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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「30歳以上の奴らは誰も信じるな」とチャールトン・ヘストンはタダマスに助言する  "Don't trust anyone over 30", Charlton Heston's character, astronaut George Taylor advices "TADA-MASU"
 聴き手と送り手の言葉が交錯することで、触発され、問い直される音楽の"聴き方"、"聞こえ方"。

 改めて見直すと、四谷音盤茶会(=タダマス)のフライヤーには、この一文が欠かさず刷り込まれている。アーティスト名、曲名、音源が試聴できるサイトのURLといったリストアップ可能な情報が浮遊しているのではなく、複数の異なる視点から発せられた言葉が交錯する空間。そしてメモリを食い、「既聴」のフラグを立てるのではなく、音楽の"聴き方"、"聞こえ方"を触発し、問い直す音の力。それは果たしてどこから来るのだろうか。

 8月18日(土)にFtarri水道橋で行われたイヴェントでサウンド・アーティスト角田俊也が近作『Somashikiba』について語った内容を、参加した津田貴司が教えてくれた。
 「『Somashikiba』を録音した時は、5年もかけて車もなく徒歩で彷徨いながら録音する場所を探し歩いた。そのことによってその場所に感覚が開かれていたから、録音したものをピックアップする段階までは、100年前の音が録音できたと思ったし、100年前の音がうまく録音できている箇所を選んだ。しかしCDが完成してから聞き返すと、もうその感覚はなくなった。」
 その音を録音することができなかったのではなくて、録音した音をそう聴き取ることができなくなっていたと。「場の力」ということを思わずにはいられないが、ここで「場の力」とは、イコールその場の環境、とりわけ視覚や聴覚ではとらえ得ない臭いや風の肌触りといった、その場に置かれた身体を四方から包み込み、五感を震わせるものというわけでは必ずしもないだろう。それでは、その場に行かなければ感じ取れない、メディアには記録し得ないものがある‥‥というだけのことになってしまう。

 「タダマス」のような、あるいは並べて語ることが許されるなら『松籟夜話』のような、「集合的聴取」の場もまた、別の形で「場の力」を持ち得るのではないか。たとえその場で会話がなされなくても、聴き手の中に浮かんだ言葉と送り手の言葉が交錯し、触発することがある。そして言葉によらずとも、送り手による音源の選択・配列によって、一筋の耳の視線が浮かび上がり、ある聴取の構えがまざまざと像を結ぶことがある。送り手の意図に沿ってでは必ずしもなく、むしろその意図を超えて、時には裏切りながら、聴くことの地平がみるみる広がっていくことがある。

 ここで「送り手」がイコール「作者」ではないばかりか、その代弁者も演じてはいないことは強調しておくべきだろう。インターネット・メディアの普及により、「生産者」と「消費者」の間を媒介する音楽メディアやいわゆる「ヒョーロンカ」の存在意義は消失した。インタヴューやSNSでの自主発信を通じて、「生産者」の声が、そんな「中間業者」をスキップして、ダイレクトに「消費者」に届けられる。ユートピアの達成? では訊こう。作者の声は唯一の「正解」なのか。批評とは、そうしてあらかじめ作者により確定された「正解」をなぞり、代弁し、図解することなのか。もちろん、そうではない。

 「タダマス」のホスト役の二人、益子博之と多田雅範は作者の意図を代弁しない。ゲストとして招かれたミュージシャンもまた。積み上げられた新譜群から、二人は高い強度を備えた作品を選定し、周到に配列する。ただ、それは自説を検証するためではない。あるトラックが別のトラックを召喚し、夢のように移り変わり、ポキッと音を立てて切断され覚醒を促す。形態の相違を超えて類似と照応の線が走り、一見似た者同士の並列がくっきりとした対比を描き出す。新譜をレヴューするということは、決して「流行」をわかりやすく言葉にすることではないし、時代の寵児に対する全面的な帰依を明らかにすることでもない。自らの耳を不意討ちした「名づけ得ぬもの」を相手取り、自らの聴き方、聴く姿勢や耳の視線の移ろいを他者の眼に触れさせることなのだ。
「タダマス」は毎回、そうした批評の場、集合的聴取の場を生きている。つまりは「ライヴ」ということだ。

 先に触れた角田俊也の言明に関して、集合的聴取がかたちづくる「場の力」に言及した後、私は津田宛のメールに次のように書き記した。
  「一見飛躍しますが、フリー・インプロヴィゼーションの演奏時に、演奏者はその場の空間にすでにある音、自らが発した音、さらには発するであろう音等を、アナクロニックな混濁状態で聴いていると思いますが、そうした感覚を支えている要素のひとつは、聴衆が、すなわち自分以外の他者が、それを聴いていることではないかと考えています。」
 ここではフリー・インプロヴィゼーションを例に挙げているが、これはもちろん音楽ジャンルとして様式化したそれを指すものではない。反対に「即興的瞬間」を含む演奏なら、すべてに当てはまると言えよう。

タダマス30ちらし縮小

 以下、めでたく30回目を迎えた「タダマス」の、今回の案内文を転載する(※)。
 ※ http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 30
2018年8月26日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:山田あずさ(鍵盤打楽器奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

 今回は、2018年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。ゲストは、鍵盤打楽器奏者の山田あずささん、2回目の登場です。ジャズから即興、ポップスまで幅広い領域で活躍される山田さんは、女性ミュージシャンの台頭著しい現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)





ライヴ/イヴェント告知 | 23:17:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
影を聴く、音を視る ― 坂本宰・津田貴司『docozo』ライヴ・レヴュー  Listening to Shadows, Looking at Sounds ― Live Review for "docozo" Performed by Osamu Sakamoto & Takashi Tsuda
1.昼公演1
 開始の時刻になって、背後でガラガラとシャッターが下ろされる。天井の照明は点けられていないが、漏れ入る外光のために真っ暗とはならず、右前の壁際に座った観客の横顔が見える明るさ。暗くなった室内に慣らし、前方の白幕にこれから映し出されるであろう影に備えて、しばし眼を細めていると、外の子どもの声が、先ほどまで以上にはっきりと聞こえてくる。暗くなった分、聴覚が研ぎ澄まされたのかもしれず、あるいはあらかじめ半ば閉ざされていたシャッターが完全に下ろされることによって、かえって音が伝わりやすくなったのかもしれない。隣りの公園の入口部分で交わされる子ども同士のやりとり、すーっと駅方向へ通り過ぎる車、子どもに呼びかける母親の声がそれとは逆向きにゆっくりと動き、おそらくは道の向こう側からこちらに向かって投げかけられた女子中学生の問いに、教師らしい若い男性が答え、向こう側でひとしきり笑い声が立って、自転車がカタカタと通り抜ける。

