとえば細菌培養実験で他の菌が培養地に入り込んでしまうことを指す。contaminate, contamination 汚染、混入、混成

 *3 この機械仕掛けで降りてくるロープのリールについては、上演を自分で観た際には、さして気に留めず、そこに特に意味を求めることもしなかった。上演後、しばらくして藤田と話をした際に、「ミメーシス」の上演時に装置が故障したことがあって……と、このリールの話が出て、彼から「川口と安藤の身体を結びつけている赤いロープは、劇中では特別な存在であるけれども、そのロープ自体があのように外部から供給されているものかもしれない、別のどこかで大量生産され、普通に流通しているかもしれないことを、つまりは劇の外部があることを暗示している」との説明を受けた。備忘のため、ここに記しておく。

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 写真 宮本隆司


8.カセットテープのミメーシス
 Aが「傾いている。まっすぐ」と言いながら、Kの身体各部のバランスを取って立たせると、Kの身体にロープをかけ、さらに周囲を回りながらぐるぐる巻きにしていく。AがKの横に並び、「呼吸して。息を吸って吐いて」と声をかける。AとKは舞台中央に並んで立っている。AがKの頭に手を伸ばし、顔をなで、次いで胸に顔を埋める。Aが向きを変え、二人は背中合わせとなり、そのまま悲しげに立ち尽くす。Aがさらに回転し、身体にロープを巻き付けていく。
 二人の間で弛んでいたロープが巻き取られたため、二人の身体が密着する。さらにAの身体が回転し(これに同期してKの身体もまた回転する)、カセットテープを巻き戻すようにKの身体から自分の身体にロープを巻き取っていく(ただし回転の方向はカセットテープと異なり、両者同じ向き)。
 「ひとりでもって、やってみて」とAが声を掛け、二つの身体が横に並んで「1,2,3,……」と数えながら前へ進む。都市のざわめきがゆっくりと戻ってくる。「次第にゆっくりと」、「ゆっくり数える」と「録音された声」。アンビエント・ミュージック風のキーボード音(*4)がゆるやかな広がりをつくりだす。AとKが共に同じ方向に回転しながらロープを解き、ロープの張りを保ちながら互いの距離を伸ばしていく。「真似をする」と「録音された声」。二つの身体は同方向の回転を同期させて切り替えながら、次第に舞台の両端へと離れていく。もはやロープはぴんと張り詰めてはいない。照明が消え、小鳥が鳴き始め、自動車の走行音が通り過ぎる。
 再び照明が点灯すると、二つの身体は舞台の左右両端まで離れているが、依然としてロープでつながっている。両方からロープを手繰りつつ近づき、中央で二人並び、正面を向いて一礼。閉幕。

 安藤が川口の顔をなでたり、胸に顔を埋めたりするのは、演劇的なアクションとしては強い動作だが(「母子」ではなく、「男女」の深い関係を意味しよう)、ここではむしろ、タンゴ等でよく見られるように、ダンスの身ぶりとしてはクリシェであり、そのパロディとしてとらえ得ることを指摘しておきたい。
 その後の場面では、当初、二人の「主従関係」を可視化/シンボライズするための装置であった赤いロープが、次いで距離/接触のそれとなり、最終的にここでは、距離/接触との関係性を保ちながらも、主としてカセットテープのように同方向の回転を枠付け同期させるための(あるいは回転自体を伝達するための)、つまりは「ミメーシス」のための機構として現れていることに注意しよう。これは舞台途中で装置として示されたロープ・リールの回転の「転移」でもあるだろう。

 *4 この部分の音楽(というか端的に音)については、このような表現しか浮かばなかったので「アンビエント・ミュージック風のキーボード音」としたところである。これで少なくとも音の雰囲気は伝わるものと考える。一方、演出担当の藤田康城から「今回の作品では、メロディがある音楽は、ラジオ体操第一の一部分しか使用していない」との話を後で聞いた。それによると「オリジナルはピアノで演奏された「ラジオ体操第一」の10数秒であり、ここから、ある部分のメロディを抜き出し、そのスピードを早くしたり遅くしたりして、リミックスをしている。最後のシーンでの「アンビエント・ミュージック風のキーボード音」も、同じ素材を9倍の遅さに引き伸ばし、そこに様々な音を重ねている」とのことである。実際に上演を体験した際に、そのように理解できたわけではないので、レヴュー本文は修正せず、そのままとし、後で知り得た「真相」は注として記すこととした。

No11_Miyamoto_Ryuji_??2021_ARICA_[Mimesis]_0C2A2986のコピー_convert_20220114221009
 写真 宮本隆司