 と、眼の前の白幕上の模様が音と合わせて横に滑っていったのに気づく。白幕の明度分布が決して一様ではないことは、暗くなってすぐに気づいていたのだが、郵便受けか、あるいは引き上げ時のグリップか、シャッターに二つ並んだ細長い開口部の像以外は、光線の干渉がつくりだしたおぼろな抽象模様とばかり思っていて、いささかも注意を払ってはいなかった。だが、いったん気づいてしまうと、眼の前の「上映」からもはや眼が離せなくなる。シャッターの下端、接地部分の隙間のスリット効果なのだろうが、他にも光の漏れ入る隙間はあるから、ピンホールカメラのように鮮明な像を結ぶことはない。だから風景を写した「静止画」としては最初感知できなかったのだが、動く像はそれとすぐわかる。ある「まとまり」が右から左へ、あるいはその逆方向に、速く遅く画面を横切っていく。歩行者の脚の動きらしきものが上に見えるから倒立像なのだろう。それすらも自動車や自転車の像からはわからない。解像度の低いおぼろな映像で、大きさすら確かではないが、それでも運動速度と音との連動で、それが何であるかはすぐにわかる。白幕に投影された薄く青みがかった「かげ」の明滅がつくりだす、ゆるやかな推移と運動に魅せられ酔いしれる。微かな鈴の音が奥から聞こえた気がしたが、定かではなかった。風や車の振動でシャッター自体が揺すられるからだろう、像は揺れ、ピントや濃度が揺らぎ、あたかも幕自体が震えているかのように、像が波打ち、一瞬、平面から浮き上がる。だが、そこに陽炎のめらめらとした熱気はなく、もっと涼しげな静けさに満ちていた。ただこれだけが昼公演の演目なのではないか……との想いが頭を過り、それでも全然構わないとさえ感じていた。

 暗がりを見詰めていると気づかぬうちに目蓋が落ちてきて、闇が次第に濃くなっていくことがある。だから、白幕に投影された「かげ」のほぼ中央に、縦にうっすらと液晶画面の不調にも似た染みが生じた時にも気にはならなかった。幕のたるみにより生じた窪みか、あるいは誰かが表のシャッターの前で立ち止まり、内部に射し込む光を遮っているのだろうと。たとえ染みが次第に濃さを深め、輪郭を明らかにし始めても、それは依然として髪の毛の束や鉛筆の殴り描きの集積を思わせる不定形でしかなかった。風の吹き過ぎる音が聞こえた気がした。エレクトリック・ギターの弦の弓弾きによる持続音かとも思ったが、確かめようがなかった。

 眼の端に何かを感じた方が先だった。気づくとぼうっと立ち尽くす人影らしきものが傍らにあった。坂本はすでに私のほぼ真横にいて、前方に向かい音もなく微速度で歩みを進めていた。先の染みはまさに彼の身体の影にほかならなかった。彼が白幕に近づくにつれ、染みの丈は短くなり、不定形の滲みが次第に人型を浮かび上がらせ始める。音はもう疑いの余地なく、はっきりと聞こえている。やがて坂本の後ろ姿は白幕の向こうへと消え、響きがややくぐもる。

 幕の向こうに淡い暖色系の明かりが灯り、「坂本宰の影」がうっすらと浮かび上がって、外の光がもたらす「かげ」と重なり、相互に体液を交換し合う。時折、白幕の右端や続く壁面に光輪が映るから、光源を直接に幕へと向けず、平行に配したり、あるいは奥の壁面に反射させるなどして、分散による柔らかな広がりを得ているのだろう。光が移ろい、身体が動き、影が揺らぎさまよう。固定されていない光源は、身体の運動をそのまま幕へと写像せず、そこに幾らかなりともズレを付け加える。それゆえ影の動きは日常の身体所作にも、ひたむきな集中による舞踏にも、静止像としてのポーズにも収まらない、形の定まらぬ過剰さをはらむことになる。音はその過剰さを調停することなく、透明な倍音をさらに際立たせながら、しばしその傍らに佇み、やがて折り重なってきらびやかに呼吸するドローンと化して、途切れることのない子どもの声と重なり合うに至る。いつの間にか横を向いたシルエットを外の「かげ」が横切っていく。次第に高まる倍音が胸騒ぎを呼び起こすのは、サスペンス/ホラー映画のサウンドトラック的な音響効果、すなわち心理学的なエフェクトのゆえではなく、外の「かげ」と幕の向こうから映し出される影、外から入り込む環境音と演奏の音が、そうした安定した区分を欠いて混淆し、相互に浸透し合いながら、しかし決して三次元的なパースペクティヴをつくりだすことなく、薄い白幕の上で「奥行き」を欠いたまま戯れていることの結果ではないだろうか。幾重にも入り組んだ空間が平面へと圧縮されながら、どこまでも希薄であえかな移ろいでしかないことが、アブストラクトな不安を連れてくる。

 ふっとカンテラの影が浮かび上がり、点灯されたのか、幕が少し明るさを増し、これまでの「かげ」と影が薄くおぼろになって、天井まで届く大きな歪んだ人影が加わる。高まったドローンが小さくなり、弦をはじき、あるいは引っ掻く音が増幅によりつくりだす点描と揺らぎへと移り変わり、それが次第にパターンを浮かび上がらせる。潮騒に似た響きが聞こえる。ラジオの局間ノイズだろうか。突然カンテラの影が大きく揺れ、これに合わせて身体の影も揺れ動く。天井から吊るされブランコのように振り子運動するカンテラとぐるぐると巡る影。二重化された影の交錯による、子どもの頃に遊園地で味わった「回転とめまい」の体験。坂本が操るカンテラの揺れが前後へと変わり、また左右に戻り、円錐を描きながら回転し……頭の片隅では事態をそのように俯瞰的にとらえながら、視覚とこれに連動する身体運動感覚は四方八方に遷移する影の動きにすっかり眩惑され、いっしょに揺れ乱れている。ギターの寸断されたノイズにとらわれた聴覚も、また幻惑のうちにある。細かな弓弾きが加わり、積み重なって深々としたドローンを形成し、ごうごうと鳴り響く。ここでも三次元の回転運動は平面へと縮減され、その結果、外惑星の逆行にも似た乱流や渦に満ちた複雑怪奇な推移を示す。

 カンテラの明かりが消され、二つの影の交差/交錯によるハレーションが掻き消えて、画面のざわめきがすっと静まる。ひとつ残された影の動きが次第にゆるやかになり、音が弱まって、やがて共に止まる。幕の向こうの明かりが消えて、外の「かげ」がすっと戻ってくる。ついさっきまで、一体どこへ連れて行かれていたのだろうか。興奮による身体のほてりを感じながら少し青みがかった「かげ」を見詰めていると、外の音がだんだん大きくなってくる。耳は少し遅れて帰ってきたようだ。かすかに浮かぶ人影が外の「かげ」と重なり合う。演奏の音はもうとうに止んでいる。光と影が消え失せた後に帰り着く先は、決して闇ではない。この薄明なのだ。音が消えた先に現れるのが、無音の沈黙ではないように。
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写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


2.上池袋anoxia
 初めて訪れる上池袋anoxiaは何とも不可思議な場だった。閉まりかけたシャッターの脇に上階へと直接昇る、梯子のように細く急な階段。コンクリートの床と木組みが剥き出しで窓のない壁面。天井が比較的高いので圧迫感はないが、およそ営業しているスペースには見えない。古民家を改装したカフェや取り壊し前のビルを占拠したギャラリー・スペースのような「転生」感がまるでなく、私の子どもの頃(昭和30〜40年代)に近所にあった、急ごしらえでつくられ、そのまま使い続けられている、物置をそのまま大きくしたような簡便な倉庫が、老いさらばえ、がさがさに乾き切った素肌をそのままにさらしている。表の看板に「○○紙器」とあるから、紙箱が積まれていたのだろうか、木製の棚がベニヤの壁材に取り付けられ、その向こうにブロックを積んだ外壁が覗く。奥に続く空間を遮断するように、ビニールの白幕が天井から張られていて、その向こうは取り壊し作業中であっても全然おかしくないくらいなのに、なぜか不思議と埃っぽさや黴の匂いはしない。それゆえ中に足を踏み入れると、軽いタイムスリップ感に襲われる。振り返るとさして道幅はないがそれでも歩道の整備された道路が広がり、先ほどまで自分がいた「いま・ここ」から切り離され隔てられた非現実感が強まる。
 おそらく初めて訪れた上池袋は、東武東上線とJR埼京線の線路が隣接・平行して走っているにもかかわらず、前者の駅(北池袋)だけがあるエアポケットのようなところで、新しいビルが建ち、死角が生じないよう背の低い植栽が周囲に追いやられた、遊具のひとつもない、いかにも今風の児童公園がある一方で、ブリキ張りの雨戸を閉めたモルタル造りの家、狭い路地にひしめく植木鉢、トタン波板で囲われた材木置き場など、anoxiaと同じく50年前の風景がそこかしこに残る、都市再整備の汀と言うべき場所だった。
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写真は加藤裕士様のTwitterから転載しました。


3.夜公演
 さすがにもう陽は落ちて暗くなっており、昼公演の再現は到底望めない。anoxiaに着くと、坂本と津田がまだ準備中で、白幕の位置は同じながら、昼の部で置かれていた椅子が総て取り払われている。しばらくして開場となり、すでにシャッターは閉められているので、階段から通じる横のドアより入場し、白幕の向こう側にセッティングされた席へと案内される。昼の部と夜の部では同じ投影幕を挟んで、客席が反対側に移動したことになる。

 客席の照明が次第に暗くなり、闇が満ちてくる。シャッターの下端の隙間や郵便受けからの光が微かに浮かぶが、もう景色を映し出すことはない。外の音は昼間のようににぎやかではないが、耳の向きゆえか、あるいは環境音のレヴェルが下がっているからか、バイクの音はむしろより大きく鋭く、切っ先を突きつけるように迫ってくる。いつの間にかラジオの局間ノイズらしき音が鳴っており、次第に高まり、少し静かになり……を繰り返し、やがて消える。通行人の声が通り過ぎていく。幕に古壁の染みがうっすらと浮かび上がる。上空を通過する飛行機の音だろうか。何かぶわーんと鳴り響いている。そこから微かな弓弾きの響きが浮かび、染みはだんだんはっきりと濃くなり、人影が横を向いて、弓弾きの断片が上下左右に散らばり、黒々とした影がまたおぼろにぼけていく。低音が重ねられるなか、大きくはっきりとした影が二重に浮かび、光源の移動や切り替えにより不安定に移ろう影に何かを打つ音が伴う。もはや光は幕のほぼ全面に当たっており、客席の私たちを照らし出しながら、エスニックなリズムに乗せて影が人形のように揺れ動く。ギターが弦の弓弾きに移行すると、幕への光をそのままにイーゼルらしき影が現れる。幾何学的な組立が、光源とイーゼルの距離や向きを変化させることによって、部分的に拡大されて歪み、さらに光の不規則な明滅による変奏が加わる。弓を弦に強く押し付けて発せられる圧縮された響きがビシビシと爆ぜ、ねじ切れた不定形の断片が飛び散る。影が激しく流動し、明滅が移ろって、何台も続けて通過するトラックやバイクに遮られながら、弓が荒々しく動いて小爆発を繰り返す。

 シャッターが上げられ、揺れる水の「かげ」の投影が始まる。さっき準備していたのはプロジェクターだったのだろうか。波の交錯、波紋の広がり、浅く満たされた水の揺れ動きが水面につくりだすわずかな凹凸が、幕に映し出された幾何学的文様の推移・変容として現れる。ギターはペダルを用いてふうわりと中空に浮遊し続ける。拡大された指先の影が水面に微かに触れ、震えが波紋となって広がる。指先は水を激しくかき混ぜ、影の運動と「かげ」の流動が衝突し、お互いを切断しあう。巻貝に入れられた水がぽこぽこと鳴り響き、ラジオ・ノイズの水面を見下ろすようにラファエル・トラルを思わせる電子音響が離陸する。水の運動の諸相が高速モンタージュにより消尽されるなか、突然、横顔のシルエットが大きく浮かんだかと思うと、明かりが消える。闇の中で再びシャッターが下ろされる。

 光の点滅。身体の速い動き。痙攣的なアクションとポーズが、光の明滅と運動によりさらにズタズタに細断される。弓弾きの断片がランダムに放射され、やがて繰り返しに収斂する。大きな物音がして脚立が引き出され、イーゼルに似た幾何学的組立をしばしさらした後、ランタンを手に持った人影がぐるぐると回転し始める。回転はいよいよ加速し、影は極端に歪んで、ゾートロープみたいに伸び縮みし始める。夜公演の終了。
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写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


4.昼公演2
 いったん終了したかに思えた休止の後、籠なのか網なのか、網目の影が浮かび上がる。抽象文様の推移にギターの微細なトレモロ(ゴム球で弦を擦っていると思われる)が寄り添い、明かりが明滅し、やがて消える。外の「かげ」が再び浮かび上がり、そこに光の輪が投げかけられ、ぐるぐると回転する。ギター弦のさわりがふと頭をもたげ、コンビニ袋を丸めるようなざわつきに引き継がれる。光の回転が止まり、うっすら/くっきりと二重化した人影が映し出される。人影は幕に近づき、端をめくって坂本が姿を現す。手にはパチパチと火花を散らす電気花火。火薬の匂いが遅れて立ち込める。彼はそのまま歩み、シャッターを開けて、外の光を注ぎ込む。昼公演の終了。
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写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


5.『docozo』の向かう先
 この日の昼公演(特に1として描写した部分)が、この場所と時間帯の特性を活かしたスペシフィックな上演であるだけでなく、伝説化してしまいそうなほど高度な達成であったことは疑う余地がない。前日に行われたリハーサルでは場所の下見時に見込んでいた影がまったく得られず、二人とも途方に暮れていたというし、あるアイデアを得て上演に至るも、シャッターの隙間から漏れ入る光が解析効果により映し出す景色については、上演が始まってから気づいたというから、本当にその場でブリコラージュされたものなのだろう。だが、映し出される外の景色や聴こえてくる声の「豊かさ」が、二人の上演/演奏をしっかりと支えていたことも事実である。

 以前に津田と笹島裕樹によるスティルライフのライヴ・レヴューで、音の響きが翼を広げる空間のヴォリュームを擁し、虫の声が聞こえ、床が軋み、窓枠が鳴る立川セプティマに対し、音がさして響かずそのまま手元にとどまり、都会の密室で隣室のくぐもった話し声しか聞こえてこない四谷三丁目喫茶茶会記での彼らの演奏の苦闘ぶりについて語り、これらのさらに先に石神井公園に隣接したスペースでの黄昏時の野外ライヴをとらえた。
 演奏により音を配置/配列するのではなく、音や響きを息づかせようとする彼らにとって、すでにそこに風が通い、ざわめきが満ちているかどうかは大きな問題である。もしそこが外へと開かれて、豊かなざわめきに満ちているのなら、まずはそれに聴き入り、身を沈めて、草むらに寝転ぶような低い目線から、その場に沸き立つ生成に自ら入り込んで、音を放てばよい。もしそうでないとしたら、まずはそうした環境自体を、貧しいながらも自らの手でつくりださねばならない。そこでは、その分だけ「聴く」ゆとりと楽しみが減ぜられてしまうことになる。