9.三次元の厚み
 舞台冒頭で川口のねじれ震える身体が「戦場」として示されていたことを思い出そう。その後、もうひとつの身体として安藤が現れ、特権的な装置としての赤いロープが与えられる。それらを同じ舞台に放り込んで、さてどうなるかと見守るうちに、ロープの両端に接続された二つの身体は様々な反応(相互作用)を起こし始める。ロープの担う作用は従属→距離→ミメーシスと変遷するように見えるが、それはあくまで可視化/シンボライズの働きに過ぎず、ロープ自体がなにかを発動しているわけではない。その証拠にロープは一時排除され、その後に再び回帰するが、そのことによって事態に決定的な切断が生じるわけではない。二つの身体の密着(直接の接触)は、ロープによる連結/媒介と基本的に変わるところがないのだ。

 二つの身体は、この間ずっとカップリングされた身体として現れ、作動する。と言って、二つの身体はカップリングにより何の齟齬もなく交通しあうわけではない。先に見たように、交通は互いの身体に様々な拒絶や抵抗を惹起することになる。それにより当初に設定された「教える・教えられる」という立場の違いだけでなく、ダンサーとアクターの身体の作動原理の違いまでもが現出し、舞台上で展開されていく。このプロセスの発現が舞台の時間軸をかたちづくっている。
 さらに二つの身体の運動(照明や影を含めた視覚像)だけでなく、登場人物のセリフ、「録音された声」の語り、音楽や音響といった聴覚イメージが、別のセリーをかたちづくり、プロセスを複層化する。これにより身体(運動)間の直接の交通回路はいささか減圧されることになろう。と同時に、今度はテクストがセリーを通じて漏出し、全体へと散種され、各部位を「コンタミ」していく。二つの身体の間に多層を通じた転移や伝染が生じ、当初の役柄設定を超えた身体動作や言語発信が現れる。それゆえ硬直した「キャラ」理解は上演の豊穣さを取り逃すことになろう。そうした豊穣な細部の例が「バレエ・ポーズ」であり、ここで「思い通りにできない身体」はそのねじれや屈曲といった特性を保持したまま、「思いもしなかったことができてしまう身体」へと束の間変貌を遂げてみせる。
 この転移や伝染はミメーシスの別の顔であり、模倣や類似がかたちづくる「写し」の平面に対し、解釈の多義性を許容する不透明な厚みを付け加え、演劇世界を三次元へと拡張する。もしこの拡張がなく「写し」の平面だけだったとすれば、演劇世界は貧しいリアリズムか、それを裏返した「戯画」に留まることになっただろう。

 以上、これまでの論旨を足早にたどり直したが、やはり言うは易く行うのは難しい。ダンスと演劇という異なる原理で作動する身体をぶつけ合わせカップリングさせるという大変な力業を成し遂げたばかりか、テクストの散種にも対応した川口隆夫と安藤朋子の二人にまず拍手を送りたい。そして、そのような多層化や散種に耐え三次元的な厚みを構築し得るテクスト・コンセプトをつくりだした倉石信乃と、多層化したセリーをコンダクトし、三次元のドームを支え続けた演出の藤田康城に敬意を表したい。さらに、最後になったが、新型コロナウイルス感染拡大による準備作業中断を乗り越えて、今回の上演を達成したTheater Company ARICAと上演に携わった全スタッフに感謝したい。どうもありがとうごさいました。上演をこの眼で観たことへのレスポンスとして、この拙いレポートをお届けいたします。

2022年12月19日(日) 15時〜
横浜 BankART Station(みなとみらい線新高島駅直結)
 演出:藤田康城
 テクスト・コンセプト:倉石信乃
 出演:川口隆夫 安藤朋子

 音楽:福岡ユタカ
 美術:高橋永二郎
 衣装:安東陽子
 衣装製作:渡部直也

 舞台監督:菅原有紗(ステージワークURAK)
 照明:岩品武顕(with Friends)
 音響:田中裕一(サウンドウェッジ)
 宣伝美術:須山悠里
 記録写真:宮内勝
 記録映像:越田乃梨子
 協力:公益財団法人セゾン文化財団・A PROJECT・茂木夏子・前田圭蔵・山田規古・萩原雄太
 制作:福岡聡(カタリスト)

 主催:ARICA

 本レヴューの掲載に当たり、写真家宮本隆司氏より公演写真のご提供をいただきました。ご協力に感謝いたします。ありがとうございました。なお、写真はサイズを縮小して掲載していることをお断りしておきます。


 撮影:福島恵一



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:27:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
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