 このことを別の角度から眺めてみよう。高橋悠治は『ことばをもって音をたちきれ』でタージ・マハル旅行団の演奏について、次のように述べている。
 「たとえばだれかが電気ヴァイオリンの弦をこする。振動はコンタクト・マイクをとおして電気的エネルギーとして増幅され、はるか向こうにおいてあるスピーカーから聞こえてくる。また音の一部はエコー・マシンの中に記憶され、さまざまな時間的ずれをもって再生される。こうして空間的・時間的距離をへだてて自分の作った音にききいる時、それはすでに自分から離れて世界の一部になっている。この演奏音との間で起こるフィード・バックが、人間と機械の相互作用あるいは対話のシステムの基本である。電子装置によって、どこかを指でかるく触れるとはるか向こうで大音響がバクハツするということは、重大な思想的変換なのだ。ここにあるゆとりが、音楽を盲目の手の運動から解放して、耳を未知の世界に開くのである。」
 ここで高橋はやはり演奏中の「聴くこと」のゆとりと喜びについて書いている。ただ、自ら放つ音を電気増幅やエコー・マシンにより異化するだけでは、依然として自閉による自家中毒を起こしやすい。この後、タージ・マハル旅行団の中心人物であった小杉武久が『キャッチ・ウェイヴ』で、電気増幅やエコー・マシンに加え、さらに扇風機の風とヘテロダイン現象により「音の釣り」と言うべき不確定な揺らぎを導入していることに注目しよう。

 白幕に映る外の景色と自在に通う外のざわめきに身をさらし、見詰め聴き入ることで、彼らは上演/演奏を「盲目の手の運動」から開放し、もっとゆったりと息づかせることができるようになる。外/他なるものと間合いを計りながら、それらと自らの影/音を敷き重ね、あるいはせめぎあわせることができる。その結果として、上演と演奏、影と音の関係もよりフレキシブルなものとなり得る。
波が寄せては返す様を見ていると、そのリズムは決して一様ではなく、水の推移もまた行きと帰りのそれぞれ一方通行ではない。先を争うように複数の方向から水が押し寄せることもあれば、引く流れと満ちる動きが衝突することもある。水が引き切って砂地が露出する瞬間ですら、波に引きずられて転がる砂粒と浸透する水分に引き込まれて吸着される砂粒と、それによる光の反射の差異が複雑な文様を描き出す。汀のごく薄い表層で繰り広げられるミクロな変転。ここで上演は劇やドラマのふりをする必要はないし、演奏もまた曲やあからさまな「即興」を模することはない。上演が音を絵解きし、演奏が影を伴奏することもまた。

 これに対し、夜公演において彼らは、まさに場を仕立てることから始めなければならなかった。空っぽの空間/時間を充填しなければ。上演がフリー・インプロヴィゼーションにありがちな強迫的なせわしなさを分泌し、演奏が影にぴったりと寄り添ってしかるべき距離を取れなかったのは、決して理由の無いことではない。だが、このことだけをもって昼公演は「成功」で、夜公演は「失敗」だなどと決めつけることはできない。昼公演の「成功」を再現しようとすれば必ずや罠にはまるだろう。他方、夜公演の苦闘は必ずや彼らの、そして観客/聴衆の瞳と耳を高め研ぎ澄ます得難い体験/財産となるだろう。
 昼公演の最後に「余分に」付け加えられた部分(「昼公演2」として記述した部分)が、そこまでの昼公演が前提条件としていた場の「豊かさ」を捨て去って、独力での構築を目指したものであり、それゆえ夜公演に向けた試行/挑戦となっていることに、彼らの誇り高い貪欲さ、決して「高度の達成」に満足せず、そこに安住しない志の高さを、私は看て取りたいと思う。

 ここしばらく、Les Trois Poires(津田貴司、tamaru、松本一哉)や大上流一、高岡大祐らがつくりだす〈環境・音響・即興〉の交差する空間/時間を、「パラタクシス」を鍵概念に奥行き/厚みにおいてとらえようとしていたのだが、今回の坂本と津田による『docozo』では、サウンドの次元にとどまらぬ「影」と「音」の交差(そこで〈環境・音響・即興〉に相当するものが十全に作動しているのは明らかだ)が、奥行きや厚みを全く欠いた幕上に縮減され実現していたことは、私にとって大きな驚きだった。新たな視点を切り開いてくれた二人に厚く感謝したい。
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2018年5月26日(土) 15時:昼公演 20時:夜公演
上池袋anoxia
坂本宰(影)、津田貴司(音)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:04:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
サウンドの幾何学とサウンドの地理学  Difference between "Geometry" and "Geography" of Sounds
 本日5月30日発売のムック『別冊ele-king カマシ・ワシントン / UKジャズの逆襲』(Pヴァイン)に原稿を書かせていただいた。もちろん一発「カマシ」ているわけではなく、第2特集の「変容するニューヨーク、ジャズの自由」の方なのだけれど。
こちらの特集の軸となっているのが、我らが「タダマス」、すなわち益子博之と多田雅範のNYダウンタウン・ミュージック・シーンを巡る対談で、それに人名事典や重要作品のディスク・レヴューが付くという体裁。私は人名事典の中の1項目として、アンソニー・ブラクストンについて書いている。


 もちろん初リーダー作からですら半世紀に喃々とするだけでなく、驚くほど多方面にわたり、かつ多作であるブラクストンの活動を、3000字で詳細に語ることなどできるはずもない。彼の活動の「鵺的」と言うべき多面性を祖述した後、それを彼の驚くべき多楽器主義と合わせ鏡にし、反対にその広範な膨大さの中の欠如/不在として「声」と「即興的瞬間」を見出す‥‥という、いささかアクロバティックな論旨構成を採っている。
 ここで彼が誌面に召喚された理由は、決して近作オペラ「トリリウム」への高評価のゆえではなく、彼の弟子筋とみなされ得るメアリー・ハルヴァーソンやタイション・ソーリーの活躍のためであろう。これに対し、本稿では、彼がずっと魅了され信奉している「サウンドの幾何学」に対し、いまNYダウンタウン・シーンの「タダマス」が(そして世界の耳の精鋭たちが)注視している側面から浮かび上がるのは「サウンドの地理学」にほかならないと結論付けている。字数制限のために原稿からは削除したが、ブラクストンのグループでのハルヴァーソンの演奏に、後の彼女の奔放な魅力を見出すことはできない。その片鱗すらも。確かに彼女が言うように、彼女が恩師ブラクストンから学んだことは数多いのだろう。だが、彼女を羽ばたかせたのはブラクストンの音楽原理ではない。

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 ひとつだけ補足を。先に触れた人名事典の見出し文句に「アンソニー・ブラクストンからウィリアム・パーカーまで」とあるが、彼らのことをあらかじめ知っている者が見たら、何と世代を限定した、しかもヴェテランに偏ったチョイスなのだろうかと誤解されかねない。実際、アンソニー・ブラクストン(1945年生まれ)とウィリアム・パーカー(1952年生まれ)の年齢差は7歳しかない。人名事典では、ロスコー・ミッチェル(1940年生まれ)、ヘンリー・スレッギル(1944年生まれ)と、さらに年長のミュージシャンが採りあげられる一方で、マタナ・ロバーツ(1975年生まれ)、メアリー・ハルヴァーソン(1980年生まれ)、トーマス・モーガン(1981年生まれ)等も対象とされており、また同様に、タイション・ソーリー(1980年生まれ)等についても言及されていることを明らかにしておきたい。

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音は自らの響くべき空間を必要とする  Sounds Need Spaces Where They Ought to Actualize Themselves
 「7年」という1つの周期を終えて(前回タイトルの「周期律表」とは、そのことへのオマージュにほかならない)、新たなステージへと踏み出した「タダマス29」は、音源の選定・構成・配列において洗練の度合いを増しながら、同時に、これまで築き上げてきた視点に安住することなく、果敢にも多くの問題を提起する回となった。この充実した一夜をこれから振り返るにあたり、その全体像をバランスよく再現することを目指すものではないことを、あらかじめお断りしておかねばならない。総ての論点を採りあげるわけではなく、また、言及したテーマについても、主催者のねらいを読みとるというよりは、その場に放たれた音響や言葉、ホストの二人やゲストのやりとりや反応に触発された思考やそのいささか恣意的な展開であることを。
 なお、当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

 冒頭のEmma Frank『Ocean Av』の生ギターの響きが、スピーカーの重力圏をするりと脱し、ぽっと中空に浮かび上がり、香りを広げる。録音のせいだろうか、以前とだいぶ鳴り方が違うと感じられた。響きが漂う自由度が高い。まるで大型スピーカーではないような軽やかさと点音源的な音場表現。「前半は女性ヴォーカル特集」との益子の事前予告通りに幕が開く。タダマス的にはAaron ParksとJim Blackの参加がキモとなろうが、ヴァイブのきらめきで空間を横切り、駆け抜ける前者のエレピは確かに効果的。優美なメロディをたたえた70年代フォーキーあるいはアコースティックへの回帰と、さらりと流されてしまいそうなところを、多田が「『アコースティック』の一語ではくくれない。どのような空間に響いているのか、響き方の志向/思考を見なければならない」と食い下がっていたのが印象に残っている。

 続いては、タダマスで言及されることの多い女性歌手Sara Serpa『Close Up』。益子が決して「歌もの」ではなく、むしろ器楽的というか、声を楽器のひとつとして取り扱っており、なおかつ超絶技巧スキャットとかヴォイス・インプロヴィゼーションの方へと向かおうとしていないと紹介する。声、サクソフォン(Ingrid Laubrock)、チェロ(Erik Friedlander)という腕達者を集めた特異な編成。ワードレス・ヴォーカルが提示したリフレインにチェロの刻みがアクセントを付け、その上にソプラノがさらさらとドローイングの線を走らせ、次いで上下をリフレインに挟まれた声が、声だからといってトップを取らず前面へと進み出ないで、まるでヴィオラのように味わい深い展開を見せる。続く曲では、ハミングや鼻歌にも似た、倍音を多く含み輪郭を溶かした音色で、声がゆったりと歩みだし、北欧サーミ族の民族歌唱ヨイクを思わせる仕方で空間を渡っていく。やがてチェロがピチカートで、テナーがやはりアクセントで加わり、一瞬、声が上層に浮かびかけるが、すぐまた室内三重奏の一部に収まる。ここで紹介した二曲ではワードレスだが、作品には歌詞の付いた曲も収められているとの益子の弁。(特に声の)役割が変わっているとゲストが指摘する一方で、共に声がスキャット風にならず、まるでハナモゲラ語みたいに半分言語っぽいことに益子が言及する。私には、言葉の発声にどこまでも寄り添うことで、音高の動きやリズムとしては器楽へと向かいながら、音色の変化や立ち上がりという点では声の独自性を活かすことを目指しており、それが成功しているように感じられた。

 続いては「懐かしい名前」と紹介されたSusie Ibarraだが、冒頭、大太鼓の皮のどこかざらりと乾いた鳴り響きがぽっと浮かんだ瞬間、耳がピンと立つ。全体としては、先の太鼓のリズムにたおやかな南国楽園風の弦と女声が木陰をつくり、時に枝葉をしなだれかからせて、一見、ペンギン・カフェや周防義和に似た無国籍エスニック音楽へと着地するのだが、注意深い耳は「遅さ」や「遅れ」を構築する打楽器をはじめ、複数の層がずれ合いながら押し引きする様を看て取ることだろう。多田が「三層のレイヤーがずれながら、ところどころピタリと合ってくる」と表現し、益子がMilford Gravesを引き合いに出して、Ibarraを「やはりジャズ・ドラマー的ではない」と指摘することに、同様の眼差しを感じる。続いて披露された2分半ほどの短い曲で、グラス・ハーモニカの重なりのようなエレクトロニクスに、弦のフラジオと金属打楽器の弓弾きが重ねられた雲状の音響には、多田が陶器の糸底を摺り合わせる音が生理的に駄目なんだと白旗を挙げていたが、視界ゼロの中を、触覚だけを頼みに手探りで進む感じは、むしろ前曲のずれ合いの感覚がどこから来ているかを、正確に照らし出していたように思う。作品のタイトルである『Perception』=「知覚」とは、そのような各層の不安定な重なり合いのうちに、微細な差異を揺れや震えととらえ、ある像を浮かび上がらせずにはおかない、我々の知覚の本性=限界を指し示したものではないだろうか。「タダマス」の場では言及がなかったが、執筆の際に本作の演奏者クレジットがDreamtime Ensembleと総称表記されていることを知った。ベタの名前だが、なるほど、そういうことか……とひとりごちずにはいられない。夢とはまさに浮遊する情報の断片から、像を物語を捏造することにほかなるまい。

 Bobby Previteの名前はさらに懐かしい。『Godard / Spillane』や『Film Works』シリーズの初期など、ある時期のJohn Zornの作品群(それらは「ヴィデオ的」と言うべきNaked Cityに先立ち、「映画的」としか呼びようのない共同作業の奇妙な幸福感に満たされていた)に無くてはならないドラマーだった。今回披露された『Rhapsody - Terminals Part Ⅱ, In Transit』からの9分を超える「All Hands」では、Nels ClineのギターとZeena Parkinsのハープが見事にブレンドされ、中国箏の滑るような輝きを映し出すうちに、どんどん楽器が重ねられ、Jen Shyuの情感滴るほどのヴォイスや二胡まで加わって、息苦しいほどのエキゾティシズムと、戦乱渦巻き群雄割拠する中原を一望するが如き壮大さと、手に汗握るどころか露骨に心臓に負担をかけるドラマティックな劇的展開が、これでもかとばかりにメガ盛りに積み上げられていく。「これSteve Howeじゃないの」との多田のボケに深くうなずくほどにプログレ的であり、一時のPat Metheny風であり、またハリウッド・サントラ風でもある。胃もたれ感は半端ないが、どブルース的な乾いてささくれ立ったスライド・ギターと濡れたようにまばゆい中国箏の間に、思いがけない類似の線を走らせる鋭敏な感度も有している。

 前半最後はおなじみ「タダマス」常連Mary Halvorsonの『Code Girl』。ベースの弓弾きの太い音色が深々とした流れをつくりだし、屋根に弾ける春の雨のようにパタパタと軽く砕けるドラムスやギターに伴われて、インド系だというAmirtha Kidambiの声が深い悲しみをたたえ、しかし前をきっと見据えながらゆっくりと歩みだす。ヴィブラートを排した詠唱と、ゴスペルやトラッドを思わせる旋律は、その血統を感じさせない(幕間にエスニック色が強いと紹介された彼女のソロ作も、むしろ私にはR.I.O.風に思われた)。トランペットの飛翔が悲しみと厳かさを倍加させる。かつて聴いたMichael Mantler『The Hapless Child』がこんな感じではなかったと、ふと記憶が甦る。こちらのヴォーカルはRobert Wyattが務めていたから、もっと線は細かったが、益子の指摘する「感情の抑揚を前面に出す」という点は当てはまっていよう。

 「女性ヴォーカル特集」と言いながら、確かに各作品とも女声はフィーチャーされているものの、ジャンルとしての「女性ヴォーカル」に当てはまるのは、おそらく1枚目だけだろう。その辺も「ジャンル」でものを考えない「タダマス」らしい。そして、その一方で、リーダーが歌っていない3〜5枚目についても、決して声が添え物ではないトラックが選ばれ、アンサンブルの中で声がどのように位置づけられ、他とどのような関係を築いているのか、きちんと聴かせようとしているのが、また同じく「タダマス」らしい。
 Mary Halvorsonはこれまでの作品で自らヴォーカルを取ることもあったのだが、自らのヴォーカリストとしての能力の限界をわきまえていて、今回の作曲を演奏するにあたっては別途ヴォーカリストを招くこととしたとインタヴューで述べている旨を、益子が紹介していた。彼女独特のエフェクトの使い方についても、機械をあれこれいじっていて偶然出たものだが、人間の声みたいで面白いと思ったと語っているとのこと。


 この日の前半が佳曲揃いだったのに比して、後半は賛否が分かれることとなった。冒頭のMegumi Yonesawa/Masa Kawaguchi/Ken Kobayashi『Boundary』は、ESP-Diskからのリリースということで全編即興によるフリーとのことだが、「合わない/合わせない」ことへの恐怖が先にあって、それにフリーらしき外見をまとわせようとするから、どこへ行くにもみんな寄り添って、3人の間が少しも広がらない惨めな有様をさらすこととなった。「ダメな例」として採りあげたとのことだが。
 続くThomas Stronen Time Is A Blind Guide『Lucus』も、かすれた弦の断片が繰り返し現れ、ガラス窓を叩く雨粒のようなピアノ/ドラムと重なり合って、寄せ手は返す波の映像を経て、ガラスの表面をつーっと走る水滴に至る変容/構成はなるほど巧みであり美しいと言ってよいが、やはり何と言っても強度が低く人畜無害に過ぎる。「みんなで聴くのは気持ち悪い」との多田の言に同感。

 私にとっての後半のハイライトは、続くJozef Dumoulin & Orca Noise Unit『A Beginner's Guide to Diving and Flying』だった。最近、やはり「タダマス」常連になった感のあるDumoulinに、Louis Sclavisの初期を支えたBruno Chevillon(cb)、Evan Parkerとの共演も素晴らしかったToma Gouband(dr,perc)、さらにEve Risserのオーケストラから若手管楽器奏者2名という期待しない方がおかしい垂涎モノの編成。果たして、暗闇の中にうごめく何物かの気配、漂う吐息、たちのぼる倍音、鉱物質のちっぽけな、だが鋭い打撃、剛直な弦の震え、消え入る残響、肌に触れてくる多多種様な息のかすれが、空間に巧みに配置され、揺れ、震え、滲んで、溶け出し、渦を巻いて、沈潜と遡行を繰り返す様がありありと浮かぶ「盲目の劇場」となった。Marion Brown『Afternoon of A Georgia Faun』(ECM)の体感温度を下げて、息が白く見えるほどにし、より精密繊細にしたと言えば通じるだろうか。
 ここで面白い議論の展開があった。「音楽が鳴り響く空間の可能性はまだあることを示した」との多田に対し、ゲストの則武が「統一された質感の存在」を指摘した後、こうした音をライヴで眼の前で聴くのと、CDで録音だけを聴くのと、どう違うか、どちらが良いかとホスト2人に問いを投げかけたのだ。回答をまとめれば、録音の限界というか、演奏の現場では音が様々な方向から聴こえたりする聴取の豊かさが、録音を聴く際には失われてしまうのは確かだとして、眼の前で演奏しているのを見てしまうと「なるほど、ああして、その結果、こういう音が出て……」という理解が先行してしまって、音自体を聴いて想像力を膨らませることができない……というところだろうか。個人的には、「フィルム体験をフィルムの制作される過程から切り離すことが批評の提要である」との蓮實重彦の言明通り、「聴取体験を音や響きの生み出される過程から切断すること」を掲げたい。だがそれにしても、前回も触れたように、「体験」に関する蓮實の言明には深く頷かされるのだが、彼の唱えるアメリカ映画中心主義には全く同意できない。
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 続いては、Keisuke Matsuno/Moritz Baumgartner/Lars Graugaard『Crumble』。現在、Jim Blackのバンドで活動しているというMatsunoのギターとBaumgartnerのドラムを、音数を絞り、増幅度を高めて希薄化し、リヴァーブを効かせて空間一杯に響かせ、背後の空間を横切りざわめかせるエレクトロニクスと共に変容させていく13分以上の長尺のトラックが披露された。ギターは壊れやすく不安定な遷移を取り扱い、不均衡な移ろいやテープ・ゴーストや陽炎のようなあえかな変化に感覚を集中する。それゆえ離れて見ると、マクロなフレーズ自体は結構ベタだ。これの内圧をレッドゾーンの彼方まで高めていくとMiles Davis「He Loved Him Madly」になるのだろう。

 「タダマス」では、「最後は気楽に聴いてほしい」と言って、ヴォーカルものがかかることがよくあるが、これがまた結構問題含みで安穏とは聴いていられない。この日の締めくくりはSon Lux『Brighter Wounds』。もともとRyan Lott=Son Luxであったところが、「タダマス」でも評価の高いRafiq Bhatiaと彼と活動しているIan Changの2人が参加してバンド形態になってから、面白さを増したのだという。確かに紹介された2曲は共に3人の連名クレジットとなっている。
 深い水の底から形を成さない何かが滾々と湧き上がり続けている。切れ端、揺らめき、退色、劣化……。間を空けたスネアのアタックが硬化処理を施され、細部を削り落とされて揺るぎない鮮明さ/リジッドさを獲得しているのに対し、イノセントな子どもの合唱や昔のディズニー映画風の弦は、記憶の中から響いてくるように揺らぎ、鮮明さを欠いている。ヴォーカルやピアノも、そうした記憶の不確かさ不鮮明さに侵食され、不可逆な劣化を来している。背後の空間で浮き沈みする様々な響きのかけら。この「Labor」に続く「The Fool You Need」では、一転してドラムが不整脈を来たし、ダブ処理とキーボードの不鮮明な揺らぎやホーンのサンプリング的な使い方が不均質さをさらに強調する。確かに見事な造形ではある。

 ここでも興味深い深い議論が展開された。多田がSufjan Stevens -『The Age of Adz』を引き合いに出し、「何もかもポップスに回収されてしまう」と溜息を漏らしたのに対し、益子が「むしろ何もかもポップスになって、日常化してほしい。AKBとかではなく、タダマスでかかるような音源がラジオでいつでも聴けるように。」と応じたのだ。それは「もっとアコースティックなものが聴きたい」という多田に対し、「録音された時点ですでに電気が入っている。脳内にだって電気が走っている」と前回ゲストとして招かれた加藤一平のつぶやきを引いて応じたあたりから、いささか論点がそれてしまったが。

 私は「Labor」を聴いていて、Mercury Rev『All Is Dream』(2001年)を思い出した。家で聴き返すとディズニー・サントラ風のノスタルジックな弦とフラジャイルというか、ヴァルネラブルな声の揺らぎが、聴き手を深い水底に誘い、沈めていくような感覚は確かに似ていると思う(それにしても今回は、こうした「これは○○ではないか」というフラッシュバックにも似た瞬間が多く訪れた。一体なぜなのだろう)。無論、もう20年近く前の作品だから、細かい電子的トリートメントによる3Dアニメーション的な変容操作はないのだが、触発力・喚起力においては、決して劣らないどころか、むしろ上回っているとさえ思う。問題はまさにここで、ポップスへの「回収」は結果として、不可避的に角を丸め、鋭く切り立ったエッジをスムーズにして、「無害化」をもたらしてしまうのだ。

 むろん、「いや、ポップスにも尖ったものはある。そもそもMercury Revだってポップスだ」、「ポップス化せずに、旧来の「ジャズ」に踏みとどまればよいと言うのか」、「『良いものは売れない』というのは一部当たっているとしても、『売れないものが良い』は明らかに倒錯であり、間違っている」……等々、様々な反論は可能だし、これらの反論はすべて正しい。要は「ポップス」の定義の仕方だという意見もあるだろう。たとえば「ポップス」の代わりに「紅白歌合戦」を代入したらどうなるか。しかし、論点をこうずらすと、際限がなくなってしまう。掲示板のスレッドのネタとしてはいいかもしれないが。

 ここでは、とりあえず「聴きたい」という聴取の欲望と「消費」の間に一線を引きたい。ここで「消費」とは、作品や楽曲を購入する、あるいは聴取すること自体を指すものではない。耳が不意打ちされ、聴覚が拡張され、視界で揺れ動くマチエールの差異に、風景の豊穣さに、反覚醒の記号の過剰に困惑し、揺さぶられ、突き落とされ、足元をすくわれ、深みへとずぶずぶと沈められ、主体の動揺/変容を余儀なくされる体験、すなわち「邂逅」を回避し続け、安穏と傷一つ負わず聴き流して大音量に鼓膜をすり減らし、あるいはジャンル分けや流行の度合いに従って情報処理し、あるいは文学的な、心理学的な、社会学的な、文化人類学的な「物語」だけを読み取り、あるいはBPMだけに反応してニワトリのように首を揺すり、果ては満員の通勤電車の中で「隔離された個室」を確保するためだけに「障壁」として用いるような、儀礼的・象徴的消費を指す。

 少なくともこの国では、「ポップス」とは、聴取の欲望を喚起/触発しないことによって、よりスムーズに「消費」の対象となるもののことではなかろうか。例えば、付属の投票券欲しさに、同じCDを10枚、20枚と購入するとか。そのことは録音の質にも深く関わっていて、例えば、この日の前半に披露された音源は、みなそれぞれの仕方で「自らの響くべき空間」を的確に眼差していた。「ラジカセMIX」から「ケータイMIX」へと、「自らが響くことを余儀なくされる空間」に合わせて平板化・低質化を施される、この国の「ポップス」と、何と異なることか(もちろん例外は無数にあるにしても)。

 この国の惨状はひとまず措くとしても、「ポップス」への期待は、「芸術」への憧れと同様、やはり無効なのではないか。「孤高」や「異端」を気取ることも、「正統」へと撤退し引きこもることも、「実験」や「前衛」、あるいは「脱領域」を標榜し正当化することも、また。
 音は自ら響くべき空間を必要とし、音楽演奏とはそれを切り拓く営為である。とすれば、ジャズが切り拓くべきは「ポップス」ではなく、ジャズの「余白」にほかなるまい。そしてジャズの「余白」が依然としてジャズの一部であるのか、それとも、それを超えた外側に位置しているのかは、実のところどうでもいいことなのだ。

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タダマス、周期律表を原子番号1の水素から29の銅まで暗記する  "TADA-MASU" Memorize the Periodic Table from Atomic Number 1 (Hydrogen) to 29 ( Copper)
 前回までに28回を踏破し、7年目という大きな節目を乗り越えた「四谷音盤茶会(通称『タダマス』)」は、いよいよ新たな次元に踏み出そうとしている。ホストを務める益子博之は今週末に迫った次回『タダマス29』について「なんと前半は女性ヴォーカル特集」とFacebookでひっそりつぶやき、一方、相方の多田雅範は「現代ジャズシーンを特集する雑誌」の長時間取材に先日応じたばかりだ……と自身のブログで告白している。

 さらに多田はブログで次のように述べている。
 「それまで Jazz / Improv としてきた脳内が improvised jazz と統合されたパラダイムシフトによって感覚が変容したのであろうか、モチアンとプーさんがいなくなってからどうもなあチャーリーパーカーでさえ引き出しフレーズ連射にしか聴こえなくなってねえサウンドの風景はちっともインプロしてないじゃないかと与太をかますばかりになっている、」

 『タダマス』に通い始めた最初のうちは、一瞬で「ジャズ」出自とわかるサックス・ソロほとばしる演奏が、「完全即興」あるいは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれていることに強い違和感を覚えた。当時の私は、コンポジションとインプロヴィゼーションの間に線を引くだけではなく、イディオム的なインプロヴィゼーションと非イディオム的なそれの間にも越えがたい深い溝を見ていた。デレク・ベイリーの提唱したように、イディオムの枠内に閉じこもらない非イディオム的なインプロヴィゼーションこそが、演奏コミュニティを前提としない開かれた演奏、「フリー・ミュージック」としか呼びようのない新たな音楽のかたちを描き出し得ると、さして疑いもなく信じていた。
 それゆえ、たとえ演奏がサウンドの質感、特にサウンド・マチエールに焦点を合わせ、聴くことに潜む触覚的側面を顕微鏡的に拡大した音響的な交感や「物音」インプロヴィゼーションへと踏み出していたとしても、それが所詮は表面的な装飾だったり、「余白」や「余興」に過ぎず、本筋/本気の演奏は「ジャズ」の地平に立ち戻って行われるのであれば、何故にそれを「ジャズ」ではなく、フリー・インプロヴィゼーションと呼ばねばならないのだろうかと訝しく思っていた。

 しかし、その後も『タダマス』に通い続けたのは、やはりそこに何かが開けている感覚があったからにほかなるまい。毎回かかる未聴の音源に耳をなぶられ、翌朝になっても身体に残る(いや一層明らかとなる)まるで打ち身のようなずきずきとした痛みを、毎回、言葉へと引き渡していくことを続けているうちに変化が生じてきた。自分にとって確固たるものと思われていたフリー・インプロヴィゼーションの輪郭が揺らぎ、薄れ、溶解しはじめたのだ。
もちろんそれは『タダマス』だけの「効能」ではなく、たとえば田中珉との共演の録音である『Music and Dance』を通じて、ベイリーの放つ音が耳をつんざく周囲の環境音に叩きのめされるのを聴き、あるいはミッシェル・ドネダのソプラノが踏まれた草の茎が折れる音や枝葉のざわめきに身を沈めていく様に耳を澄まし続けたことの結果でもあるだろうし、フランシスコ・ロペスやジル・オーブリーによるフィールドレコーディングのうちに、決して作曲者/演奏者/制作者の意図には還元することのできない、豊かなざわめきや振動する生成を探り当て、それがベイリーやドネダの音世界と強力に結びついたことの産物でもあるだろう。

 いまやインプロヴィゼーションとは、イディオムの有無どころか、作曲やあらかじめ記された譜面の有無にすらかかわらず、あらゆる瞬間に潜在するもの/力能となった。「即興的瞬間」と呼ぶ所以である。これまでの『タダマス』音源において、こうした演奏のあり方を象徴するものとして強く印象に残っているのは、やはり菊池雅章『Sunrise』だろうか。

 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。
 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り返すが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。
ここで菊地たちは先に述べたように寸分違わぬ同じ「景色」を眺めながら、「同期すること」の強度を究めようとしていると言えるだろう。【同じ景色を見詰めること―菊地雅章トリオ『サンライズ』ディスク・レヴュー(※)】
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-170.html

 ジャズが痛いほどに「しん」と透き通り、白く光る骨や薄青い血の流れが浮かび上がり、眼前を横切るインプロヴィゼーション。『サンライズ』がかかったのは『タダマス5』の時だから、もう6年も前のことになるのか。

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 津田貴司と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(その発想の源のひとつは、もちろん『タダマス』である)がめでたく10回を迎えたところで、これまでの成果を振り返りつつ文章にまとめようとして、ずっと苦労している。各回、いずれもかなり深いところまで潜れた手応えがあるのだが、それをなかなか言葉にできない。
 その津田やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏を最近ずっと追いかけてきて、こちらも演奏の豊かさを、距離を隔てた視点から凝視し克明に記録するのではなく、あるいは音へと身を投じ響きに溺れてまぐわうのでもなく、両者を往還し包摂して聴くことの「厚み」がようやく触知できてきたように思うのだが、こちらもそれを叙述できない。
 困り果てて、何かヒントはないものかと手当たり次第に本のページを繰っているうちに、次のようなくだりに行き当った。

 「アンリ・ミショーは、クレーの色はまるで緑青や黴が『しかるべき場所に生えてくる』ように、原初の奥底から発生し、ゆっくりとカンヴァスのうえに生まれくるように思われるときがある、と語っている。芸術は構築、技法、空間と外部世界への技巧的関係ではない。それはまさしくヘルメス・トリスメギストスが『光の声に類似した』と言った『不分明な叫び』である。そして、その叫びはいったん発せられると、日常の視覚のなかに、ひっそりと眠り込んでいた〔物質化される以前の〕先在的諸力を呼び醒ます。水の厚みを通してプールの底のタイル床を見るとき、私は水や水面の反射にもかかわらずそのタイル床を見るのではなく、まさに水や反射を通して、水や反射によって見るのである。」【モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』 富松保文訳】

 「さらに言えば映画においては、画面が一つの意図に収束することなど皆無であり、むしろ意図せぬ様々な細部が映りこんでしまっているものこそ、フィルムなのだ。(中略)蓮實重彦は、それをよく『フィルム的現実』『複数の要素の同時共存の場である映画』と形容していた。まさに『フィルム的現実』に寄り添うために、ひたすらスクリーン上にある光と音に身を晒し、視界を横切る運動、網膜の奥を突く光の明滅、脳髄を刺激する音声の抑揚……つまりは、現在進行形のすべての刺激に、無媒介的にオープンであり続けること。作者がどんな意図でそれを作ったのかは『どうでもよろしい』わけで、フィルムが映写機にかけられるより《過去》の出来事(作品の制作)と、フィルムが映写されている《現在》を切り離すことこそ、映画批評であるべきスタンスではないか、とずいぶん早い時期より看破していたのではなかろうか。」【舩橋淳「蓮實重彦/峻厳な切断」 『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「蓮實重彦」】

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「汀」 原田正夫


 言葉を書きつけ、そこに何かを引き渡し、委ねる。思考を外化することの利点は、それを「対象」として分析・操作できることにあるが、無論ご利益はそれだけではない。考えに行き詰ったことがあるものなら誰でも身に染みて知っているように、場所を明け渡し空っぽにすることにより、煮詰まった脳内にスペース(余白、隙間)が生まれるのだ。これにより強迫的な堂々巡りが止んで、鬱血/硬直していた思考がまた柔らかく揺らぎ始め、違う風を感じ、新たな香りに鼻をうごめかし、別のことに思いを巡らすことができる。
 『タダマス』は思考を触発し、何より言葉を誘う。それは確かな耳が選び取った強度に満ちた演奏のためかもしれないし、思いがけぬ類似を浮かび上がらせ、あるいは対比を際立たせる趣向を凝らした構成/配列のためかもしれないし、紹介される音源がすべてパッケージされた録音作品からの抜粋であるという共通の枠組みのためかもしれないし、あるいはやはり多田の予測不能に疾走するボケと益子の鋭く乾いたツッコミ、その外側を衛星のように巡りながら異なる視点を提供するゲスト、それぞれの眼差しや表情の雄弁な交錯と変化、そしてもちろん言葉が多方向から衝突/散乱し、さらにそれを取り巻く参加者が思い思いの方向に乱反射させるためかもしれない。

 この週末、4月22日(日)は『タダマス29』に行って、そこで一期一会の音との邂逅に身を沈め、一瞬ごとの「現在」に集中し、その残響を言葉へと譲り渡すこととしよう。そうすればいい加減慢性化した脳髄の腫れも引いて、その隙間に、別の角度から新たな光が射し込むかもしれない。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 29
2018年4月22日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:則武 諒(ドラム奏者)

今回は、2018年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム奏者の則武 諒さんをお迎えすることになりました。バークリー音楽大学出身で、ストレート・アヘッドなジャズから即興音楽まで幅広い領域で活躍される則武さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。


 すでにお気づきと思うが、上に前掲している『タダマス29』のフライヤの写真素材は、中ほどに掲載している原田正夫「汀」にほかならない。「汀」はFacebookに投稿された写真だが、本作に先立って投稿されたコンクリート壁面のペンキ跡だという写真(氷が張った上に薄雪が積もった水面を覗き込んでいるようにしか見えない)、そして本作に続く「潬」と題された写真と共に、実際には存在しない奥行き方向(前後/浅深)に行きつ戻りつ視線が揺さぶられる感覚に魅了されるとともに、先に挙げた津田貴司やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏に感じた透明・半透明な層/厚み/深さの感覚との共振ぶりに驚かされた。白川静によれば「潬」のつくり部分は、壺状の器中にものを満たしているかたちを示し、長期にわたって味付けし、醇熟する意味であるという(うまい、ふかい、おおきい)。これにさんずいが伴う「潬」は水に関連し、「ふかい」、「ふち」を意味する。この感覚がメルロ=ポンティの指差す「プールの底のタイルの床」や蓮實の言う「複数の要素の同時共存の場である映画」(それは決してスクリーンという同一平面上の並置ではなく、パン・フォーカスな奥行きの中での共存、あるいはフォーカスや画面の枠からも外れた中での共存をも含んでいよう)に私の指先を立ち止まらせたのだろうか。
 しかし、それにしても、何と不可思議なシンクロニシティであることか。







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